2016年5月
沖縄の地域調査研究(もくじへ)
2016年5月31日(火)
『今帰仁村諸志の字誌』(550頁)が本日納品される。「やんばる学研究会」(120頁)の会誌の入校(二本の原稿は二、三日中に)。束の間の休憩。
2016年5月26日(木)
これまでの調査記録(メモ・画像・人との出会い)が講演や報告での原稿である。現場調査や人との出会いや史料の確認などは現在進行中である。昨日の大宜味村田嘉里での講演で、そのことを実感させられた。開催前、30分ほど、画像を見ながら地元の方からレクチャーをうけ、特に場所の確認。大宜味村は研究者の報告や出版された書物が絶対的だとされる、あるいは批判する雰囲気にある。90分余の時間、真剣なまなざしと、あたらしい発見、足元にある宝物に気付かれている。話している方も、それほど嬉しいものはないです。
終ってからの質問に応対しながら、いくつものことを学ぶことができた。大きなねらいは、学問の分野の深化もあるが、歴史の史実のみでなく、30ほどの項目をあげたが、それらを通してムラがどうなのかを見きわめていくことを目的とした方が多くの方々の参加が得られるとの実感。大宜味村史の執筆、編集過程で職員と質問したり、されたり、田嘉里からの写真や資料の提供があり、その過程で「まとめ」た内容でした。感謝です!
2016年5月24日(火)
25日(水)大宜味村田嘉里集落センターで講演をする。大宜味村史編さん室にも協力いただいています。話の骨子を紹介しましょう。(参加自由:場所大宜味村田嘉里集落センター 午後7時~9時、参加料金無料)
(問合せ:090―6869―6288 金城 大宜味村史編さん室 :0980-44-3009)
1.田嘉里の遺跡(散布地)
2.田嘉里のマク
3.「おもろ」に謡われた「やかひむいとおやのろ」
【13巻176】
一 やかひもり、おわる 一 屋嘉比杜 おわる
おやのろは、たかへて 親のろは 崇べて
あん、まふて、 吾 守て
このと、わたしよわれ 此の渡 渡しよわれ
又 あかまるに、おわる、 又 赤丸に おわる
てくのきみ、たかへて てくの君 崇べて
【13巻182】
一 くにかさに、おわる 一 国笠に おわる
おやのろは、たかへて 親のろは 崇べて
しまうち、しちへ、 島討ちしちへ
あちおそいに、みおやせ 按司襲いに みおやせ
又 やかひもり、おわる、 又 屋嘉比杜 おわる
かねまるは、たかへて 金丸は崇べて
又 あかまるに、おわる、 又 赤丸に おわる
てくの、きみ、たかへて、 てくの君 崇べて
又 あすもりに、おわる、 安須杜に おわる
ましらへては、たかへて ましらては 崇べて
又 おくもりに、おわる 奥杜に おわる
たまの、きやく、たかへて 玉のきやく 崇べて
4.根謝銘(ウイ)グスクが抱えた周辺の村
5.おもろで謡われている「やかひむい」と「親のろ」
屋嘉比のろ家の遺品
6.『海東緒国紀』(1471年)の国頭城
・国頭城はインジャミ? ・北山監守?
・国頭のことをクンジャン・クンジャミと発音する。
・根謝銘のことをニジャミ・インジャミと発音する。
・国頭間切の同(主)村は?
・1673年以前の国頭間切の番所はどこに?
・1673年に田港間切創設(番所は田港村)
(1695年大宜味間切と改称、大宜味村に番所おかれる)
(1719年には塩屋村へ移動)
・1673年に田港間切創設以前の国頭間切の番所はどこ?
