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北山の時代と沖永良部島(講演)
北山の時代と沖永良部島(講演)アップする。
2016年11月28 日(月)
ここで「まとめ」たいことが数多くある。奉公人と香炉について、質問をうけました。そのことについては「奉寄進の石香炉と上国」で報告していますのでご参照ください。
2016年11月24 日(木)
沖縄地域史協議会の羽地間切の中央部地域の一部を案内します。史料を読んでまとめる時間がないので、午前中その地域を踏査しました。踏査しながらまとめをと。その後、東海岸の嘉陽(上)グスクへ。土曜日の「やんばる学」の研究会があるの瀬嵩の名護支所の会場確認。
嘉陽(上)グスクの整備?行われているのか、伐開されているようだったので杖をかりて登ってみた。坂道や階段道の側に先月桜を植樹されている。記念木として植えてある。一本一本に屋号や名前があり、心込めての植樹である。五年、十年したときには、期待に応えて見事な桜並木になるでしょう。気にしている神アサギの礎石がしっかりと残っている。すぐ側の斜面に赤瓦があり、神アサギの屋根に使われたものか。それとも祠につかわれたものか。神アサギと見られる礎石の側に凹みがあり、小さな水をためるく凹みでも作ってあったのであろう。
(三カ月ぶりにフィールドワーク。歯をくいしばって登ったら歯がパチリ。明日人前にたつので歯科へ。ノリつけ状態は解消)
嘉陽グスクに注目しているのは、御嶽(ウタキ)でもありグスクでもあること。森全体がウタキ、そして頂上部の拝所がイベ、周辺の拝所を合祀したのが昭和14年建立の神殿。拝殿が神アサギ。鳥居を含めて神社形式をとっている。『沖縄諸祭神祝女類別表』(明治17年調査か)に「嘉陽村城御嶽」とあり、御嶽(ウタキ)でもあり城(グスク)でもあると認識されている。ウタキあるいはグスクの神聖な場所がイベ。このように見るとウタキからグスクへ展開していく。グスクになっても、そこにはイベが残される。
神アサギが集落内に移動したのは? 高いところの御嶽(ウタキ)あるはグスク内にある神アサギは祭祀場として、集落内にある場合は祭祀場と、もう一つ租税(物納)の一時集積する役割も果たすと見られる。
山原でグスク内にある神アサギは
根謝銘(ウイグスク) 羽地(親川)グスク 今帰仁グスク(大正まであった) 名護グスク 嘉陽ウイグスク
▲上城への登り道 ▲桜植樹の記念。私も登れた記念にパチリ
▲昭和14年建立 ▲神アサギの礎石か
▲祠(神殿)の内部(火神・玉石・ビジュル石。合祀か) ▲合祀されなかった拝所
2016年11月19 日(土)
24日(金)沖縄県地域史協議会の研修会。羽地間切域の一部、案内することに。この地域は、沖縄研究の二番目の場である。一番目は今帰仁村で、今帰仁の歴史、民俗、地名調査、地方役人の世界などの調査研究に手を染めた、スタートの地域である。数多くの歴史民俗、地名、字誌など、数多くのテーマで報告してきた。それと並行する形で羽地間切域にも手を染めてきた。今回、羽地域のほんの一部を案内する。案内のため、関わる部の整理でも。一部書き改め。案内する地域の調査記録を集合させてみます。「羽地大川碑文記」も整理したが、どこかにか。当日まで探してみます。
画像はここ15年足らずの撮影であるが、立て直しのがいくつも見られる。歴史は生き物であることを実感させれる。文章も表現も変わる。そこに自分の研究の深化と広がりを実感させられる。
・羽地大川改決碑(1743年)→勢渡火神殿内→(田井等神アサギ)→ノロが馬に乗る石→番所火川→番所ガー→魚クムイ(学校跡地)→ウドゥンシリガー→羽地グスク(神アサギ・池城里主所・按司地頭火神)→仲尾フルジマ跡(仲尾ノロドンチ跡・根神火神・神アサギ・掟火神)→トンネル→勘定納港→蔵跡地→羽地内海を眺めら羽地支所へ。
