大宜味村のムラ・シマ

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大宜味の杣山と猪垣


2016年1月17日(日)

【大宜味のムラの形】
 大宜味村のムラ(字)にはマク(マキ)と呼ばれる呼称がある。マク(マキ)をさらに区分する(・・・バール)がある。各ムラ(字)別にみていく。マクやバールは集落区分の呼称としてみていく。(ムラや字は行政区分、集落は家々がまとまった地域。集落部分が散在しムラもある)。その・・・バーリは班として区分されている場合がある。すでに詳細に整理されている。(ムラのマク名が消えかかり、さらにバール区分の機能が班へと変貌していく過渡期なのかもしれない。変えていこうとする中、一方でマクやバールも残していこうとする地域の特徴かもしれない。まだ十分整理できていない段階。具体的に、字別にどんな姿が描けるのか楽しみ!

 17のムラ(字)を具体的に整理してみる。
田嘉里
謝名城
喜如嘉
饒波
大兼久
大宜味
根路銘
⑧上原
⑨押川
⑩塩屋
屋古
⑫田港
⑬大保
⑭宮城
⑮白浜
⑯江洲
津波



①田嘉里

【田嘉里の変遷】 
 史料から田嘉里の変遷をまず辿ってみる。田嘉里は明治36年に親田・屋嘉比・見里の三か村が合併した村(字:アザ)である。合併する以前は三つの村の変遷をみていく。見里はユフッパヌマク、屋嘉比にはクイシンヌマク、親田にはマラクイヌマクがある。行政村になった屋嘉比・見里・親田のマクの他にウチクイシンヌマク(野国、野国ナー)、フーシンヌマク(潮原)、ハニマンヌマク(福地)がある。宮城真治は〚沖縄地名考〛で見里は港の義、親田は屋嘉比ノロ(親のろ)の田があったことに由来するという。「やかひ」はおもろで謡われる古くからの呼称であるが意味不明。

 まだ史料の確認ができないのであるが、1673年に田港間切が創設され、田港村に間切番所が置かれ(同村)、番所が田港村から大宜味の地に番所を移動した時に、大宜味間間切と改称し、そこに大宜味村を創設したことも考えられる。番所を田港から大宜味の地に移動したときに、その地の名をとり、大宜味間切、そして同村(大宜味村)を創設したとみることができる。間切番所は同間切名と同名を名乗るのが大方である。例えば、久志間切久志村(後に瀬嵩に移る)、1673年創設の恩納間切恩納村など。『琉球国旧記』(1731年)に大宜味間切の駅(番所)は「大宜味邑」とあり、『琉球国由来記』(1713年)には大宜味間切の番所は、大宜味間切と改称されたときに田港村から大宜味村に移動か。その後、大宜味村から塩屋村に番所が移る。

 「おもろ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「やかひもり」

 「絵図郷村帳」(17世紀前半)・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間切屋嘉かび村

 「琉球国高究帳」(17世紀中頃)・・・・・・・・・・・・・国頭間村屋嘉比村

    (1673年に田港間切が創設される)(田港村に番所が置かれる)
 1673年田港間切が創設された当初、屋嘉比村(親田村・見里村・屋嘉比村は国頭間切の村)

    (1692年頃?に大宜味間切と改称、番所が田港から大宜味村へ移転)

 「琉球国由来記」(1713年)・・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間切親田村・屋嘉比村・見里村

   1719年屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切から大宜味間切へ。その頃、大宜味間切番所は大宜味村から塩屋村へ移転か) 
   1713年の〚琉球国由来記〛には屋嘉比ノロ火神は見里村にある。   

 「琉球国旧記」(1731年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間切屋嘉比邑・親田邑・見里邑とあるが、1719年に大宜味ま間切の村となる?。
        大宜味掟  大宜味駅は大宜味邑にありとある。              

 「乾隆二年帳」(1737年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村親田村・屋嘉比村・見里村

 「御当国御高並諸上納里積記」(1738年以降)・・・大宜味(見)間親田村・屋嘉比村・見里村

 「間切村名尽」(附宮殿衛名)(1719年)・・・・・・・・・・大宜味間切親田村・屋嘉比村・見里村

 「琉球一件帳」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村親田村・屋嘉比村・見里村

 「間切名村名尽」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切親田村・屋嘉比村・見里村

 「琉球藩雑記」(明治6年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切親田村・屋嘉比村・見里村

 「統計概表」(明治13年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切親田村・屋嘉比村・見里村
 「沖縄島諸祭神祝女類別表」・・・・・・・・・・・・・・・・屋嘉比ノロ火神は見里村にあり。
 「沖縄旧慣地方制度」(明治26年)・・・・・・・・・・・・国頭郡大宜味間切大宜味村

 「明治36年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切田嘉里村     、

 「明治41年~現在」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字田嘉里                 

 『琉球国由来記録』(1713年)で見里村に中城之嶽と屋嘉比巫火神が見里村にある。現在屋嘉比ノロ家は田嘉里(屋嘉比)にあり、移転したことになる。

 その痕跡を見つけるのに田嘉里の小字の確認が必要である。集落区分のヤハビバール、ヌグンナバール、ヌグンバール、ウェーダバール、スンバルバールがるが、それが三つの村(親田・屋嘉比・見里)と重なるが、その他にヌグンナバールとヌグンバールがあり、それはどの村に位置付けるか。小字を三つの村との関係、〚琉球国由来記〛(1713年)で屋嘉比巫火神が見里村にあることとの関係。見里村跡(スンバール)の後方がシマヌウイバル、それと根謝銘(ウイ)グスクの大城御嶽(イベ)は屋嘉比ノロの祭祀場である。

 「おもろ」で謡われた頃の「やかひノロ」が任命された頃のやかびムラは、三つの村(見里・親田・屋嘉比)が統合される前の領域とみることができる(浜村も含む)。17世紀頃には国頭間切屋かび村のみ登場。〚琉球国由来記〛(1713年)になって屋嘉比村・親田村・見里村が登場してくる。屋嘉比村が三つの村に分かれたとみられる。一つの村であった痕跡が祭祀に見ることができる。それは村が分離しても祭祀はなかなか変化しないことを示している。



