国頭村をゆく(1)―2016年6月12日―

                 ―11年間で変貌・変貌しないもの―
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国頭をゆく(1)
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 国頭村浜から半地、鏡地、桃原、比地、奥間、辺土名まで。途中、大雨で辺土名まで。今月の「やんばる学研究会」は国頭村である。国頭村には浜・半地・鏡地・桃原・比地・奥間とつづく。午後から大雨のため辺土名まで。何をテーマにするか迷いがあり、南から順次踏査することに。そういう時には、各字の公民館、神アサギのあるムラは必ず確認する。ムラによっては神アサギがない。何故ないのか、それが近世のムラを見ていく重要なテーマである。

 今帰仁村歴史文化センターのHPを見たら、2005.12.28(水)に踏査している。11年前のこと。その時のメモを見る手術した年のようで、リハビリ兼ねて踏査していたことがわかる。



1 国頭村浜(ゆあげまく)

  
    ▲浜地区公民館           ▲神アサギを神社化した形か    ▲浜に番所があった証の「火神」の祠


 今回同様、国頭村浜から入っている。2014年12月14日(日)に踏査してい。浜村は1673年に国頭間切を分割(方切)し田港(大宜味)間切を創設する。分割した当時、国頭間切の番所は国頭間切浜村、田港間切は田港村に置かれた。その国頭村浜からスタート。奥間の土帝君でヒメハブ、伊地の遠見台で大型のアカマター(黒く変色した)と出会う。先日は金武町伊芸でハブの抜け殻と。冬場になると温まった石の上で日向ぼっこをするので注意。(以下の画像は2014年12月14日撮影)


【国頭村浜】(2007年1月4日メモ)より

 国頭村浜は国頭村の一番南側に位置し、大宜味村と接している。その浜に国頭間切番所があった時期がある。『琉球国旧記』(1731年)での国頭間切の駅(番所)は奥間邑(村)である。「国頭間切の番所は、1673年に浜村に移ったが、そこが間切の僻辺に存在し、行政命令の伝達や人民の往還に不均等であるとして、1732年に奥間村に移転した。浜村の番所跡は字浜の両側に最近までみることができた」(『国頭村史』)という。

 1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港(後に大宜味)間切を創設した。大宜味間切が創設される前の国頭間切の番所はどこにあったのか。根謝銘グスク(上グスク)の根謝銘村、あるいは城村にあったのでは。他間切では同名村があるが、国頭間切に国頭村があったかどうか、確認することができない。ただ『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)に「国頭城」とあるので、城村が同村なのかもしれない。(城村は明治36年に根謝銘村と一代名村と城村が合併して謝名城となる) とすると、1673年以前の国頭間切の番所は城村にあった可能性がある。1673年に国頭・羽地間切を分割し田港(後に大宜味)間切が創設されたときに、国頭間切の番所は城村から浜村に、田港間切は田港村に新しく番所を設置したことになるか。
 
 国頭間切の番所は城村(1673年以前?)→浜村(1673年)→奥間村(1732年頃)→辺土名(大正3年)へと移動している。『琉球国由来記』(1713年)による国頭間切の年中祭祀で両惣地頭が関係する村は奥間村である。また、国頭間切と大宜味間切の境にあった親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切である。それらの三つの村は後に大宜味間切の管轄となり、明治36年には合併して田嘉里となる。間切分割の境界線が祭祀との関係で揺れ動いている。そのことが国頭間切の番所と祭祀にも影響を及ぼしている。(根謝銘グスクを国頭間切域に入れることができたら片付いたのでは?)


2 国頭村半地

 神アサギなし。

 
    ▲半地の公民館                 ▲半地のお宮


3 国頭村鏡地

 神アサギなし

  


4 国頭村桃原

 神アサギあり。

  
  ▲国頭地区鏡地公民館            ▲金萬神社              ▲鏡地の神アサギ


【国頭村桃原】2005.12.20(火)メモより

 
国頭村の桃原の集落は海岸に近い場所に発達している。奥間と関わりが強くカニマングヮーと呼ばれこともある。地籍上昭和26年に奥間から独立した字である。行政区として大部古くから分立しているようである。桃原一帯は水田地帯をなし、奥間ターブックヮと呼ばれる。現在は花や砂糖キビ畑が広がる。

