沖永良部島のノロ家 トップへ
沖永良部島のlノロについて把握しておきたい。それは古琉球と奄美の関係を見ていくことにつながると考えているからである。奄美地方全域についてみていく必要があるが、まずは11年前にまとめた「奄美のノロ制度」(2007年11月)を把握してから。当時、沖永良部島に辞令書が確認されていなかったことから触れなかったような。沖永良部島の四家に勾玉や簪などノロ関係遺品があり、ノロへの辞令書の発給と勾玉や簪などの発給はほぼ同時ではないかと考えている。「奄美のノロ制度」をまとめたとき、辞令書は視野に入れたが、ノロ家の遺品については視野になかった。というよりは、それらの遺品を歴史の流れに組み込むことができなかった。これまで、ノロ家の遺品を見てくると、ノロが関わる祭祀が、琉球国を統治する手段であることに気づかされる。祭祀そのものが、琉球j国が統治していく公休日(神遊)であり、祭祀の祈りが国の安泰、航海安全、五穀豊穣(税)などである。祭祀は歴史の変化しにくい部分を踏襲している。
今回の調査の目的は、ノロ家の遺品がいつ作られたのかを目的としているわけではなく、1500年代中央集権国家形成のときの一翼をになったノロ制度がどう継承され、また奄美地方にノロ遺品を通して古琉球の姿をみていこうとするものである。(沖の江良部島には以下の四件のほかにもノロ家があるが、目にしていないので触れない)
その視点で沖永良部島のノロ家の遺品を再度目にしておきたい。(画像は今回2018年4月13日撮影)
【沖永良部島のノロ関係遺品】
・和泊町国頭ノロ(沖吉家)
@玉飾り(一連:玉数77個数)
A玉飾り(二連つなぎ)
B玉ガーラ(一連:水晶19個)
(今回未調査)
・和泊町畦布ノロ(森家)
@玉ガーラ(一連:勾玉1個、水晶玉23個)
A玉ガーラ(一連:勾玉なし、水晶玉20個)
B玉ガーラ(三連を一か所で結ばれている)(勾玉なし、水晶玉77個)
C簪
Dシニグ旗
E衣装
F丸櫃(大・小あり)(漆塗、それぞれに掛子あり)
※森家の近くに
・知名町瀬利覚ノロ(林家)
@玉ガーラ(一連:勾玉2個、水晶玉56個)
A丸櫃(漆器・大部剥離している)
・知名町住吉ノロ(福永家)
@簪(かぶ)と髪差
A馬の轡
B玉ガーラ(勾玉は木製?)
※ノロ家の遺品調査は2009年10月26日〜31日の奄美調査に参加。沖永良部島は10月29日、30日。「沖縄のガラス・玉等製品関係資料調査報告書」(沖縄県教育委員会:2011年3月)で「ノロ祭具の中の玉製品」として報告。そのとき、ノロ家の簪や辞令書やシニグ旗や丸櫃などの撮影をする。上の画像は2018年4月13日撮影。
奄美のノロ制度
奄美に首里王府発給の辞令書が残っている。そのすべてが古琉球(1609年以前)の辞令書である。1609年以後も発給された気配はあるが、今のところ確認されていない。それは1611年に与論島以北を薩摩に分割され、琉球的なものを政策として消し去っていった。1609年以後の辞令書が確認できないのは、薩摩の奄美諸島への政策が及んだことに起因しているのであろう。しかし、その隙間をぬって、あるいは薩摩に同化できない、政策を浸透させきれなかった一つがノロの問題ではなかったか。特にノロについては祭祀(信仰)と関わる。ノロを要とした祭祀を琉球国が認めてきた宗教であるとの視点でみると、奄美諸島で1611年以後いくつもの改革(薩摩化)を図ったが、ノロクメ(ノロ)が関わる祭祀は廃止することが今に至っても消し去ることができなかった。そのことは、沖縄における明治から現在に至るノロ制度の国の改革(宗教改革?)が今次大戦でうやむやになり、それが消え去ることなく現在に継承され続けていることと軌を一つではないか。奄美に関するノロクメ(ノロ)について、手を染めたばかりであるが、歴史をみていく上で重要なテーマのような気がする。
『南島文化の探究』(河村只雄著)に「奄美に対する島津藩の文化政策」がある。その史料や他の資料にあたらないといけないが、とり急げ書き記してみる。
島津氏が奄美の島人に対してあえてなした文化的圧迫は、島人のもてる系図、古文書類を没収・焼棄
したことであった。以下の四回にわたって大島の代官に命じて、奄美の島人等が所持していた民間の
系図や諸記録をことごとく取り上げて焼棄したという。