【見里】域から地名を確認。
 スクミチ
 スンバル
 シマヌウイバル
 インザト
 サグンチヂ
 ガナンファナ
 クビーミチ
 
【親田】域の小地名
 ・ウェーダ(親田)
 ・根神屋
 ・ウイジョーグムイ
 ・メーダグムイ

 親田と見里との境界は三かガーである。サンカガーの側に根神屋がある。根神屋は昭和16に現在地に造られる。
 
 小地名から三つのムラの成り立ちが説明しがたい。『琉球国由来記』(1713年)の親田村、屋嘉比村、見里村、浜村は当時国頭間切の内である。四ヵ村は屋嘉比巫管轄である。中城之嶽と屋嘉比巫火神は見里村に位置付けられている。中城之嶽が屋嘉比巫の祭祀場である。それからすると、根謝名(ウイ)グスクの大城嶽(イベ)が中城之嶽の可能性がある。それと屋嘉比ノロ殿内が屋嘉比村域にある。『琉球国由来記』に屋嘉比巫火神が見里村にあったことも説明がつかない(移動伝承はあるが)。

 明治36年に根謝銘村と一代名村と城村とが合併して「謝名城村」となり、城ノロ管轄である。一方の親田村と屋嘉比村と見里村が合併して「田嘉里村」となるが屋嘉比ノロの管轄村である。根謝銘(ウイ)グスク内に大城ウタキと中城ウタキがある。『琉球国由来記』(1713年)を見ると、城村と根謝銘村は大宜味間切で城村に小城嶽、根謝銘村にガナハナ嶽があり城ノロの管轄である。また、親田村と屋嘉比村と見里村は『琉球国由来記』(1713年)の頃は国頭間切の村である。親田村にガナノハナ嶽、屋嘉比村にトドロキノ嶽、見里村に中城之嶽がある。屋嘉比ノロの管轄村である。旧暦の海神祭(ウンガミ)が行われる根謝銘(ウイ)グスク内で行われる祭祀を見ると、屋嘉比ノロ管轄村(屋嘉比・親田・見里・浜)の神人や村人達が関わっているのは大城嶽、城ノロ管轄の村が関わるのは中城嶽である。城内の神アサギで行われるウンガミ(海神祭)は城ノロ管轄の神人(喜如嘉・饒波も参加)や村人達である。

 「おもろさうし」で謡われた「やかひもり」の頃、屋嘉比川の下流域は屋嘉比港と呼ばれているところからすると、屋嘉比、親田、見里が屋嘉比村であったとする。近世になって三つの村となり、再び統合され田嘉里となる。祭祀や祭祀場にその痕跡を遺している可能性がある。

 田嘉里川の下流左岸に屋嘉比墓、美里墓、親田墓の三ムラのムラ墓が小字●●にある。近くに昭和18年に浜・屋嘉比・親田・見里が葬式で利用するガンヤーが田嘉里川の左岸にある。

  
▲「せさん原」の印部石        ▲「山川原」の印部石        ▲屋嘉比にある神アサギ

【根謝銘(うい)グスク】(根謝銘城址)

 大宜味村に関わるオモロをみる。謝名城と田嘉里を視野に入れたとき、中央からオモロで歌われるほど勇壮な姿が彷彿する。グスクから眺めた眺望。今帰仁グスクの側のクボウぬウタキ、本部半島、古宇利島、伊是名・伊平屋島、屋嘉比江、赤丸崎など。どうもオモロに謡われた背景には、伝承としての歴史が根底にながれているようだ。屋嘉比杜(ウタキ)や親ノロ(屋嘉比ノロ)が中央に知られ、オモロに謡われるほどのノロであったであろう。屋嘉比ノロ家には、神衣装(大袖衣装)やノロ殿内での海神祭、黄金の簪、簪を納める竹筒などが保存されている。『琉球国由来記』(1713年)から1673年に国頭間切から大宜味間切が分割以前の様子が窺える。間切境界の変更の方切がなされるが、祭祀(ノロ管轄)の変更はなされることなく現在に繋がっている(浜は国頭村に組み込まれるが祭祀は屋嘉比ノロ管轄である)。

【13巻176】
 一 やかひもり、おわる       一 屋嘉比杜 おわる
    おやのろは、たかへて       親のろは 崇べて
    あん、まふて、             吾 守て
    このと、わたしよわれ          此の渡 渡しよわれ
 又 あかまるに、おわる、      又 赤丸に おわる
    てくのきみ、たかへて         てくの君 崇べて

【13巻182】
 一 くにかさに、おわる        一 国笠に おわる
    おやのろは、たかへて        親のろは 崇べて
    しまうち、しちへ、            島討ちしちへ
    あちおそいに、みおやせ       按司襲いに みおやせ
 又 やかひもり、おわる、       又 屋嘉比杜 おわる 
   かねまるは、たかへて        金丸は崇べて
 又 あかまるに、おわる、      又 赤丸に おわる
    てくの、きみ、たかへて、       てくの君 崇べて
 又 あすもりに、おわる、         安須杜に おわる
    ましらへては、たかへて        ましらては 崇べて
 又 おくもりに、おわる           奥杜に おわる
    たまの、きやく、たかへて       玉のきやく 崇べて

 「おもろさうし」に大宜味の根謝銘(ウイ)グスクやそこから眺望できる付近の場所が謡われている。屋嘉比杜は大宜味村田嘉里とされるが、根謝銘(ウイ)グスクの中に大城嶽と中城嶽があり、大城嶽は屋嘉比ノロの祭祀場である。中城嶽は城ノロの祭祀場である。

 「屋嘉比杜 おわる おやのろは崇べて」は屋嘉比杜(大城御嶽)にいらっしゃる親のろ、つまり屋嘉比ノロと想定することができそうである。また、「屋嘉比杜に みおやせ 金丸は崇べて」は屋嘉比杜(根謝銘グスク)におわす金丸、カニマン、つまり按司(支配者)のことか。根謝銘グスクの麓に金丸(カニマン)と呼ばれる墓?(鍛冶屋の跡)がある。

 根謝銘グスク内に屋嘉比ノロの祭祀場と城ノロの祭祀場があることに注目する必要がありそう。屋嘉比杜と親のろが中央部(首里)からオモロに謡われるほど注目されるものであったこと。

 海上では赤丸(奥間の岬)が「船ゑとのおもろさうし」で謡われるの船の往来の目標になったことで謡われたのは自然かもしれない。屋嘉比杜や親ノロが謡われるには、根謝銘グスクと関わる按司やノロが注目されていたのであろう。

田嘉里村(三つの村に分けられるか)  
  字仲福地原・字世山原・字溝名原・字前田原・字嘉名良・字安志良・字島ノ上・字野国名・字川茶原・字山川・字舟上原
 ・字赤俣・字屋嘉比・上原・字上福地原