・1673年直後の国頭間切の番所は浜村。
7.大宜味村のマク(田嘉里のマク)
①クイシンヌマク(屋嘉比村)→ヤハビバール
②マラクイヌマク(親田)→ウェダーバール
③ユフッパヌマク(見里)→スンバルバール
④ウチクシンヌマク(野国、野国ナー)→ヌグンバール、ヌグンナバール)
⑤フーシンヌマク(潮原)→帆船のことか
⑥ハニマンヌマク(福地)→中福地にハニマー、ハニマーバシ(現屋嘉比橋)あり。
【大宜味村のマク】
マクは集落発祥の呼称、近世になると村となり、明治41年から字(あザ)となる。
【根謝銘・城・一名代村】
・クガニマク(城村)
・ユナハマク(根謝銘村)
・ユダヌマク(一名代村)
【喜如嘉村】
・クガニマク
【饒波村】
・ユアギマク
【大兼久:大宜味村】
・ユアギマク
【大宜味村】
・ユアギマク
【根路銘村】
・ハニ(金)マク
【上原:根路銘村】
・ハニ(金)マク
【塩屋村】
・ユアゲムイ
【屋古・前田村】
・シララムイ
・シララダキ(シジャラムイ・シジャラダキ)
【田港村】
・スクムイ・スクダキ
【押川、塩屋村から分離】
・スクムイ、スクダキ
【大保、田港村から分離】
・サンマク
【白浜:渡野喜屋村】
・ユラヌウラマク
【宮城・津波村の一部】
・アラムイ
【津波村】
・アラハブヌマク
▲大宜味村のマクの分布図
8.田嘉里の印部石(一基に二ヶ所の原名が刻まれている)
【字誌づくりの目次】(大正以降)もあげておきましょう。
・地割制
・共有山林
・杣山払下げ
・字の発足
・断髪
・兵役
・風俗改良
・移民
・製糖のはじめ
・奇病の発生
・砂糖の暴落
・糸満売り
・肥料の導入
・セメントの出現
・共同店の出現
・共同店の再建
・道路の改修
・青年団文庫
・甘藷稲の新品種
・農産業の技術向上
・産業組合の発足
・土木工事
・共同祝い
・土地改良事業
・戦 争
・海外引揚
・豊年踊り
・共同店発足
・八重山移民
・海外移民
・簡易水道
・公民館設立
・山地開発
・山崩れ
・公民館の新築
・農協店舗新築
などなど
2016年4月19日(火)
7.田嘉里(親田・屋嘉比・見里)の変遷(近世の村:ムラ)
・「おもろさうし」に「やかひむい」(古琉球)
・「絵図郷村帳」(1648年:17世紀前半)
国頭間切屋かび村
・「琉球国高究帳」(17世紀中頃)
国頭間村屋賀比村
(1673年田港間切創設される)(国頭間切の番所は浜村、1732年に奥間村へ)
(1695年大宜味間切と改称、大宜味村に番所おかれる)
・「琉球国由来記」(1713年)
国頭間切親田村・屋嘉比村・見里村
・「間切村名尽」(附宮殿衛名)(1719年)
大宜味間切見里村・屋嘉比村・親田村
(大宜味間切の番所が塩屋村へ移転)
・「琉球国旧記」(1731年)(由来記を漢訳)
(そのため国頭間切屋嘉比邑・見里邑・親田邑とある)
・「乾隆二年帳」(1737年)
大宜味間切屋嘉比村・親田村・見里村
・「御当国御高並諸上納里積記」(1738年以降)
大宜味(見)間切屋嘉比村・見里村・親田村
・「琉球一件帳」(1738年以降)
大宜味間切屋嘉比村・見里村・親田村
・「間切名村名尽」(1738年以降)
大宜味間切屋嘉比村・見里村・親田村
・「琉球藩雑記」(明治6年)
大宜味間切屋嘉比村・見里村・親田村
・「統計概表」(明治13年)
大宜味間切屋嘉比村・見里村・親田村
・「明治三六年」(1903年)
大宜味間切田嘉里村(親田・屋嘉比・見里の三村合併)
「明治41年」(1908年)
大宜味村字田嘉里
「平成28年」(2016年)
大宜味村字田嘉里
2016年5月21日(土)
久しぶりの「ムラ・シマ講座」でした。今回は名護市(旧羽地村)伊差川・山田・振慶名・田井等・親川、最後に仲尾へ。どのムラも歴史を持ち、個性をもっている。移動村であったり、新設村、分離した村、集落移動のムラであったり、それぞれ特徴を持つ。銅山を持っていたことで、あるいは移動村、移動集落、分村、番所、グスクをもっていたことで、仲尾のように勘定(手)納港や馬場などをもっていたことで、歴史的に登場させていくことの面白さが興味つきない。歴史的なことで言うなれば、羽地グスクの成り立ち、北山王のハニジは金川(ハニガー)のハニ(金)の産出する金地に由来することも充分にうなづける。
