2016年3月 
                沖縄の地域調査研究(もくじへ

 

2016331日(木)

 平成25年に戦争をテーマに企画展を開催したことがある。戦争の遺跡マップを作って欲しいとの要望があり、6月までに作ることに。村内の遺跡のマップは作製してあるので、それをベースに情報をいれたマップをつくることに。今回はガマや防空壕、あるいは墓の中、陣地の中から、戦争を膚で感じ取れる、感じ取ることができる、そのような視点で作製にしていく予定。いつものことであるが、戦争テーマにしたとき、渋い表情の日々がつづく。ガマや防空壕、あるいは墓から外界にでたときの一瞬の平和のありがたさ、そして時代の流れを読み取ることのできる感性につながればと考えている。



 

 

①崎山の港原の防空壕
 
  ▲防空壕の出入口は二ヶ所

②渡喜仁のハキジヌメーは運天の海軍壕)

 
        ▲壕の出入り口は三ヶ所にある(数ヶ所に部屋がある)


2016330日(水)

 明治17年の「沖縄県地誌略」より国頭の部分を紹介。この『地誌略』廃藩置県(明治12年)の頃、適当な教科書がなかったようで、琉球国を学童に知らせるために編集されたようである。

付言
 沖縄県の学事に於けるや。去る明治十三年。学制に拠り学区を分ち。那覇師範学校。首里に中学校。各間切各離島に小学校を置きしより。

    虚飾を去り。更に校訂再三。遂に活版に附し。吾県下の学童をして。本国の形勢を略知せしめんと云爾
       明治17年仲秋
                             沖縄県令 従五位 西村捨三識


 国頭は本島の北方に位し。南は中頭に界し。東北西三面は海に臨む。到処山ちらさるはなし。只僅に海浜平地あるのみ。之を分ちて恩納間切は十二箇村あり。海に沿ひたる狭長の地にして。東は金武間切と山背を分ちて西に位す。東は金武間切と山背を分ちて西に位す。西北ニ方は海に瀕し。南は読谷山間切に交る。那覇を距る凡十一里二十町なり。

 恩納岳は

 名護間切は十三箇村あり。南東北は恩納金武羽地今帰仁本部五間切と山背を分ち。

 本部間切は十八箇村あり。

 今帰仁間切は二十一箇村あり。西南は山林を以て羽地名護本部三間切に界し。東北ニ面は海に沈む。那覇を距る凡二十二里十町なり。


 運天港は本間切の東北隅、運天村にあり。大船数十艘を泊すべし。天然良港なり。永万仲、源為朝運を天に任せ、漂着せし所。港の名を得る所以なり。

 古宇利島は運天港より。二十町許の海中に在り。周回凡一里二十六町なり。
 運天港上に百按司墓山あり。山腹許多の轆轤あり。之を百按司墓と云う。山の名を取る所以なり。
 親泊村に城壚あり。山北王の割拠せし所なり。破壁今尚存せり。内に受剣石あり。王滅亡の時。慷慨剣を振ふて撃てしものと云ふ。
 物産は砂糖、米、麦、蕃諸、海魚、蕉布等にして、蕉布は殊に著名なり。

 羽地間切は十九箇村あり。東南西三面は山背を分ちて、久志名護本部今帰仁四間切に界し。西北隅は海湾を抱けり。土地肥沃。田野能ク開け。水田の多きこと、国頭地方の第一たり。那覇を距る凡十九里十町なり。
 ヤニュ岳は東南隅に峙立し。大川は源を久志羽地二間切界の

 大宜味間切は十六箇村あり。

 塩屋は宮城島に対して大港をなす。
 宮城島は

 国頭間切は十六箇村あり。南は山林を以て、大宜味久志二間切に牙錯し。東北西三面は海を環らし。本島の東北隅に突出せる半島にして。最大の間切なり。到る処層巒重嶺耕地に乏し。海浜僅に水田あり。那覇を距る凡二十五里三四町なり。

 ヤカビ川は大宜味間切屋嘉比村の渓間より発源し。浜村に到り海に注ぐ。
 辺戸岳
 安波川
 石橋川は
 鏡地湊は本間切第一の良港なり。物産は蕃諸、木材なり。

 久志間切は十九箇村あり。東は海に面し。南は金武間切に界し。

 久志岳
 金武間切は八箇村あり。


2016329日(火)

 編集後記を紹介することはありませんが、10年ばかり背負ってきた「字誌」の奥付け、編集後記の原稿を送付し、これで原稿出しは終了。最後の校正はありますが。一人で乾杯!

                    「諸志誌」編集後記
 永年背負ってきた「諸志誌」(本文550頁)の編集をこれで閉じます。まずは、諸志誌に関わってくださった字民の皆様へ発刊おめでとうございます。と同時にごくろうさまでした。後押ししてくださった字民はじめ関係者に感謝申し上げます。字誌の編集会議は二十回ばかりやったように覚えています。途中から、プロジェクターで章別、あるいはテーマごとの講座となり、それを字誌に収録する形をとりました。それらの全てを収録することはできませんでした。

 当初、章別に担当を決めて進めましたが、途中からみんなで学んでいく形をとりました。画像や資料をみながら、意見を出したり、質問を受けたり、それに答えていく形となりました。幸いにして諸志には戦後の公民館資料(議事録や帳簿や日誌など)が数多く残っており、それも収録しました。今後活用してくれたらありがたいです。

 家庭でもっている写真を数多く提供いただき、懐かしい風景や人々の生活をグラビアを飾りました。分野を二十章にわけましたので、各章ページが制限されることになります。他界された仲宗根政善先生や山内昌藤先生、字出身の新城紀秀先生などから貴重な原稿をいただき収録しました。

 中城ノロドゥンチ(宮城家)があり、中城ノロが関わる祭祀や同家が所蔵している勾玉や墓調査、戦前まで残っていた辞令書などで諸志(諸喜田村・志慶真村の合併)、志慶真乙樽伝承などで歴史の深さと膨らみを持たすことができました。


 明治三六年に諸喜田村と志慶真村が合併し諸志となります。志慶真村は今帰仁グスクの後方から今泊(今帰仁・親泊が合併)へ、さらに今泊のシュク原へ移動、さらに現在地は移動した村で、移動村として、また合併村でもあります。そのことを示すのが諸志の二つの神ハサギであります。村は合併しても祭祀は一体化しないという法則を見せてくれます。字誌では紹介していませんが、諸喜田村と志慶真村が合併する前の「土地整理関係等級申告控」(明治三四年)と「砂糖消費税法改正ス儀ニ付請願」の名簿があり、両者の対比で諸喜田村、あるいは志慶真村出身かがわかります。明治三六年の「国頭郡今帰仁間切諸志村全図」から土地利用が読み取れる。諸志には村指定の焚字炉、国指定の「諸志御嶽の植物群落」があります。