  
 ▲親田と見里との境界付近にあるカー        ▲親田の収穫前のウッチン            ▲出荷するウッチン

【田嘉里の村墓】

  
      ▲屋嘉比墓                  ▲親田墓                       ▲見里墓


②謝名城

【国頭間切の国頭(クンジャン)は同村根謝銘(インジャミ)?】

 国頭は根謝銘から来ているのではないか! これまで間切の名称が同村名から来ているのが多い。国頭間切に同村名の国頭村がない。1673年に大宜味間切が創設される以前の国頭地方(間切)の拠点は根謝銘グスク(別名ウイグスク)とみられる。すると国頭間切の同村は根謝銘となる。根謝銘はインジャミと呼んでいる。国頭はクンジャンである。間切名と同村との関係からすると、インジャミに国頭(上)の漢字を充てたのではないか。『海東諸国紀』(1471年)には根謝銘グスクの位置に国頭城を充ててあることもあり、インジャミに国頭をあてたともとれる。山原では国頭間切(クンジャン)の同村が根謝銘村(インジャミ)であれば、間切名と同村名が一致しないのは羽地間切のみである。

 宮城栄昌は『国頭村史』(5頁)で「国頭はくにかみ・くにがみ・くんがみ・くんじゃみ・くんじゃん・くんちゃんと転化した形で呼称される」とあるが、逆にクンジャンやクンジャミやインジャミに「国頭」や「国上」の字を充てたのではないかと見ている。宮城真治は〚沖縄地名考〛で「根謝銘の根(ニ)は嶺のこと。「南向きの北風の当たらない所をニジャミといい、その場所に因んだ村名」だとされる。統合する前の城村はグスクがあったことに由来する。城原、元文検地の印部石二基で「くすく原」とある。




  ・国頭間切(クンジャン・クンジャミ)→根謝銘村?(インジャミ)?
       (番所は ?→浜村→奥間村へ)
  ・今帰仁間切→今帰仁村
  ・金武間切→金武村
  ・名護間切→名護村
  ・久志間切→久志村(番所は瀬嵩村ヘ)
  ・恩納間切→恩納村
  ・田港間切→田港村(後に大宜味間切→大宜味村・塩屋村へ)
  ・伊野波間切→伊野波村(後に本部間切)
  ・羽地間切→田井等村(親川村の創設で番所は親川村)


 現在の謝名城は明治36年まで根謝銘・一名代・城の三つの村が合併した。それとグスクの北側に位置する田嘉里も明治36年まで親田・屋嘉比・見里の三つの村の合併である。国頭地方の要となったとみられる根謝銘グスク(ウイグスク)と周辺の集落との関わりを見ていこうとするものである。間切規模のグスクと集落との関わりを知るモデルとなるとケースである。

 


【謝名城の変遷】

 「絵図郷村帳」(17世紀前半)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間切ねざめ村・城村

 「琉球国高究帳」(17世紀中頃)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間村城村(ねざめ村の村名記載なし)

    (1673年に田港間切が創設される)(田港村に番所が置かれる)
 1673年田港間切が創設された。田港間切の村)

    (1692年頃?に大宜味間切と改称、番所が田港から大宜味村へ移転。大宜味間切の村)

 「琉球国由来記」(1713年)・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切城村・根謝銘村

   1719年頃、大宜味間切番所は大宜味村から塩屋村へ移転か) 

 「琉球国旧記」(1731年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味郡城邑・根謝銘邑

 「乾隆二年帳」(1737年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村根謝銘・城村

 「御当国御高並諸上納里積記」(1738年以降)・・・・・大宜味(見)間城村・根謝銘村

 「間切村名尽」(附宮殿衛名)(1719年)・・・・・・・・・・・・大宜味間切城村・(根謝銘村名記載なし)

 「琉球一件帳」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切城村・根謝銘村・一名代村

 「間切名村名尽」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切一名代村・城むら・(根謝銘村名記載なし)

 「琉球藩雑記」(明治6年) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切城村・一名代村・根謝銘村

 「統計概表」(明治13年 )・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切一名代村・城村・根謝銘村
 「沖縄島諸祭神祝女類別表」 ・・・・・・・・・・・・・・・・●●神アシアゲ
 「沖縄旧慣地方制度」(明治26年) ・・・・・・・・・・・・国頭郡大宜味間切根謝銘村・城村・一名代村

 「明治36年」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切謝名城(三ヵ村合併)     、

 「明治41年~現在」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字謝名城                 



【根謝銘グスクと集落と村(ムラ)】
 
根謝銘グスクは大宜味村謝名城にあるグスクである。別名ウイグスクという。ウイグスクの呼称は城(グスク)があるので、区別するための名称であろう。ここで使っている集落は、古琉球の時代のマキ・マキヨ規模の家々の集まりとして捉えている。100軒余の場合もあれば、30軒そこそこの場合もある。それらの集落が、後に行政村(ムラ)として線引きされたと見ている。

 これらの村が明治13年にどのくらいの規模であったのか示してみる。世帯数で20世帯余、多い所で40世帯足らずである。近世、あるいは古琉球の時代になると、もっと小規模(マク・マキヨ)であろう。

  ・根謝銘村・・・・・世帯37戸、人口183人(男92人・女91人)
  ・一名代村・・・・・世帯21戸、人口114人(男64人、女50人)
  ・城 村 ・・・・・・・世帯21戸、人口118人(男52人、女66人)

  ・親田村・・・・・・・世帯25戸、人口136人(男65人、女71人)
  ・屋嘉比村・・・・・世帯28戸、人口161人(男82人、女79人)
  ・見里村・・・・・・・世帯27戸、人口166人(男85人、女81人)


 合併した謝名城は城ノロの管轄、そして田嘉里は屋嘉比ノロの管轄である。城ノロ管轄のムラは根謝銘グスク(ウイグスク)の中城(ナカグスク)御嶽(そこはイビだとイビ考えている)に左縄を巡らし、屋嘉比ノロ管轄のムラは同じく根謝銘グスク(ウイグスク)の大城(ウフグスク)御嶽(イビ)に左縄を張り、イビに向かって拝んでいる。本来ウイグスク全体が御嶽であり、それに寄り添うようにあった集落の御嶽であり、大城御嶽や中城御嶽と呼ばれているところはイベに相当する。そう見ていくと、御嶽その中のイベ、そして集落との関係が見えてくる。さらにグスクと集落や村との関わりも(集落移動など含めてのことは別稿で)。『琉球国由来記』(1713年)の頃、親田村・屋嘉比村・見里村は国頭間切である。三つの村が大宜味間切に組み込まれたのは康煕58年(1719)である。