羽地(大浦)川と金川との合流地、蔡温の羽地(大浦)大川の開鑿、羽地番所が1730年代に田井等村から分離したこと。番所やグスクが親川村の地にあったことでの名称かえ、勘定納港との関わりで、北山滅亡、薩摩軍の琉球侵攻での一部が羽地内海へ。1816年のバジル・ホールの来琉(羽地内海)、ペリーの名護湾、与那嶺、運天港、塩屋湾などのこと。
▲出発前のレクチャー ▲銅鉱口へ(テクテク)
▲銅鉱口 ▲仲尾の古島に新築された拝所
▲仲尾にある舟繋ぎ石(石の碇?) ▲金川(金川と仲嵩)から流れる ▲金川橋
2016年5月19日(木)
京都の向日から手書き原稿が送られてきた。「なきじん研究」(第19号:2013年))で「今泊の風土記」、「根無可見名」(上下)を紹介したことがある(故玉城 英信氏:今帰仁村今泊出身、明治37年生、京都で没)。原稿は、しばらく寝かしてあったのであるが、やっと目を通すことに。今回送られてきた原稿の「もくじ」を掲げてみた。以前に紹介した原稿と重なる部分が大分あるので、まずはその整理から。(原稿5欠) 明治生まれの方の故郷や島言葉の響きと思いに胸が打たれる。
原稿1(44頁 20×20)
島言葉前書 1.島言葉 2.衣食住 3.着物 4.人間の住 5.帯と履者 6.帽子
7.沖縄の四季 8.秋の天気は変わり安い 9.ヌジガタアナ 10.農業
11.お米の名前 12.穀物 13.芋の名前とその種類 14.野菜の名前とその種類
15.菜っ葉とその種類 16.草の名前とその種類 17.果実 18.動物の名前
19.家事守とねずみの予告 19.トウジムヤとサンベェグウ 20.穴住の動物
21.地上に住鳥の名前 22.空飛ぶ鳥の名前(クラチャとカンジュイ) 24.ユガラシ
25.チンチャイとイエンジャ 26.セミの名前と鳴き声 27.セミとりの歌
28.ガアタアとアミサアトウ 29.蛍の歌とその感想 ・海の魚 30.スブチグナアとアガアシ
31.キラアパミとクサパン 32.サバア取りの話 33.海のうなぎ 34.海の貝の名前
35.ヰナアグルホヲヤアの話 36.川と水の中の魚 37.川水の中の魚 38.チンボウラア
39.トヌジャミイユウ 40.村の中の木の名前 41.リグの木の歌 42.セミとセンダン木の歌
43.シルバマの思い出 44.シルバマの秋の遊雲 45.モウハシビイの思い出
46.ナアトゥガヌウナジの話 47.明治時代の方言 48.子守歌の感想 49.子守歌
50.子守さんとをばさん 51.この方言の意味 52.子守さんの返答 53.をばさんの方言
54.方言の解説 55.今帰仁城の感想 55.想像と空想 後書き
原稿2(12頁 20×20)
子守歌と子供のまりつき遊び歌 長者の大主 (一番・二番・三番) 子守歌
原稿3(154頁 20×20)
原稿4 図面、図面について
原稿6 (10頁) 言葉の忘れ物はどういう事か
▲原稿1の1頁目 ▲原稿2の1頁目
2016年5月17日(火)
「ムラ・シマ講座」の資料でも作ってみるか。
【羽地域の略年譜】
・1622年 「はねしまきり 大のろくもい」(仲尾のろ職補任辞令書)
・1625年 「はねしまきり 屋かのろくもひ」(屋我ノロ職補任辞令書)
・1652年 向象賢(羽地朝秀)、羽地間切の総地頭になる。
・1674年 大宜味間切創設、羽地間切の平南村と津波村を田港(大宜味)間切へ。
・1735年 蔡温の監督のもと大浦江(羽地大川)の大改修工事。
・1736年 呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村が羽地間切の内側へ移動(方切)。湧川地内を
今帰仁間切へ。村移動からみえてくるもの。ノロ管轄の変更なし。
・1742年 羽地間切、元文検地を実施する。
・たこ川原/くすく原
・1744年 改決羽地川碑記建立する。
・親川村が田井等村から分かれる。番所は親川村地内となったために親川番所や親川グスク
となる。
・1785年 「親見世日記」に「勘手納津口jで御米を積んで出航。
付近に惣地頭屋敷やバンジョイ。
・1816年 バジル・ホール一行、羽地内海(仲尾村一帯)を調査する。
「湾の先端にあるこの村は、浜辺との間の一列の樹木によって北風から守られ、背後は抱きかかえ
るような丘陵によって保護されている。浜辺との間に広い道が走り、家々の周囲に植えられた樹木
は鬱蒼と茂って、建物をおおい隠さんばかりである。墓地に近い村の中央には広場があって、すで
