地域調査・研究(2016年10月)

                                  
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2016年10月28日(金)

 「北山の時代と沖永良部島」でシニグ(祭祀)を扱うのには理由がある。北山の時代(12世紀〜15世紀初頭)の時代の沖永良部島のオモロの内容から、北山の時代の様子を謡っている場面がある。

    (工事中)



2016年10月23日(日)

   「北山の時代と沖永良部島」 
(11月5日シンポ) 

    ・中北山の時代と沖永良部島
    ・発掘調査から見た「中北山の時代」
    ・今帰仁城の築城とオモロ
    ・オモロと沖永良部島―沖永良部島の築城―城のつく村々
    ・ハニジ王の二男
    ・オモロと後蘭城跡と後蘭孫八
    ・中北山之由来記と世之主由緒
    ・北山の落城と沖永良部島
      (北山王の千代金丸と世之主王の宝剣)
      (北谷菜切と(喜)美留菜津美)
    ・沖永良部島にのこっていたシニグと今帰仁ムラのシニグ
    ・オモロで謡われている沖永良部島のノロと遺品とシニグに関わる百(ヒャー)
      (知名町の下城の世之主神社にまつわる伝承とシニグ)
などなど。(工事中)




         ▲今帰仁グスク本丸の説明版





2016年10月21日(金)

 「沖永良部島と北山」の歴史の筋を通してのまとめにはいている。新城徳祐先生の「北山史話」が最終部となった。北山神社の建設に関わったお一人であった。北山神社の建立は実現しなかった。新城徳祐資料群には「北山史話」や「中北山之由記」や「北山神社許可願書」などがある。氏のノート写真は『なきじん10号』に収録すみ。(資料は公開していません) 「北山史話」の発刊、そして仲宗根先生の序文が、徳祐氏の公務へつながったとみてよさそう。

 今回この資料を使うのには理由がある。今次大戦で戦後すぐに公務に就けなかった。公務復帰のいきさつが、その序文(仲宗根政善先生:当時琉球大学副学長)に現れている。それと『今帰仁方言辞典』の編集中、今帰仁村与那嶺から今帰仁グスクの写真を何枚も写しているからでもある。序文を掲げると、
 昨年の五月、私は新城君にともなわれて北山城跡を訪ねた。終戦後始めてであった。
 城跡の東南端、志慶真御門の高い物見に上り、五月の陽光に輝くクバの御嶽の新緑を眺め志慶真の渓流のせゝらぎを聞きながら、しばらく北山の絶景に見とれていた。クバの御嶽の新緑のしげみをわけ、山ごもりに登って行った白衣の祝女たちの姿までが眼に浮んだ。
 城春にして草青み荒廃した古城跡は黙して語らなかった。ところがそばに立っている新城君は、あのクバのお嶽の祭のことから、城の由来、城内の配置、落城にまつわる伝説、一木一草に至るまで詳しい説明をしてくれた。北山城跡に関する限り、新城君ほど之を愛し詳しく調査した者はなかろう。君は実地に調査した綿密な地図を持っていた。現在城跡は史跡として指定保存されんがら、その調査研究は極めて不十分である。恐らく君の研究をおいて他にになかろう。君は今日まで知られなかった史実をいくつか明らかにしている。
 今後研究をすゝめる一段階として「北山史話」をまとめ発刊することは誠に喜びに堪えない。北山の人々には城跡に対する愛着を贈させ、また一方城跡をひろく世間にひろく世間に紹介することになろう。
 心から発刊を祝し今後一層の研鑽を祈ってやまない。
              一九五七年二月一日         琉球大学副学長  仲宗根政善

 「北山史話」から「中北山の時代と沖永良部島」についてまとめる。

       (工事中)


 

2016年10月19日(火)

 ボツボツ「沖永良部島と北山―歴史的視点から―」(仮題)でもまとめてみるか。

    ・中北山の時代と沖永良部島
    ・発掘調査から見た「中北山の時代」
    ・今帰仁城の築城とオモロ
    ・オモロと沖永良部島―沖永良部島の築城―城のつく村々
    ・オモロと後蘭城跡と後蘭孫八
    ・中北山之由来記と世之主由緒
    ・北山の落城と沖永良部島
      (北山王の千代金丸と世之主王の宝剣)
      (北谷菜切と(喜)美留菜津美)
    ・沖永良部島にのこっていたシニグと今帰仁ムラのシニグ
    ・オモロで謡われている沖永良部島のノロと遺品とシニグに関わる百(ヒャー)
      (知名町の下城の世之主神社にまつわる伝承とシニグ)
などなど。



2016年10月16日(月)

 北山の歴史で「中北山の時代」を描くのに四苦八苦されている。正史では巴志以前時代について史料の少なさもあるが、天孫氏王統、舜天王統、英祖王統、察度王統、尚思紹王統とし、歴史を描いてある。北山はその王統から外れてくるので「正史」の枠からはずれ「野史」として扱われてきた。三山鼎立(北山・中山・南山)時代の北山は怕尼芝・a・攀安知の時代以前は「野史」を手がかりにするしか、今のところなさそうである。野史や伝承でみた北山の歴史は、
    ・前北山時代(先北山、または大昔北山ともいう)
    ・中北山時代(中昔北山、または昔今帰仁ともいう)
    ・後北山時代(後今帰仁ともいう)(北山三王時代ともいう)
    ・監守(第一・第二監守)時代ともいう。

 さて、中北山時代を「野史」ではどう描かれているのか。まずはその土俵に立ってみることに。

      (仲北山の攻防)