 グスクの上り口にウドゥンニーズとトゥンチニーズがある。宮城真治の『宮城真治民俗調査ノート』に御殿と殿地の場所(屋敷地)が記されているが、昭和2年には御殿敷地に火神が祭られている。


              ▲グスクと周辺の集落と村(ムラ)


 ▲一番麓にある一名代の集落        ▲根謝銘の集落          ▲城の集落とウイグスク

※根謝銘グスク内の御嶽(イビ?)の名称は『琉球国由来記』(1713年)とでは混乱しているようである。
  
 ・中城之嶽(神名:大ツカサ)(見里村・屋嘉比ノロ管轄)・・・・・・大城の嶽(田嘉里:屋嘉比ノロ)(当時国頭間切)
   ・小城嶽(神名:大ツカサナヌシ)(城村・城ノロ管轄)・・・・・・・・中城の嶽(謝名城:城ノロ)(当時大宜味間切)


【根謝銘(ウイ)グスクと村々】

 根謝銘グスクはウイグスクともいう。グスク内に二つのウタキがある。その二つのウタキはウタキの中のイベだとみている。根謝銘グスクと関わる村がある。間切分割、集落移動、合併、ノロ管轄など複雑にからみあっている。そのあたりのことを整理してみる。

 間切や村の変遷をたどってみたが、ここでは根謝銘(ウイ)グスクを取り巻く現在の謝名城(大宜味村)と田嘉里(大宜味村)について触れる。1673年以前はいずれも国頭間切の内。根謝銘(ウイ)グスクは国頭間切の中心部に位置していたということ。1673年の間切分割の時、根謝銘グスクは田港(後に大宜味)間切の領域に組み込まれる。

 1673年の間切分割の時、ねざめ(根謝銘)村と城村は大宜味間切へ(その段階で一名代村は登場していない)。屋かび(屋嘉比)は国頭間切へ(親田村と見里村は登場してこない)。組み込まれる。ところが、『琉球国由来記』(1713年)以降、国頭間切から大宜味間切への方切(間切の境界線の変更)がなされる。明治の「統計慨表」では、屋嘉比村と親田村と見里村は大宜味間切の村である。

 明治36年に根謝銘村と一代名村と城村とが合併して「謝名城村」となり、城ノロ管轄である。一方の親田村と屋嘉比村と見里村が合併して「田嘉里村」となるが屋嘉比ノロの管轄村である。根謝銘(ウイ)グスク内に大城ウタキと中城ウタキがある。『琉球国由来記』(1713年)を見ると、城村と根謝銘村は大宜味間切で城村に小城嶽、根謝銘村にガナハナ嶽があり城ノロの管轄である。また、親田村と屋嘉比村と見里村は『琉球国由来記』(1713年)の頃は国頭間切の村である。親田村にガナノハナ嶽、屋嘉比村にトドロキノ嶽、見里村に中城之嶽がある。屋嘉比ノロの管轄村である。旧暦の海神祭(ウンガミ)が行われる根謝銘(ウイ)グスク内で行われる祭祀を見ると、屋嘉比ノロ管轄村(屋嘉比・親田・見里・浜)の神人や村人達が関わっているのは大城嶽、城ノロ管轄の村が関わるのは中城嶽である。城内の神アサギで行われるウンガミ(海神祭)は城ノロ管轄の神人(喜如嘉・饒波も参加)や村人達である。

 根謝銘(ウイ)グスク内の二つの嶽(イビ)は異なるノロのそれぞれの祭祀場となっている。これまで記録されている根謝銘グスクでのウンガミは城ノロ管轄の祭祀である。屋嘉比ノロ管轄のウガンが大城嶽(イベ)で行われているのを実見したことがある。城内の神アサギでのウンガミは一緒には行っていなかったように思う
(要確認調査)。城内の大城嶽での祭祀が終わると田嘉里の神アサギで祭祀を行う。そこでウンガミの所作がなされるかどうか未確認。

 ここで根謝銘(ウイ)グスクの二つの嶽(イベ)と、その周辺にある(あった)集落との関係を祭祀との関わりで見ていけるのではないか。「根謝銘(ウイ)グスクが抱えた村々」としてとらえた時、「今帰仁グスクが抱えた村々」と共通して見えてくるものがある。それと、根謝銘(ウイ)グスクへの途中に「御殿」と「殿内」屋敷があったことが宮城真治ノートに描かれおり、それは統合され「トゥンチニーズ」と「ウドゥンニーズ」であることわかる。それは国頭按司と国頭親方なのか、それとも大宜味按司と大宜見親方の殿地や御殿の跡地なのか。
 

▲根謝銘(ウイ)グスク内の大城嶽(イベ)     ▲根謝銘(ウイ)グスク内の中城嶽(イベ)


   ▲殿内と御殿が統合される(火神)          ▲城村上城アサギ


 ▲城集落から見た根謝銘(ウイ)グスク全景       ▲城(グスク)ヌルドゥンチ 

 謝名城のに国道58号線沿いの小字●●に城・根謝銘・一名代のそれぞれのムラ墓がある。

 
   ▲謝名城(城・根謝銘・一名代)の村墓


③喜如嘉

 喜如嘉はキザハと呼ばれ、クガニマクの呼称がある。集落を区分する8つのバールがある。

 

「絵図郷村帳」(17世紀前半)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間切きどか村

 「琉球国高究帳」(17世紀中頃)・・・・・・・・・・・・・・・国頭間村きどか村

    (1673年に田港間切が創設される)(田港村に番所が置かれる)

    (1692年頃?に大宜味間切と改称、番所が田港から大宜味へ移転)

 「琉球国由来記」(1713年)・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切喜如嘉村

      

           (1729年頃番所が大宜味村から塩屋村へ移転か)

 「琉球国旧記」(1731年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味郡喜如嘉邑し           

 「乾隆二年帳」(1737年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切喜如嘉村

 「御当国御高並諸上納里積記」(1738年以降)・・・大宜味(見)間喜如嘉村

 「間切村名尽」(附宮殿衛名)(1719年)・・・・・・・・・・大宜味間切喜如嘉村

 「琉球一件帳」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切喜如嘉村

 「間切名村名尽」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切喜如嘉村

 「琉球藩雑記」(明治6年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切喜如嘉村

 「統計概表」(明治13年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切喜如嘉村
 「沖縄島諸祭神祝女類別表」・・・・・・・・・・・・・・・・城村(喜如嘉村神アシアゲと記載あり)

