地域調査・研究(2017年1月)     トップへ  

問い合わせ     
 2016年12月(先月へ)                 
                                    
 国頭の間切とムラの歴史

 1956年度、1957年度の今帰仁村字玉城の公民館資料の2年間の資料目録に目を通してみる。15年の資料がある。目録のタイトルのみ掲げるが表向き見えない字の一年間の動きが見えてくる。タイトルのみ掲げるだけでも大事業である。中身について字誌で触れることは出来が、字の動きを数値的に見ることができる。個人情報に抵触する部分があり、タイトルのみ掲げることにする。(一通り目を通し必要な部分のみ場面場面で紹介)

 ・事業報告書/資金計画書
 ・1957年度事業計画書/販売事業/1956年度 収支豫定書
 ・今帰仁村信用協同組合 1956年度通常總会提出議案
 ・財産目録/貸借対照表 信協/損益計算書
 ・事業報告書 信協/事業計画書 信協/収支予定表 信協
 ・甘蔗夏植用苗購入者及確定数量/1956年 
 ・畜舎設置について/平面図
 ・1957年度 今帰仁区教育委員会予算書/才入予算、才出予算(3枚)
 ・1957年度 北山高等学校連合区教育委員会予算書案/教育予算案 歳入の部/歳出の部
 ・1956年 肥料購入証明書
 ・1956年度 村税各区別未納調/1956年度産業共進会 入賞記録
 ・区長相案について
 ・玉城区 1956年度固定資産税
 ・各区別生徒調査表(学事資料)19563月 今帰仁中学校/1955学年度 学事報告/1955学年度 学事報告(11班)
 ・各年度未納額調べ 56,4,30現在
 ・1956年度固定資産統3期納税成績表
 ・
大城善英 那覇在所 見取図
 ・1956
年度民有林野造林実行報告書提出について(公文)/造林事業実行書
 ・56年度教育税2期分
 ・1956
年立法院議員総選挙投票日について(公文)別紙
 ・1956年卒業式並び始業式について(公文)
 ・56年度 村民税2期分納税成績表
 ・大、中口募金 玉城區 新垣正秀
 ・1956年度 学令簿/地目別、年度別坪当料収入表/地目別年度別坪当賃貸料
 ・1945年度 坪当価格/1956年 補償問題調査について(公文)
 ・1956年 選挙関係防犯懇談会の開催について/選挙関係防犯懇談会資料
 ・1956年旧正月用と殺豚許可証/1956年度 固定資産税二期分納税成績表
 ・玉城婦人会 会則
 ・
7回秋季運動会寄附金の収支決算書56’
 ・56’
校長住宅建築会計報告書
 ・1955年度 後援会費歳入歳出決算書
 ・1956年度予算案 今帰仁中学校
 ・後援会特別会計収支決算書 今帰仁中学校 1955
 ・農業会計収支決算報告書 自19548月➝至19556
 ・1956年度 予算案 今帰仁小学校
 ・1955年度会計報告 今帰仁小学校
 ・1956年度 北山高等学校連合区教育委員会予算書
 ・1956
年度 教育予算書(歳入の部)/歳出の部
 ・今帰仁村々民税賦課算定基礎に関する規定
 ・戸籍に関する届出事件諸要事項
 ・出生届/養子縁組届/養子离縁届/婚姻届/隠居届/家督相続届/死亡届/分家届


2017年1月31日(火)

 石垣市川平にある仲間満慶山(なかま みつけいま)の墓を訪れる15世紀末の石垣シマの人物のようだ。「新城徳祐氏調査ノート」に「仲間満慶の遺品」の写真ある。1962年撮影である。その遺品がどうなっているか確認してみたい。またその頃のオヤケアカハチ、フルスト原遺跡などの関係。

 (工事中)


      ▲仲間満慶(山?)の遺品とある


2017年1月29日(日)

 これから石垣市へ。竹富町の島々をいく時間がないので、10年前に訪れた波照間島を振り返ることに。当時の記録を読みかえしてみる。

波照間島をゆく

 2007年10月17日から19日まで波照間島をゆく。沖縄県地域史協議会の研修会である。波照間島を中心としたテーマでの研修会である。17日は波照間農村集落センターで「波照間島の歴史と文化」と「波照間島の村落形成」の二本の講演がなされた。

 18日は島の約30カ所の場所の巡見であった。私は数個のテーマを持っての参加である。沖縄本島北部と歴史・文化の関わりが希薄な波照間島を見るのであるが、沖縄本島を含めて見えるキーワード探しでは、それぞれの地が独自性の歴史文化をつくっているのではないかとの視点でみていくことに。それと、沖縄本島との違いは16世紀に首里王府へ統治される以前の先島の歴史・文化が、今にどう伝えているか。そのようなことを思い描きながら島のあれこれを見せてもらった。


 山原、あるいは沖縄本島で見てきた御嶽(ウタキ)と集落との関係、あるいはグスクなどとは異なった説明を必要とした。そこで見える法則性が先島の島々や村、あるいは集落と御嶽(オン・ワー)との関係が島に住んできた人々が持っている本質的なものではないか。島を見る物差と先島域をみる物差、そして琉球国から見る物差しが必要であることに気づかされる。

  ・長田(ナーダ)御嶽は長田大主が祀られている。
  ・美底(ミスク)御嶽は獅子嘉殿が祀られている。

・オヤケアカハチの生誕地(歴史の評価で御嶽になるのだろうか?)
 ・嶽(ワー)と集落との関わり(集落は村でなく人家がある地域として捉えている)
 ・現在までの集落移動の経過(低地→段丘上→島の中央部へ)
 ・嶽(ワー)と御嶽(ウタキ)
  (住居跡がワーにしていく傾向がある。本島では火神をまつるが香炉を置きイビにしてある)
 ・嶽(ワー)と祭祀(神人の出自と旧家)と島全体の祭祀関係(行政村以前の集落形態がみえそう)
 ・スク(グスク)と集落(ワーを中心として集落を形成、故地のワーも遺す)
 ・下田原グスク(大規模)と先島文化(下田原グスクを拠点とした時代を想定)
 ・下田原グスクを中心とした時代(波照間島)→竹富島→石垣島(先島文化に与えた影響?)
 ・歴史的な人物を排出した島(オヤケアカハチ・長田大主・ミスクシシガドン・ウヤマシアガダナ・
  ゲートゥ・ホーラなど:伊平屋・伊是名島が排出した人物にまつわる歴史が彷彿)
 ・石垣の白保にある波照間嶽と移住した民(移住先で嶽をつくる習性を持った民)
 ・『琉球国由来記』(1713年)に波照間村とあり真徳利御嶽(マートゥーリワー)と白郎原御嶽
  (シサバルワー)と阿幸俣御嶽(アバティワー)が登場する。