 戦前から戦後にかけての「諸志共同組合」に関する資料があり、共同組合の詳細な内容をしることができます。諸志には元文検地(17371750年)のとき、測量(竿入)の図根点として使われた印部石(原石)、「だけら原」「ひろ原」「さき原」「しきま原」があります。

 編集委員や字の方々が気を使い、また頑張っていただいたのは「第十八章の諸志の人々(シマンチュ)でした。十年近い歳月がかかり、他界された方々が何人もおられます。この章の家族写真は、将来振り返る手がかりとなる貴重なものとなるでしょう。

 最後に、字誌は多方面に及ぶ項目のため、細部まで気配りができなかったことと、長期に及んだことを字民はじめ関係者に気苦労をかけお詫びしあげます。諸志から数多くのことを学ぶことができ感謝申し上げます。
                                 


2016326日(土)

 今帰仁村崎山の港原にある防空壕へ。農道沿いにあり、入口は雑草で隠れている。防空壕は銃弾や空爆、あるいは人目のつかない場所に掘られる場合が多い。崎山の防空壕は、墓地地帯にある。それは防空壕として掘られていいる。戦時中、周辺の墓を避難場所として利用されたところもある。内部は右手の三本状に掘られている。突き当たりには覗き穴、出入口には棚状になったところがある。二番目の部屋にはもう一つの出入口があり、光が漏れている。そこは崩落している。四月にはいて実測調査と聞き取り調査を行う予定。
 これまで今帰仁村内の戦争遺跡の分布調査はおこなってきた。戦争遺跡の分布図と説明版などをつくり、戦争の悲惨さ、無惨さを防空壕の中で、考えてみる。戦争遺跡の調査に参加希望の方がいましたら、歴史文化センターに連絡ください。(簡易実測や聞き取りなどの調査)

 
   ▲外から見た防空壕の入口           ▲内部は右手の三本指状態の部屋

 
   ▲奥から出入り口を覗く窓?       ▲内部から出口をみる(出口は92×65cm


【知名町】(予備調査メモ)(画像は20087月撮影)

 沖永良部島の知名町を4月にはいて訪れる予定。時計周りに各村を踏査する(帰ってからの整理上迷わないように)。知名町の基礎知識を『鹿児島県の地名』から。沖永良部島に遺るノロ関係の遺品とシニグに関わるシニグドーとシニグ旗などの調査。それと北山との関わりなど。

           ▲知名町誌(知名町部分)より

          ▲沖永良部島(知名町と和泊町)

余多(知名町余多・竿津)(余多村:あまたむら)
 屋者村の北東に位置する。余多集落は海に面し、南流する余多川の右岸にあり、竿津はソージとよばれ、清い水の意あり。はじめ久志検間切、安政4年(1857)から東方。明治13年(1880)余多村に戸長役場が設置される。
余多の海岸にイクサイヨーといわれる人骨を納めた洞窟がある。ソモグドーには竈石(琉球の火神?)が祭ってある。


竿津


赤嶺(知名町赤嶺)(赤嶺村:あーにむら)
 余田村の北に位置する。北部には竿津山の尾根が東西に続く。アーニは嶺のこと。はじめ大城間切(ふうぐすく)、安政4年(1857)から西方に属した。
 近世になって南部の丘陵地アーニバルにあった集落が砂糖きび栽培のため、ウシュル原(後)、メーブラル(前原)ハノーに移転。山手の傾斜地にアーニマガマに意匠を凝らした横穴式の古墳トゥールバカがある。

 
 


久志検(知名町久志検:久志検村:ぐしきぬむら)


上平川


下平川


屋者(知名町屋者:やじゃむら)
 下平川村の南東に位置し、南東部は海に面する。集落内に二箇所の湧水があり、ヤジャは岩川に由来するという。中世に世之主の四天王の一人ヤジャサマバルが居住し、切妻屋根の横穴堀込式の古墳との関係があるのではないかと。初め、久志検間切、安政4年(1857)から東方に属す。元禄3年(1690)死亡の墓碑銘に「屋者村久志検」とある。明治23年屋者村のウツツ海岸(ウジジ浜)もカナダ船が台風のため座礁、12名が死亡、10名が救助された。明治25年カナダ政府から謝礼として望遠鏡と42ポンドが贈られた。


芦清良(知名町芦清良:あしきよらむら)
 黒貫村の北東に位置する。初め久志検間切、安政4年(1857)から東方に属していた。当村に東方の役所が置かれた。明治13年(1880)に戸長役場が設置される。明治9年社倉の籾貯蔵用の高倉を造営。中世の豪族フーメマチブタを祭る拝み山神社がある。


黒貫(知名町黒貫:くぬぎむら)
 瀬利覚村の北東に位置する。はじめ久志検間切、安政4年(1857)から東方に属した。集落後方の産地にフースクの按司(あじ)の城跡があり、トーマブシと呼ばれる見張台があったという。シニグ祭には大山のヒガヤマサキから旗を立てて踊りながら下りてきてシニグドーで祭りをおこなっていた。
 


瀬利覚(知名町瀬理覚:せりかく:じーつきょむら)


⑪小米


知名(知名町知名:じんにやむら)
 


屋子母
 


大津堪(知名町代津勘:おおつかんむら)
 屋子母村の北西に位置する。地名は大きな川の意。徳時村境に大山から隆起サンゴ礁が侵食されたドリネ地帯を流れる涸れ川があり、降雨の時は水が流れる。
 当村にニジャトゥシタクブという豪族がいて、瀬利覚村(じーつきよ)村のホービャガルミという豪族がいて、二人で大山の水を二村に分けて流したという。はじめ喜美留間切、安政4年(1857)から東方に属した。


徳時(知名町徳時:とうどきむら)
 大津勘(ふーちかんむら)の北西に位置し、トゥドキは大津勘村との村境に大山Uふうやま)から隆起珊瑚礁が侵食して西流する枯れ川があり、その水流の轟きに由来か。
 琉球王国時代に徳時間切がおかれていたとみられ、元禄年間(16881704)に久志検間切に代わったとみられる。正保琉球国図に村名はないが、徳時間切はある。安政4年(1854)から東方に属する。 


住吉(知名町住吉:島尻村
 沖永良部島の最西端部馬鹿村(正名)の南位置する。島尻は国頭に対する呼称。琉球入の記(旧記雑録)に慶長14年(1909)薩摩軍の琉球入のとき、上陸してきた兵と戦わずして降伏したことから馬鹿尻と名づけられたとある。そのことからバーシマジリ(馬鹿島尻)の伝承あり。飲料水は地下の鍾乳洞(クラゴー)から汲んでいた。
 はじめ大城間切(ふうぐすく)、安政4年(1854)から西方に属す。
 ・文政11年(1828)異国船が島尻沖に漂着し、乗組員が知名湊に上陸。シニグ祭にはヒャー神を祭るため男性が山手のシニグ山で夜籠して翌朝下山してシニグドーで住民総出のシニグ遊びをした。(その形は国頭村安田のシニグの形に類似している)シニグ祭は明治4年に沖永良部島全島で廃止。島尻村では明治5年シニグドーに溜池を掘ったという。