「改決羽地川碑記」について『名護碑文記』(昭和62年発行)に背伸びして原稿を書いたことがある。再度読み返してみることに。
【2014年6月22日】調査メモより
羽地間切の親川・田井等と仲尾までいく。羽地グスクのある親川村を祭祀遺跡を通してウタキ・グスクを持ったムラ、間切番所を持ったムラ、そして分離したムラの形を見ることを狙いとする。また仲尾は羽地間切の祭祀の要となるノロが仲尾ノロ(1623年の辞令書で大のろくもいと記されている)である。「羽地按司御初入」(1870年)で訪れた祭祀場や招かれたウェーキ家などが、今でも確認でき、『琉球国由来記』(1713年)に記録された祭祀や御嶽や神アサギなどの確認調査は、変化しにくい部分やムラ・シマの形を歴史的に見ていく上で不可欠であろう。
仲尾村の『琉球国由来記』(1713年)には登場しないヒチグスク(御嶽)のイベまで、仲尾古島から上る。途中にイベが置かれていたのを頂上部に配置換えしたようだ。(途中に赤瓦などがある。頂上部のイベはコンクリート。別で紹介します)
・親川村は田井等村から1730年代に分離する。(祭祀は親川と田井等が一緒に行う)
・親川村と田井等と村が分離すると神アサギはそれぞれの村に置いた。
・村が分離する前に置かれた羽地番所は田井等村である。村が分離した時、番所がおかれた
場所は親川村地内となる。そのため、親川番所と呼ばれる。
・羽地グスクは村が分離する前は田井等村地内であったが、分離したときグスクは親川村地内と
なり、別名親川グスクと呼ばれる。
・羽地グスク(親川グスク)
・羽地(親川)番所跡
・神アサギは『琉球国由来記』(1713年)に二つあり。
・グスク内にある神アサギ(神アサギの後方から一段下の畑の回りは土塁と石垣の郭となっている)
・池城神アシアゲは田井等村であるがグスク地内にある神アサギ。
・『琉球国由来記』(1713年)の池城里主所(火)神はグスク内にある。
(両惣地頭や按司地頭が出てこない。数ヶ所で登場する池城惣地頭火神か)
・親川地内に殿地と御殿跡がある。
・番所ガー、番所火神、ハンバタガー(番所側ガー)、ウドゥンガー
・イユクモイ(魚小堀)(番所への来客用のイケスの可能性あり)
▲羽地グスク(番所跡地より) ▲羽地間切番所火神か。。
▲グスク内の池城里主所(火)神か ▲グスク内にあるのが池城神アサギ
▲旧家の火神? ▲仲尾ノロが馬に乗る石 ▲旧家屋敷にあるガー(内部)
▲羽地グスク家の遺構イベ? ▲親川グスクの碑の後ろにある拝所
羽地按司御初入(1870年9月3日~26日)(『地方役人関連資料』名護市史資料編5)
・1870年9月
赤平仲尾親雲上(9~19歳まで御殿奉公)。檀那様が羽地間切にやってくる。
・9月3日 羽地按司をお迎えてのために9月3日に出発。
・9月6日 羽地按司出発日に首里に到着。
台風のため出発を延期する。
・9月8日 首里を出発する。読谷山間切宇座村で一泊する。
・9月9日 恩納間切番所で一泊する。
・9月10日 名護間切番所で一泊する。
・9月11日 羽地間切番所に到着し真喜屋村で宿泊する。
・9月13日 按司一行は親川村にある御殿火神、親川城、勢頭神御河、御殿御川
仲尾村のろ火神、真喜屋のろ火神と御嶽で御立願
・9月14日 按司一行は屋我地島へ渡って我部村のろ火神と御嶽、饒平名のろ火神、いりの寺、
東の寺で御立願(お昼の休憩所は饒平名村我部祖河大屋子の家でとる。済井出村
と屋我村を巡検し真喜屋の宿舎に帰る)
・9月15日 羽地間切主催の歓迎の宴が行われた。
・9月16日 羽地按司からのお返しの御馳走の招待。
真喜屋村の宿舎へ赤平仲尾親雲上が参上した。
(招待者:間切役人:サバクリ・惣耕作当・惣山当・文子・御殿奉公した者・各村から下知人など)
神人14人、勘定主取、80歳以上の老人達)
・9月17日以降
羽地按司一行は羽地間切の以下の家に招かれる(以下の6家)。
仲尾次村の下の松田仁屋(仲尾次ウェーキ)、上の仲尾親雲上