 「沖縄旧慣地方制度」(明治26年)・・・・・・・・・・・・国頭郡大宜味間切喜如嘉村

 「明治36年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切喜如嘉村

 「明治41年~現在」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字喜如嘉

 
 

  



④饒 波

【饒波の変遷】 

 「絵図郷村帳」(17世紀前半)・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間切によは村

 「琉球国高究帳」(17世紀中頃)・・・・・・・・・・・・・国頭間村(によは村名記載なし)

    (1673年に田港間切が創設される)(田港村に番所が置かれる)

    (1692年頃?に大宜味間切と改称、番所が田港から大宜味へ移転)

 「琉球国由来記」(1713年)・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切饒波村

      城巫火神の年中祭祀のところで「城・喜如嘉・饒波、四ヶ村百姓」として記載
      神アサギの記載なし

           (1729年頃番所が大宜味村から塩屋村へ移転か)

 「琉球国旧記」(1731年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・饒波邑の記載なし           

 「乾隆二年帳」(1737年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切饒波村

 「御当国御高並諸上納里積記」(1738年以降)・・・大宜味(見)間屋饒波村

 「間切村名尽」(附宮殿衛名)(1719年)・・・・・・・・・・大宜味間切饒波村

 「琉球一件帳」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切饒波村

 「間切名村名尽」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切饒波村

 「琉球藩雑記」(明治6年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切饒波村

 「統計概表」(明治13年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切饒波村(世帯57 (男117、女128 計245人)
 「沖縄島諸祭神祝女類別表」・・・・・・・・・・・・・・・・城村(饒波村神アシアゲと記載あり)

 「沖縄旧慣地方制度」(明治26年)・・・・・・・・・・・・・国頭郡大宜味間切饒波村

 「明治36年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切饒波村

 「明治41年~現在」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字饒波

 
 ニューハやヌウハと呼ばれ、宮城真治は『沖縄地名考』で饒波の義は「広場」だと説明される。饒波は①渡口 ②苗代 ③池畑 ④佐敷 ⑤前田 ⑥前田上 ⑦桃原 ⑧喜味 ⑨親田圃 ⑩味嘉川 ⑪比謝の11の小字からなる。集落の前方のメンター(前田)、シミダー、ハンジャメー、エーダブック(親田圃)は地名が示す通り水田が広がっていたという。饒波川の下流域で、本流にそそぐハーシーと呼ばれる小川があり、小字苗代で水田であった。今では稲はつくれていない。饒波川の上流域には大宜味・大兼久・饒波の人々の水田が混在してあったという。そこは仕明地であったのであろうか。その様子は、根路銘に饒波・大宜味・根路銘のムラ墓があるのと関係するか。

 饒波川の河口(入江)は山原船の薪(タムン)や炭(線香)の積み出し港として利用されていた。

 饒波の集落部分では、集落を区分する「・・・・・バーリ」がある。①ハマバーリ(浜の方) ②シチャバーリ(下の方) ③メーバーリ(前の方) ④フシバーリ(後ろの方) ⑤ウイバーリ(上の方)と集落部分が5つに区分される。隣の喜如嘉では「バール」であるが、それは集落部分を区分する呼称とみた方がいい。そのバーリやバールは集落区分の組や班となる(その境界線は必ず一致するものではない)。饒波にバールではなくバーリの呼称(同様な意味)があるのは興味深い。

【饒波の小地名】
 ・メンター ・シミダー ・ハンジャメー ・エーダブック ・ユングムイ ・アミンジュルガー ・パータガー ・ウロ
 ・比謝上(ヒジャウイ) ・上原 ・鎮守の森 ・ハーシー(川下) ・ミーガー(新川) ・ナハヤマ ・ギミウイ ・
 ・ナカダ ・ネヘマ ・オミヤ(カミヤ) ・ハーバタ ・ナッス ・アガリジョウ ・アナガー ・フサキヌアナガー
 ・パータガー ・クンカーガー ・ハマバーリ ・シチャバーリ ・メーバーリ ・フシバーリ ・ウィバーリ ・ヌーハバシ

※明治43年11月27日(沖縄毎日)
   饒波川の蛍狩

 大宜味間切には「大宜味間切内法」(明治19年12月11日)に津波村山當 平良順心 外73名で国頭郡役所長 朝武士 干城 宛がある。間切内法は「大宜味間切當塩屋外十五ヶ村ニ於テ執行候内法約束取締書」である。間切全体のところで扱うことにして、ここでは「村内法」についてみる。大宜味間切には「村内法」が以下のように6つある。
   ・大宜味間切津波村内法
   ・大宜味間切(塩屋・屋古前田・田港・渡野喜)四ヶ村内法
   ・大宜味間切根路銘村内法
   ・大宜味間切(大宜味、饒波、大兼久)三ヶ村内法
   ・大宜味間切喜如嘉村内法
   ・大宜味間切(親田・見里・屋嘉比)三ヶ村内法
 饒波のところでは、大宜味間切(大宜味、饒波、大兼久)三ヶ村内法について紹介する。
  一、他人の芭蕉敷内へ牛を繋ぎ置くもの
  一、同上蘇鉄畑牛を繋ぎ置くもの
  一、同上稲刈跡田倒へ牛を繋ぎ置くもの
  一、饒波川字三チャ又口より下の川面へ牛を繋ぎ置くもの
    以上のヶ所迚も縄を切り踏入又は耕作の場合中休憩の為め暫時繋ぎ置くものは其の限りに非らず
  一、他人の甘藷又は芋蔓を刈取もの
  一、同上甘藷を盗み折るもの
  一、同上芭蕉葉を刈り取るもの
    但芭蕉は五葉以上とす
  一、其他々人の物を盗み取るもの
 前条の各点に違犯するものは日過金一銭づつを徴収す

 饒波のムラ墓はムラを越えた根路銘の外間原の墓地にあったが、明治にそこから喜如嘉の小字●●に移されている。


 
    ▲饒波川下流域(右手は小字苗代)


⑤大兼久

【大兼久の史料にみる変遷】

 「絵図郷村帳」(17世紀前半)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間切(大宜味村名なし)