 波照間島には天啓6年(1626)8月28日付の首里王府発給の辞令書(八重山間切の新本目差職補任辞令書)がある。その辞令書は『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県文化財調査報告書大18号)と『琉球文化の研究』(加藤三吾)付録の「八重山文化の探究」(河村只雄)に収録されている。ただし、『南方文化の探究』(講談社学術文庫)では辞令書の写真が外されている。

   首里の御ミ事             首里の御ミ事
   やへままきりの            八重山間切の
   あらぬとめさしハ           新本目差の目差は
   一人あらぬとのちくに        一人新本の筑登之に
   たまわり申候             給申候
  天啓六年八月二十八日        天啓六年八月二十八日

 辞令書の「あらぬと」は村名で、崇貞元年(1628)までに波照間村と平田村、そして「あらんと村」が統合されたようである。辞令書は統合される直前である。1628年頃の首里王府と最南端の島との統治関係がうかがえる。新本(村)の目差職に新本の筑登之を任命するというものである。首里王府は辞令書の発給で八重山の最南端の島まで統治している。

 
  
  ▲オヤケアカハチの生誕地             ▲長田大主と関わる嶽(ワー)

琉球国の最南端の波照間島の下田原城を見た時の第一印象は、八重山地域に文化があるとするなら、このグスクが拠点となっていた時代があったのではないかと。15~16世紀にかけて集落遺跡と位置づけられている。島の南東の標高25mほどの台地上の崖に沿って造られている。グスクが独立した形であるのではなく、周辺に石積みの屋敷囲いがいくとも連続してある。その中心の石囲いがグスクの中心部とみられる。50~100×180m規模の石囲いが残っているようである。

下田原グスクに立ってみた印象は、このグスクが栄えていたとみられる15~16世紀の頃、下田原グスクを拠点にして北側に散在する島々を統治していた時代があったのではないか。グスクからどのくらいの遺物が出土するかわからないが、規模と取り巻いている集落の後からいくらか想像が巡らしてみると面白い。竹富町の一島であるが、グスクの時代は波照間島の下田原グスクが統治の要になった時代を想定してみると興味深い。波照間島のグスクの位置する場所は、石垣島や西表島などの島々をつなぐ拠点になっていたのではないか。

 
  ▲ミシュク集落跡にあるミシュクケー(井戸)     ▲集落跡地にある石(イビ?)

  
  ▲アースクワーの拝殿とイベ          ▲ワー内の道筋(隣接して旧家がある)

 

    ▲下田原城遺跡入口               ▲下田原城遺跡の石積み

 

  ▲下田原城遺跡の石積み          ▲下田原城遺跡の石積み(通路跡?)

 
  ▲高登盛(コート盛)(火番盛)          ▲高登盛の上部の様子

 

  ▲波照間島でみた茅葺屋根の建物        ▲屋敷跡の火神(ワー?)と香炉


2017年1月27日(金)

 今帰仁村字玉城の資料に目を通している。戦後の土地測量図(小字図)と明治36年、それ以後の図から、地目の田や畑、山や原野、ウタキや沼や村屋などがあった場所の確認をしている。戦後すぐに行った各字の土地の位置、面積、境界、土地所有権の確認作業をした図である。土地測量を行った様子をまとめたことがある。測量作業の様子を浮かべながら玉城の戦後小字図(地籍図)から読み取っていく。(字誌のグラビア作成中)





戦後の土地測量(昭和22年)(「写真にみる今帰仁」に所収)

 沖縄戦で役場や各字の公民館の帳簿など書類のほとんどが消失してしまった。土地関係の公簿や公図なども同様である。そのため沖縄県諮詢会の監督のもとに、各字や村に字土地所有権委員会(10人)と村土地所所有権委員会(5人)が設置され、昭和21年8月から三ヶ年余りの歳月をかけて、各字の土地の位置・面積・筆界・土地所有権の確認・公証の作業を行った。

 今帰仁区(今の字今泊)の『議事録』(1947年8月12日常会)で土地調査の件に触れ「一筆三〇〇坪七円当、其の半額ヲ土地調査委員会の経費トシテ治メテ戴キ度ク委員会ノ方ヨリ御願、右提案決定(微集ハ調査デ行フ)八月十五日ヨリ」とあり、戦後の土地調査の字の対応の一端が伺える。「測量野帳」をみると、経営区字・林班・小班・年月日・審査委員を記入する欄があり、さらに測点番号・方位角・傾斜角(仰・俯)・斜距離・水平距離・標識・摘要の項目がある。

 写真は仲尾次の土地測量の補助委員(字土地所有権委員か)の方々である。場所は仲尾次のミンタマヤー(クムイ)の側のガジマルの前での撮影である。ミンタマヤーの池は灌漑用水や洗濯などに利用されていたが埋められ、当時の面影は消えてしまった。前列左から、国吉真栄・田場盛重・城間源栄・与那嶺吉松(役所吏員)などの姿が見える。後方左から稲福権平・新城三郎・田場盛善・屋嘉部景栄・渡名喜長栄・島袋定治の各字である。その時の測量技師は大見謝技師であった。

 測量の補助員をした渡名喜長栄氏は「道路側に大きなガジマルがあった。大見謝技師と一緒に場所の確認した。土地台帳と一筆限帳と地図はわしの区長時代に作った。測量する時に、検縄と羅針盤で方向、長い竿などで見通しをした。測量は屋敷や山などもしたので長らくかかった。わしらの写真の測量、それは確実ではないということで、測量を直して台帳をつくった」など四十六、七年前の様子を語って下さった。