伊差川村の古我知大屋子(伊差川古我地屋)
川上村の現真喜屋掟(新島ウェーキ)
源河村の現呉我(源河ウェーキ)
我部祖河村のこしの宮城仁屋(我部祖河ウェーキ)
・9月26日 羽地按司一行は帰途につく。
赤平仲尾親雲上達は羽地大川の中流のタガラまで見送る。
【旧羽地間切のウェーキ】
①羽地間切伊差川村三十番地平民 玉城善吉
伊差川村帳内だけでも
仕明下田(大又原) 1,350坪 叶米高 9俵
仕明下田(キチル原) 400坪 叶米 2俵
仕明下田(フカ原) 800坪 叶米 5俵
仕明下田(ウチバラ原) 640坪 叶米 4俵
仕明下田(クビリ原) 450坪 叶米 3俵
合計 下田坪高 3640坪 叶米 23俵
※玉城善吉は仕明地を小作させて叶米(小作料)23俵(1俵を3斗として6石9斗)の純益を得た
ことになる。
貢祖も仕明地の竿入はおおまかで、貢租の対照となったのは一部で、大部分は竿はずれで
免税地となっていた。仕明地主は無税に近い貢祖に高い小作料によって土地集積を行った。
②羽地間切我部祖村の宮城家
前 田 16,390坪 田
奈佐田 14,080坪 田
内原 17,000坪 田
内 袋 11,000坪 田
内 原 7,000坪 畑
前川又 1,500坪 田
仲尾次又 1,500坪 田
振慶名の前 2,100坪 田
竹の口 2,000坪 田
合 計 田 65,570坪
畑 7,000坪
※名子(下人30人、女子5人)使役して財産の蓄積を行った。
明治36年の土地整理以前に仕明地を大規模に持ち(2000坪余)、以後のウェーキになる
基礎となる。
③羽地間切仲尾次村の松田家
田、畑、山林 10町歩
名子 男子25人、女子6人
小作料だけで300俵
④羽地間切源河村の島袋家
田、畑、山林で約20町歩
牛6頭 馬5頭
小作料 700俵、その他に自家生産で330俵
※島袋家は仕明地(約2000坪)がウェーキになる基礎にあったとみられる。明治36年の土地整理
以前にすでに仕明地を大規模に確保。
【分離した田井等村と親川村】
1750年頃、田井等村を分離して親川村が創設された。村が分離した痕跡がどう残っているのか。地図上では田井等と親川の区分は明確にできるが、現場での小字の境界線の見分けは困難である。親川村創設の時、田井等村の集落の中心部分を分けている。田井等村の中心となる田井等(テーヤ)と親川村の親川(ウェーガー)は隣接してあることから、旧田井等村の中心部となる集落を二分したと見られる。それと田井等村にあった番所やグスクや神アサギの位置している場所は親川村地内となる。そのために羽地番所を親川番所、羽地グスクを親川グスクと呼ばれるようになるのは、そのためである。
・田井等の小字(黄色部分)
仲間/里又/田井等/井ガヤ/福地/小堀/サデマシク/山田/大川/
タガラ/又喜納/シブチャ又
・親川の小字(茶色部分)
親川/前田/真嘉又/魚小堀原/イパザフ/上増/碑文前/竹ノ口/多幸田/次我真/
大川/カジラ又/ウヅル又
▲田井等と親川の小字
2016年4月1日(金)メモより
これからどんな調査記録ができるかスタートです。これまで15年ほど継続できましたが、公の肩書を下したとたん、やはり縛れていたことを実感。気ままに現場でに出かけ、記録することに。
4月1日名護市仲尾の神アサギ、仲尾ノロドゥンチ、根神ヤーなどの新築完成したのを拝見。その後、1736年に現在の今帰仁村の呉我山から移動村である。平成25年の調査メモ、その前にノロドゥンチ調査メモを加えておく。
【平成25年7月7日】調査メモより
昭和63年発行された『名護市史―わがまち・わがむら―』を開いている。この本には、私の「沖縄研究の原点」があるからである。封印してきた本でもある。今回「やんばる学研究会」が羽地地域であったのと、その本の封を切る意味もあって両手をあげた。
