1956年度、1957年度の今帰仁村字玉城の公民館資料の2年間の資料目録に目を通してみる。15年の資料がある。目録のタイトルのみ掲げるが表向き見えない字の一年間の動きが見えてくる。タイトルのみ掲げるだけでも大事業である。中身について字誌で触れることは出来が、字の動きを数値的に見ることができる。個人情報に抵触する部分があり、タイトルのみ掲げることにする。(一通り目を通し必要な部分のみ場面場面で紹介)
・事業報告書/資金計画書
・1957年度事業計画書/販売事業/1956年度 収支豫定書
・今帰仁村信用協同組合 1956年度通常總会提出議案
・財産目録/貸借対照表 信協/損益計算書
・事業報告書 信協/事業計画書 信協/収支予定表 信協
・甘蔗夏植用苗購入者及確定数量/1956年
・畜舎設置について/平面図
・1957年度 今帰仁区教育委員会予算書/才入予算、才出予算(3枚)
・1957年度 北山高等学校連合区教育委員会予算書案/教育予算案 歳入の部/歳出の部
・1956年 肥料購入証明書
・1956年度 村税各区別未納調/1956年度産業共進会 入賞記録
・区長相案について
・玉城区 1956年度固定資産税
・各区別生徒調査表(学事資料)1956年3月 今帰仁中学校/1955学年度 学事報告/1955学年度 学事報告(11班)
・各年度未納額調べ 56,4,30現在
・1956年度固定資産統3期納税成績表
・大城善英 那覇在所 見取図
・1956年度民有林野造林実行報告書提出について(公文)/造林事業実行書
・56年度教育税2期分
・1956年立法院議員総選挙投票日について(公文)別紙
・1956年卒業式並び始業式について(公文)
・56年度 村民税2期分納税成績表
・大、中口募金 玉城區 新垣正秀
・1956年度 学令簿/地目別、年度別坪当料収入表/地目別年度別坪当賃貸料
・1945年度 坪当価格/1956年 補償問題調査について(公文)
・1956年 選挙関係防犯懇談会の開催について/選挙関係防犯懇談会資料
・1956年旧正月用と殺豚許可証/1956年度 固定資産税二期分納税成績表
・玉城婦人会 会則
・第7回秋季運動会寄附金の収支決算書56’
・56’校長住宅建築会計報告書
・1955年度 後援会費歳入歳出決算書
・1956年度予算案 今帰仁中学校
・後援会特別会計収支決算書 今帰仁中学校 1955年
・農業会計収支決算報告書 自1954年8月➝至1955年6月
・1956年度 予算案 今帰仁小学校
・1955年度会計報告 今帰仁小学校
・1956年度 北山高等学校連合区教育委員会予算書
・1956年度 教育予算書(歳入の部)/歳出の部
・今帰仁村々民税賦課算定基礎に関する規定
・戸籍に関する届出事件諸要事項
・出生届/養子縁組届/養子离縁届/婚姻届/隠居届/家督相続届/死亡届/分家届
石垣市川平にある仲間満慶山(なかま みつけいま)の墓を訪れる15世紀末の石垣シマの人物のようだ。「新城徳祐氏調査ノート」に「仲間満慶の遺品」の写真ある。1962年撮影である。その遺品がどうなっているか確認してみたい。またその頃のオヤケアカハチ、フルスト原遺跡などの関係。
(工事中)
【波照間島をゆく】
2007年10月17日から19日まで波照間島をゆく。沖縄県地域史協議会の研修会である。波照間島を中心としたテーマでの研修会である。17日は波照間農村集落センターで「波照間島の歴史と文化」と「波照間島の村落形成」の二本の講演がなされた。
18日は島の約30カ所の場所の巡見であった。私は数個のテーマを持っての参加である。沖縄本島北部と歴史・文化の関わりが希薄な波照間島を見るのであるが、沖縄本島を含めて見えるキーワード探しでは、それぞれの地が独自性の歴史文化をつくっているのではないかとの視点でみていくことに。それと、沖縄本島との違いは16世紀に首里王府へ統治される以前の先島の歴史・文化が、今にどう伝えているか。そのようなことを思い描きながら島のあれこれを見せてもらった。
山原、あるいは沖縄本島で見てきた御嶽(ウタキ)と集落との関係、あるいはグスクなどとは異なった説明を必要とした。そこで見える法則性が先島の島々や村、あるいは集落と御嶽(オン・ワー)との関係が島に住んできた人々が持っている本質的なものではないか。島を見る物差と先島域をみる物差、そして琉球国から見る物差しが必要であることに気づかされる。
・長田(ナーダ)御嶽は長田大主が祀られている。
・美底(ミスク)御嶽は獅子嘉殿が祀られている。
・オヤケアカハチの生誕地(歴史の評価で御嶽になるのだろうか?)
