仲尾次と崎山と上間の三村        トップへ


 2009年11月と2009年5月13日(水)に崎山と仲尾次についてまとめたことがある。近々、崎山のジニンサウタキを踏査することになっている。これまで、疑問とすることがいくつかあり、その糸口でもみつかればと考えている。9年前にまとめたものであり、ここでもう一度整理しなおすことに。

 その地域には、上間村が登場し、どのような位置づけになるのか、すべきか疑問であった。上間村を下図のような想定図を描いていた。これまで崎山村と上間村との関係で見ていたので、山手に上間、中間部に中城、海岸部に崎山(下間)と想定した図を描いていた。上間は崎山(下間)と統合したと考えていた。ところが、「事々抜書」の今帰仁間切の最後に「中城と上間仲尾次二ヶ村之事」とある。すると上間村は仲尾次村に組み込まれたことになる。その上間村は1736年には仲尾次に組み込まれた村ということになる。その資料を踏まえて整理することに。それでも解決できないことがあるが。


崎 山(今帰仁村)(2009年(平成21)・11月)

崎山の概況(がいきょう)

 ・崎山はヒチャマという。それは下間のことか。
 ・北山高校の後方にジニンサウタキがある。そこは上間(後に下間と統合)のウタキか。
 ・1750年から明治の6年にかけて中城・上間・崎山の三つの村が登場する。
 ・北山高校の後方に上間村、スガーウタキ(中城ウタキ)一帯に中城村、崎山の発祥地
  付近に崎山(下間)村があった痕跡がある。
 ・上間村・中城村・崎山(下間)村の位置関係から見える村名。
 ・『絵図郷村帳』(1644年頃)や『琉球国高究帳』(1648年頃)や『琉球国由来記』(1713年)の
  村の並びからもうかがえる。西から、崎山村・中城村とあり、崎山と上間は並列にある。
 ・崎山の神ハアギは古くからの形を保っている(茅葺屋根の軒が低い建物)。
 ・神ハサギ内にタモトギがある。ハサギミャー(庭)に舞台があり、そこで村踊り(豊年祭)を行う。
 ・お宮は1961年に建てられている。
 ・お宮の中に左から崎山殿内・諸田殿内・火之神・掟神殿内とあり、別のところにあったのを
  お宮にまとめてある。一ツは元の場所に戻して拝んでいる。
 ・お宮の西側に屋部(名護市)と関わる香炉?が三基ある。
 ・ヒチョシナガーラ沿いに崎山の古い墓がある。池城墓やウフトゥル墓がある。
 ・崎山の港原に炬港(テーミナト)がある。
 ・村学校の発祥地の場所に碑がたてられている。
 ・仲尾次のウドゥイバンタが崎山地内にある。

  
  
ヒチャマ(崎山)・ナカグスク・ウイマ(上間)の集落関係想定図

(踏査地)  ・崎山の神ハサギ
 ・崎山のお宮(拝所)
 ・ヒチャンパニモー
 ・崎山ヌンドゥンチ
 ・崎山の発祥地(メンスガー)
 ・池城墓/ウフドゥール
 ・炬港(テーミナト)/倉(倉庫)跡
 ・崎山泉(ヒチャマガー)
 ・ウドゥイバンタ(仲尾次が奉納踊りをする場所)


 
    ▲崎山の神ハサギ                 ▲村踊り(豊年祭)のハサギミャーの舞台


         ▲炬港(テーミナト)                   ▲崎山のウサバマ

2009年5月13日(水)より

今帰仁村仲尾次

 仲尾次は『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』(17世紀)で「中城村」と表記される。その後の『琉球国由来記』(1713年)では「中尾次」と「中城」の二つの表記なされる。村名の表記が中城から中尾次となる過渡期である。しかし、巫(ノロ)は今に及んで中城ノロである。中城ノロは現在諸志(諸喜田)にあるが、1500年代にノロ制度がスタートしたときは中城から出たのであろう。他の村に移動しても名称は変わらず。それは今帰仁ノロにも言えること。

 中城ノロの二枚の辞令書がある。一枚は万暦33年(1605)、もう一枚は隆武8年(1652)である。中城ノロ家には、戦前9枚の辞令書があったことが確認されている。二枚はノロ、残り7枚は大屋子・目差・大屋子など役人(男方)への辞令である。

 『琉球国由来記』(1713年)に中尾次村に、中尾次之嶽とギネンサ御嶽イベがある。仲尾次之嶽というのが、仲尾次のウタキとなっているスガーウタキ(塩川の御嶽)、あるいはナカグスクともいう。ギネンサ御嶽は山手(ジニンサガーの上流部)の杜とみられるが、そこは崎山村のウタキではないか。。

 仲尾次の集落はナカグスク(スガーウタキ)と近接してあったとみられる。グスク内にはいくつかのテラスがあり、石垣が巡らされている。発掘調査はなされていないので、詳細なことはこれから。周辺は土地改良で畑地になって、以前の姿は消えグスク(ウタキ:杜)の
みが元の姿を見せている。そこから、集落が現在地にいつ移動したのかは不明。(ナカグスクは平敷地番、崎山も越えての移動なので仲尾次は村移動)。

 移動集落を考える場合、どうしても切り離せないのは地割である。地割が行われた時代の地割の対象の土地は期限つきの利用権をもつにすぎない。地割の対象地は、期限がくると誰が保有するのか。それはくじ引きみたいなものである。家々が移動した場合、家があった土地は地割の対称地になった可能性が高い。すると、地割がいつから行われたか定かでないが、すくなくとも蔡温の時代以降には行われている。移動した家々の跡地は、地割の対象となったと見られる。すると、明治36年の土地整理まで、かつて屋敷地であった土地は畑に利用されたわけだから、保有者は何度も変わった可能性がある。近世の集落移動した故地は、畑地になった土地は地割の対象地となる。その土地は地割の期限がくると他人保有になる可能性が大である。地割が何回もなされると、そのつど土地保有者がかわるわけで、移動前の屋敷地が継承され続けたわけではない。


 明治36年の土地整理で決まった土地所有者からの継続性は認められるが、土地整理以前の屋敷跡地(畑地となった場合)と現在と所有者とは連続性がないと見た方がいいのではないか。因みに、兼次は貧富割で、仲尾次の地割は、貧富及び耕耘力で行っている。移動集落を考える場合、故地の土地が地割の対象地かどうか。地割の対象地であれば、土地の保有の継続性は薄いとみた方がいいのではないか。移動前の集落地と移動後の集落地の土地の保有関係をみるにはどうしても村々の地割を避けるわけにはいかない。

 
集落移動や村移動を視野に入れて考える場合。故地の屋敷地が畑地となり、地割の対象地となった場合、その土地が必ずしも継承されていったとは限らない。つまり、移動地での屋敷は継承されるが、故地は地割の対象地なら、期限が過ぎると他者に保有権が移っていくのが大半ではなかったか。屋敷の継続性はあったとみていいが、地割の対象地となった故地の継続はどうだったのか。地割の期限になると組み換えがなされるわけで、その継続性は薄かったのではないか。すると、現在所有している土地と故地の土地とは、保有あるいは所有関係の連続性は薄いとみている。土地所有者と土地の関係は、明治36年の土地整理以降の集落移動とは別の議論になりそう。(地割の実態の把握が不十分なので、頭にある知識で・・・)


▲ナカグスク(スガーヌウタキ)の遠景(中央部の杜) ▲グスク(ウタキ)への入り口


 ▲仲尾次のムラの人たちが拝む香炉       ▲グスク内の石積みの一部