大宜味の杣山や猪垣
(2016年3月13日)                      大宜味村のムラへ



 大宜味の猪垣の一部を踏査してみた。その猪垣については、平成2年と6年で調査され、報告書が出されているので参照。今回の狙いは杣山、間切境界、そして押川の杉敷、根路銘の胡桃敷、喜如嘉の樫敷の確認の確認であった。塩屋の中山、六田原の猪垣遊歩道、押川の杉敷跡などの様子。


【大宜味間切の主な仕立】

・楠 敷
 押川から根路銘・大宜味の猪垣の内側で仕立られ沖縄最大の楠敷の美林があった。山奉行所公事帳に、大宜味間切根謝銘村並木相国寺には、当分実付候楠之有り、九、十月之頃、熟仕候間山奉行者にて、近間切之山当登らせ取調各間切配分をもって仕立方申すべきこと、とあり、十八世紀半ば頃から楠敷の仕立が始まったものと見られる。

・杉 敷
 
押川は間切が最も力をいれた仕立敷で、二かかえ三かかえもある杉の大木があり、杉敷としては沖縄最大の規模をほこっていた。明治になって押川開墾が行われた際に、伐採が許可され学校建材・公共施設の用材としてことごとく切りだされてしまった。

・胡桃敷 
 根路銘村の湧地山に仕立られ、明治の中頃迄管理されていたが、漸次伐採された。実は間切から御殿・殿内への上納物として重宝がられてた。
 1876年(光緒2)の「胡桃敷本数改帳」によると、胡桃敷は以下の通り。(湧地原は現在あり)
   根路銘村湧地原
  一、胡桃敷 三百二十坪
     本数 27本(根廻一尺〜六尺)
  一、胡桃敷四百四十坪
     本数37本(根廻一尺〜八尺四寸)
    光緒二年丙子閏五月

・樫 敷
 喜如嘉村遠山に仕立られ、太平洋戦争まで樫の大木が生い茂り大切に管理sれていたが、戦後の開墾によって姿を消した。山奉行所規模帳に、樫木の儀国頭間切安田・安波、大宜味間切内喜如嘉、久志間切内川田、右の村の山には所々に相見得とあり、蔡温時代から仕立敷として重視されていたことがわかる。大宜味間切の津波山にも樫敷があった。

 大宜味間切特有の山に中山がある。その性格は他の間切の里山・村山というものに類似している。中山は一般に松敷・竹敷などからなり、各村の仕立山の一種として保護管理されてきた。大宜味間切でとくに中山が設置された理由は、間切の地形に起因しているとみられる。村からすぐ急勾配の山がせりあがっており、登りつめた先が、やや平坦の台地状をなし、猪垣の築かれた開墾地へと続き、いわゆる村と開墾地の間の山林を中山と称している。中山は松や桧(ひのき)や竹など有用な樹木を仕立る目的の地に山くずれを防ぎ、貯水涵養林、開墾地を守る暴風林の役目を果たしており、近世にいたるまで自由な伐採を許さず、村内法をもとできびしく保護管理されていた。

※猪垣から奥を内山・奥山、海岸より外山、猪垣の内を中山と呼び、中山と外山の大部分は字有地に払い下げられ、
  更に多くが開墾のため個人に配分された。大宜味の小字仲山や杣山、喜如嘉の杣山は明治の杣山処分の名残りとみられる。

 
         ▲杣山の中山(塩屋)                           ▲杉敷のあった押川

猪垣は六田原〜イギミハキンジョウ

  
        ▲六田山の猪垣の一部                    ▲猪垣と遊歩道              ▲押川の飼っている猪(数頭)


    ▲猪垣の説明版(六田原) 


【大宜味間切における猪垣の修築】(大宜味村猪垣調査報告書より)

 「球陽」尚穆王36年(1787年)によると、「十一月二十二日、大宜味郡塩屋村の前の山川親雲上等の功労を褒賞す。大宜味郡有るところの猪垣は、大風雨の時、多く損壊する有り。その修葺至りては、稼穡時を論ぜず、各村分派し、?次巡修す。是を以て、毎年多くの人力を費す。塩屋村前の山川親雲上、前の前田親雲上、前の山川親雲上、屋古前田村前の前田親雲上、塩屋村宮城筑登之、金城筑登之、山城筑登之、田湊村金城筑登之、渡野喜屋村大城筑登之、根路銘村大城筑登之等、相会して商議し、各々百姓に勧めて、公務・農事を妨げざるの時、及び月夜に当りて石頭を持ち集む。塩屋・屋古前田・田湊・渡野喜屋・根路銘五村の民夫を発動し、石を以て猪垣を改築すること長さ二千六百三十一歩・高さ七尺より四尺に至る。上届申年工を興し、寅年に至りて全く成る。若し夫れ猪垣、堅固有ること無くんば、則ち農事の妨げ、此れより大なるは莫し。是を以て、往々両年に一遭、大概樹木六万余株、民夫七千八百九十余名を将て、其の垣を改修す。是れ以外の費に係る。各々皆前の如く、心を留め慮を発し、固く石垣を築く。故に民夫・樹木の費無く、永く郡中の便利と為る。此れに依りて各頭目及び掌管役等、由を備へて朝廷に報明す。随ひて各々褒賞を賜ふ。」とあり、申年(注・1776年)に工を興し、寅年(注・1782年)に至りて全く成るとある。