・嶽(ワー)と集落との関わり(集落は村でなく人家がある地域として捉えている)
・現在までの集落移動の経過(低地→段丘上→島の中央部へ)
・嶽(ワー)と御嶽(ウタキ)
(住居跡がワーにしていく傾向がある。本島では火神をまつるが香炉を置きイビにしてある)
・嶽(ワー)と祭祀(神人の出自と旧家)と島全体の祭祀関係(行政村以前の集落形態がみえそう)
・スク(グスク)と集落(ワーを中心として集落を形成、故地のワーも遺す)
・下田原グスク(大規模)と先島文化(下田原グスクを拠点とした時代を想定)
・下田原グスクを中心とした時代(波照間島)→竹富島→石垣島(先島文化に与えた影響?)
・歴史的な人物を排出した島(オヤケアカハチ・長田大主・ミスクシシガドン・ウヤマシアガダナ・
ゲートゥ・ホーラなど:伊平屋・伊是名島が排出した人物にまつわる歴史が彷彿)
・石垣の白保にある波照間嶽と移住した民(移住先で嶽をつくる習性を持った民)
・『琉球国由来記』(1713年)に波照間村とあり真徳利御嶽(マートゥーリワー)と白郎原御嶽
(シサバルワー)と阿幸俣御嶽(アバティワー)が登場する。
波照間島には天啓6年(1626)8月28日付の首里王府発給の辞令書(八重山間切の新本目差職補任辞令書)がある。その辞令書は『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県文化財調査報告書大18号)と『琉球文化の研究』(加藤三吾)付録の「八重山文化の探究」(河村只雄)に収録されている。ただし、『南方文化の探究』(講談社学術文庫)では辞令書の写真が外されている。
首里の御ミ事 首里の御ミ事
やへままきりの 八重山間切の
あらぬとめさしハ 新本目差の目差は
一人あらぬとのちくに 一人新本の筑登之に
たまわり申候 給申候
天啓六年八月二十八日 天啓六年八月二十八日
辞令書の「あらぬと」は村名で、崇貞元年(1628)までに波照間村と平田村、そして「あらんと村」が統合されたようである。辞令書は統合される直前である。1628年頃の首里王府と最南端の島との統治関係がうかがえる。新本(村)の目差職に新本の筑登之を任命するというものである。首里王府は辞令書の発給で八重山の最南端の島まで統治している。
▲オヤケアカハチの生誕地 ▲長田大主と関わる嶽(ワー)
琉球国の最南端の波照間島の下田原城を見た時の第一印象は、八重山地域に文化があるとするなら、このグスクが拠点となっていた時代があったのではないかと。15~16世紀にかけて集落遺跡と位置づけられている。島の南東の標高25mほどの台地上の崖に沿って造られている。グスクが独立した形であるのではなく、周辺に石積みの屋敷囲いがいくとも連続してある。その中心の石囲いがグスクの中心部とみられる。50~100×180m規模の石囲いが残っているようである。
下田原グスクに立ってみた印象は、このグスクが栄えていたとみられる15~16世紀の頃、下田原グスクを拠点にして北側に散在する島々を統治していた時代があったのではないか。グスクからどのくらいの遺物が出土するかわからないが、規模と取り巻いている集落の後からいくらか想像が巡らしてみると面白い。竹富町の一島であるが、グスクの時代は波照間島の下田原グスクが統治の要になった時代を想定してみると興味深い。波照間島のグスクの位置する場所は、石垣島や西表島などの島々をつなぐ拠点になっていたのではないか。
▲ミシュク集落跡にあるミシュクケー(井戸) ▲集落跡地にある石(イビ?)
▲アースクワーの拝殿とイベ ▲ワー内の道筋(隣接して旧家がある)
▲下田原城遺跡入口 ▲下田原城遺跡の石積み
▲下田原城遺跡の石積み ▲下田原城遺跡の石積み(通路跡?)