・元禄6年(1693)
・元禄10年(1697)
・宝永3年(1706)
・宝永4年(1707)
宝永3年(1706)に代官に出した命令書は以下の通りである。
一、大島、喜界島、徳之島、沖永良部島右四島人民の内、家柄可差立先代の由緒有之者は不残系図
可差出旨申渡可有之尤も御蔵物に被召上儀にては無之必可被返下候内々致其心得持合之者差
出様有之可然候
一、系図文書無之者の内にも先祖差立る家筋の由緒有之者委細書記可差出事
一、寺社方々も右同断
そのような島津藩の禁止令があっても清算されなかったのは、河村は「いくら政治的に服従していても、文化
的には何時までも琉球色が清算されなかった。これは一つには島津藩が琉球の「ノロ」の宗教を黙認してい
たことも大きな要因をなしているといえるであろう」と。
ノロを中心とした祭祀は奄美で消すことができなかったのではないか。というのは、明治12年の廃藩置県後、沖縄県においてもノロ制度的は段階的に廃止の方向の政策がとられているが今次大戦に入り、うやむやのうち現在に至っている。
明治8年にも以下のような達が出されている。明治の初期には琉球的色合いが、まだまだ目についたようである(『大島 喜界 両島史料雑編』)。
大島、徳之島、喜界島、沖永良部島、与論島人容貌服則の儀、往古より琉球より管轄の旧慣にて
今に一新の場に至り兼ね、方今御維新の時に際し、別紙四件御布告の旨もこれあり候に付き、人民
容貌を脱却し漸次内地の容姿に模倣候様、心掛くべくこの段布達候事
明治九年四月十五日 鹿児島県令 大山綱良
辛未(明治四年)四月十七日御布告
一自今平民乗馬差し免じられ候事
同 八月九日 御布告
一散髪、制服、略服、脱刀共自今勝手たるべき事
但し、礼服の節は帯刀いたすべき事
同十八日御布告
一平民襟割羽織、着用勝手たるべき事
同十八日開拓使布告の内
一自今出生の女子、入墨堅く禁ずる事
1609年以後の首里王府から奄美のノロクメ(ノロ)への辞令書は今のところ確認できていないが、奄美のノロの実態が『南島雑話』(1850〜55年)の記事からすると1623年や1642年に印紙(辞令)を受けることを禁止されている。辞令は禁止されるが、それでもノロクメが関わる祭祀は姿を消すことなく継承されている。それは古琉球から継承され、本琉球から辞令を請けることは禁止されるが、それでも継承され続けられた。『南島雑話』に近世のノロの姿とみることができる。
・奄美諸島は薩摩支配(1609年)後もノロの存在は黙認された。
・1628年ノロの琉球王による任命を禁止する。
・享保年間(1716〜35年)にはノロの代替り毎に渡琉して聞得大君に拝謁することを厳禁
・役地も取り上げる
・それでもノロの存在は黙認される
・文政14年(1817)薩摩が砂糖総買い上げをおこなう。それに伴ってノロの弾圧強化される。
・安政2年(1855)に迷信禁止令を出して懲戒する。
・明治2年(1869)の廃仏毀釈カンギヤナシを桎梏に乗せて祭祀を廃止させた。
・ノロの衣類、珠玉などを焼く。
・寺を廃止し神社を建立する。
・大熊ノロは大熊・浦上・有屋・仲勝の四カ字を管轄した。各字にトネヤがある。
(沖縄ではノロが複数のムラを管轄するのが一般的。その様子が大熊ノロにみられる)
・大熊ノロ家にノロ辞令書と名瀬間切の朝戸掟職補任辞令書(1607年)と名瀬間切の西の里主
職補任辞令書(1609年)があったようだ(『南島雑話』所収辞令書)。同家に三点の辞令書が
あったのであれば、ノロ家の男方は首里王府から任命される役人が出ていることになる。
▲奄美市名瀬大熊あたり? ▲徳之島町手々
『のろ調査資料』(宮城栄昌・中山盛茂・富村真映)で、奄美のノロについて以下のように述べている。
カケロマ島では於斉、花富、伊子茂、武名、木磁部落にノロを残す。
大島諸島のノロは、慶長14年諸島が薩摩領となった後も、その存在が認められ、就任に際しては首里
に上って聞得大君を拝し、王府からの朱印の辞令を戴いた。薩摩がノロを認めたのは、歴史的に村落
結合の中核となっていたノロ機能を利用して社会秩序の維持をはかり、貢租の円滑をはかるためであ
ったが、しかし薩摩の専制的支配を強化するためには、血縁共同体を基盤とする琉球の支配形態を変