それとは別に、羽地地域を神アサギ・公民館・羽地域の御嶽とイベ、羽地域のノロドゥンチ、移動村、ムラ・シマ講座、羽地大川流域のムラなどの調査を進めてきた。
名護市(旧羽地間切)仲尾にある勘定納港。北山が中山の連合軍に滅ぼされた時、山原の国頭・名護・羽地・金武の按司達をはじめ中山の軍勢が終結した港だと伝えられている。そこに終結した軍勢が海路と陸路に分かれて今帰仁グスクを攻めたという。そのこともあって度々訪ねるのだが、その痕跡は未だ見つけ出すことができない。それは伝説なのかもしれないが、北山滅亡へ導いた港である。
それとは別に近世の琉球国の四津口(那覇・湖辺底・運天・勘定納の四つの港)の一つであることに間違いない。これまで描いてきた津口(港)の常識を覆す港に違いないと考えている。そういう空想めいた発想を胸に秘めながらの「仲尾ゆき」であった。はたして・・・・・。
仲尾は「羽地域の歴史」を描くのに欠かせない場所である。今帰仁間切の運天港は、北山の歴史と肩を並べる程、歴史的な出来事を提供する。今回まとめる勘手納港(仲尾)も「運天の歴史」と同様な歴史が描けるかどうか。
【羽地域の略年譜】
・1622年 「はねしまきり 大のろくもい」(仲尾のろ職補任辞令書)
・1625年 「はねしまきり 屋かのろくもひ」(屋我ノロ職補任辞令書)
・1652年 向象賢(羽地朝秀)、羽地間切の総地頭になる。
・1674年 大宜味間切創設、羽地間切の平南村と津波村を田港(大宜味)間切へ。
・1735年 蔡温の監督のもと大浦江(羽地大川)の大改修工事。
・1736年 呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村が羽地間切の内側へ
移動(方切)。湧川地内を今帰仁間切へ。
村移動からみえてくるもの。ノロ管轄の変更なし。
・1742年 羽地間切、元文検地を実施する。
・たこ川原/くすく原
・1744年 改決羽地川碑記建立する。
・親川村が田井等村から分かれる。番所は親川村地内となったために親川
番所や親川グスクとなる。
・1785年 「親見世日記」に「勘手納津口jで御米を積んで出航。
付近に惣地頭屋敷やバンジョイ。
・1816年 バジル・ホール一行、羽地内海(仲尾村一帯)を調査する。
「湾の先端にあるこの村は、浜辺との間の一列の樹木によって北風から守られ、背後は抱きかかえ
るような丘陵によって保護されている。浜辺との間に広い道が走り、家々の周囲に植えられた樹木
は鬱蒼と茂って、建物をおおい隠さんばかりである。墓地に近い村の中央には広場があって、すで
に述べた高床式の穀物倉の一群が建っている。壁は網代の編んだ藤でつくられ、ねずみ返しが設
けられていた」(『朝鮮・琉球j航海記』(1818年)
・1866年「支那冊封使来琉諸記」に、冊封使が琉球に来ているとき、島尻や中頭方の米の積み出しは浦添の牧湊まで陸j路で運び、
馬濫船運天・勘手納へ運び、そこで御国船(大和船)でに積み込むことが記されている。勘手納港は、大和への仕上米を積み出す
重要な港の役割を果たしていた。
・1835年 仲尾村の集落が仲尾兼久へ移動する。
「村の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を造った。両兼久の竿入れをしたら、百姓持ち
の土地あので、村敷(屋敷)にしたいと願い出て認められた。この時期に、勘手納に7家族、東兼久に
4家族が引っ越してきたことがわかる(「羽地間切肝要日記」)。
・1853年 ペリーの探検隊が勘定納港から親川にくる。
・1879年 番所に首里警察署親川分署をおく。
・明治14年上杉県令は、国頭巡回の時、仲尾村勘手納港から船に乗っている。
「勘手納港ニ出ズ。官庫瓦ヲ以テ葺ケリ。役所詰員及ビ村吏ノ奉送スル者、皆別レヲ告グ」と
(『上杉県令日誌』)。
▲名護市仲尾(勘手納港)(『名護市史 わがまち・わがむら』)
▲今帰仁村運天(ムラウチ集落と港)