 
  ▲住吉のクラゴーへの降り階段          ▲クラゴーの内部

 
    ▲福永家のノロ関係遺品(一部)             ▲カブの簪と小さい髪差


正名(知名町正名:馬鹿村:ばーじまむら)


田皆(知名町田皆:たんにゃむら)
 上城村の西に位置する。東シナ海に面し、海岸線は切り立った断層崖で田皆岬という。タンニャは田と焼畑(キナ)に由来する。「おもろさうし」第十三に「田皆嶽 見居り 西銘嶽 見居り」とあり、田皆岬にはターガナシをという神社があった。沖を航行する船はこのテーガナシを礼拝したといい、御嶽信仰の名残を留めている。
 正保琉球国図に村名の記載はないが、「やぎにや崎」とある。飲料水は地下のクラゴーから汲んでいた。初め大城間切、安政4年(1857)から西方に属した。明治13年に当村に戸長役場が置かれた。
 


新城

 
   ▲新城花窪のニャートゥ墓


下城(知名町下城:しもじろむら)
 上城村の南西に位置し、北は海に面し、急崚な断層崖になっている。沖泊湊があり、かつての交易地であった。古くは上城村を含めて西見村と呼ばれる。世之主の生誕地と言われ、居城の内城(現和泊町)にちなんで下城と名付けたという。 竈石ウヮマを神体とした世之主神社が建立されている。
 中世に世之主の四天王といわれたニシミクニウチベーサ(西見クニのウチベーサ)の屋敷跡がある。

 
  ▲知名町下城の世之主神社の鳥居            ▲世之主神社


21上城(知名町上城・新城:かみしろむら)
 沖永良部島の南西部北側に位置し、大山の北麓の隆起珊瑚礁の段丘上に形成。南西は下城村(しもじらむら)と接する。下城村を含めて「にしみ」と称し、西目と記す。北側を見張る番所があったことに由来するか。世之主居城内城(現和泊町)の外城に因んで上城と称したという。
  「おもろそうし」(第十三)に「里中のころがま 一の槢 真強く 歓へ子が 守りよわるゑそこ 又としらもいころがま 又田皆嶽 見居り 又西銘嶽 見居り 又さりよさのはつき 走へ来居り 又西銘嶽 見居り 又せりよさのはつき 走へ来居り あけより」と謡われている。
 「正保琉球国絵図」にも当村付近に「おかミ山」があり、そこに古琉球からの御嶽信仰がされている。また同絵図には「徳時間切之内西目村」がみえ、ニシメと読みが付されている。寛文8年(1668)の「琉球国郷帳」でも時徳間切内として西目村が登場する。琉球国時代から徳時間切に属していたか。
 元禄年間(16881704)以降喜美留間切、安政4年(1757)から西方に属し、西方役所が置かれた。明治5年(1872)西方役所は田舎平村(いにやひや)現和泊に移転する。
 北部のニシミシンバルの耕作地に明治15年頃から家が移転し、昭和25年に行政分離し新城となる。

 
 
     ▲上城小学校の正門から                 ▲上城公民館


2016323日(水)

 大宜味村押川へ。大保川沿いのポンプ場あたりからエイガー道を登り山手の集落の方へ入る。押川についての様子は、最近まで知らず。それで50年前の新聞記事(沖縄タイムス)から、当時の様子を伺うことに。大宜味の猪垣・杣山(関連)

 1960年頃から80年まえの開拓部落だが、年々人口と世帯が減り、江洲と逆の現象を見せている。田港の東一キロ、大東パイン工場(現在なし)横からはいてって北に約二キロほど行くと周囲を高い山にかこまれた押川が見える。深い谷間にひっそりたたずむとこの部落はなぜか外部からとり残されてしまったような感じだった。自家発電の電力で、十戸近くに電灯がはいっており、二軒がテレビを持っている。そのうち一軒の画像が鮮明だというので、夜になるとおとなも子どももみなこの家に集る。映画を見る機会がなく、このごろで新聞さえはいらなくなっており、字民の娯楽はこのテレビとトランジスタラジオしかない。
 こどもたちは、さいきん、通学用につくられた屋古への小道を通って、塩屋小・中学校に通う。
 イノシシの被害はおそらく村内唯一ではないかという。今期キビ生産高は千五十トンを予想していたのであるが、イノシシの被害があって実際は九百五十トンしかなかった。ひどいところは、作物の三分の一はイノシシにやられたという。この「山賊」は押川が絶好の食料補給基地とでも思っているようだ。周囲が高い山になっているため、イノシシのかくれ場所としては最適らしく、毎ばん三頭ぐらいで波状攻撃をかけてくる。
 これにはさすがの字民も放っておくわけに行かず、同字の友寄さんがわなを四、五か所にしかけたほか猪垣(イノガキ・細い銅線を畑の周囲に引く)をつくったりしているが、なかなかそれには引っかからない。イノシシもさいきんは利口になっていて空気銃を持っている人がいても臭いですぐ逃げてしまう。いまのところまったくのお手あげといったかっこう。(以下略)
 
 このように、今から100年前の押川の様子を頭に入れての踏査である。50年前の記事には記されていない杉敷についてのこと。それとイノシシの被害と猪垣については触れているのでその確認ができればと。猪垣と猪、それと杉敷ではないが、一抱えくらいの杉と屋敷林として植えた杉をみつける。山手の集落とあって「押川多目的集会施設」は標高107mの位置にある。

 
 ▲押川の猪の親子(数頭)         ▲六田原の猪垣       ▲押川多目的集会施設の近く杉


2016318日(金)

 下の四枚は大宜味村喜如嘉の真謝家の明治の辞令書である(大宜味村史提供)。いずれも沖縄縣からの発給。間切役人の昇級過程や具体的な役職を任命した辞令書である。(工事中)

  ①は親田親雲上(大宜味間切夫頭)が惣耕作を拝命した時の辞令書(明治12927日)
  ②は惣耕當(平良真保氏)が大宜味・大兼久二ヶ村の下知人を申し付けられた辞令書(明治121227日) 、   ③大宜味間切惣耕當(平良真保氏)が勘定主取兼務を申しつけられた辞令書(明治14122日)
  ④惣耕當兼勘定主取下知人(平良真保氏)が大宜味間切頭代兼勧業委員を申し付けられた辞令書
     (明治18124日)

    親田親雲上                惣耕當  平良真保
  大宜味間切惣耕作           大宜味大兼久ニヶ村
  當申付候事                下知人申付候事
  明治十二年九月廿七日         明治十三年十二月廿七日
       沖縄縣                 沖縄縣


    ①明治12年惣耕當(拝命)   ②大宜味大兼久二ヶ村下知命拝命(明治13年)


③勘定主取兼務の辞令書(明治14年) ④大宜味間切地頭代兼勧業委員辞令書(明治18年)


