今回同様、国頭村浜から入っている。2014年12月14日(日)に踏査してい。浜村は1673年に国頭間切を分割(方切)し田港(大宜味)間切を創設する。分割した当時、国頭間切の番所は国頭間切浜村、田港間切は田港村に置かれた。その国頭村浜からスタート。奥間の土帝君でヒメハブ、伊地の遠見台で大型のアカマター(黒く変色した)と出会う。先日は金武町伊芸でハブの抜け殻と。冬場になると温まった石の上で日向ぼっこをするので注意。(以下の画像は2014年12月14日撮影)
【国頭村浜】(2007年1月4日メモ)より
国頭村浜は国頭村の一番南側に位置し、大宜味村と接している。その浜に国頭間切番所があった時期がある。『琉球国旧記』(1731年)での国頭間切の駅(番所)は奥間邑(村)である。「国頭間切の番所は、1673年に浜村に移ったが、そこが間切の僻辺に存在し、行政命令の伝達や人民の往還に不均等であるとして、1732年に奥間村に移転した。浜村の番所跡は字浜の両側に最近までみることができた」(『国頭村史』)という。
1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港(後に大宜味)間切を創設した。大宜味間切が創設される前の国頭間切の番所はどこにあったのか。根謝銘グスク(上グスク)の根謝銘村、あるいは城村にあったのでは。他間切では同名村があるが、国頭間切に国頭村があったかどうか、確認することができない。ただ『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)に「国頭城」とあるので、城村が同村なのかもしれない。(城村は明治36年に根謝銘村と一代名村と城村が合併して謝名城となる) とすると、1673年以前の国頭間切の番所は城村にあった可能性がある。1673年に国頭・羽地間切を分割し田港(後に大宜味)間切が創設されたときに、国頭間切の番所は城村から浜村に、田港間切は田港村に新しく番所を設置したことになるか。
国頭間切の番所は城村(1673年以前?)→浜村(1673年)→奥間村(1732年頃)→辺土名(大正3年)へと移動している。『琉球国由来記』(1713年)による国頭間切の年中祭祀で両惣地頭が関係する村は奥間村である。また、国頭間切と大宜味間切の境にあった親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切である。それらの三つの村は後に大宜味間切の管轄となり、明治36年には合併して田嘉里となる。間切分割の境界線が祭祀との関係で揺れ動いている。そのことが国頭間切の番所と祭祀にも影響を及ぼしている。(根謝銘グスクを国頭間切域に入れることができたら片付いたのでは?)