える必要があった。そのため1623年(寛永元)28年(寛永5)薩摩は琉球王によるノロ任命を禁止した。
それでも世襲ノロは存在し、代替り期における聞得大君拝謁が行われていたので、享保年間、その拝謁
を禁止し、役地も取り上げた。ただし徳之島手々の深見家文書によると文化文政の頃も宅地を給したり、
住家新築に際して労力や茅を供することが行われているから、役地取上げのことはノロ田・ノロ畠につい
てであったであろう。
・・・関係書類や衣装を隠匿して、祭祀をつづけるものがいた。
明治2年の廃仏廃仏棄釈の折には徹底的に弾圧され、明治4年には安政以後も残っていたノロ殿内
(とねや、神木屋)やお願所の破壊、神衣装珠玉の破却などがあり、ノロ司宰の神事も廃された。沖永
良部島では神官鎌田常助がこれを指導したためにシヌグ祭も廃されたが、鎌田は与論島について
同じ圧迫を加えている。それどほの圧迫にもかかわらず奄美大島・徳之島には隠れノロがいたようで
あるが、沖永良部島と与論島は全滅した。
【南島雑話】(名越左源太)
慶長18年(1613)、始めて法元仁衛門を以て大島代官職被仰付、年貢を収、島民を皆土人に準じ、諸事頭取者を一等揚て下士に準じ、頭長は大親を以て長とす。其次与人とす。大島に始めて法令を建てることは、元和九年癸亥(1623)悉被定、同十年の二月十八日(嘉永元年此年改元)法令之帖に、冠簪衣服楷品を本琉球に受ける事を禁制す。
此時より能呂久米年々印紙を本琉球官僚に請ることを止らる故に、寛永十九年(1642)迄之免官印を伝て今其三四枚を蔵め伝う。大熊村安加那納置書付なり。大熊村にて富統より内々にて、能呂久米安加那本書押付に為写す間、本書の儘也。本書唐紙也。文面如此かな書也。始と終に朱印、首里之印と云文あり。首里の里の子寮より出ものにて候由。上包の紙の上に里之子寮と有之候。
【神事】
能呂久米、祝主神之祭惣名女子迄也。男子あずからず。能呂久米の中に役名あり、船頭と云。那留古国より神、毎年ニ月初の壬に渡来す。是を御迎祭と云。
同四月之壬の七ツメに帰り去る、是を御送祭と云。
大神祭、島の山神海神を祭る。
御印加那之能呂久米は頭にて、島中に雨人あり。真須知、須多共に此支配也。享保以前は、能呂久米一世一代一度ヅツ本琉球にいたり、国主に御目見あり。免許の御印を頂戴して在所に帰る。尤此免文は首里の里の子より出、里之子寮の支配の者也。海頭は御印加奈之よりは下官なり。然共国主免許文は里之子よりいだす。寛永七年(1630)戌五月代官新納用之進禁止す。
・・・・・・能呂久米二流に分る。大和浜より屋喜内、西東方迄は真須知組と云、名瀬より笠利までは須多組と云。・・・・・・・
【死葬】能呂久米葬式の法
始死る者を穴蔵に入処、是をとうふろと云。今笠利間切の宇宿村、又同間切手花部村にも有之。島中所々にとふろあり。桶共に納め置く。とふろの奥の方、南京焼の蓋のある壺、幾所にも並有之、又石櫃に納るもあり。昔は島中なべて如此なりしを、今は大和風に習いて土葬なり。・・・・・
(工事中)
【辞令書等古文書調査報告書】(沖縄県教育委員会:昭和53年発行)
・鬼界(喜界)の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶14:1569年)(喜界島)
・屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11:1583年)(奄美大島)
・名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦15:1587年)(奄美大島)
・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28:1600年)(徳之島)
・瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30:1602年)(奄美大島)