 田場盛善氏は「これは昭和22年ですね。補助員は二人の指示によって縄を引っ張って、測量簿をつけて大見謝氏がずっと見て。補助員は字内の畑がわかるもんだから。それを一筆ごとに測量した。検縄を引っ張って竹の棒を立てて、与那嶺吉政さんと大見謝氏とが六分儀で見ながらやっていた。大見謝測量といって、後でこれはでたらめだと言ってましたがね。つじつまがあわんわけですよ。それからは私は役場に入って土地を担当したわけですよ。測量費を払わないというひともいて、私大分苦労しましたよ。一筆いくたといって測量賃がでよったですよ」などと当時を振り返って下さった。

 戦後の土地測量は、ある意味で戦前の地籍の復元であった。その作業が現在の地籍図と直接つながってくる。村図を作成するにあたり「村図作成要領」や地番の作成事務を円滑に進めるために「新地番作成要領」などが出されている。字で具体的にどのように測量し、所定の手続きをへて「土地所有権利証明書」が発行されていったのか、この写真は戦後の仲尾次の土地測量と関わった方々、そして当時の様子や土地所有権が認められるまでのことを語っていただく資料である。




2017年1月23日(月)

 昨日は庭の手入れ。昨年は手抜きしてきたので草ボウボウ。小さな庭とつきあっていると桜・ポロンポロン(方言名?)・パパイヤ・椿・ミニバラ・ハイビスカスなど息をひそめて生きている。ほってあった場所に何か植えようか。夏の夜になるとウルサイくらいに泣くバッタ(キリギリス?)。昨日やり残した作業にでもいくか。ホウライカガミでも植えてオウゴマダラの舞いでも眺めららボーとしてみるか。(私が小学生の頃、夏休みの宿題でオウゴマダラをつかまえていたが) 植物名や虫類や鳥類の名前はテーゲーです。
 
 

  

  

 戴いてきたホウライカガミは、三種の土に30本ばかりさしてみました(根付くのは?)。


2017年1月22日(日)

 今帰仁の地割について(2017年1月21日(土)調査記録)http--rekibun.jp-201701tyosa.html触れた。地割について、時々資料を目にするが、なかなか理解することができない。その理由としては、間切別でもなく、同間切においてもムラによって異なっている。「昭和60年頃、山原や今帰仁間切の地割について『じゃな誌』で整理している。30年もたつとすっかり忘れている(理解していなかったのであろう)。山原の各地の土地整理や地割について研究を深める必要がでてきたので、その時に整理したことを、まずはなぞってみる」とした。その後、修復、それを使って「平敷村略図」、「平敷村字図」の紹介をしてきた。修復前の写真である(1989年3月6日)。その頃から資料が出てきてから、資料の評価、分析、現場を確認するという調査・研究スタイルを踏査し続けている。「平敷村略図」から明治36年に確定した小字について、砂糖消費税の目簿の番地が世帯主の住所であることなど、現場との関わりで述べてきた。それが足が地についた、あるいは土臭さが伝わる資料紹介でありたいし、現場に足を運び体にしみ込ませてきた。(今帰仁村歴史文化センター蔵)
 
 

平敷と崎山の前田原一帯(2000年12月)メモ(「なきじん研究」―写真にみる今帰仁―収録)

 今帰仁村の今泊・与那嶺・崎山・平敷・謝名・仲宗根・湧川の字に「前田原」と呼ばれる小字がある。名の示す通り、水田のあった場所に付けられた地名である。昭和30年代まであった今帰仁村内の水田跡は、前田原や安田原、掟田原などの小字名にその名残を留めている。

 上の写真は昭和22年から24年にかけて、崎山のハーラマイアジマー(川回辻)付近から山手の方に向かって崎山と平敷の前田原一帯を撮影したものである(Okinawa lsle of Smiles,William E.Jenkins)。

 後方の山は、一番右手の山がハサマ山(標高約252メートル、崎山地番)さらに左側が乙羽岳(標高約275メートル)である。左右に走る直線道路がスクミチ(現在の国道五◯五号)で、中央部を斜めにいくのがジニンサガーラである。台風や大雨の時に氾濫を起こすことがあった。

 ジニンサガーラを挟んで手前が崎山の前田原で、向こう側が平敷の前田原である。因みに国道の向こう側は、平敷の掟田原。平敷掟を勤めた間接役人の役地があったことに因んだ地名であろう。

 ジニンサガーラの両側に広がる水田は水が張られ、田植えはこれからだろうか。土地改良が、まだなされておらず、戦前からの曲がった畦道は不便ではあるが風情がある。

 下の航空写真は、平成3年の崎山・平敷の前田原一帯である。昭和48年に平敷土地改良事業が着手され、水田から畑地に切り替わり、現在に至る。中央部を「~」字形に流れているのがジニンサガーラである。川の水をモーターで汲み上げ、現在、キク畑、ビニールハウス(ニガウリ、キュウリなど)、緑化木、砂糖キビなどの潅漑用水として利用されている。国道沿いにガソリンスタンドや民家ができた。

 戦後、今帰仁村の土地利用が大きく変わった要因の一つに昭和30年代後半から40年代にかけて、稲作が消えたことがある。水田跡の水はけのいい土地は畑地に切り替わったが、湿地帯はそのまま放置された。昭和40年代になると土地改良事業が進められ、一筆一筆の形が直線的に区画された。土地改良の目的は小規模農地が雑然としている、一筆ごとの面積が少ない、低湿地帯の土地改良をし、生産高を向上させることにあった。

 


     ▲同写真のカラーカラー(公文書館提供)

2017年1月20日(金)

 『琉球共産集落の研究』(田村 浩著)(昭和2年)に国頭村浜、奥間、与那の三部落に就いての調査結果をだしている。その数字からムラの形を読み取ってきた。移住してきた人達が、ムラでどんな役割を果たしているか。例えば首里から移住してきた一門が、そのムラの中心となると、祭祀は首里の祭祀へ変わっていく。地元が一門がムラのリーダーならば、本来のムラの祭祀の形が継承される。(工事中)
  

