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2017年2月27 日(火)


 26日(日)大宜味村根路銘の村墓から一門の墓へ移動した墓の調査を行う。村墓から門中へ移行した直後(明治の初期)から最近までの様子をしることができた。村墓から一門(あるいは個人墓)に移行した直後から火葬されている。その時の火葬は海岸で燃やしたものである。厨子甕の内部には人骨や墨状の木片や木の葉などが納められている。

 大宜味村や国頭村での明治期まで村墓への葬葬について。その後門中墓が建造されると、野火で焼かれ、納骨は厨子甕が使われている。村墓には焼かれた人骨は村墓にこぼしていたことがわかる。ここでは明治初期から個人墓(門中墓)移行する、野火での火葬が引き継がれていること、村墓で火葬して骨をそのまま葬っていたことが、以後は野火で火葬した骨は厨子甕に入れて収める洗骨の方法がとられている。現在の火葬(高熱で焼く)は小さな骨壺に収められている。

 今回の調査は大宜味村、国頭村の村墓の葬方、そして明治初期に墓が個人墓や門中墓に移行した時の過程が見えてきた調査であった。
      

 調査の結果(銘書や配置図や一基ずつの画像)などは依頼された一族へお返しします。ありがとうございました。

 
▲明治期まで使われていた村墓(根路銘村墓)       ▲野火で火葬された人骨の納められている厨子甕

 
     ▲この蔵骨器には高熱で火葬された人骨が納められている


2017年2月22日(火)

1987(昭和62)年の報告を思い出す必要があり、その報告メモを。30年ぶりに「青森県立図書館特別資料」笹森儀助旧蔵沖縄関係文献(全・写本)の一部を手にする。下の「報告」書は、出張復命のようなものである。名護市史で、そのとき収集してきた資料を活字化するようである。この資料収集は、名護市史、沖縄県地域史協議会とかかわりはじめた初期の頃である。


 (以下略)

 

2017年2月18日(土)

 以下のテーマで報告。

            琉球・沖縄の地図

―土地整理前後の地図・土地台帳など―                 

もくじ

1.「今帰仁間切平敷村略図」から

 ・作図の年代・方法

 ・平敷村畧図と印部石 

 ・平敷村図の原と小字

2.国頭郡今帰仁間切平敷村小字図(7枚)

3.土地整理と合併村

4.土地整理と今帰仁間切の平敷村小字前田原図一帯

5.土地整理字図・小字図

 ・土地整理(今帰仁間切の事例と平敷村小字図と土地整理関係等級申告控)(明治34年)

・今帰仁間切兼次村土地整理台帳

6.今帰仁間切村全図と今帰仁村村字全図(画像で紹介)

7.戦後の測量  


1.「今帰仁間切平敷村略図」から

 ・「平敷村略図」の年代

 ・「平敷村略図」と周辺の原と印部石

 ・「平敷村略図」の原と現在の小字

 

   ▲平敷村略図        ▲今帰仁旧城図(乾隆7年癸亥)(「具志川家家譜」より)

 

・平敷村略図の作成年代は?

・元文検地図は「南が上、北が下」とあり、平敷村略図も北が下、南が上。(タイトルに合わせる)

・「今帰仁旧城図」もタイトルに合わせると北が下、南が上

  

・平敷村略図周辺の原と印部石

 ・ミナト原 ・スガ原 ・渡川原 ・前田原 ・掟田原 ・山田原 ・ゴミ原 ・上原 

 ・上原 ・上サナ原 ・上謝名原 ・山出原 ・トチャ原 ・小浜原  



 

   ▲大こふ原           ▲うへてな原             ▲ヰ ふかさく原

 

・印部石の原と「平敷村略図」と現在の小字

 「平敷村略図」がいつ頃の図面なのか、年号が記載されていないためはっきりしないが、明治32年以前の図面とみられるタイトルには「平敷村略図」とのみある。図面の神は楮紙で本土産だとのご教示を受けている)。