 集落のほぼ中央部に小高い森があり、そこに金満神社がある。すぐ傍に神アサギがあり、広場はゲートボール場として使われている。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治)の奥間村のところに「桃原神アシアゲ」と記される。桃原は行政村として存立していないが、金萬神社(ウタキ?)と神アサギを創設し、祭祀場から村の体裁を整えている。しかし祭祀は本元の奥間村と一緒に行う。旧暦の7月に出す獅子舞、旧暦8月の豊年祭はまず奥間で、その後桃原で行われる。

 集落の北側は海岸に面しワーラバマと呼ばれ、北からの波や風で砂が吹き上げられている。その西側に見えるのは赤丸岬である。オモロにも謡われ、山原船などの航海と関わる岬である。


     ▲金萬神社(2005.12.20)           ▲桃原の神アサギ(2005.12.20)


5 国頭村比地(あしみなまく)
 
 神アサギあり(茅葺き)。按司クラスの石灯籠あり。比地の「中の宮」へ。祠の内部に12基の石の香炉がある。向かって左側から山川石(3基)、加治木石(3基)、沖縄産の焼き物の香炉(1基本)、山川石2基)、加治木石(1基)、山川石(2基)が計12基が置かれている。山川石の香炉は首里王府役人で身分の高い方だという。比地の「中の宮」へ寄進する方が「上国のための立神」、あるいは無事勤めを果たして帰国したことの報告をしたと見てよさそうである。この宮の前にある石灯籠は国頭按司クラスの寄進である。山川石の香炉が多いのは上国、あるいは無事帰国したことの返礼、航海安全祈願の証とみてよさそうである。(香炉は摩耗して銘が判読できないのが残念である)

  
     ▲国頭村地区比地公民館        ▲小玉杜の茅葺きの神アサギ       ▲祠内の香炉など

  
  ▲比地の滝前の「中の宮」               ▲中の宮の中の香炉        ▲按司クラスの石灯籠


6 国頭村奥間(かねまんまく)

 神アサギアあり。奥間番所があった村(ムラ:現奥間小学校)。

 

  

 国頭村奥間はカニマンの呼び方もあり、奥間大親が鍛治を行ったことに因むようだ。桃原がカニマングヮーと呼ばれるのは奥間から分かれた集落による。1732年に浜村にあった国頭間切の番所が奥間村(現在の奥間小学校地)に移される。現在の学校敷地にあった神アサギが奥間ノロドゥンチの敷地内に移された。奥間ノロは比地村・奥間村を管轄する。ウンジャミの時、比地→奥間→鏡地の順で移動する。

 ・奥間ターブックヮ(田圃)
 ・赤丸崎(ヒョウーヌサチ)
 ・1731年唐商船が赤丸崎に漂着、運天港へ曳航される。
 ・1732年浜村にあった国頭番所を奥間村に移す。
 ・1859年徳之島に漂着したイギリス商船の乗組員の小船三艘が奥間沖に漂着。
 
 1876年5月2日奥間船が薪を積んで本部港へ運び、22日そこから那覇に向かう途中台風にあい、帆檣を破折して漂流しているところ、横浜からホンコンへ航行中の英国船ゲーリック号に救助される。9人乗っていたが漂着中3人死亡し、6人救助された。救助されたのは山城筑登之、安里仁也、比嘉筑登之、加那桃原、武太山城、蒲戸島袋であった(『国頭村史』)。


 


7 国頭村辺土名(いちぶくのまく)

 上島に神アサギあり。

 

国頭村辺土名(上島)

 国頭村辺土名の上島(ウイシマ)が、どういうわけか好きである。必ず上島集落までいく。山原の集落の展開の一つのモデルにしているからであろうか。辺土名の集落の展開はウイシマから発達し、その元島を残したまま現在の辺土名のマチが発達していった。集落の展開の姿が今に残している。

 神アサギは御嶽のイベの近いところにあり、ウンジャミの時、ノロが簪を持参して祭祀を行っている。集落内に辺土名ヌンドゥンチがあるが、関係者で出資して大きな神家を作っている。シヌグとウンジャミが交互に行われるという。神アサギでのウンジャミは一度見たことがある。

 辺土名ノロと根謝部親方との興味深い伝説がある。辺土名ノロの管轄する村は辺土名、宇良、伊地である。ウンジャミの時、ノロは伊地→宇良(トヒチャ)→辺土名の順で祭祀を行う。


 ▲神アサギへの森から上島集落を見る       ▲上島集落をながれる川


   ▲辺土名上島にある神アサギ             ▲辺土名ヌンドゥンチ

 
 ▲辺土名ノロの遺品(カブの簪、髪差、数珠?)      ▲玉ガーラ(勾玉・水晶玉)