▲高登盛(コート盛)(火番盛) ▲高登盛の上部の様子
▲波照間島でみた茅葺屋根の建物 ▲屋敷跡の火神(ワー?)と香炉
戦後の土地測量(昭和22年)(「写真にみる今帰仁」に所収)
沖縄戦で役場や各字の公民館の帳簿など書類のほとんどが消失してしまった。土地関係の公簿や公図なども同様である。そのため沖縄県諮詢会の監督のもとに、各字や村に字土地所有権委員会(10人)と村土地所所有権委員会(5人)が設置され、昭和21年8月から三ヶ年余りの歳月をかけて、各字の土地の位置・面積・筆界・土地所有権の確認・公証の作業を行った。
今帰仁区(今の字今泊)の『議事録』(1947年8月12日常会)で土地調査の件に触れ「一筆三〇〇坪七円当、其の半額ヲ土地調査委員会の経費トシテ治メテ戴キ度ク委員会ノ方ヨリ御願、右提案決定(微集ハ調査デ行フ)八月十五日ヨリ」とあり、戦後の土地調査の字の対応の一端が伺える。「測量野帳」をみると、経営区字・林班・小班・年月日・審査委員を記入する欄があり、さらに測点番号・方位角・傾斜角(仰・俯)・斜距離・水平距離・標識・摘要の項目がある。
写真は仲尾次の土地測量の補助委員(字土地所有権委員か)の方々である。場所は仲尾次のミンタマヤー(クムイ)の側のガジマルの前での撮影である。ミンタマヤーの池は灌漑用水や洗濯などに利用されていたが埋められ、当時の面影は消えてしまった。前列左から、国吉真栄・田場盛重・城間源栄・与那嶺吉松(役所吏員)などの姿が見える。後方左から稲福権平・新城三郎・田場盛善・屋嘉部景栄・渡名喜長栄・島袋定治の各字である。その時の測量技師は大見謝技師であった。
測量の補助員をした渡名喜長栄氏は「道路側に大きなガジマルがあった。大見謝技師と一緒に場所の確認した。土地台帳と一筆限帳と地図はわしの区長時代に作った。測量する時に、検縄と羅針盤で方向、長い竿などで見通しをした。測量は屋敷や山などもしたので長らくかかった。わしらの写真の測量、それは確実ではないということで、測量を直して台帳をつくった」など四十六、七年前の様子を語って下さった。
田場盛善氏は「これは昭和22年ですね。補助員は二人の指示によって縄を引っ張って、測量簿をつけて大見謝氏がずっと見て。補助員は字内の畑がわかるもんだから。それを一筆ごとに測量した。検縄を引っ張って竹の棒を立てて、与那嶺吉政さんと大見謝氏とが六分儀で見ながらやっていた。大見謝測量といって、後でこれはでたらめだと言ってましたがね。つじつまがあわんわけですよ。それからは私は役場に入って土地を担当したわけですよ。測量費を払わないというひともいて、私大分苦労しましたよ。一筆いくたといって測量賃がでよったですよ」などと当時を振り返って下さった。
戦後の土地測量は、ある意味で戦前の地籍の復元であった。その作業が現在の地籍図と直接つながってくる。村図を作成するにあたり「村図作成要領」や地番の作成事務を円滑に進めるために「新地番作成要領」などが出されている。字で具体的にどのように測量し、所定の手続きをへて「土地所有権利証明書」が発行されていったのか、この写真は戦後の仲尾次の土地測量と関わった方々、そして当時の様子や土地所有権が認められるまでのことを語っていただく資料である。
平敷と崎山の前田原一帯(2000年12月)メモ(「なきじん研究」―写真にみる今帰仁―収録)
今帰仁村の今泊・与那嶺・崎山・平敷・謝名・仲宗根・湧川の字に「前田原」と呼ばれる小字がある。名の示す通り、水田のあった場所に付けられた地名である。昭和30年代まであった今帰仁村内の水田跡は、前田原や安田原、掟田原などの小字名にその名残を留めている。
上の写真は昭和22年から24年にかけて、崎山のハーラマイアジマー(川回辻)付近から山手の方に向かって崎山と平敷の前田原一帯を撮影したものである(Okinawa lsle of Smiles,William E.Jenkins)。
後方の山は、一番右手の山がハサマ山(標高約252メートル、崎山地番)さらに左側が乙羽岳(標高約275メートル)である。左右に走る直線道路がスクミチ(現在の国道五◯五号)で、中央部を斜めにいくのがジニンサガーラである。台風や大雨の時に氾濫を起こすことがあった。
ジニンサガーラを挟んで手前が崎山の前田原で、向こう側が平敷の前田原である。因みに国道の向こう側は、平敷の掟田原。平敷掟を勤めた間接役人の役地があったことに因んだ地名であろう。
ジニンサガーラの両側に広がる水田は水が張られ、田植えはこれからだろうか。土地改良が、まだなされておらず、戦前からの曲がった畦道は不便ではあるが風情がある。
下の航空写真は、平成3年の崎山・平敷の前田原一帯である。昭和48年に平敷土地改良事業が着手され、水田から畑地に切り替わり、現在に至る。中央部を「~」字形に流れているのがジニンサガーラである。川の水をモーターで汲み上げ、現在、キク畑、ビニールハウス(ニガウリ、キュウリなど)、緑化木、砂糖キビなどの潅漑用水として利用されている。国道沿いにガソリンスタンドや民家ができた。