 「平敷村略図」は平敷村と周辺村との境界を測量し、その内側に小字の線引きをした図面である。西側の崎山村との境から竿入(測量)(竿入)が始まり、海岸のミナト原(崎山)を起点に南下し、さらに上原から東側の謝名村境へと北上し海岸で終了している。「平敷村略図」から情報を読み取ると、東西南北、謝名村境、崎山村境が記され、凡例には赤色の道路、黒の破線の原境、赤い丸印の村境などが測量うされている他、小字名や道路、それに家、松などの記載がある。境界線の部分に出てくる小字名は、ミナト原、・スガ原・渡川原・前田原・掟田原・山田原・ギミ原・上原・上サナ(上ザナ・上謝名)原・山出原・トチャ原・小浜原である。ミナト原が崎山、ゴミ原は崎山か仲尾次(グミの小地名がある)。上ザナは謝名、平敷にもウヘテナ(上ザナ)原がある。平敷村の周辺は不明な四地点を除いた距離は2,288間5合(約4.6km)である。

「平敷村略図」と名の示す通り、平敷村の周辺と小字の境界などを概略的に作成した図面である。略図面ではあるが、旧原域や原名や村境や印部石との関わりもあり、今帰仁村内で確認されている印部石の整理をしてみる。数個の増あり。

 

2.国頭郡今帰仁間切平敷村小字図(7枚)

①   国頭郡今帰仁間切平敷村字戸茶原 筆数百三十九筆

②   国頭郡今帰仁間切平敷村字前田原

③   国頭郡今帰仁間切平敷村字運田原

④   国頭郡今帰仁間切平敷村字山出原

⑤   国頭郡今帰仁間切平敷村字越原

⑥   国頭頭郡今帰仁間切平敷村字沢原

⑦   国頭郡今帰仁間切小浜原

    

    

3.土地整理と合併村

明治36年の土地整理で地割制度は終りつげる。下の図は土地整理直前の地割の最後の様子を示すものである。「今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者について報告したことがある。土地保有者がバラバラである。それは地割の実態を示すものである。平敷村は貧富割タイプ。
 ①貧富割(12村)
   今帰仁・親泊・志慶真・兼次・諸喜田・與那嶺・崎山・平敷

   ・勢理客・天底・湧川・古宇利
 ②貧富および耕耘力割(5ヶ村)
   仲尾次・謝名・仲宗根・運天・古宇利?
 ③貧富および人頭割(3ヶ村)
   玉城・岸本・寒水
 ④人頭割・年齢に関せず(1ヶ村)
   上運天


 

▲山原の地割基準              ▲今帰仁間切の地割基準のタイプ

   

▲国頭郡今帰仁間切崎山村全図       ▲今帰仁間切天底村字和呂目全図

 

4.平敷と崎山の前田原一帯

 今帰仁村の今泊・与那嶺・崎山・平敷・謝名・仲宗根・湧川の字に「前田原」と呼ばれる小字がある。名の示す通り、水田のあった場所に付けられた地名である。昭和30年代まであった今帰仁村内の水田跡は、前田原や安田原、掟田原などの小字名にその名残を留めている。

 昭和22年から24年にかけて、崎山のハーラマイアジマー(川回辻)付近から山手の方に向かって崎山と平敷の前田原一帯を撮影したものである(Okinawa lsle of Smiles,William E.Jenkins)。

 後方の山は、一番右手の山がハサマ山(標高約252メートル、崎山地番)さらに左側が乙羽岳(標高約275メートル)である。左右に走る直線道路がスクミチ(現在の国道五◯五号)で、中央部を斜めにいくのがジニンサガーラである。台風や大雨の時に氾濫を起こすことがあった。

 ジニンサガーラを挟んで手前が崎山の前田原で、向こう側が平敷の前田原である。因みに国道の向こう側は、平敷の掟田原。平敷掟を勤めた間接役人の役地があったことに因んだ地名であろう。

 ジニンサガーラの両側に広がる水田は水が張られ、田植えはこれからだろうか。土地改良が、まだなされておらず、戦前からの曲がった畦道は不便ではあるが風情がある。

 昭和48年に平敷土地改良事業が着手され、水田から畑地に切り替わり、現在に至る。中央部を「~」字形に流れているのがジニンサガーラである。川の水をモーターで汲み上げ、現在、キク畑、ビニールハウス(ニガウリ、キュウリなど)、緑化木、砂糖キビなどの潅漑用水として利用されている。国道沿いにガソリンスタンドや民家ができた。