 部落名  戸数  門中  移住戸数 其内那覇ヨ  首里ヨリ  其他ヨリ 移住門中 移住門中 

奥間
与那 
 117
160
124
 19

17
 20
48
15
 19
14
15

33
0
 1
1
0
 6
13
4
計   401  ?  83  48  33  2  23

 そればかりでなく、さらにムラの門中がどこからの移住なのか。

 佐手
 与那
 伊地
 辺野喜
 伊地
 各アザ

 それだけではなく、日々の生活の関わりなどの総体がムラを特徴づけている。

・祝行事の在り方及び決定事項
 1、出産祝
   出産後男子は絶対に訪問しないこと
 2、生年祝
   ・61歳以上の生年祝いは部落合同で公民館で行う
   ・お祝いにあたる方は部落から百円以内の記念品を贈呈する
   ・各自弁当を持参し酒は祝いにあたる方達の寄贈によって充てる
   ・家庭・部落と二重にならないように宴会後血族関係の者意外は祝い家は絶対に訪問しない
   ・記念撮影をして一枚ずつ送る
   ・祝者の合議によって経費節減ができたという意味で部落はの記念として三百円内至五百円の
    寄付金がある
  3、法事
   ・忌焼香及び年忌焼香は三親等以内の血族関係並びに前後左右の隣近所の方達でけで行う。

  ・香典を持たすに焼香し、前にお供え物を作る材料をあげる。香典をあげないのは無縁故者がいて無駄を
    防ぐ方法である。
   ・お供え物ハ米二升、豆一斤、肉二斤、以内とするも血縁者の合議とその数によって無駄のないように
    もっと増す
   ・従来の焼香は□にもすると生きた人々の交際のためのようなものであり勝であるので婦人会や部落で
    はそんな表面的上の交際とか体裁はお互いに自粛すべきであるということから前のような決議により
    実行されてきているのである。
 

2017年1月18日(水)

 国頭村のムラを見ていく場合、マク、カー、神アサギ、ウタキ、ムラの歴史などをキーワードにしてきた。安田や安波、比地の海神祭やシニグについては触れたことがあるが、国頭村内のシニグについて、比較して見る必要がありそうだ。シニグ(凌ぐ)の本質部分が見えてくる。祭祀がムラの歴史の変わらない部分を継承していることに気づかされる。(今年の夏はシニグ・海神祭の調査でも? ●は調査したことがある)

 国頭村のムラでのシヌグ
 ●比地のウンガミ(奥間ノロ管轄のアザ)(浜?、半地、奥間、桃原、鏡地の神人が参加)
 ●辺土名のシヌグ
 ●与那のウンジャミ(海神祭のナガレ部分にシニグ(凌ぐ)が見られる)
   与那ノロ管轄のムラが参加する)
 ・伊地・宇良の祭祀
 ・辺野喜・宇嘉のウンガミ・シヌグ
 ・辺戸のウンジャミ(シニグ部分が含まれている)(ウンジャミとシニグは隔年でおこなう。)
   旧暦7月20日後の亥の日に行われる
 ・奥のシヌグ・ウンダミ
 ●安田のシヌグ(海神祭と交互に行われるがどちらにもシヌグ部分が見られる)
 ●安波のシヌグ


2017年1月16日(月)

 昨日、国頭村の字(アザ)のマクを意識しながらの踏査である。国頭村にマク呼称があるのは浜、比地、奥間、辺土名、宇良、与那、謝敷(2)、辺野喜、宇嘉、辺戸、奥、楚洲、安田、安波である。マクについての手がかりは、比地の海神祭を拝見したことからである。その後、三、四回の講演やムラ・シマ講座、学芸員実習をしたことが思い出される。マクやマキを考える、ムラの歴史を深めていく原点になった地である。そのようなことを思い浮かべながらの踏査である。

 マクが形として残っているのはないか。奥間の公民館に掲げられている「万」はカネマンマク、同アザにある「金万川」の名称もマク名からのものとみられる。大宜味村字根路銘の字賞は「金」や海神祭のときに登場するサバニも〇金であり、根路銘のマク名の「ハニマク」からの名称である。国頭村宇良の神アサギ後の神殿前に建てられている石碑に「すうとくの宮」とあり、宇良のマク名はスウトクマクである。

 

▲大宜味村根路銘の公民館に「〇金」とある    ▲海神祭につかうサバニに「〇金」
 
  ▲奥間の東りの「金万川」              ▲奥間公民館の「万」


▲宇良の神アサギ後の神殿に「すうとくの宮」とある

【国頭村比地村の御嶽】(小玉森)

 国頭村比地の小玉森(ウタキ)は興味深くみてきた。アサギムイともいい、『琉球国由来記』の小玉森は「クダの杜(ウタキ)」のことではないか。クダはマクやマキヨ同様、小規模の集落のこと。マは間で広場や空間のこと。するとクダマ(小玉)杜はクダの広場の杜、つまりウタキのことだと解することができる。まさに集落の発生と関わるウタキである。


 
これまで調査したウンジャミや神アサギもあるが、ウンジャミのとき、それぞれの一門が赤木や福木の大木の下に香炉を置き、一族がその前に集まり線香をたてる。その風景は比地村は複数の集団からなる村ではないか。マク・マキヨクラスの集団が一つの村を形成し、神人はそれぞれの一族から出してきた姿ではないか。

 神アサギの中に座っている神人達は、一門からだされた供え物がお土産として持ち帰る。それは神人達の報酬である。その姿は、かつての神人たちの報酬の受け取りの場面であったにちがいない。一族一門が繁盛すれば、報酬が多くなる計算である。祈りのときの唱えに「村(ムラ)の繁盛」があるのは神人の報酬につながっていた。
 
 森全体がウタキでウタキの中に一門一族のイビがあり、神アサギもある。周りに旧家とみられる神屋が何軒かある。ウタキの中に家々があり、斜面にもシマンポーヤー・根神屋跡がある。比地の集落ははウタキの内部から斜面にかけてあったのが、次第に麓に移動していったとみられる。集落とウタキが密接に結びついていたことがわかる。集落の発生と村の成立で、神人は一門から出していく形で継承されてきている。
 