・仲尾のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 500円(証券) 35円80銭(現金) 計535円80銭
【仲尾ノロ】(名護市仲尾)
この辞令書は羽地村(現在名護市)仲尾の仲尾ノロ家にあった辞令書のようである(『かんてな誌』掲載)。天啓2年は1622年である。同じ頃の辞令書に屋我ノロの辞令書(1625年)がある(「辞令書等古文書調査報告書」掲載)。仲尾ノロ家には明治の資料があり散見したことがある。20年前のことである。それとは別に島袋源七文庫(琉球大学)にも仲尾ノロ関係の資料がある。それらの資料については手元にコピーがないので触れることができない。
ここで仲尾ノロ家の辞令書が気になる。現物にあたろうとしたこともあるが、未だ目にしていない。ここで興味があるのは、仲尾ノロが「大やこもひ」と記されていることである。屋嘉ノロ辞令書は「やかのろハ」(屋嘉ノロ)と村名の屋嘉がついている。仲尾ノロは17世紀には「大のろこもひ」と呼ばれていたのであろうか。
『琉球国由来記』(1713年)では中尾巫と表記される。中尾ノロは羽地間切のノロの中で間切全体のノロを統括している。羽地間切に同村がない。主村は田井等村だったようである。しかし祭祀は仲尾村が要になっている。羽地間切の惣地頭は仲尾村の神アシアゲと池城里主所(火)神、それと池城神アシアゲの祭祀と関わっている。海神祭(ウンジャミ)の時、羽地間切の仲尾ノロはじめ、真喜屋ノロ・屋我ノロ・我部ノロ・トモノカネノロ・原源ノロ・伊指(差)川ノロは仲尾の神アシアゲに集まり祭祀を行っている。羽地間切全部のノロが集まるのは仲尾の神アシアゲである。それからすると辞令書で仲尾ノロが「大のろくもひ」と記されているのは、羽地間切全体をまとめるノロであった、そのような事情があってのことにちがいない。
↑
首里の御ミ事
はねしまきりの
大のろくもひ
もとののろのうまが
一人ひやかなに
たまわり申候
天啓二年十月一日
▲仲尾ヌルドゥンチ跡 ▲ノヌルドゥンチの火神
証明願
私儀
當村内ニ居住目下生存シ且明治十九年三月県達甲第十七号ニ抵触
セザルモノニ付御証明相成度此段相願候也
沖縄県羽地間切仲尾村五拾八番地平民
明治廿九年一月 受領者 大城ナベ
羽地間切地頭代 喜納 豊永 殿
【仲尾のろの役地】(宮城真治ノート、羽地村誌資料 84頁)
我部祖河原一敷、四○○坪、四俵叶
同我祖河原一敷、三五〇坪、四俵叶
呉我ハタグ原 三〇〇坪 二俵
ウーギリ 二〇〇〇坪、十七俵
振慶名ターラ 二〇〇〇坪、三○俵
セールマ 一五〇坪、二俵
西ヌハーヂラ(門天) 八〇俵叶
計 二八〇俵叶
【川上のろ】
一〇〇坪位の地所
羽地間切
羽地間切については、「羽地と地方役人」で詳細な解説がなされているので参照する(「地方役人関連資料」(名護市史資料編5)。各間切とも羽地間切と同等のレベルで論ずることはできないが、間切と両惣地頭との関係を具体的に、また体系的にまとめられた研究である。間切から首里王府や御殿や殿地との関係や間切から中央を照らし返してみることのできる絶好のものである。
羽地間切の事例を踏まえて、各間切と按司地頭家や親方地頭家、首里王府との関わりを間切(オエカ人・ウェーキ・ノロなど)がどう見ていたのか。時代は変わっても、その目線は今も変わっていないのではないか(変わらないものかもしれない)。
「羽地間切各村内法」に両惣地頭と関わる条文がある。
第一条 夫地頭掟ハ平常□村ヘ出張第一身分ヲ慎万端正道ニ相勤百姓中ノ亀鑑ニ相成
候様左候…百姓迷惑掛候由相聞候ハゝ糾方ノ上頭御役両惣地頭御差図ヲ以テ
重キ御取扱可仰付事
第四三条 百姓地及村持ノ地頭地オエカ地・・・・
第九五条 …田地御方両惣地頭ヘモ御案内ノ上当人…
【羽地間切と両惣地頭家】
・羽地御殿(按司地頭家)
・池城殿内(親方地頭家)
・羽地間切の脇地頭家