以下の二枚の辞令は『かけろまの民俗』で須子茂のノロへの辞令として扱っている。ノロへの辞令ではないのではないかと見ていたが、ノロ辞令書とみてよさそうである。これらの辞令書はノロ家が所蔵しているようである。ノロ家の男方は知行を受ける役人を勤めている例がいくつもある。例えば今帰仁間切の「くしかわのろ」(3枚の内ノロ辞令は1枚)や今帰仁間切の中城のろ(9枚のうち2枚がノロ辞令で他は男方の役人)など。のろへの辞令の場合は多くは「・・・・のろの」とあるが、「ねたち」と「たる」など名前の場合もある。「ねたち」はすこものくちのうなり(妹)、あかひとうかの子へ引継なので、ノロ引継による知行安堵である。それを勘案するとノロへの辞令書とみてよさそうである。 阿田のろ職補任辞令書(1569年)が沖縄本島も含めても、今のところ一番古い。
・瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令書(万暦2:1574年)(奄美・加計呂麻島)
・瀬戸内西間切の巣古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2:1574年)(奄美・加計呂麻島)
・鬼界(喜界)の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶3:1569年)(喜界島)
しよりの御ミ事
ききやのひかまきりの
あてんのろは
もとののろのおとと
一人ゑくかたるか
方へまいる
隆慶三年正月五日
・屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11:1583年)
しよりの御ミ事
やけうちまきりの
なからのろハ
もとののろのめい
一人つるに
たまわり申候
しよりよりつるか方へまいる
万暦十一年正月廿七日
・名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦15:1587年)(奄美大島)
しよりの御ミ事
なせまきりの
たいくまのろハ
もとののろのめい
一人まくもに
たまわり申候
しよりよりまくもか方へまいる
万暦十五年十月四日
・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28:1600年)(徳之島)
しよりの御ミ事
とくのにしめまきりの
てゝのろハ
もとののろのくわ
一人まなへたるに
たまわり申し候
しよりよりまなへたるか方へまいる
万暦二十八年正月廿四日
・瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30:1602年)(奄美大島)
しよりの御ミ事
せとうちにしまきりの
こしのろハ
もとののろのうなり
一人まかるもいに
たまわり申(候)
しよりよりまかるものいか方へまいる
万暦三十年九月十日
喜界島阿伝(あでん)(東間切)
阿伝には琉球国(首里王府)から発給された「辞令書」がある。この辞令書は伊波普猷の『をなり神の島』(全集五巻:鬼界雑記)で紹介されている。喜界島の東間切の阿伝ノロと首里王府との関わりを示す史料である。そこで伊波は、奄美と琉球国との関わりを以下のようなことを掲げている。
・大島が琉球王国の範囲に入ったのは1266年である。
・喜界島は二回ほど氾濫を起こし征伐される。
・1609年の島津氏の琉球入りで大島諸島は薩摩の直轄となる。
・寛永元年島津氏は役人や神職の冠簪衣服階品を琉球から受けることを禁止する。
・寛文三年に島津氏は統治上、大島諸島の家譜及び旧記類を取り上げて焼き捨てる。
・享保17年役人の金笄朝衣広帯などを着ける琉球風を厳禁する。
・琉球的なものを厳禁した中で辞令書は秘蔵している。
【鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書】(1569年)
しよりの御ミ事 首里之御ミ事
ききやのひかまきりの 喜界の東間切の
あてんのろは
阿田のろは
もとののろのおとゝ 元ののろの妹
一人ゑくかたるに
一人ゑくか樽に
たまわり申候 給わり申候
しよりよりゑくかたるか 首里よりゑくか樽
方へまいる 方へまいる
隆慶三年正月五日 隆慶三年正月五日(1569年)
この辞令書は「喜界島の早町村の阿伝の勇という旧のろくもいの家でもこれを一枚秘蔵している」(伊波普猷全集第五巻)と。太平洋戦争で焼失してしまったという(『喜界町誌』)。阿伝のノロ家は、早町村にあったのか、それとも阿伝村の勇家(現:山野家)なのか。阿伝ノロ家が早町村にあるなら、古琉球の時代の喜界島におけるノロは、複数の村を管轄していたことがわかる。