.
  ▲国頭村比地の小玉森(ウタキ)    ▲ウタキ内にある神アサギ(平成15年)

.
 ▲それぞれのイビに一門が集まる   ▲福木や赤木の大木の下に香炉が数カ所にある

2017年1月15日(日)

 平成13年(2001)に国頭村安田は三つのマクからなると説いたことがある。今日は以下の15のマクを踏査してみるか。天気よし

【国頭村のマク】『国頭村史』(宮城栄昌著)に整理されている。そこには集落の発祥と関わるカーも。
 ・ユアゲマク(浜)                 ゆあげまく               古島加名良原の立初めの穴川
 ・マツガネマク(比地)                まつがねまく              アサギの背後のヨナンミ川 
 ・カネマンマク(奥間)                かねまんまく              東り(ノロ家)の前の金万御川
 ・イチフクノマク(辺土名)             いちぷくのまく             ノロ殿内の横のカー(井)
 ・スウトクマク(宇良)               すうとくまく               宇良川川底内の湧水のところ 
 ・         (伊地)              あしみなまく               旧神アサギ付近の大川
 ・チャンチャンノユアゲモリノマク(与那)   ちゃんちゃんのゆあげもりのまく  村落後方の後川(シーリガー)
 ・チイルサカルマク(謝敷)           ちいるさかるまく            根神屋背後の神川、上の川
 ・コウボウマク(謝敷)              こうぼうまく               佐手の上の湧水
 ・チャンチャンノクイジマク(辺野喜)     ちゃんちゃんのくいじまく       根神屋背後のシーリガー
 ・ニシムイニダケノマク(宇嘉)         にしむいにしだけのまく        北嶽南の天川
 ・アシモト(アシモリ)ノマク(辺戸)       あしもと(あしもり)のまく       アフリ嶽下方の大川
 ・ヌアグニウウブシルウジョウノ前マク(奥) みやげもいいびしる御門の前のまく 前の坂の湧水
 ・オウジマク(楚洲)               おうじまく 
 ・アダカモリマク(安田)             あだかもりまく               アサギ後の穴川
 ・オウジマク(安波)                おうじまく                  ノロ殿内の後方の清水

 平成13年8月27日(旧暦7月10日)沖縄県国頭村安田をゆく。天気は晴。今回の安田ゆきは突然の決定であった。旧暦7月10日最初の亥の日に安田でシヌグが行われるという。その日は今帰仁村の古宇利島でも海神祭(ウンジャミ)が行われる。国頭村の安波・安田・楚州・奥・辺戸ではシニグと海神祭が隔年交互に行われている。安田では今年(平成13年)がシヌグの当たり年。来年(平成14年)が海神祭の行われる年である。シニグと海神祭が隔年交互に行われている。私はそのことに興味と関心をひく。というのは、山原各地で行われているシニグや海神祭や大折目(ウプユミ)は、少なくとも三つの祭祀が一つにまとめられたのではないか?そんな仮説をもっているからである(すでに、神行事が融合していると説かれている)。

 その痕跡が国頭村の安田や安波のシニグと海神祭に可視的な姿として今に伝えているにちがいないと考えている。それは近世以降の姿かもしれないが、古くは「琉球国の支配形態」にムラとして組み込まれる以前の姿が陸の孤島と言われた安田や安波の祭祀に延々と遺している可能性がありはしないか。つまり支配者と被支配者の関係以前のムラの人々と国ではなく、人々と自然との関わりが、祈りとして形に残っているのではないか。15世紀にはムラが琉球王国に組み込まれてしまうのであるが、祭祀の中に共同体の中で人として生活が始まった時の源初的な姿が引き継がれているのではないか。
 また、安田のシニグに可視的な過去の姿として残しているのではないか。場所・所作・衣装・神人・供え物・唄などから人々の祈り、あるいは神々ヘの祈りとしてとらえていくことができれば考えている。安田のシニグの山や海に向かっての祈り・海や川での祓ぎ・旧家跡での火神・小枝でのお祓い・扮装することの意味など。

 安田のシヌグを通して、人々が住むマクやマキヨと呼ばれる生活空間が形成され、それがムラとしてまとまった時、さらに国の支配権力が及ぶようになったとき、祭祀や人々の祈りの姿に、どうが現在に継承されてきたのか。さらに、安田のシヌグに今帰仁村古宇利島の海神祭と重ね合わせたときどうなるだろうか。あるいは来年(平成14年)に行われる海神祭はどうだろうか。

 これまで古字利の海神祭と関わり、祭祀の調査や分析をしていく過程で、古宇利の海神祭の中に山・農耕・海の要素を見ることができた。結論めいたことを言えば山の神、農耕の神、そして海の神への所作があり、少なくとも山・農耕・海の三つの祭祀が一つにまとめられた、あるいはまとまっていった。それは国という仕組み、特に支配する側と支配される側、貢(ミカナイ・租税)を取る側と搾取される方の関係が祭祀に見えるのである。そのことをシニグや海神祭から解き明かしてみたい。

  (平成13年9月1日シヌグの補足調査に臨んだ。雨のち曇であった。主な目的は
   シヌグの日に参与観察ができなかったメーバ・ササの山、さらにシヌグの流れ
   に沿って場所や所作などの確認と追体験にあった。なお、この調査には沖国
   大の大学院生の協力がありました。感謝))

 
         ▲安田のシニグ(神アサギの中での祈りと神アサギ)

.安田は三つのマク・マキョからなるムラか

 安田は三つの集団(マクやマキョ)の集った集落ではないのか。そのことは今回見た安田のシヌグの山降りにその痕跡をみた思いがする。12時頃ムラの男性や参加者達が三々五々とササ・メーバ・ヤマナスの三つの山に分かれていく。本来それらの山が三つの集団の各々の御嶽であったとする。合併後もそれぞれの御嶽へ登り、自分たちの神々が山(御獄)から降臨してくるとの発想が根底に流れているのではないか。近世の中頃には安田が行政ムラとして存立しているのであるが、シニグの神降臨の場(三ケ所)に三つのマク・マキョ規模の集団の合併があったことを予測させる。ササ・メーバ・ヤマナスの山の麓にマク・マキョ規模の小さな集落があったと想定するだけでも、棚田を一望したときと同じような琴線が弾かれた思いにかられる。