「午年羽地按司様御初地入日記」(同治9年:1870)は、解説によると羽地按司が領地に初めてやってきた時の様子を記したものだという。一行の羽地間切での動き、「覚」(日記)を記したのは受け入れ側である。按司様一行をどのようにもてなしたのか。そして、どのような拝所を廻ったのか。羽地間切内の源河と伊佐川を除いた「のろこもい火神」(ノロ殿内)を廻っている。按司家から間切役人への拝領物の進呈、間切から按司家への進上などがある。
他の間切でも按司や惣地頭などが間切へやってきた時には、同様な対応をしていたのではないか。その事例があるので『琉球国由来記』(1713年)の「両惣地頭」が関わる祭祀の時、首里からやってきた時、間切は同様に対応をする様子が浮かんでくる。
・同治9年(1870)9月3日/羽地按司が初めて羽地間切にやってくるのでお迎えに首里に向かう。
・同9月6日/羽地按司の出発の日であるが、5日から6日まで台風のため、出発をひかえる。
・同9月8日/羽地按司はじめお連れ衆(総勢16人)が出発し、読谷山間切宇座村で一泊する。
・同9月9日/恩納間切番所に一泊する。
・同9月10日/名護番所に一泊する。
・同九月十一日/羽地間切に到着。羽地番所で御三献して真喜屋村の宿舎へ。
羽地按司は川さう仲尾親雲上宅
御内原(按司様の奥方)は前地頭代川上親雲上宅
役人はおかいら親川親雲上宅
親泊筑親雲上はたんはら屋
間切の役々は仲尾筑登之宅
・同9月12日/(翌日の準備、それと休息日としたのか、動きはとして何も記されていない)
・同9月13日/御立願をする。
①御殿火神(親川村)→②城(親川)→③勢頭神御川(親川村)→④御殿御川→
⑤のろ御火神(仲尾村)→⑥のろ御火神(真喜屋村)→⑦御嶽(真喜屋村)
・同九月十四日/屋我地御立願
①のろこもい御火神(我部村)→御嶽(我部村)→③のろこもい御火神(によひ名村)→
④いりの寺(饒平名村)→⑤東の寺(饒平名村)→済井出村→屋我村を巡検される。
・同九月十五日/間切から招待
・同9月16日/按司様から真喜屋村の宿舎にさばくり(5人)、惣耕作当・御殿に仕えたもの・
間切役人・神人(14人)・80歳以上の老人を招待される。
(拝領物あり) (進上物あり)
(9月17日~25日の間についての記録がないが、その間、拝領物や進上物や間切役人など
の訪問があったであろう
・同9月26日/羽地大川のたから(タガラ)から東宿で帰られる。
(首里までの到着の記録はない)
御殿と殿内への奉公人(後間切役人へ)
「地方役人関連資料」(名護市史)に御殿と殿内へ奉公した奉公人がいる。それら奉公人(後の間切役人)と御殿と殿内との関係は、密接な関わりが読み取れる。奉公人の御殿、殿内を崇めたてる気持ちは、平民も同様なものとみられる。まだ確認していないが、出身地の村のウタキなどの拝所の「奉寄進」の香炉に彼らの名があるかもしれない(未確認)。
・羽地間切川上村の親川仁屋(羽地按司家)
・羽地間切仲尾次村の平良仁屋(羽地按司家)
・赤平地頭代プスメー(松川仁屋)(羽地間切古我知村)
・上里仁屋(羽地間切振慶名村)(池城御殿)
・宮里清助(池城殿内)(羽地間切稲嶺村)
・親川登嘉(羽地間切川上村)(羽地按司家)
▲神アサギの神殿にある変額
▲羽地(親川)グスク
▲グスク内にある池城里主所火神? ▲ウドゥンシリガー
2016年11月16 日(水)
急きょ、予定の変更があり恩納村史編さん室まで。帰路 ムラ・シマ講座の下見で名護市喜瀬まで。南から北へのいつものコースと反対向き。名護市喜瀬と思って集落に入る。稲刈りの時期で来週までは刈り終わっているので、実り豊かな風景をお見せするには遅かったか。どうも、頭に描いていた名護市喜瀬の集落は訪れないうちに変わりすぎていることにショック受ける。集落kに入る途中「恩納ナビー」の資料館が目につく。そこでここは恩納村安富祖なのだと。それでも集落内をまわり、名嘉真を通りこして名護市喜瀬へ。せっかくなので恩納村安富祖の様子でも紹介しましょう。ウインドウ10にしたら、画像が取り込めません。こlれまでの、あれこれの機能が不具合。ハハハ