 明治31年8月39日の「琉球新報」には、「開墾人の最も苦難を感するものは山猪の被害なり、場所に依ては農作も出来ざる処あり之が侵入予防に要する費用即ち猪垣の建設等に多額の労費を要するがゆえに最初開墾の着手に躊躇するもの少なからず今日まで着手せさるものあるも之に因るもの多かるべし本部山今帰仁其他羽地名護山の一部即ち国頭郡役所より以西半島の部分は開墾の成功するに従ひ林地減少し山猪の潜伏する処少なく漸々駆逐せられて最早猪垣の必要なきに至れりと云へり」とある。

 昭和19年6月5日の「大阪朝日」は、匪賊=猪の撃退に珍案“十里の長城”三万五千円で猪垣を築く、沖縄県大宜味村で、「沖縄県国頭郡大宜味村は猪による農作物被害が毎年二万円近くもあり、殊に今年は猪の当たり年とあっていよいよ被害夥しく村民も遂に協議の結果、県費補助を受け三万四千七百三十一円を投じ延長十里二十五丁余の猪垣を築き猪の侵入を防止することとなった」と報じている。

 中国の万里の長城になぞらえて十里の長城と名付けたものとうかがえる。当時は大垣(大宜味村全体を囲む猪垣)の外側は全面的に開墾され、山の嶺々を延々と連なる猪垣が眺望できたであろう。

 明治14年11月の上杉県令日記「沖縄本島巡回日誌(秋永桂蔵筆記)」には、「座中川ヲ渉リ、此ヨリ座中坂ヲ上ル、土人伝ヘテ、三十七曲坂ト云ウ、……猪垣嶺ヨリ渓ニ亘ル秦皇長城万里ノ図ヲ見ルガ如シ、阪尽ル処、舁夫小休ス、武見阪ヨリ、巨松薈蔚ノ間ヲ、左折右回シテ下ル、渓水アリ、……」と述べ、また、安田から安波へ行く船上で見た右手の山の様子を「右ニ一桁ノ山アリ、列屏ノ如シ、山ヲ墾シ、署圃シ為ス、猪垣山腹ニ連亘ス、亦長城ノ図ヲ看ルカ如シ、……」と記録している。北部の猪垣は、万里の長城を連想させる景観であり、大宜味間切全域を囲いこむ猪垣を「十里の長城」と称した情景がうかがえる。

 上述の日記には、とくに久志番所における令公と村吏との問答に「問山ニ樊籬ノ設ケアルハ如何、答猪垣ト唱へ、山猪穀物蕃藷ヲ食フヲ拒ムナリ、自然ニ敗レハ、直ニ害をなす、問猪ヲ猟スル者、当村ニ何人アルヤ、答三名アリ、問年々何頭計リ猟シ獲ルヤ、答概シテ十頭位ナリ、六七月ハ大暑ニテ、犬疲ル、故ニ猟セス、問皮ハ如何スルヤ、答焼ナリ、因テ皮ヲ売出スヘキ旨ヲ、一言セラル、」とあり、金武番所を出発し漢那村に入って以後道沿いで所々見る猪垣の所在を記録しているが、津波村を出て浜村に至るまで猪垣についての記録がない。大宜味間切においては、通過した村々は海岸沿いにあり、猪垣は遠方の高台に位置するため、一行には実見できなかった。しかし、源河から津波に至る間で「右辺ニ小木ヲ、蔓ニテ結ヒ、遠ク山ニ連リタルアリ、亦猪垣ナリ」とある。

  明治36年5且23日の「琉球新報」は、「国頭に禿山多し、(見るかたやないらん海と山と)と俗謡にもあるが如く国頭地方は従来山林に富める所なるが近来濫伐熙墾の結果にや至所禿山を見さるなく此の有様にて四五年もつゞきたらば同地方は漸次水源枯渇して飲料水に窮し薪木欠乏して人民生活に困難をきたすことになるべし経済家は今に於いて宜しく予防策を講せさるへからす」と警告している。

 昭和14年6月15日の「琉球新報」は、猪害に悩める国頭郡の貧農猪垣築造に補助金交付陳情の見いだしで国頭郡の猪垣構築に対する助成金交付を訴えている。

 猪垣の保持については、原山勝負の審査項目にも入っており、また、崩れたところの修繕を怠った者への罰則もあった。例えば、大宜味間切内法の第91条に「猪垣ノ義廻人相立破レ所出来候時ハ則々主方ヘ申渡修繕致サセ若再廻ノ時修繕無之者科米二升ツゝ申付半分ハ廻人手間半分ハ村人民中惣揃ヲ以テ仕配方ノ事」とある。猪垣を築き修繕も怠らないが、本島北部の農民は、絶えずその侵入に悩み、その侵入防止に苦闘した。

 昭和16年10月24日の「朝日新聞」には、猪狩り協議会について次のように述べている。「沖縄県農会では食糧増産の敵野猪の殲滅を期して今回県下四十ヶ所の部落農業団体を指定、総額四千円を支出して猪捕獲柵を設置するが、このほど名護町国頭郡農会で、名護、恩納、金武、久志、東、国頭、大宜味、羽地各町村長、主任者を招集して右につき協議会を開催した」とある。今帰仁、本部、崎本部、屋部が出席していないのは、明治31年以来本部半島地域には猪は生息していなかったか、被害が少なかったか。

 
      ▲赤線が猪垣(今回踏査した場所)