           しよりの御み事                         首里(首里王府)
            
くにかみまきりの                     国頭間切

              あたのさとぬし[ところ]               安田の里主
              この内に四十八つか[た]は         この内四八束......
              みかないのくち                            貢
              御ゆるしめされ候 
             
一人おたの大や(こ)に                   安田の大屋子

              たまわり申[候]               給わり申し候
          しよりよりあたの大や[こ]か方ヘまいる   首里より安田の大屋子
             萬暦十五年二月十二日

   
この辞令書は萬暦15(1587)年に首里王府が安田の大屋子に発給したものである。首里王府が国頭間切の安田の地(後の村か)を支配していたことがわかる。首里王府を中心とした国家体制が確立した頃には国頭間切が成立し、その下にムラ(後の村)があり、人々は首里王府に租税を納める関係にあることが伺える。現在行われている安田のシヌグや海神祭は、首里王府が国頭間切の安田に支配権力が及ぶ以前の祭祀形態と、以後の祭祀や折りの源初的な形態を引き出す手がかりとなる史料と位置づけることができそうである。

                
   
『琉球国由来記』(1713年)の安田村の御獄はヨリアゲ森(神名、マウサテサクゝモイ御イベ)とある。現在御願原と呼ばれているところが、由来記でいうヨリアゲ森に相当する御獄なのか。共同売店の隣の森をヨリアゲムイと想定しているのもある(『沖縄の祭報一事例と課題』高坂薫編  「安田安波のシヌグ・ウンジャミ」 317頁)。山登りする三つの山は御獄ではないし、村人達の認識もウタキではない。もう少し調査が必要である。いずれにしてもササは御願原の範囲に含まれる可能性は弱い。

    『琉球国由来記』(1713年)でいうヨリアゲ森は集落に寄り添った森、あるいは海から押しあげらた砂地(兼久)の森に名づけられた御獄名に違いない。すれば旧公民館の道を挟んだ古木がはえた森をヨリアゲ森と想定してよさそうである。

    ササが部落で古い家系を持つ人々
    メーバはその次 
    ヤマナスは部落東方の新しい家柄の人々

    メーバとヤマナスはアギ橋(安田橋)で合流する。そこでムラの女性達が神酒や飲み物などを持って出迎える。橋を渡り、しばらくして左側に入りトンチバルに向かう。ササから隣りてきた一団と合流し、そこから神アサギヘと進む。トンチバルと神アサギで円陣をなし木の枝を振ってお祓いをする。


      ▲安田のシニグの順路


2.安田の集落の展開
 1713年の『琉球国由来記』の安田村は神アシアゲが一軒で、その当時すでに安田が一つの行政村として成立している。マクあるいはマキヨが合併後、安田ムラの中心となった集落は、ササ→神アサギ→集落とつながる軸線を見ることができる。神アサギ内の線香を置く石や線香を立てる方向はササに向いており、ササと神アサギを結ぶ軸線上に集落が発達している。周辺にニードーマやアサギンシーやナハンメーなどの旧家の跡があり、かつての集落の面影が今も残っている。「アサギを円心として、その近くが安田の発祥の地に当たり、明治の初期まで、安田の集落は、そこにかたまっていた」(『国頭村安田のシヌグ考』149頁参照)という。
 神アサギは柱が13本あり、軒が低くつくられている。柱の数だけ神人がいるといわれている。神人は神アサギの中で柱を背にして座るが、その場所も決まっているし、神人が何かの都合で参加しない場合は、その柱を神人に見たてて、神酒をあげる仕草をする。


2017年1月13日(金)

 大宜味村の津波から国頭村の与那まで。各字の様子を紹介する時間がないが、一気に踏査した湧泉と一部川の紹介。湧泉は集落の生活の拠点となる場所。そこは大宜味村から国頭村にかけて残る「・・・マク(マキヨ)」の発祥の地とみている。国頭村与那で公民館でお茶を進められ踏査は与那のタマガーラ(勾玉) を洗うという御願ガーラまで。

【大宜味村津波】
  ・ヌルガー ・ウイバルガー
【宮城島】
  ・セメントガー ・ナカガー ・ウシガー
【白浜】
  ・ムラガー ・クラサガー ・ミーイトゥガー
【大保】(大保川、湧泉確認できず)

【田港】
 ・ハンジャガー ・ウイヌハー ・メーダガー ・ハーナカジョウのハー 
 
(以下工事中)
 
 与那の与那川に御願ガーラがある。そこは正月にタマガーラ(勾玉)を洗い清めるという。与那ノロドゥンチ内でウガンをしていたが、ムラ祭祀の日ではないので個人的なものであろう。

 


 


 

  

  
                           ▲与那の御願ガーラ             ▲与那川(流れ川)



2017年1月11日(水)

 月曜日湧泉(カー)巡りをしてきた。カー巡りの目的は正月の若水が行われているかどうかの確認である。正月の若水汲みの行事がどうなっているか。
 下の画像は今帰仁村謝名のシカーである。今は若水汲みで賑わうことはないが、昭和30年代まで旧正月の朝早くから水汲みがなされていた。旧暦5月4日には一門揃ってのハーウガミがなされる。新正前のシカームラ人たちによって草刈りがなされ、訪れる方々をむかえいれている。


  

 

 1月9日に、大宜味村津波、宮城島、白浜、田港、屋古、塩屋、根路銘、大宜味、飛び越えて国頭村の浜、奥間、辺土名の上ノ島まで。(詳細はいずれ) カー巡りはカーを手がかりにムラの形(内側まで)をみていくことにある。


2017年1月9日(月)