 戦後、今帰仁村の土地利用が大きく変わった要因の一つに昭和30年代後半から40年代にかけて、稲作が消えたことがある。水田跡の水はけのいい土地は畑地に切り替わったが、湿地帯はそのまま放置された。昭和40年代になると土地改良事業が進められ、一筆一筆の形が直線的に区画された。土地改良の目的は小規模農地が雑然としている、一筆ごとの面積が少ない、低湿地帯の土地改良をし、生産高を向上させることにあった。

 

5.土地整理字図・小字図

・土地整理(今帰仁間切の事例と平敷村小字図と土地整理関係等級申告控)(明治34年)

・今帰仁間切兼次村土地整理台帳

    

 

6.今帰仁間切村(ムラ)全図と今帰仁村(ソン)村字全図

【今帰仁間切村全図】(明治36年図~41年)

【今帰仁村字全図】(明治41年頃)

7.戦後の土地測量(昭和22年)

 戦後の土地測量は、ある意味で戦前の地籍の復元であった。その作業が現在の地籍図と直接つながってくる。村図を作成するにあたり「村図作成要領」や地番の作成事務を円滑に進めるために「新地番作成要領」などが出されている。字で具体的にどのように測量し、所定の手続きをへて「土地所有権利証明書」が発行されていったのか、この写真は戦後の仲尾次の土地測量と関わった方々、そして当時の様子や土地所有権が認められるまでのことを語っていただいた(今帰仁村仲尾次:昭和22年)。

     
    ▲昭和22年の土地測量をした面々(今帰仁村)        ▲戦後すぐの土地測量図

 

参考文献
・『なきじん研究 7号』所収

 今帰仁村内の小字の変遷―平敷村畧図」にみる(仲原)(平成9年)  
  1.「平敷村略図」
  2.平敷村の小字図
  3.「平敷村略図」と現在の小字の比較
  4.村内の原石(印部石)と小字(原名)
  5.平敷の現在の小字の現況
  6.今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者 
・『じゃな誌』(所収)(昭和62年)(仲原)今帰仁間切の地割と平敷村 
・「今帰仁村の印部石」(所収:仲原) 沖縄県地域史協議会発行


※画像など許可なく使用を禁じます。

2017年2月12日(日)

 近々調査にはいる今帰仁村仲尾次、崎山、上間の三つの村の関係を祭祀や御嶽などの関係からみていく。上間村は「事々抜書」(1738年頃)と『琉球藩雑記』(明治5年)のみに出てくる村である。その上間村は「事々抜書」と「琉球藩雑記」のみで登場する。「事々抜書」(1738年頃)に「中城は上間と仲尾次二ヶ村之事」とある。そのこともあって崎山、中城、上間の関係をどう整理するか。行政上の村区分、ウタキの位置や拝所、地名の上間・中城・崎山(ヒチャマ:下間)の関係から。

 

崎山と上間と仲尾次

「琉球藩雑記一」(人口戸籍)沖縄県史 雑纂1

今帰仁間切(21ヶ村)  
 今帰仁村 勢理客村 
上間村 兼次村 湧川村 平敷村 諸喜田村 岸本村 古宇利村
 仲尾次村 仲宗根村 上運天村 崎山村 親泊村 天底村 謝名村 志慶真村 玉城村
 運天村 与那嶺村 寒水村

 官員 十六人男   農 男四百人  女四百二十六人

「琉球藩戸籍統計」

 今帰仁間切(21ヶ村)
  今帰仁村 勢理客村 上間村 兼次村 湧川村 平敷村 諸喜田村 岸本村 古宇利村
  仲尾次村 仲宗根村 上運天村 崎山村 親泊村 天底村 謝名村 志慶真村 玉城村
  運天村 与那嶺村 寒水村 

 戸数  三百三十軒 家持  平民三百三十人 同家族 五百十三人
     内 男 四百十七人  女 四百二十六人


2017年2月10日(金)

 「方切」(間切と間切との境界)の変更が、変更前の名残を残していると考えている。それは言葉であったり、祭祀のノロ管轄、あるいは移動村、さらには作物の植え付けや納税の時期のずれにみることができる。その一例の場所を出勤前に行ってみるか。果たして?!