戦後、今帰仁村の土地利用が大きく変わった要因の一つに昭和30年代後半から40年代にかけて、稲作が消えたことがある。水田跡の水はけのいい土地は畑地に切り替わったが、湿地帯はそのまま放置された。昭和40年代になると土地改良事業が進められ、一筆一筆の形が直線的に区画された。土地改良の目的は小規模農地が雑然としている、一筆ごとの面積が少ない、低湿地帯の土地改良をし、生産高を向上させることにあった。
部落名 | 戸数 | 門中 | 移住戸数 | 其内那覇ヨ | 首里ヨリ | 其他ヨリ 移住門中 | 移住門中 |
浜 奥間 与那 |
117 160 124 |
19 ? 17 |
20 48 15 |
19 14 15 |
0 33 0 |
1 1 0 |
6 13 4 |
計 | 401 | ? | 83 | 48 | 33 | 2 | 23 |
平成13年8月27日(旧暦7月10日)沖縄県国頭村安田をゆく。天気は晴。今回の安田ゆきは突然の決定であった。旧暦7月10日最初の亥の日に安田でシヌグが行われるという。その日は今帰仁村の古宇利島でも海神祭(ウンジャミ)が行われる。国頭村の安波・安田・楚州・奥・辺戸ではシニグと海神祭が隔年交互に行われている。安田では今年(平成13年)がシヌグの当たり年。来年(平成14年)が海神祭の行われる年である。シニグと海神祭が隔年交互に行われている。私はそのことに興味と関心をひく。というのは、山原各地で行われているシニグや海神祭や大折目(ウプユミ)は、少なくとも三つの祭祀が一つにまとめられたのではないか?そんな仮説をもっているからである(すでに、神行事が融合していると説かれている)。
その痕跡が国頭村の安田や安波のシニグと海神祭に可視的な姿として今に伝えているにちがいないと考えている。それは近世以降の姿かもしれないが、古くは「琉球国の支配形態」にムラとして組み込まれる以前の姿が陸の孤島と言われた安田や安波の祭祀に延々と遺している可能性がありはしないか。つまり支配者と被支配者の関係以前のムラの人々と国ではなく、人々と自然との関わりが、祈りとして形に残っているのではないか。15世紀にはムラが琉球王国に組み込まれてしまうのであるが、祭祀の中に共同体の中で人として生活が始まった時の源初的な姿が引き継がれているのではないか。
また、安田のシニグに可視的な過去の姿として残しているのではないか。場所・所作・衣装・神人・供え物・唄などから人々の祈り、あるいは神々ヘの祈りとしてとらえていくことができれば考えている。安田のシニグの山や海に向かっての祈り・海や川での祓ぎ・旧家跡での火神・小枝でのお祓い・扮装することの意味など。
安田のシヌグを通して、人々が住むマクやマキヨと呼ばれる生活空間が形成され、それがムラとしてまとまった時、さらに国の支配権力が及ぶようになったとき、祭祀や人々の祈りの姿に、どうが現在に継承されてきたのか。さらに、安田のシヌグに今帰仁村古宇利島の海神祭と重ね合わせたときどうなるだろうか。あるいは来年(平成14年)に行われる海神祭はどうだろうか。
これまで古字利の海神祭と関わり、祭祀の調査や分析をしていく過程で、古宇利の海神祭の中に山・農耕・海の要素を見ることができた。結論めいたことを言えば山の神、農耕の神、そして海の神への所作があり、少なくとも山・農耕・海の三つの祭祀が一つにまとめられた、あるいはまとまっていった。それは国という仕組み、特に支配する側と支配される側、貢(ミカナイ・租税)を取る側と搾取される方の関係が祭祀に見えるのである。そのことをシニグや海神祭から解き明かしてみたい。
(平成13年9月1日シヌグの補足調査に臨んだ。雨のち曇であった。主な目的は
シヌグの日に参与観察ができなかったメーバ・ササの山、さらにシヌグの流れ
に沿って場所や所作などの確認と追体験にあった。なお、この調査には沖国
大の大学院生の協力がありました。感謝))
・.安田は三つのマク・マキョからなるムラか
安田は三つの集団(マクやマキョ)の集った集落ではないのか。そのことは今回見た安田のシヌグの山降りにその痕跡をみた思いがする。12時頃ムラの男性や参加者達が三々五々とササ・メーバ・ヤマナスの三つの山に分かれていく。本来それらの山が三つの集団の各々の御嶽であったとする。合併後もそれぞれの御嶽へ登り、自分たちの神々が山(御獄)から降臨してくるとの発想が根底に流れているのではないか。近世の中頃には安田が行政ムラとして存立しているのであるが、シニグの神降臨の場(三ケ所)に三つのマク・マキョ規模の集団の合併があったことを予測させる。ササ・メーバ・ヤマナスの山の麓にマク・マキョ規模の小さな集落があったと想定するだけでも、棚田を一望したときと同じような琴線が弾かれた思いにかられる。
しよりの御み事 首里(首里王府)
くにかみまきりの 国頭間切
あたのさとぬし[ところ] 安田の里主
この内に四十八つか[た]は この内四八束......