▲恩納村安富祖の水田 ▲稲刈りのまだの水田
▲ガードレールにイネほし(恩納村安富祖)
2016年11月12日(土)
戦後の聞き取り調査をしていて、社会の動きを把握していないと、言葉だけでなかなか体にはいてこない。それで戦後の行政記録から拾っていく。台湾からの引揚帰還、そして日本からの引揚帰還が次々と。
1946.1.29 救済食料の配給開始
2.12 台湾からの101名引揚帰還
2.15 日本紙幣認印終了
2.16 台湾から64名引揚帰還
2.17 海防艦で日本から27名引揚帰還
2.22 台湾から157名引揚帰還
2.23 台湾から95名引揚帰還
3.3 海防艦□で日本から38名引揚帰還
3.11 台湾から62名引揚帰還
3.15 台湾から61名引揚帰還
3.16 日本から19名引揚帰還
3.19 米艦で沖縄本島から365名引揚帰還
3.25 台湾から20名引揚帰還
3.26 台湾から32名引揚帰還
3.29 台湾から246名引揚帰還
3.30 台湾から36名引揚帰還
4.3 台湾から42名引揚帰還
4.4 台湾から11名引揚帰還
4.11 台湾から83名引揚帰還
4.12 台湾から41名引揚帰還
4.13 台湾から20名引揚帰還
4.14 台湾から227名引揚帰還
4.15 旧紙幣をB軍票に切替える。
4.26 台湾から510名宮古経由引揚帰還
4.27 台湾から864名宮古経由引揚帰還
4.28 台湾から238名宮古経由引揚帰還
4.29 台湾から209名宮古経由引揚帰還
4.30 台湾から20名宮古経由引揚帰還
5.1 台湾から1,861名宮古経由引揚帰還
5.12 台湾から81名引揚帰還
5.16 台湾から59名揚帰還
5.20 中城村を分割して、北中城村を設置、名護町を分割して藪村を設置
5.21 羽地村を分割して屋我地村を設置
5.27 知事の名称を「沖縄県知事」と決定
6.3 賃金制により民政府職員に最初の俸給を支給
6.5 米軍補給物資の無償配給を打ち切る
8.17 日本からの引き揚げ帰還者第一船入る
9.9 日本から940名引揚帰還
9.18 日本から900名引揚帰還
9。29 日本から273名引揚帰還
10.5 512名の疎開学童引揚げ船入る
12.12 八重山開拓協議会開催
1947.3.22 全島に亘り住民の昼間通行許可される
4.5 開拓庁開庁す
5.29 ハワイから贈られた漁具伝達式
10.8.2 円覚寺鐘比島より帰る
10.24 米国からの沖縄救済山羊194頭到着
1948.7.16 通貨切替実施(日本円をB円に)
8.17 軍から突如市町村売店閉鎖の指令あり
8.18 最初のハワイ留学生三名研究生二名嘉手納飛行場から出発
8.26 志喜屋知事再三陳情の結果、売店点閉鎖指令保留となる
9.27 ハワイ厚生会からの贈物豚537頭到着
11.20 八重山移民に関し調査団を派遣
1949.3.29 日本から沖縄への旅券発行を開始
4.1 米国からの乳山羊275頭到着
4.21 米国から第二回目の乳山羊286頭到着
7.20 米国から黒697頭到着
8.30 ソ連からの復員77名帰る
10.4 カナダ日本人聖公会長牧師中山吾一氏来島
1950.1.21 琉球放送局(AKAR)放送開始(琉球の声:試験放送)
3.5 中城公園開園式
3.12 第1回 ハワイ観光団到着
3.31 ハワイの沖縄難民救済会から女教員に贈られた洋服生地の授与式
4.12 軍換算レート120円 一対一ドル実施
4.25 第二次ハワイ観光団到着
5.6 琉球大学校舎引き渡式
6.14 第三次ハワイ観光団到着
8.1 港村那覇市に合併
8.3 アルゼンチン呼寄せ移民百余名出発
1951.1.12 琉球大学開講式
3.25 アルゼンチン呼寄移民316名出発