 「琉球国高究帳」(17世紀中頃)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間村(大宜味村名なし)
    (1673年に大宜味間切創設)
(その時に大宜味村創設か)

 「琉球国由来記」(1713年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村の内

 「琉球国旧記」(1731年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味邑の内

 「乾隆二年帳」(1737年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切(大宜味村名なし)

 「御当国御高並諸上納里積記」(1738年以降)・・・・大宜味(見)間切大宜味村の内

 「間切村名尽」(附宮殿衛名)(1719年)・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村の内

 「琉球一件帳」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村の内

 「間切名村名尽」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切塩大宜味村の内

 「琉球藩雑記」(明治6年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村の内

 「統計概表」(明治13年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村の内

 「明治36年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村の内

 「明治41年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字大宜味の内
 「昭和21~現在」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字大宜味から分離




⑥大宜味

【大宜味の史料にみる変遷】

 「絵図郷村帳」(17世紀前半)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間切(大宜味村名なし)

 「琉球国高究帳」(17世紀中頃)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間村(大宜味村名なし)
    (1673年に大宜味間切創設)
(その時に大宜味村創設か)

 「琉球国由来記」(1713年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村

 「琉球国旧記」(1731年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味邑

 「乾隆二年帳」(1737年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村名なし

 「御当国御高並諸上納里積記」(1738年以降)・・・・・大宜味(見)間切大宜味村

 「間切村名尽」(附宮殿衛名)(1719年)・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村

 「琉球一件帳」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村

 「間切名村名尽」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切塩大宜味村

 「琉球藩雑記」(明治6年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村

 「統計概表」(明治13年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村

 「明治36年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村

 「明治41年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字大宜味
 「~現在」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字大宜味

 大宜味村大宜味の方が見える。大宜味村大宜味についてクルクル頭が回転する。ならば大宜味についてまとめてみるか。
 大宜味はイギミやウギミと呼ばれ、城真治は『沖縄地名考』で「大宜味は泉の義」だとされる。大宜味字の後方のウタキから流れ出る清冽な川がイギミガー(泉カー)で、そこに由来するという。大宜味と大兼久の間を流れるのがウッカー(兼久川)である。
 
 史料から大宜味村の変遷をまず辿ってみる。大宜味村名が登場してくるのは『琉球国由来記』(1713年)からである。まだ史料の確認ができないのであるが、1673年に田港間切が創設され、田港村に間切番所が置かれ(同村)、番所が田港村から大宜味の地に番所を移動した時に、大宜味間間切と改称し、そこに大宜味村を創設したことも考えられる。番所を田港から大宜味の地に移動したときに、その地の名をとり、大宜味間切、そして同村(大宜味村)を創設したとみることができる。間切番所は同間切名と同名を名乗るのが大方である。例えば、久志間切久志村(後に瀬嵩に移る)、1673年創設の恩納間切恩納村など。『琉球国旧記』(1731年)に大宜味間切の駅(番所)は「大宜味邑」とあり、『琉球国由来記』(1713年)には大宜味間切の番所は、大宜味間切と改称されたときに田港村から大宜味村に移動か。その後、大宜味村から塩屋村に番所が移る。

 「絵図郷村帳」(17世紀前半)・・・・・・・・・・・・・・・国頭間切(大宜味村名の記載なし)

 「琉球国高究帳」(17世紀中頃)・・・・・・・・・・・・・国頭間村(大宜味村名の記載なし)

    (1673年に田港間切が創設される)(田港村に番所が置かれる)

    (1692年頃?に大宜味間切と改称、番所が田港から大宜味村へ移転)

 「琉球国由来記」(1713年)・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村

      大宜味村に神アサギあり、城ノロ管轄
        稲二祭、束稲折目、芋ナイの祭祀がある

           (1729年頃番所が大宜味村から塩屋村へ移転か)

 「琉球国旧記」(1731年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味邑
        大宜味掟  大宜味駅は大宜味邑にありとある。              

 「乾隆二年帳」(1737年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村の記載なし

 「御当国御高並諸上納里積記」(1738年以降)・・・大宜味(見)間大宜味村

 「間切村名尽」(附宮殿衛名)(1719年)・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村

 「琉球一件帳」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村

 「間切名村名尽」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村

 「琉球藩雑記」(明治6年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村

 「統計概表」(明治13年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味(世帯57 (男117、女128 計245人)
 「沖縄島諸祭神祝女類別表」・・・・・・・・・・・・・・・・・城村(大宜味村神アシアゲと記載あり)

 「沖縄旧慣地方制度」(明治26年)・・・・・・・・・・・・・国頭郡大宜味間切大宜味村

 「明治36年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切大宜味村(士族戸主19戸(男29、女45)
                                               (平民戸主111戸(男176、299)     、

 「明治41年~現在」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字大宜味(昭和21年に大兼久が大宜味から分離)
                  (大兼久は戦前まで大宜味の内)


【大宜味の集落】

 大宜味はユアギマクの大宜味集落発祥と関わるマク名がある。大宜味の集落は小字大宜味(イギミ)と島田(シマンター)にある。大宜味集落は北側からターンバール、ナハンバール、アサギバール、イジンガーバールと伝統的な「・・・バール」で区分される。戦後、大宜味から分割した大兼久の集落区分はバーリとジョウが使われる。大宜味集落から離れた山手に喜納(キンナー)とエーガイがあり、そこは地名で呼ばれている。
 
【大宜味の小字と小地名】
 大宜味は小字が8ある。①島田(シマンター) ②大宜味(イギミ) ③御嶽(ウタキ) ④炬畑(テーバキ) ⑤川登(ハーヌブイ ⑥伊源川(イジンガー) ⑦喜納(キンナー) ⑧杣山(ソマヤマ)である。戦前までは大兼久の小字⑨兼久(ハニク) ⑩小兼久(コガネク) ⑪黒石(クルシ) ⑫草戸(クサトウ) ⑬仲山(ナハヤマ) ⑭仲筋(ナカスジ) ⑮比堂(ヒロウ)も大宜味の小字であった。