みかないのくち 貢
御ゆるしめされ候
一人おたの大や(こ)に 安田の大屋子
たまわり申[候] 給わり申し候
しよりよりあたの大や[こ]か方ヘまいる 首里より安田の大屋子
萬暦十五年二月十二日
この辞令書は萬暦15(1587)年に首里王府が安田の大屋子に発給したものである。首里王府が国頭間切の安田の地(後の村か)を支配していたことがわかる。首里王府を中心とした国家体制が確立した頃には国頭間切が成立し、その下にムラ(後の村)があり、人々は首里王府に租税を納める関係にあることが伺える。現在行われている安田のシヌグや海神祭は、首里王府が国頭間切の安田に支配権力が及ぶ以前の祭祀形態と、以後の祭祀や折りの源初的な形態を引き出す手がかりとなる史料と位置づけることができそうである。
『琉球国由来記』(1713年)の安田村の御獄はヨリアゲ森(神名、マウサテサクゝモイ御イベ)とある。現在御願原と呼ばれているところが、由来記でいうヨリアゲ森に相当する御獄なのか。共同売店の隣の森をヨリアゲムイと想定しているのもある(『沖縄の祭報一事例と課題』高坂薫編 「安田・安波のシヌグ・ウンジャミ」 317頁)。山登りする三つの山は御獄ではないし、村人達の認識もウタキではない。もう少し調査が必要である。いずれにしてもササは御願原の範囲に含まれる可能性は弱い。
『琉球国由来記』(1713年)でいうヨリアゲ森は集落に寄り添った森、あるいは海から押しあげらた砂地(兼久)の森に名づけられた御獄名に違いない。すれば旧公民館の道を挟んだ古木がはえた森をヨリアゲ森と想定してよさそうである。
ササが部落で古い家系を持つ人々
メーバはその次
ヤマナスは部落東方の新しい家柄の人々
メーバとヤマナスはアギ橋(安田橋)で合流する。そこでムラの女性達が神酒や飲み物などを持って出迎える。橋を渡り、しばらくして左側に入りトンチバルに向かう。ササから隣りてきた一団と合流し、そこから神アサギヘと進む。トンチバルと神アサギで円陣をなし木の枝を振ってお祓いをする。
▲安田のシニグの順路
2.安田の集落の展開
1713年の『琉球国由来記』の安田村は神アシアゲが一軒で、その当時すでに安田が一つの行政村として成立している。マクあるいはマキヨが合併後、安田ムラの中心となった集落は、ササ→神アサギ→集落とつながる軸線を見ることができる。神アサギ内の線香を置く石や線香を立てる方向はササに向いており、ササと神アサギを結ぶ軸線上に集落が発達している。周辺にニードーマやアサギンシーやナハンメーなどの旧家の跡があり、かつての集落の面影が今も残っている。「アサギを円心として、その近くが安田の発祥の地に当たり、明治の初期まで、安田の集落は、そこにかたまっていた」(『国頭村安田のシヌグ考』149頁参照)という。
神アサギは柱が13本あり、軒が低くつくられている。柱の数だけ神人がいるといわれている。神人は神アサギの中で柱を背にして座るが、その場所も決まっているし、神人が何かの都合で参加しない場合は、その柱を神人に見たてて、神酒をあげる仕草をする。