2016312日(土)

 杣山についての問合せ。山に関しての知識はもっていないので少し勉強。
 文書まで読み通してみる時間がないので、『大宜味村史』(70頁)から基礎知識を。明日は大宜味村の山手を踏査してみるか。以下の情報を手にするといかざるえません(晴れてくれたら)。

【杣山の指導・監督】
 王府の最高責任者は総山奉行、その下に国頭方山奉行が三名現地に派遣されていた。一人は加増奉行として国頭間切浜村の詰所に常駐し、大宜味間切と国頭間切の山林行政の指導にあたった。更に、間切には王府の役人として山筆者(廃藩置県後は山方筆者)が配置され大宜味村に詰所をおいて、直接指導監督にあたった。
 間切役人としては三名の総山当が任命され、間切の山林行政の全般的な取締りに当り、村には二名の山当が配置され、山工人、山師などを指揮し、山林の保護管理に当った。

 山奉行は、年二回春秋の原山勝負の時に間切内の杣山をくまなく巡回し、その成績を王府へ報告した。山筆者は月五回、総山当、村山当をひきつれ間切中の山林を巡回し、指導管理にあたった。更に地頭代、下知役、検者など間切行政の最高スタッフも毎月一回巡視を義務づけられていた。それらの役々は定期巡回の他に大風のあった翌日にはそれぞれの管内の山林、猪垣の被害状況をつぶさに調査し対策を講ずることが義務づけられていた。

【間切の杣山の種類】
 蔡温時代における大宜味間切の杣山の面積は、四千二百町九反で、国頭・久志間切についで三番目に広い面積をもつ間切であった。間切の杣山は山方切と呼ばれる区分方法で、各村に分割し管理させた。大宜味間切の山切は以下の七つに区分されていた。

  第一区 津波
  第二区 塩屋・田港・屋古前田・渡野喜屋
  第三区 根路銘
  第四区 大宜味・饒波
  第五区 喜如嘉
  第六区 一名代・根謝銘・城
  第七区 見里・親田・屋嘉比

 間切・村の杣山は、一般に仕立敷、仕立換山、籔山、中山の四種類からなっていた。
 仕立敷とは、王府の指示により建築材及び造船材に適する良材を仕立てる目的で設定された造林地のことである。敷地の選定・仕立の方法・管理の仕方まで厳しい規定のもとで行われた。仕立の対象樹木は、杦・杉・カシ・イク・ユシ木・チャーギ・桐・楠・センダンなどであった。
 仕立敷は間切で管理するものと村で管理するものがあった。いずれも、村百姓の15歳から50歳までの男子に現夫を賦課した。なお、人夫加勢と称して居住人にも現夫が割当られる場合があった。

【大宜味間切の主な仕立】

楠敷
 押川から根路銘・大宜味の猪垣の内側で仕立られ沖縄最大の楠敷の美林があった。山奉行所公事帳に、大宜味間切根謝銘村並木相国寺には、当分実付候楠之有り、九、十月之頃、熟仕候間山奉行者にて、近間切之山当登らせ取調各間切配分をもって仕立方申すべきこと、とあり、十八世紀半ば頃から楠敷の仕立が始まったものと見られる。

杉敷
 押川は間切が最も力をいれた仕立敷で、二かかえ三かかえもある杉の大木があり、杉敷としては沖縄最大の規模をほこっていた。明治になって押川開墾が行われた際に、伐採が許可され学校建材・公共施設の用材としてことごとく切りdっだされてしまった。

胡桃敷 
 根路銘村の湧地山に仕立られ、明治の中頃迄管理されていたが、漸次伐採された。実は間切から御殿・殿内への上納物として重宝がられてた。
 1876年(光緒2)の「胡桃敷本数改帳」によると、胡桃敷は以下の通り。
   根路銘村湧地原
  一、胡桃敷 三百二十坪
     本数 27本(根廻一尺~六尺)
  一、胡桃敷四百四十坪
     本数37本(根廻一尺~八尺四寸)
    光緒二年丙子閏五月

樫敷
 喜如嘉村遠山に仕立られ、太平洋戦争まで樫の大木が生い茂り大切に管理sれていたが、戦後の開墾によって姿を消した。山奉行所規模帳に、樫木の儀国頭間切安田・安波、大宜味間切内喜如嘉、久志間切内川田、右の村の山には所々に相見得とあり、蔡温時代から仕立敷として重視されいたことがわかる。大宜味間切の津波山にも樫敷があった。

 大宜味間切特有の山に中山がある。その性格は他の間切の里山・村山というものに類似している。中山は一般に松敷・竹敷などからなり、各村の仕立山の一種として保護管理されてきた。大宜味間切でとくに中山が設置された理由は、間切の地形に起因しているとみられる。村からすぐ急勾配の山がせりあがっており、登りつめた先がやや平坦の台地状をなし、猪垣の築かれた開墾地へと続き、いわゆる村と開墾地の間の山林を中山と称している。中山は松や桧(ひのき)や竹など有用な樹木を仕立る目的の地に山くずれを防ぎ、貯水涵養林、開墾地を守る暴風林の役目を果たしており、近世にいたるまで自由な伐採を許さず、村内法をもとできびしく保護管理されていた。


201638日(水)

【地租徴収の手続き】
 
地租徴収の手続きは、先ず県丁に於いて、その間切何年度分幾何と定め、これを役所長に達し、役所長は更に間切即ち地頭代に対して令書を発し、地頭代は令所にヨリ、更に掟に対して伝書を発し、掟は地割の帳簿等により、各戸の納額を定め、これを人民に分賦するものとす。

 租税は組頭これを取纒めて掟に納め、掟よりこれを地頭代に納むるものとす。地頭代は一間切の税額を取り纏め金庫へ納付す。そお現品に係るものは先これを村屋に集め、掟耕作当等付き添い県丁に送付するものとす。

 税の徴収に村掟は重要な役割を果たしていることがわかる。『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切の役職は、
  ・地頭代(湧川大屋子)→古宇利親雲上へ(1750年頃か)
  ・夫地頭 志慶真大屋子/奥間大屋子/郡大屋子/兼次大屋子/諸喜田大屋子
  ・首里大屋子
  ・大掟 ・南風掟 ・西掟 
  ・郡掟 ・運天掟 ・上運天掟 ・玉城掟 ・中宗根掟 ・平田掟 ・中尾次掟 ・平敷掟 
  ・与那嶺掟 ・今帰仁掟
 今帰仁間切の場合、1735年頃地頭代は湧川大屋子からは古宇利親雲上となる。位牌に古宇利大屋子とある場合は、その家から地頭代まで勤めた人物がいたということである。

 大宜味間切
  ・地頭代 (前田大屋子)→山川親雲上へ(乾隆24年:1759)には山川親雲上)
  ・夫地頭 平良大屋子/川田大屋子(この夫地頭は久志間切へ)
  ・首里大屋子
  ・大掟 ・南風掟 ・西掟 
  ・塩屋掟 ・川田掟 ・喜如嘉掟 ・津波掟 ・福地掟 ・根謝銘掟 ・大宜味掟