9.17 第三次亜国呼寄移民173名出発
9.17 ボリビア移民についての協議会、出入国管理課において開く。
1952.2..4 アルゼンチン呼寄移民79名出発(戦後5回目)
11.13 ブラジル移民促進に関し南米時事新報社長より主席宛書簡あり。
11.27 ボリビアのうるま移住組合から移民使節派遣要請。
1.28 ペルー婦人会の寄付金沖縄キリスト教会に交付。
2..16 主席、ブラジル移民問題について、来島中の松原安太郎氏と会談
6.22 ボリビアの崎山シゲオ氏から移民入国および土地贈与の許可に大統領が署名した旨報告あり。
7.25 うるま移住組合のボリビア農業移民計画案にボリビア大統領が署名した旨同国務省から正式に発令。
8.5 ボリビア移民促進軍民合同協議会。
8.13 南北米への移民使節団派遣を民政府承認。
8.18 移民促進座談会、映画「起ち上る琉球j」撮影始まる。
8.22 ボリビア移民第一回渡航費として民政府から16万ドル補助する
以下つづく
2016年11月11日(金)
今日はちょっとした補足調査ができそうである。ノロが祭祀のとき、乗るのに使っていた馬の鞍である。馬の鞍部の腰当てをなおしてもらおうか。シュロの皮が手に入いればだが。さて、どんな話になるか。もう一点確認調査がある。三ヶ月ぶりのフィールド調査になるか。墓の確認は平成2年以来である。詳細は別稿(なきじん研究)やHPなどで報告済み。(具体的なことは、調査の収穫がありしだい。午前中で終えることができるか?) 出発!
2016年11月10日(木)
「北山の時代と沖永良部島」のことが頭の中で渦巻き、切りかえができず。山原の五つのグスクでも張って切りかえだ。
①根謝銘(ウイ)グスク
大宜味村謝名城にあり、かつては城・根謝銘・一名代は国頭間切の村であった。1673年に国頭間切を分割して大宜味間切を創設。そのとき、根謝銘グスクは大宜味間切域となる。屋嘉比川が流れ屋嘉比港があった。グスクが港として機能していた頃、田嘉里川の上流部の屋嘉比集落の麓あたりに舟や荷揚げなどの地名があり、その名残をうかがわしめる。
②羽地(親川)グスク
羽地(親川)グスクは田井等村に位置している。1750年頃田井等村を分割して親川村を創設する。羽地グスクがあった場所が親川村知内に位置していることから親川グスクと呼ばれる
③名護グスク
名護グスクの領域は名護湾域から東海岸まで広がる。1673年に名護間切と金武間切の一部を分割して久志間切が創設される。
④今帰仁グスク
今帰仁間切は本部半島の全域をしめていた。1666年に今帰仁間切を分割して伊野波(本部)間切となる。沖縄本島が三山に鼎立していた時代、北山の拠点になったグスクである。
⑤金武グスク
1673年の金武グスクは金武町・宜野座村・名護市・恩納村の谷茶以北の村を占めていた。1713年頃には金武グスクはほとんど機能していなかったようである。
2016年11月9日(水)
沖永良部島行きは、ハプニングの連続。公表できません。沖永良部島に置いてきました。さて、今日から次へスタート。外は冬に入りかけたか風景。気温が下がっているので、その間に酒を飲んでいる状態から回復せねば。北へ西へと。今日は北へ。
昨日は数点の問い合わせへの返答。ノロ関係三、史料の出店、古宇利島の「すんどう」、島に住んでいた方の生活についてなど。百科事典並だな。関わってくれた方々が手伝ってくれますので楽ちん。サンキュー
2016年11月3日
講演レジメ準備オッケー。さて、沖永良部島へ出発。乗り遅れないように。急げ!!
2016年11月2日(火)
11月に入ります。8月9月10月は、フィルドワークがほとんど出来ず。日差しが大分弱くなったので、フィールドができそう。再発しないように様子をみながら。工事中のが多いな。
ここしばらく沖永良部島、その後は大宜味村の移民などに時間をさくことに。とは言っても他にもありますね。