・ムラガッコウ ・シマンター ・ウタキ ・グンムイ ・ウイヌハー ・サーヌハー ・ウティンダ ・ハニクガー ・ハーミチ
・ハーニブイ ・マチニーガー ・ムラヤー跡 ・グシクヌブイ ・グシク ・アサギ ・エーガイ ・ナハヤマ ・喜納公園 ・ウイヌタンク ・イジンザキ ・ヒドウ チキガンドウ ・ボージムイ ・クヮダーキムイ ・アサギマー ・イリンタチビ ・シッタイクブ ・ハキンジョウ ・シシチキ ・チビグンムイ ・ウロー ・ターチヅイ ・メンパー ・ナハガックイ ・コーエン(公園) ・ニバングンムイ 、ハラマシ ・マチニーガー ・ヒドゥガヮ ・ハマジョウ ・メーダハマジョウ ・ガジマルハマジョウ ・カクモリヤーハマジョウ ・イタビシ ・イジンガーハマ ・サーンハー ・デバタ  

 
     ▲ウッカー(大兼久川)               ▲御嶽の祠の香炉


⑦根路銘

【根路銘の史料にみる変遷】

 「絵図郷村帳」(17世紀前半)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間切ねるめ村

 「琉球国高究帳」(17世紀中頃)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間村ねるめ村
    (1673年に大宜味間切創設)
(番所は田港村)

 「琉球国由来記」(1713年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切根路銘村

 「琉球国旧記」(1731年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切(邑記載なし)
  1719年親田村・屋嘉比村・見里村が国頭間切が大宜味間切へ。

 「乾隆二年帳」(1737年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切根路銘村

 「御当国御高並諸上納里積記」(1738年以降)・・・・大宜味(見)間切根路銘村

 「間切村名尽」(附宮殿衛名)(1719年)・・・・・・・・・・大宜味間切根路銘村

 「琉球一件帳」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切根路銘村

 「間切名村名尽」(1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切根路銘村

 「琉球藩雑記」(明治6年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切根路銘村

 「統計概表」(明治13年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切根路銘村

 「明治36年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切根路銘村

 「明治41年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字根路銘
 「~現在」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字根路銘

 根路銘の旧道沿いの小字外間原にムラ墓がある。そこには大宜味(大兼久)・饒波のムラ墓が並んである。ムラ墓が他のムラに置かれていたことは行政の境界を越えた観念がありそうだ。

 
▲根路銘に大宜味・饒波・根路銘のムラ墓がある       ▲根路銘の外間原にある印部石


⑪屋古の歴史(屋古・田港の変遷)

 「絵図郷村帳」(17世紀前半)・・・・・・・・・・・・・・・・国頭間切屋こ村・たミな村・前田村

 「琉球国高究帳」(17世紀中頃)・・・・・・・・・・・・・・国頭間村たミな村・前田村・(屋古村名記載なし)

    1673年に田港間切が創設される)(田港村に番所が置かれる)

    (1692年頃?に大宜味間切と改称、番所が田港から大宜味へ移転)

 「琉球国由来記」1713年)・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切屋古前田村・田湊村

       田湊巫火神 屋古前田村 

       田湊巫火神

         毎年、四度・四品・百人御物参の祈願あり。

         稲二祭・束取折目・海神折目・柴指・ミヤ種子・芋ナイ折目・三日崇(屋古前田村百姓)

         稲穂祭の時按司、根路銘地頭、前田大屋子・根路銘掟・塩屋掟・根路銘百姓、屋古前田百姓

         海神折目の時按司、根路銘地頭、前田大屋子、根路銘掟、屋古前田村百姓

         柴指の時、前田大屋子、屋古前田村百姓

         芋折目の時、前田大屋子、塩屋掟、屋古前田村百姓

         大宜味間切 前田大屋子(地頭代)

               平良大屋子・川田大屋子(三員夫地頭)

               首里大屋子・大掟・南風掟・西掟・塩屋掟

               川田掟・喜如嘉掟・津波掟・福地掟・根路銘掟・大宜味掟 

            

           1729年頃番所が大宜味村から塩屋村へ移転)

 「琉球国旧記」1731年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切屋古前田邑・田港邑

           (田港巫火神 屋古前田邑)

            大宜味間切 前田大屋子(地頭代)

                     平良大屋子・川田大屋子(三員夫地頭)

                      首里大屋子・大掟・南風掟・西掟・塩屋掟

                      川田掟・喜如嘉掟・津波掟・福地掟・根路銘掟・大宜味掟      

                  

 「乾隆二年帳」(1737)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切屋古前田村・田湊村

 「御当国御高並諸上納里積記」1738年以降)・・・大宜味(見)間屋古前田村・田港村

 「間切村名尽」(附宮殿衛名)1719年)・・・・・・・・・・大宜味間切田湊、屋古村記載なし

 「琉球一件帳」1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切屋古前田村・田湊村

 「間切名村名尽」1738年以降)・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切屋久村・前田村

 「琉球藩雑記」(明治6年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切屋古前田村・田湊村

 「統計概表」(明治13年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切屋古前田村・田港村

 「明治36年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切屋古村記載なし、田港村に統合か

 「明治41年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字田港(屋古は田港村の内)

 「昭和5年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字田港から屋古は分離する。

 「昭和5年~現在」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字屋古


・古い御嶽と伝統行事

 ・屋古はバナナの名産地(年間売り上げ4000ドル)

 ・バナナの種類は台湾産の北蕉(他の地域の仙人蕉は病害虫にやられた)

 ・ヒラミレモンのあり、年間売り上げ約2000ドル

 ・(果樹栽培に力を入れる)

・屋古は塩屋と田港の間にあり、屋古が古いか田港が古いかの議論あり。

・田港と接近しており、塩屋湾内で田港につぐ歴史をもつ

・田港主(タンアンス)と根路銘主(ニーミンスー)との間で土地争いがあった。地割を決めたときも、もう一人の弟前田主ー(前田主:屋古前田の始祖)は私欲がなく傍観していたという。

・のちにノロを選ぶとき、上の二人は「神に仕えるのは高潔なメーダンスーのところからでなけらばならない」ということで、最初のノロは屋古前田村からでたという。

・屋古と前田が別々になっていたが、始祖は同一のようで、屋古発祥の家は前田大屋古(フヤコ)といった。

・古い伝承をもつこともあり、御嶽や拝所が13ヶ所もある。

・これらの拝所が集落内にあり、「どこにいっても、これだけまとまったところはないだろう」と

 字民は自慢する。

・旧暦7月の盆明けの最初の亥の日に行われる海神祭(ウンガミ)をはじめ、6回の神行事がある。

・海外移住者が多い字。これまで100人近くが中南米に出稼ぎに行っている。

・1958年(昭和33)、村内で最初のコンクリート建ての公民館が完成。その資金の大半は海外移住者の援助。

・1958年当時、電灯がついていないのは屋古と江洲のみ。


 
          ▲屋古の神アサギ                ▲屋古のウタキのイベの祠



⑰津波・平南

津波・平南村のムラ名の変遷


 「絵図郷村帳」(⒘世紀前半)・・・・・・・・・・・(羽地間切)