【大宜味間切の掟と担当村】
 ・津波掟(津波村・宮城)
 ・塩屋掟(塩屋村・田港村・渡野喜屋)
 ・根路銘掟(根路銘村)
 ・大宜味掟(大宜味村)(大兼久含む)
 ・喜如嘉掟(喜如嘉村・一名代村)
 ・屋嘉比掟(屋嘉比村・見里村)
 ・前田夫地頭(屋古前田村)
 ・饒波夫地頭(饒波村)
 ・親田夫地頭(親田村)
 ・根謝銘掟(福地掟)(根謝銘・城)
 
(『琉球国由来記』(1713年)では、地頭代は前田大屋子、夫地頭は平良大屋子・川田大屋子(地頭代含めて三員)であったが、その後地頭代は山川親雲上、夫地頭は前田、饒波、親田親雲上へ変更されている。平良村と川田村が久志間切に編入されるのが康熙58年(1719)なので、川田と平良の両村が大宜味間切から消えるので両村の夫地頭は大宜味間切の村名に変更したと見られる)。

 田港間切の創設は1673
 田港間切から大宜味間切への改称、大宜味のマクから村へ、番所は田港村から大宜味村へ。その年は?

 大宜味村の某家の位牌に、
   嘉慶六年 前田大屋子 とあるのは、その人物は前田大屋子、夫地頭まで勤めた人物であることがわかる。もう一枚は大宜味村大宜味のN屋の位牌であるが、山川親雲上あり、手元の資料をみると、大宜味間切の地頭代は山川親雲上に変わっている。Nの位牌に山川親雲上が二人いて、二人の地頭代をだした家ということになる。同家の竹櫃に「大宜味村西掟・・・・仁屋」とあるが、それは位牌ではないので西掟の辞令書を納めたものにちがいない。
  


201637日(火)

 明治6年の「琉球藩管内物産表」である。「表中物品名ノ内言語ノ異ナル所ヨリ文字或は仮名遣ヒトモソノ品物ヲ解シカタキ名有之候得共数種之調査難行届依テ先ツ藩ヨリ調出ス原書之侭ヲ誌ス」とある。当時も特定するに困難だった様子が伺える。古文書の中で、産物名が出て来るので、特定しがたいのもあるが、まずは掲げてみる。

 「琉球国(藩)」の物産
 ・米 ・麦
【雑穀類】
 ・粟 ・下大豆 ・本大豆 ・白大豆 ・小豆 ・青豆 ・唐豆 ・インロウ豆 ・篇豆 ・菜種 ・胡麻 ・真黍 ・黍

【菜蔬類】
 ・唐芋 ・大根 ・黄大根 ・牛蒡 ・カヤ芋 ・山芋 ・田芋 ・くわい ・蕪(かぶ) ・蓮根 ・ハジカミ ・しつ
 ・薤(ニラ) ・志めじ ・松露(ショウロウ:キノコ一種) ・ほうれん草 ・唐菜 ・紫蘇 ・春菊  
 ・あかさ(観葉植物?) ・寒山菜 ・仙本 ・ウン菜 ・ウイキョウウ ・にら ・はんたま ・ひいな ・ふき
 ・味噌菜 ・唐もし ・クハン采 ・川芹 ・田もし ・木瓜 ・西瓜 ・冬瓜 ・春瓜 ・糸瓜 ・にか瓜 ・なん瓜
 ・きん瓜 ・つふる ・タチワキ ・フウロウ ・茄子 ・木ノ子 ・落地生 ・防風 ・ミミソリ

【家畜野獣】
 ・猪 ・牛 ・馬 ・羊 ・鶏

【魚介】
 ・白魚 ・めばる ・まくう ・たまん ・くつなき ・かたかす ・しつう ・くまひき ・ゐの魚 ・それか ・つくら
 ・ふか ・永良部蘇 ・海馬 ・海鼠 ・いか ・たく(タコ) ・こばしみ ・小えび ・屋久貝 ・あさかい ・あばす
 ・かまんた ・亀 ・さゑ ・けとん ・紅かひ ・白かひ ・あしかみ ・てらさ ・高尻 ・蛤(はまぐり)

【果実類】
 ・九年母 ・荔枝(れいし) ・龍眼 ・柿 ・里桃 ・山桃 ・芭蕉実 ・蕃拓榴 


 ・桑 ・楮(こうぞ) ・櫨実 ・
 ・麻 ・芭蕉芋 ・藍 ・紅花 ・木綿 ・烟草

【材木類】
 ・杉 ・樫 ・いく ・松 ・いちやう ・椎 ・きす ・木+去 ・ともん ・ざふん ・とそん ・秋木 ・山里木
 ・黒ほう ・わふん ・志わまけ ・楠 ・せんだん

【薬品】(70ほどある)

【海草類】
 ・海人草 ・ミル ・すのり ・ふのり ・ツノマタ ・

【織物】

【芭蕉布】

【泡盛】

【塩】

【油】
 ・菜種油 ・胡麻油 ・桐油 ・カタシ油 ・柴油 ・永良部油 ・ほか油 

【紙類】
 ・百田紙 ・芭蕉紙 ・藁唐紙

【蝋燭】

【炭薪】

 (工事中)


201635日(土)

 調査記録メモをみると、平成18623日~25日と翌19年8月4日~5日にかけて沖永良部島を訪れている。それとは別に、まとまった報告はしていないが、ノロ関係遺品の調査や各ムラなどの調査で訪れている。知名町について息切れで途中でストップ。確か「琉球と三島(与論島・沖永良部島・徳之島)」をテーマとした講演があり、直後、他のテーマでの講演があり、知名町のムラ・シマを整理することができなかった。

 積み残し知名町をムラ・シマを中心に訪れる予定をしている。ときどき、北山文化圏やシニグ・神アサギ文化圏は、三山(中山・北山・南山)の時代の北山(今帰仁グスク)を拠点した時代の名残として捉えることができそうである。北山文化圏としてみていけるキーワードの一つがシニグである。沖永良部島の根強く残るシニグ流れを把握したい。それは沖縄本島から東海岸の伊計島や宮城島などで行われているシニグの流れを流れの比較をしてみたいと考えているからである。シニグの伝承を持つ知名町と和泊町のムラ。

 内城は世の主の居城地、下城は世の主の生誕地。もう一つの「世の主伝承」も視野にいれてみること。
  ・上納使 ・三月の歳月 ・世の主の誕生 ・世の主の幼年時代 ・世の主の琉球上り
  ・水鏡の裁き ・第三代世の主 ・宝刀の由来 ・世の主の自刃 ・世の主一族の滅亡 ・四天王の争い