 2002年「湧泉(カー)」散歩とし、今帰仁村から名護市、本部町などの湧泉巡りを連載していたことがあります。出勤途中、あるいは休日に回っていたことが思い出されます。いつの間にか別のテーマを記録することに移っています。かつては旧正月前になると「若水くみ」と行事があったようです。現在どうなっているか、訪ねてみることに。それを見ると、画像の一枚一枚に思いやムラの歴史を掘り起こし記憶として閉じ込めています。

湧泉(カー)散歩(http--rekibun.jp-kasanpo1.html参照

 
一例のみここで紹介。

18.名護市呉我のビーガーとハミガー(2002.10.20 
)晴

 旧羽地村回りのコースを取っての出勤である。いつもより30分ほど早い出勤時刻なので数ヵ所は回れるのではと、ちょっと欲張ってみた。我部祖河のカーを見つけることができず、呉我の方へと向かった(矢張り欲張りはいけません)。

 呉我の集落の東側(ウプシマ)にビーガーとハミガーが並んである。向かって左側がビーガー、右側がハミガーである。ビーガーは半円形をなし、円形部分は石積み、前の方はコンクリートになっている。湧き出す水量は少ないようだ。、ハミガーはウプシマ集落の西側から移されてきたようで、水の利用というより祭祀の場になっている。
 その前方にビーダーがありハミダー(神田)ともいう。今は放置されたままになっているが、以前、稲が植えられていた)。ハミガーには二つの凹石があり、神が神を洗う器に使ったという。また旧地の呉我山から持ってきたと伝えられている。
 呉我村は1736年に今帰仁間切(現在の今帰仁村呉我山)から移動してきた村である。

..
   ▲呉我のビーガー(奥)とハミガー          ▲呉我のビーガー

....
   ▲ハミガーの水溜め用の凹石(二つあり)            ▲カー前方にある神田の跡


2017年1月5日(木)

 今帰仁村字玉城の地図を並べ読み込みをしてみる。①の「国頭郡今帰仁間切玉城村全図」と②の「国頭郡今帰仁村字玉城全図」に大正9年に分離した呉我山に西アザナ原がこの図に入っていることから分離する前であることがわかる。「琉球国由来記」(1713年)の岸本村のオホヰガワ嶽が大井川の右岸にあったことが①②図と寒水原之図からもわかる(現在なし)。

 「球陽」尚泰15年条(1862年)に、玉城・岸本・寒水の三村の移動についてある。「琉球国由来記」(1713年)と①~⑦の図に村移動の痕跡が見られる。(詳細については字誌で)

 地図を現場に合わせてみていくと、戦前までの村(ムラ)の形や土地利用などが読み取ることができ、実態を踏まえた議論ができ興味がつきない。

   ①国頭郡今帰仁間切玉城村全図(6000の1)
   ②国頭郡今帰仁村字玉城全図(60001の1)
   ③国頭郡今帰仁間切玉城村全図(6000の1)の集落部分図
   ④今帰仁村字玉城全図(12000の1)
   ⑤今帰仁村字玉城外間原之図(1200の1)
   ⑥今帰仁村字玉城ソーリ川原之図(1200の1)
   ⑦今帰仁村字玉城の地形図


  
 ①今帰仁間切玉城村全図(明治36年②今帰仁村字玉城全図(明治41年)      ③明治36年頃の集落部分

  
   ④今帰仁村玉城の小字図        ⑤今帰仁村玉城外間原之図    ⑥今帰仁村字玉城ソーリ川原之図 


                  ⑦現在の小字図(地形図)

2017年1月4日(水)

 
玉城の小字について整理してみる。昭和60年頃から調査し、平成2年度に「なきじん研究 1」で報告したものである。字誌掲載のため書き改めている。すっかり記憶から消えいる「たなはら御嶽」は「旧玉城村の田の神であるムントゥガミが、各所の拝所や苗代田を拝み、その報告をする」とある。「ユ うち原」の印部石(当時はパル石と呼んでいた)や「国頭郡今帰仁間切玉城村全図」や「国頭郡今帰仁村字玉城全図」などに目を通している。そのような資料を手がかりに小字について線引きした記憶がある。小字の線引きした図がなく、現場踏査をしての調査であった。(20数年前の調査での作図なので見直しが必要)

【玉城の小字】

 玉城には8つの小字がある。西アザナ原は大正9年に呉我山が分字し、その時西アザナ原は一部呉我山の小字となる。寒水原とソウリ川原が寒水村、岸本原とウチ原が岸本村、ウチ原と外間原と古島原、東アザナ原、西アザナ原が玉城村の小字である。合併以前のそれぞれの村の形を知る手がかりとなる。

 ①寒水原 ②ソウリ川原 ③岸本原 ④ウチ原 ⑤外間原 ⑥古島原 ⑦東アザナ原 ⑧西アザナ原




2017年1月3日(火)

【玉城字誌原稿用】
(工事中)

「玉城字誌」の原稿下書きを進めているが、これまでの調査原稿を整理中。

 今帰仁村字玉城は明治36年に玉城・岸本・寒水の三つの村が合併した字である。明治17年の「沖縄島諸祭神祝女類別表」から三村の拝所を拾ってみる。玉城村に本ノロクモイ一人、岸本村に本ノロクモイ一人がいる。

【琉球国由来記】(1713年)
 ・玉城村・・・・コモケナ嶽(玉城巫崇所)・玉城巫火神・神アシアゲ
 ・岸本村・・・・オホイガワ嶽(岸本巫崇所)・岸本巫火神・神アシアゲ
 ・寒水村・・・・神アシアゲ(岸本巫崇所)


今帰仁村玉城の拝所
 玉城村・・・①字ノロクモイ火神 ②内神火神 ③島の大屋子 ④神アシャゲ ⑤百々喜名嶽
 岸本村・・・①字ノロクモイ火神 ②神アシャゲ火神 ③島ノ大屋子火神
 寒水村・・・①字根火ノ神 ②神アシヤゲ ③ウホンニヤ嶽



・今帰仁村玉城のスムチナ御嶽(複数村のウタキ:玉城・謝名・平敷・仲宗根)
・スムチナ御嶽のイビの香炉

【スムチナ御嶽をゆく】(スムチナウタキ)