に述べた高床式の穀物倉の一群が建っている。壁は網代の編んだ藤でつくられ、ねずみ返しが設
けられていた」(『朝鮮・琉球j航海記』(1818年)
・1866年「支那冊封使来琉諸記」に、冊封使が琉球に来ているとき、島尻や中頭方の米の積み出しは
浦添の牧湊まで陸j路で運び、馬濫船運天・勘手納へ運び、そこで御国船(大和船)でに積み込むこ
とが記されている。勘手納港は、大和への仕上米を積み出す重要な港の役割を果たしていた。
・1835年 仲尾村の集落が仲尾兼久へ移動する。
「村の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を造った。両兼久の竿入れをしたら、百姓持ち
の土地あので、村敷(屋敷)にしたいと願い出て認められた。この時期に、勘手納に7家族、東兼久に
4家族が引っ越してきたことがわかる(「羽地間切肝要日記」)。
・1853年 ペリーの探検隊が勘定納港から親川にくる。
・1879年 番所に首里警察署親川分署をおく。
・明治14年上杉県令は、国頭巡回の時、仲尾村勘手納港から船に乗っている。
「勘手納港ニ出ズ。官庫瓦ヲ以テ葺ケリ。役所詰員及ビ村吏ノ奉送スル者、皆別レヲ告グ」と
(『上杉県令日誌』)。
・仲尾のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 500円(証券) 35円80銭(現金) 計535円80銭
【仲尾ノロ】(名護市仲尾)
この辞令書は羽地村(現在名護市)仲尾の仲尾ノロ家にあった辞令書のようである(『かんてな誌』掲載)。天啓2年は1622年である。同じ頃の辞令書に屋我ノロの辞令書(1625年)がある(「辞令書等古文書調査報告書」掲載)。仲尾ノロ家には明治の資料があり散見したことがある。20年前のことである。それとは別に島袋源七文庫(琉球大学)にも仲尾ノロ関係の資料がある。それらの資料については手元にコピーがないので触れることができない。
ここで仲尾ノロ家の辞令書が気になる。現物にあたろうとしたこともあるが、未だ目にしていない。ここで興味があるのは、仲尾ノロが「大やこもひ」と記されていることである。屋我ノロ辞令書は「やかのろハ」(屋我ノロ)と村名の屋我がついている。仲尾ノロは17世紀には「大のろこもひ」と呼ばれていたのであろうか。
『琉球国由来記』(1713年)では中尾巫と表記される。中尾ノロは羽地間切のノロの中で間切全体のノロを統括している。羽地間切に同村がない。主村は田井等村だったようである。しかし祭祀は仲尾村が要になっている。羽地間切の惣地頭は仲尾村の神アシアゲと池城里主所(火)神、それと池城神アシアゲの祭祀と関わっている。海神祭(ウンジャミ)の時、羽地間切の仲尾ノロはじめ、真喜屋ノロ・屋我ノロ・我部ノロ・トモノカネノロ・原源ノロ・伊指(差)川ノロは仲尾の神アシアゲに集まり祭祀を行っている。羽地間切全部のノロが集まるのは仲尾の神アシアゲである。それからすると辞令書で仲尾ノロが「大のろくもひ」と記されているのは、羽地間切全体をまとめるノロであった、そのような事情があってのことにちがいない。
2016年5月10日(火)
http--rekibun.jp-28kimurasima.html
2016年5月7日(土)
4月はテーマを背負って各地を楽しく踏査してきました。沖永良部島、今帰仁村内の戦争遺跡、名護市(旧羽地村)、本部町、大宜味村の17の字、国頭村など。5月は少し足を止めて「まとめ」にするか。これまでの記録を振り返り目を通してみると、その時々の記録は真剣そのもの。大げさだけど、寿命を縮めている場面がある。物に語らせるのは自分。資料や物から学ばされることが多い。それらの資料や物と関わることの面白さ。それは体力の続く限り動き回っているかも。でも頭の中がパンパン状態。どんどん吐き出していかないと詰まってしまう。
このパソコンの前に座る時間が少ないので更新は少なくなります。日々の調査記録(メモ)に立ち寄ってみてください。仲村源正氏の辞令書の整理でもしてみるか。
1609年旧3月28日今帰仁グスク、薩摩軍に攻められる。今帰仁グスクまで登ってみた。二時半頃潮がひきリーフでは潮干狩りの方々の姿あり。海岸はリーフまで干上がり、二つの口(水路)のみ海水が流れている。満潮時であっても舟の出入りは困難。グスクの桜は新緑でミーミーせみの鳴き声が聞こえてくる。もう夏。