【知名町】
 平成18623日(金)~25日(日)まで鹿児島県沖永良部島にゆく。三日間にかけての調査メモである。ここでの「まとめ」は参与観察記録をベースしている。現場での観察記録なので、随時訂正及び補足していく。整理するにあたり参考文献も参照。


①赤嶺
 
赤地氏宅の後方広場がメーシクレドーであった。
 ・アーニ・アニディル(赤嶺の赤嶺殿)


②竿津
 ・シニグドーにはシニグ石があり、そこに旗を立て、馬に乗ってきた人にハミショーを供えて迎えた。
 ・メーシクレドーでムラの人達が朝食をとった。


③余多


④屋者
 
・シニグドーに石ブスがあった。
 ・シニグドウーではミショーをつくり酒盛りをしてシニグ遊びをした。
 ・屋者マサバルの墓
 ・屋者の五輪塔


⑤久志検
 ・アーニディルの墓
 ・久志検は赤嶺原(アーニーメー)の西側の谷間にあった。そこから今の久志検の地に移動。


⑥上平川
 ・シニグドーでシニグ遊びをした。
 ・シニグドーの西側にブス(盛土)があり、そこでシニグ祭のとき、ミショーを飲んだ。
 ・上平川の大蛇踊り(元禄13年頃から舞始める)。


⑦下平川


⑧芦清良
 
・集落内にシニグミチがあり、幅40cmほどの小道が通っていた。
 ・シニグ神はハミダカサアム(神だかい)

 
        ▲芦清良生活館                  ▲拝山神社         


⑨黒貫


⑩瀬利覚
 
・シニグドーに馬をつないだ石があった。
 ・シニグミチ(シニグドー→ヌブイ道→マチヂニグ→大山のヒガヤマサキ
   (大山のヒガマサキに現在の知名町全体から集った)
 ・マチシニグから大山のヒガヤマサキへの途中にティダグムイとチキュグムイがあり、そこの穴にミショウを
  注ご供えた。
 ・ヒガマサキに各ムラの百(ヒャー)が旗を立てて供をつれて集った。
 ・瀬利覚と屋子母との分かれ道では「戦い」の催しがあった。そこはハミダカサアム(神高いところ)として
  恐れられた。

 瀬利覚の林家には数珠玉や簪などがある(現在知名町中央公民館の保管)。(調査画像がでこず)

⑪(小米)


⑫知名


⑬屋子母
 
屋子母に殿家・神屋・ワーテ(高田姓)の三旧家があり、百(ヒャー)田、百(ヒャー)畑を所有している。殿家は没落しているという。これらの家からノロ・根神・百が出たのであろうと。殿家が旧ノロ家ではないか。

 大坪(平?)家は平氏の落人と称し、平姓を名乗る。具民(陽氏祖)、久米氏(前氏祖)は代々与人役を世襲している。大坪家には平安統の記した「世之主由緒書」がある。
  世之主かなし由緒書(嘉永三年・宗武重所蔵)
  世之主由緒書(嘉永三年・平安統) 上と同一文書?

 ・シングドー(ミショウーヌミドー)に石ブスがあり、そこに旗をててミショーを祭って飲んだ。
 ・この石を割るとヤーヌ、チカリユン、家が倒れてしまう。
 ・シニグドーの隣りにマーハラシドーあり。
 ・シニグミチがありシニグドー(屋子母)から大山のヒガヤマサキへ。そこでシニグ遊びをした。

 ワーテ家(高田姓)はユタを世襲している。かつて百(ヒャー)家であったか?
 ノロが関わった祭祀は、シヌグのみ(9~10月の乙酉)。

 安政2年以来弾圧を受け、明治2年廃仏毀釈で壊滅し、シヌグ祭も廃止される。


⑭津勘


⑮徳時




⑯住吉(島尻)

 住吉の福永家に髪差(8.1cm)や神女(ノロ)の簪(カブ)、馬にかます轡(くつわ)などが所蔵されている。カブの簪と髪差があり、セットのようである。福永家はハーミヌヤー(神の家)と呼ばれる。(住吉ノロ家かどうかは?)


⑰正名(馬鹿村)

⑱田皆


⑲下城

 下城の世之主神社
 世之主の生誕の地と言われている。
 ・和泊町内城と知名町下城に「世之主神社」がある。内城は世の主の居城、下城は世の主の生誕地。



 


⑳上城
 上城に要氏一族があり、世之主の末裔という。
 ・上城イニャト墓


21.新城




201634日(金)

 旧藩時代の「各部署」にどのような品目が納められていたのかの確認。税が米や大豆や黒砂糖など物納の時代、琉球藩(それ以前)の役所によって納品が異なっている(『沖縄県史』13 沖縄県関係各省公文書 2』より。その品目で、今では消えてしまったもの、食卓にあがってこないものや想定しがたいものがあり、一点一点確認する必要がありそうだ。

「米蔵役」

「仕上世座役」

「料理座役」の収得品目

米・米余勢・餅米・餅米余勢・麦・麦余勢・下大豆・下大豆余勢・白胡麻・白胡麻勢・黒胡麻・黒胡麻勢・
けし・からし・太白砂糖・氷砂糖・唐白砂糖・桔餅・琉白砂糖・散砂糖・布越黒砂糖・生白魚・生いか・干塩魚
・干いか・豚肉・玉子・萩・青唐九年母・芭蕉実・けどん・庭鳥・あひる・木ノ子・ミミギリ・塩舞葺・塩松茸
・岩茸・青板昆布・川茸・水前寺ぬり・五島ぬり・三島ぬり・かつう・諸白・蓮根・小菜・石うれん采・牛房・大根
・冬・干蕪・干大根・炭・薪木

「大台所役」の習得品目品目
 ・米・米余勢・餅米・餅米余勢・下大豆・下大豆余勢・麦・麦余勢・本大根・本大根余勢・・白胡麻・白胡麻余勢
 ・黒胡麻・黒胡麻余勢・明松・薪木・炭・木ノ子・みみくり・白菜・冬瓜・干塩魚・生魚・散砂糖・黒砂糖

「普請奉行役」

「銭蔵役」

「鍛冶奉行所役
 ・千割鉄 ・竿銅 ・錫 ・鉛 ・金薄 ・鍋地金 ・松屋祢 ・軽石 ・鍛冶炭 ・米 ・銅

「瓦奉行役」
 ・米・銅銭・大薪木・割薪・地久葉ノ葉・とま・真竹・黒小縄

「貝摺奉行所役」
 ・米 ・銅鉄 ・渋 ・明松灰墨 ・八重山白中布 ・粉朱 ・漆 ・金薄 ・銀薄 ・江ノ買入

「小細工奉行役
 ・米 ・銅鉄 ・渋 ・勝わら ・わら小縄 ・下芭蕉寄糸 ・五寸回ル唐竹 ・大半紙 ・麦ノ粉 ・渋 ・棕櫚美簾縄 
 ・大半紙 ・麦の粉 ・渋 

「砂糖座」

「船手蔵


「仕上世座」



201633日(木)