 今帰仁村の中部地域(玉城・謝名・平敷・仲宗根)のタキヌウガンが行われるスムチナウタキを訪ねてみた。旧暦4月15日に行われる祭祀である。玉城・謝名・平敷・仲宗根の四カ字(アザ)は玉城ノロの管轄である。玉城ノロは現在不在である。
 タキヌウガンが行われるスムチナウタキの頂上部は標高約143mある。玉城地番で、乙羽岳に連なる連山の東側にあり、四カ字が見下ろせる位置にある。

 タキヌウガンが近づいていることもあり、ウタキは草木が刈られていた。ここでは旧4月14日がアムシバレー(畦払い)で15日がタキヌウガンである。その日は四カ字の人たちがスムチナウタキのウカマ(広場)に集まり、神人が頂上部のイビまで行って御願をする。ウカマに集まった四カ字の方々は字別、男女別に座る。その場所はきまっている。

 ウタキのイビには三基の香炉が置かれている。「奉寄進 道光二拾年」と「奉寄進 同治九年 大城にや 松本にや」と彫られていたが、今では磨耗して判読できない。同治九年(1870)に中城王子は尚氏今帰仁王子朝敷を薩州へ派遣している。大城にやと松本にやが今帰仁王子に随行していったときに香炉を寄進したのかもしれない。

.
      ▲スムチナウタキの麓に玉城・謝名・平敷・仲宗根の字がある。

.
    ▲スムチナウタキのイビ(頂上部                 ▲イビの前の香炉三基

.
  ▲イビを囲むように藁縄がめぐらされている。          ▲四カ字の人たちが集まる所

2009年3月12日(木)
(調査メモ)

スムチナウタキにある香炉である。現在二基しかないが、1989年に撮影した写真を見ると、三基あり文字が判読できる状態にある。ここ20年で雨風にさらされ文字がほとんど判読不能になっている。二つの香炉については、どこかで紹介したが、写真が出てきたので紹介しておきましょう。それと、謝名のウタキ(グシクンシリー:謝名神社のイベ)にある香炉に「松本にや」とあり、スムチナウタキの同治九年(1870年)の香炉の松本にや(謝名村出身)と同一人物とみられる。

【スムチナウタキのイベの香炉】

  ・道光二拾年 上国之時 奉寄進 (1840年)
  ・同治九年 奉寄進 大城にや 松本にや (1870年)




【謝名のウタキのイベの香炉】

 ・同治午九年十月 奉寄進 松本仁屋 ((1870年)

 謝名御嶽(ウガミやグシクともいう)のイベまでいく。昭和9年に謝名神社を建立し、拝所を統合したようである。お宮の後方の高い所にウタキのイビがある。そこに香炉が置かれている。それに「奉寄進 同治九年午九月 松本仁屋」(1870年)とある。スムチナ御嶽に「奉寄進 同治九年十月 松本にや 大城にや」と彫られた香炉があり、松本仁屋(にや)は謝名村出身の同一人物とみられる。

 同治九年(1870)は向氏今帰仁王子朝敷が中城王子に付いて法司官に命じられ、六月二十二日に薩州に到着し、十月十一日に帰国している。二つの香炉は今帰仁王子朝敷の薩州上りと関係しているのであろう。松本仁屋は御殿(ウドゥン)奉公、あるいは薩州上りに随行していった人物か。香炉の銘は「同治九年午九月 奉寄進 松本仁屋」と読める。


   ▲謝名ウタキのイベの香炉(1870年)

2017年1月2日(月)

 今日も天気良好。1666年まで今帰仁間切の領地であった、伊野波(本部)間切のムラへ。名護市の安和から門川(ジョウガー)越を試みる。名護から本部への道筋の一つであった。『沖縄県国頭郡志』(大正8年発行)に、以下のようにある。

  「名護、本部間の通路に三線あり。一は郡道にして古山入端及び伊豆味を経て渡久地に達するもの(四里十九町)、
   二は名護湾沿い屋部安和等西方諸村落を過ぎ険坂としてとして名高き門川(ジョウガー:嫦娥)坂を越えて至る(三
   里半)、三は安和より右廻して部間原及び崎本部等の部落を経て到達するもの(四里半)是なり」

 門川越は注意が必要。雨後は途中から石ころ道なのでスベリや両サイドはススキなどで車のドアは傷だらけ。道も迷いやすい。引き返すことたびたびでした。どうにか門川越で本部町辺名地にでる。辺名地は標高30mほどであるが、高地にある集落。そこから海岸沿いに発達したのが谷茶(行政区は辺名地)である。

 そこから堅健へ。堅健区二班集会所付近は1738年に瀬底島に移動した石嘉波の故地である。そこに宇座茂神社があり、昭和51年改築とある。移動先の瀬底(石嘉波)に石嘉波村御川が故地に向けて造られている(1968年)。

 
▲門川(ジョウガー)への途中、これから先が大変!   ▲辺名地の黄金森?の金満嶽と土帝君

  
▲堅健のウタキ付近から瀬底(石嘉波方面)     ▲石嘉波村の故地              ▲宇座茂神        


2017年1月1日(日)

    新年度スタート


 元旦は天気がよく、孫二人を誘って乙羽山へ行く。乙羽山からの風景は博物館づくりで、いろいろな発想をいただいた場所である。そこから西に今帰仁グスク、東に運天港。今帰仁村の東西に歴史の二本の柱を打ち立てたのは、そこからの風景である。さらに見渡せる範囲に村内の19のムラ・シマが広がり9600人の人々が生活し、今帰仁村を支えている。その全体が生きた博物館であるとの発想につながっていく。平成元年には「今帰仁のムラ・シマ」の研究がスタートしている(なきじん研究1に収録)。平成3年には「ムラ・シマ講座」がスタート。将来の狙いとして「今帰仁の地域史研究」の構想を公にし、「沖縄文化協会賞」(金城朝永賞)をいただき、そのはずみが今につづいている。

 
   ▲正面に仲宗根のマチ、古宇利島                      ▲羽地内海

 
      ▲向こうに大宜味、古宇利島、学校、今帰仁グスクなどなど