 旧羽地村の源河から大宜味村の津波の間で、砕けた海水をかぶり、真冬の西海岸の荒々しさを身に感じる。これまで大宜味から国頭にかけての踏査は夏場である。冬場の北風の強さでは海岸沿いに茅葺き屋根の集落がつくられるには困難である。真冬の風の強い日の塩屋湾の様子が知りたいからである。

 塩屋につくとハーミジョウは一足飛び。時々強風にあおられ、強風が去るのを待つ。塩屋湾を境にして塩屋から北と、南側の津波(宮城島含む)とでは作付けが一週間ばかりずれている。(その資料が見つからず)作付けのづれが何に原因しているか。そのことを見きわめたい。

 塩屋湾の北側の塩屋・屋古・田港・大保、対岸の渡野喜屋(白浜)までは1673年以前は国頭間切領域、津波(平南・宮城島)まで羽地間切の領域である。1673年国頭間切、大宜味間切、羽地間切との間で「方切」がなされる。そのことが作物の植え付けや上納の時期がずれてなされると見られる。(工事中)

 
 ▲宮城島は津波村の内(1673年まで羽地間切内)         ▲塩屋湾の北側の塩屋・屋古・田港・大保、対岸の渡野
                                          喜屋(白浜)は国頭間切の内、後に大宜味間切


2017年2月8日(水)

 ここしばらく、地図や関係資料とにらめっこ。地図を読み取り、関連する資料とのつながりをさぐっていく面白さ。無表情の資料や地図に表情をつけていく面白さ。地図の整理をしていると、私が気づかなかった資料がいくつか。明治の土地整理期の図面が、「国頭郡今帰仁間切崎山村全図」や「国頭郡今帰仁間切天底村字和呂目全図」(千二百分一)などがある。凡例があり、「臨時沖縄県土地整理組合」「明治三十六年五月」などとある。(工事中)

 




2017年2月4日(土)

 「琉球・沖縄の地図」のシンポジウム(2月18日)での報告レジメの作成。今帰仁村歴史文化センター所蔵の地図関係資料を手がかりに報告することに。

   (原稿でも書いてみるか。工事中)

1.「平敷村略図」
 ・平敷村略図の原と明治36年後の小字
 ・平敷村略図の原と元文検地の印部石(現在の小字=元文検地時期の原ではない)  
  


2.今帰仁間切平敷村小字図

 

・今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者・地番・地目・住所・備考
 

3.今帰仁間切村(ムラ)全図(明治36年)
 ・土地整理の図
 ・物納から金納
 ・村税から土地税
 ・村の統合

4.村(ソン)字(アザ)全図

 
・明治の土地台帳
 ・小作証綴(明治31年)

 

 

5.その他

 戦後の土地測量は、ある意味で戦前の地籍の復元であった。その作業が現在の地籍図と直接つながってくる。村図を作成するにあたり「村図作成要領」や地番の作成事務を円滑に進めるために「新地番作成要領」などが出されている。字で具体的にどのように測量し、所定の手続きをへて「土地所有権利証明書」が発行されていったのか、この写真は戦後の仲尾次の土地測量と関わった方々、そして当時の様子や土地所有権が認められるまでのことを語っていただいた(今帰仁村仲尾次:昭和22年)。

  
  ▲昭和22年の土地測量をさらた面々(今帰仁村)     ▲戦後すぐの土地測量図

参考文献
・今帰仁村内の小字の変遷―平敷村畧図」にみる  『なきじん研究 7号』(仲原)(平成9年)  
  1.「平敷村略図」の正確
  2.平敷村の小字図
  3.「平敷村略図」と現在の小字の比較
  4.村内の原石(印部石)と小字(原名)
  5.平敷の現在の小字の現況
  6.今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者
 
・『じゃな誌』(所収)(昭和62年)(仲原)  
 今帰仁間切の地割と平敷村 
・「印部石」(所収:仲原) 沖縄県地域史協議会発行