今帰仁グスクの桜の開花状況

 ムラの納税や祭祀を扱う場合、祭祀は今で言う国(クニ)が定めた公休日(神遊び)である。かつては旧暦で行われていた。祭祀に関しては今でもほとんど旧暦で行われている。『耕作下知方並諸物作節附帳』から当時の作物(稲・きび・しゅら苗・田いも・さつまいも・冬瓜・青瓜・きゅうり・へちま・綿・粟・しょうが・大豆)などの作物が栽培されている。以下に掲げた作物や山林木など、さらに輸出品や輸入品をを頭に描きながら山原のムラ・シマを見ていく必要がありそうだ。

 その他に主要なる作物に砂糖・甘藷・米・山藍・葉煙草・芭蕉苧・芭蕉布・麦・大豆・豌豆(えんどう)・粟蜀・黍・麻苧・などがある(一部だぶりあり)。牛蒡・椎茸・茶樹

 山林
  ・樫 ・椎 ・イーャ ・赤木 ・タブ ・伊集 ・槙(まき)  以下造林(明治42年以降) ・樟 ・松 ・杉
  ・相思樹 ・槙(まき) ・棟  ・木麻黄 (樟脳・樟油・桐油) (パナマ・木綿織物・芭蕉布・畳表など) 

【山原からの輸出品】(大正4年度)
  ・砂糖 ・米 ・泥藍 ・紙帽子 ・薪炭材 ・かつお節 ・豚 ・牛 ・芭蕉布 ・山原竹 ・芭蕉実 ・煙草
  ・木炭 ・用材 ・アダン葉原料 ・苧麻 ・貝類 ・小豆及び緑豆

【輸入】(大正4年度) 
  ・泡盛 ・白米 ・煙草 ・石油 ・大豆 ・木綿布 ・板類 ・衣類 ・木綿糸 ・素麺 ・醤油 ・肥料
  ・茶 ・昆布 ・木材 ・陶器 ・種子油 ・食料 ・雑品


  道光二十年(和暦 天保十一年)
   耕作下知方並諸物作節附帳          大宜味間切
            地頭代 山川親雲上
            総耕作当 山川親雲上 前田親雲上 宮城築登之
 目 次
  一、農事一般

  二、 居年の播種期と農具の準備
  三、 毎月の農事ごよみ
  四、 あとがき

 毎月の一日に村々の地頭、掟、耕作当が番所へ集まるさいに申し渡す農事の方法に関する項目を次に記す

一、農事一般
 ○田畑については、いくら耕しても肥料を使わなければ収量が少ないことは誰でも知っている。
  肥料を調達するには、よくよく念を入れなさい。

 ○肥料は、牛馬や羊を屋敷内で飼わなければ思うように確保できないものである。したがって、
  以前からたびたび申し渡された通知を確実に守らなければならない。

 ○農民は、毎日の野良仕事から帰るとき、牛馬、山羊用の草、かや、すすきの類、木の小枝などを
  運ばなければならない。かや、すすきは、台所近くの庭から豚小屋の前まで広げておいて踏みつけ、
  雨の降るときにはぬらさないようにがつのところに取りこんでおく。腐ってきたら豚小屋に入れ、豚
  に踏ませたのち肥料小屋に積んで貯えておき、使用すること。

 ○田ごしらえのとき、あぜ草は鎌で刈り取ること。鍬を使うとあぜをくずしてしまうのでかたく禁止する。
 ○大雨が降って田畑、河川、道路に被害があったときは、すぐさま組の者たちで補修すべきである。
   もし被害が大きく、組の者たちだけで修理できない場合には、惣耕作当まで申し出て、検者、地頭代
   の検査を受けたうえで人夫の増員を願い出ること

 ○堤防の保全には十分念を入れること。

二、稲の播種期と農具の準備
 ○屋嘉比、親田、見里、城、根謝銘、一名代、喜如嘉、饒波、大宜味、根路銘の十か村では
  八月の秋分から五十五、六日たったら稲の種子を播きなさい塩屋、屋古前田、田港、渡野喜屋
  津波の五か村では、、同じく六十五、六日目に播種すること

 ○鍬、鎌、へら(漢字)、おの、やまがたな、ざる、竹かご、もっこ、蓑笠

 これらの農具は農民には絶対に欠かせないもので、ない場合には山仕事のさい困ることになる。一月と七月の二度、地頭、掟、惣耕作当が検査し、その状態を検者と地頭代まで報告すること。


三、一月の農事ごよみ

一  月
○念入りに田ごしらえをする。
田植えの適期は場所によって違うので、いつごろから行ったらよいか、相談すること。
きびを播く。
○山の新開地にを播く。
○黒かじを挿す。
しゅろ苗を植えつける。
田いもを植えつける。
さつまいものつるを植えつける。
○さつまいもの種いもを伏せこむ。
とうがん、青瓜、きゅうり、へちまの播種をする。

二  月
○田植えをする。
○畑を耕起、整地しておき、雨が降って土がうるおいしだい、さつまいものつるを植えつける。
綿を植えつける。
しょうがを植えつける。
さつまいもの種いもを伏せこむ。
○そてつの種子を植えつける。

三  月
○畑を耕起、整地しておき、雨が降って土がうるおいしだい、さつまいもや各種の作物を植えつける。
大豆の播種をする。
あずきの播種をする。
粟畑の除草をする。
○稲の播種をする。
○平地のさつまいも畑の除草と施肥をする。

四  月
○山の新開地の地ごしらえをし、さつまいものつるを植えつける。
の除草をする。
粟畑の除草をする。
綿畑の除草をする。

五  月
○畑を耕起、整地し、さつまいものつるを植えつける。
の除草をする。
畑の除草をする
綿畑の除草をする。
大豆畑の除草をする。
さつまいも畑の除草をする。
○稲の作柄調査をする。

六  月
○畑の耕起、整地をして、さつまいものつるを植えつける。
○稲刈りをする。
秋作稲の播種をする。
○薩摩への上納米について、調製も含めて村々で準備するよう申し渡す。
大豆畑の除草をする。
○綿畑の除草をする。

七  月
苗代の耕起、地ごしらえをする。
○さつまいものつるを植えつける。
秋作稲を植えつける。
○さつまいも畑の除草をする。

八  月
大豆と小豆の収穫、調製が終りしだい、畑の耕起、整地をする。
○さつまいものつるを植えつける。
○田の荒起こしをする。

九  月
綿を移植する畑を耕起、整地する。

十  月
○湿田の荒起こしをする。
○二度目の田打ちをする。
稲の播種をする。
麦の播種をする。

十 一 月
○山の新開畑を開墾する。

十 二 月
○三度目の田打ちをする。
の播種をする。
○山の新開畑を開墾する。

四、あとがき
 このたび、前記の数か条をかたく守るように村人に申し渡し、さらに田地御奉行様から示された条項をかたく守るように申し渡した。ついては、その結果を報告されるようお願いいたします。
  道光二十年(天保十一年)十一月                           さばくり一同
 惣耕作当一同               地頭代
 以上のように、村人に農事にはげみ怠りなく働くよう、かたく申し渡したことを報告します。
  道光二十年(天保十一年)十一月                            検者 下知役