 「琉球国高究帳」(17世紀中頃)・・・・・・・・・(羽地間切)

 「琉球国由来記」(1713年)・・・・・・・・・・・大宜味間切津波村・平南村

 「琉球国旧記」(1731年)・・・・・・・・・・・・・大宜味間切津波邑・平南邑

 「乾隆二年帳」(1737年)・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切津波村・平南村

 「御当国御高並諸上納里積記」(1738年以降)・・・

                            大宜味間切津波村・平南村

 「間切村名尽」(附宮殿衛名)(1719年)・・・大宜味間切津波・平南村

 「琉球一件帳」(1738年以降)・・・・・・・・大宜味間切津波村・平南村

 「間切名村名尽」(1738年以降)・・・・・・大宜味間切津波村・平南村

 「琉球藩雑記」(明治6年)・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切津波村・平南村

 「統計概表」(明治13年)・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切津波村

 「明治36年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味間切津波村

 「明治41年」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大宜味村字津波




 大宜味村のムラ・シマを踏査していく。17のムラ・シマを個々にまとめていく。まずは踏査から。体調は思わしくないが。

 まずは楽しみながら。

 体調を崩しているが、グータラしているのは性にあわない。考えたり、まとめたりすることはできないが、体を動かすことはできそう。気づかなかったことに、また一度も触れなかったことがある。大宜味村の川である。もちろん祭祀と関わるカーや井戸などについては扱ってきた。今回はこれとは別に流れる川について踏査。

 大宜味村に田港から独立した大保がある。そこには大保川が流れている。その右岸に大工俣(デークマタ)の小字がある。また元文検地(1737~1750年)の測量図根点に使われた印部石(たいこ原)がある。そのたいこ(デーク:ダンチク)に因んだ呼称ではないかと大宜味村史のメンバーと話し合っている最中である。大保川沿いにダンチク(暖竹)がないか回ってみた。その前に1853年にペリー一行が訪れた塩屋湾の地質の確認から。宮城島とサバ崎(白保)周辺を干潮時に観察していると、岩石の確認もあったがダンチクが繁茂していることを確認。大保川下流域なので大保川沿いにもあること確実であろう。

 この津波グスク遠景は見ているが、グスク(御嶽)の内部までは見ていない。石積のないグスクかもしれない。グスクの海岸沿いにイビノメーの地名があり、津波グスクそのものウタキでありグスクの中央部にイベ(拝所)がある可能性がある。現在の津波グスクのイベは祠として三合目あたりに作られている。今年の冬中には踏査してみたい。

 
        ▲津波グスクの遠景                      ▲津波グスクと海岸沿いのイビヌメー

 ペリー一行が描いた塩屋湾岸の地図と調査記録を手掛かりに塩屋湾沿いを踏査。ハン崎に銅山の洗練所跡を確認。塩屋湾岸で銅山が一時期であったが試掘されたのは、この情報が手掛かりになったかもしれない。ハン崎には大保の名称となった「たいこ原」(デークバル)のデーク(ダンチク)が繁茂している。

 
       ▲津波のヌルガー                ▲津波の平南川下流域

 
▲津波の「ヰ つは原」の印部石 ▲津波平南の「ユ あさか原」の印部石


【ペリー一行の塩屋湾調査】
 『ペリー提督の東洋遠征記』(1856年)第一巻中「同探検隊の士官たちによる航海資料」である。塩屋湾(Shah Bay)部分を紹介。
 Whiting 大尉は言う。ここは陸に囲まれた一面の水域であるが、入口正面にある大きなリーフが大型の船の近づくのを妨げ、小舟が度々出入りするのみである。しかしながら一旦中に入ると、水深8~12尋の深さになる。海底はやわらかい泥で平坦である。最初塩屋湾に入った時は、晩方で天候は嫌悪の模様を呈していた。翌朝になると北方及び西方から嵐が吹きまくり、それが数日続いた。それでボートがOfookah(塩屋の突端)の外に出るのが不可能となった。その間に我々は湾内の調査を全部おえた。そして逗留の最後の日になって初めて出口を調べることができた。残念なことに出入り口のりーフは吃水の深いすべての船にとって邪魔になることがわかった。
 塩屋湾沿岸では(海図に位置を示す)鉄鉱・炭坑・硫黄が見つかった。ここで私がみた石炭は、質が劣悪で土や砂利が混じっていたが、掘れば良質の石炭が見つかるかもしれない」(故上間政春氏訳)。

 咸豊3年(1853)にペリー一行は沖縄本島の資源調査を行い、塩屋湾には石灰層があると報告している。「水路誌」には「此の湾は全く陸地に囲繞せらる。然れども湾港方面に礁脈あるを以て和船より大なる船を入るゝ能はず。湾口付近は距離反浬若しくは一浬の処まで浅水なり」と記してある。

 塩屋湾の地図に集落(津波・宮城島・渡野喜屋(白浜)、塩屋、屋古、田港、大保)、塩田(宮城島)、田港(現在の大保)に塩田、宮城島のガニクガンサと塩屋のハーミジョウに墓地が記されている。

 運天港を出発したジョウンズ僧官を隊長とする調査隊のボートは、間切役人の村人が見守る中塩屋湾に入ってきたという。後ろ向きに漕ぐボートがグングン進むのに驚き、また塩屋湾岸の村の人々は婦女子は山に隠れ、家畜なども山に畜舎をつくり避難させる有様だったという。

 塩屋の大川浜についた調査隊はテントを張り、宿泊し、塩屋湾岸一帯の地質や動植物の調査にとりかかった。滞在中、塩屋村の家か大根三斤、代々九年母10粒、仙本半斤(ネギ?)などを買い求めたという。12月24日四ツ時分に伝船一艘に士官一人、水夫十人が乗り込み、大川浜から向かいのサバ崎に小旗を一本立てて帰ったという。サバ崎、向かいの田港側のイクサン崎、湾に浮かんでいる岩礁、宮城島一帯の岩石を採集して持ち帰ったと。その時の岩石はボストンのペリー記念館に標本として展示されているという(『大宜味村史』通史編)。