以上の『農務帳』一冊と『耕作下知方並諸物作節附帳』一冊とは、農事の重要な規範でアあるから、おろそかにすべきではないが、大宜味では廃棄してしまったのだろうか、きちんと保管されていないので田地方のものを写して改めて下付した。ここに書かれているように、念を入れて耕作するよう申し渡しておく。一所懸命に耕作にはげみ、生活が安定するように常々申し聞かせてきたが、今回改めて申し渡すしだいである。以上
  道光二十一年(天保十二年)二月
    検者 屋嘉比筑登之親雲上                        下知役 仲吉筑登之親雲上
  地頭代  喜如嘉村 山川親雲上殿
  惣耕作当 同村   山川親雲上殿
  同右   塩屋村  前田親雲上殿
  同右   同村   宮城筑登之殿


201632日(水)


 一、喜美留菜久美と申候宝刀之申伝世主時代喜美留村え扇子丈と申者罷居、いか引差越処刀一腰つり
   上宝刀の訳も不相分者にて魚を切候得者まな板迄切込夫より秘蔵致置候処其子右刀を以て怪我仕
   夫故相果申候付立腹之余りに古場野と申野原之真名を切申候処二つに切割候に付恐入本の海中え
   投捨て候由 左候処海中にて光をあらはし候を城より御見届使者を見以御取寄御秘蔵被成置候由
   其比世の主へ奉公仕届申候島尻村住居国吉里主と申者之為勝負馬二匹致所持候に付世の主より
   所望被成候付一匹は進上可仕と申上候処二匹共にと無理に御所望被為成候処吉国里主より一上候
   者私事此馬之助けを以遠方より御越え毎勤仕候儀御座候間一匹は御免し被下段段奉願上候得共
   御聞入無之御取揚被成候付国吉うらみを含中山え逃渡私主人には喜美留菜津久美と申候

   宝名刀馬等相備へ中山大王へ謀反の企仕申上候段処中山より使者差越永良部世の主には宝刀御所持  
   之持由相聞得候間御見せ可給段被仰越候処 世の主御返答には私事此海外の小島に罷居宝刀の扶
   助にて嶋中相治罷居申候得者差上申儀不申段被断候由 然処中山の家臣共之内智有人隠に当嶋え
   被渡奥方に手盗取帰国為仕由右仕合以後相知り殊に北山王も落城宝刀も被盗取旁々付気鬱被成
   居候折柄中山より数艘の船渡海に付軍船と御心得直に御自害の由申伝も御座候

   右之通り私先祖より代々申伝御座候夫々書記差上申候 以上
           与人格 本間切横目勤
    嘉永三年戌三月(1850)  内城村居住   平 安統


201631日(火)

 平成1819年に「沖永良部島のムラ・シマlを踏査している。「琉球と奄美三島(与論・沖之永部・徳之島)」について、それら三島で講演や報告、あるいはノロ関係の資料調査をしたことがある。ただ、歴史について踏み込んでまとめたことがないので、整理してみることに。今年が北山と沖永良部島との関わりで600年になるとか。そのこともあって沖永良部島(特に知名町)から何組も訪問があった。

 「沖之永良部島と北山」との歴史について語られるのは、「北山次男、沖永良部島世の主御由緒」がベースになっているようである。長文になるが、全文掲げてみる。以下の文面は嘉永三年(1850)喜美留間切横目勤 内城村居 平 安統である。[

 「世の主に関する記録」は数点あり、すべて目を通す必要あり。①沖永良部与人役大坪平安山(大坪氏の祖) ②与人役具永久(陽兼良氏の祖) ③与人役久米村(前氏の祖) ④与人役前里(与論島大野前弘氏祖) ⑤与人役喜久里(与論麓氏の祖)の五名が連署で薩摩藩に報告下記録のようである。下の画像は20066月撮影の一部。(※下線部分は訂正した文) 以下の文は『沖縄県国頭郡志』所収の「沖之永良部世の主御由緒」より。


 一、琉球国之儀往古中山、南山、北山と三王為被成御在城由北山之儀者今帰仁の城主にて琉球之中
   より国頭五ヶ間切その外伊江島、伊平屋島、与論島、沖永良部島、徳之島、大島、喜界島を御領分
   にて御座候由、北山の御次男右真松千代王子の儀者沖永良部島為御領分被下御渡海の上、
   玉城村金之塔
へ御館を構え被成候由、左様処大城村川内の百と申す者、御召烈兼々猟銃に
   古里村
の下与湾海へ御差越海上より、右川内の百等分の古城地指し、彼地之儀は大城村
    地面地面にて御座候に付き、世の主加那し御居城御築可被遊段申上候処忝被思召との御
    返答にて則其比、後蘭孫八の居城と申者え築城方被仰付三年目に城致成就就夫より御居城と
   相成候由

 一、世之主加那志御奥方之儀は中山王の御嫁にて御名前真照兼之前と申唱候由

 一、本琉球国之儀、三山御威勢を争へ度々合戦為有之候由然処北山今帰仁城の儀は中山の大将
   尚巴志は、北山の本部大原という者の謀反により攻亡され、南山も落城終に中山一統に相成
   申由、右に付而世の主か那し事頼少なき小島に而鬱々として被成御座候折柄 中山より和睦之
   使船数艘渡海有之候由末実否御聞届も不被成、此方事北山の二男にて候得者中山よりの軍船
   は相違無之候在候得者小島を以大国に難敵を直に奥方を始御嫡子其外無残御差違へ御自害之
   由

 一、右騒動之砌男子三歳若主一人女子五歳之者一人乳母之真牛兼と申者右御両子列上西原村あかれ
   百所え逃越候折柄西原村の下え徳之島船着船いたし居候を頼入徳之島へ罷度巳後中山領島相成
   嶋中無異相治候に付嶋役共より王子御迎として渡海致候に付御帰島被成候へ共幼小御子にて本城
   之住居難被成古城より北に相当り小高き処へ御館を構へ御直り被戒候に付則今に直(ネヲ)り城と申
   唱候

 一、右直り城之子孫孫成長之上中山王御取立代々大屋役被仰付相勤l来候由依而当分の私迄も嶋中の
    者共大屋子孫と申唱候尤大屋役何代相勤申候哉不詳候 
      右女子之儀王女之故妻嫁可仕似合無之古城之下え結小庵一生寡(やもめ)にて終られ候由右
       小庵の屋敷于(ここ)今男子禁戒

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           ▲与湾の浜             ▲大城村の世の主加那志の館跡

 
  ▲後蘭孫八の居城跡の説明版                 ▲世の主の墓