 沖永良部島との関係は以下のように述べている。以下のことが根強く伝承されている。

 「仲北山は二、三代の後その臣本部大主(大腹とは違う人物)の謀反にあって一旦落城離散し、子孫が隠忍していてやっと城地を取り返したが(『北山由来記』にはこの若按司を丘春としてある)悪運未だに尽きず、一、二代の後再び一族は怕尼芝のために打ち滅ぼされしまった。(シナ音でニジと発音するというから、あるいは羽地按司であったのではあるまいか)怕尼芝は弘和三年(1383年)より初めて明国へ入貢し、与論・沖永良部の諸島まで制服し北山王国の基礎を固めた人である。(沖永良部島には今帰仁王の次男真松千代王子の城址あり、内城には子孫がいて、世之主御由緒という記録を保存している)とある。」(『補遺伝説沖縄歴史』島袋源一郎著)

 沖永良部島の方が、研究が先行しています。

 
      ▲沖永良部島の世の主城跡         ▲後蘭孫八城跡(後蘭)




2016年10月15日(土)

 北部の各地でシニグが行われている。そのこともあってシニグ文化圏と称している。今帰仁村と隣接する本部町には具志堅や備瀬や辺名地などで行われている。本部町は1666年まで今帰仁間切の内であったため、今帰仁村でも行われていたのであろうと考えていた。今帰仁間切ではシニグは他の祭祀に組み込まれて、その祭祀の一部をなしていると見てきた。先日(13日)「今泊風土記」としての講演をする機会があった。北山文化圏、神アサギ文化圏、そしてシニグ文化圏など三山の時代から今帰仁グスクを拠点としてきた北山の時代。その北山の足下である今泊(今帰仁村と親泊村の合併)でシニグが行われていたことをしる。それは重要なことである。そのことは祭祀が歴史の重要な、変貌しにくい部分を継承しづづけていることの証でもある。

【消えたシニグ】「新城徳祐ノート」より

 島折目(シマウイミ)海神祭(大折目)の三日目に行われる。両方の神ハサギを神人がウガンをする。男神(17人)はシニグン根でウガンをして各門中から出た神人は各々棒を持ってトントトトンと言って棒で地を叩き、口でも言う。その時に前の者がトントトトンというと後ろの人たちはユーイユーイという。

 その時、その神人達が通る側の家々は清掃する。その神人達は最も清掃された家に入り上座より台所へ抜けてて出ていく。その神が入る家には幸福が訪れると言われている。島の大役、川田の大屋が頭で各門中より一人宛出て合計17人である。

 最後に古宇利屋(フイヤー)のアジマーにて終わる。その時にシニグン根に向かって行事が終わったという合図をし、そこに村人も集まって宴を張る。昔は島の大役の火神を拝むでからシニグン根に行ったと伝えられている。



 ▲親泊側のシニグ道(「新城徳祐資料)

※沖永良部島と与論島のシニグと沖縄のシニグの比較

2016年10月14日(金)

 パソコンがやっと回復。その間、沖永良部島ゆき11月に行われるシンポの調整、調査なしでの沖永良部島行きを決意したのであるが、皆川、ウジジ浜で坐礁した外国船、国道620号沿いの余多→屋者→芦清良→黒貫へ、目的地の時時の四並蔵、シンポで話す下城(しもじろ)の世の主神社、そこでミカンを収穫されている方から話を伺う。撮影まで。飛ばして後欄の孫八城、内城の世の主の墓、世の主城、少し時間があったので畦布(大和城跡)→伊延(西郷上陸の地)→国頭→喜美留の海岸、そこで時間切れ。やはり調査はしていました(習性か)。12時の下りフェリーで揺られながら本部港へ。

 今帰仁村今泊での「今泊風土記、「恩納村史」二回の会議、前回私自身の都合でできなかったムラ・シマ講座、体調が回復してきたので大宜味村の押川の下見へ。一つひとつ報告することができず。沖永良部島から帰ってから体調が大分回復。紫外線を避けての生活が続いたいたが、自然の紫外線にあたったせいか体調よし。病院の看護婦さんと薬局の薬剤師さんから、こっそり日焼けクリームで「日焼けをさけてね」とこっそり「顔につけてね。つけすぎないで。お面をかぶった顔になるから」と忠告を受け、念のため一回は塗ってみた。その効果は?

 明日のムラシマ講座の準備でも。下見は講座に参加してくださる仲嶺氏が同行してくれました。資料は大宜味村史編さん室からいただきました。天気はどうかな? 大雨でも現地にいける場所の確認をしてあります。大雨でも開催します。猪垣まで行かれる方は杖が必要です。(周辺の皆様にご心配をかけました。もう大丈夫ですから。再発しないよう用心しますから)。


2016年10月2日(日)

 戦後資料(外地引揚・移住)関係資料の確認をする。その一覧を掲げる。今帰仁村でもいずれ『海外移住や移民』について村史を発行するであろう。その見通しをつけるための作業である。歴史文化センターが所蔵する移民・出稼ぎ・引揚資料の一部のタイトルのみの紹介。(※資料に関しての問い合わせには対応しかねます。悪しからず)

 「帰還証明書」や「引揚証明書」や「復員証明書」などから、例えば金城秀雄氏の「引揚証明書」から、氏名生年月日、本籍、引き上前の住所マニラ、軍人。右ハ昭和二一年十二月三十一日佐世保港ニ上陸セルコトヲ證明ス
     昭和二十一年十二月三十一日
               厚生省佐世保引揚援護局
    給與金品記載欄
    応l急用主要食糧特配購入券  応急用味噌醤油特配購入券
などに記載がある。


1.帰還証明書綴り(昭和22年)(大阪・北海道・神奈川県・島根・兵庫・台湾からの帰還証明書)

2.「強制引揚海没者名簿」(昭和37年)沖縄外地引揚者協会
  没船名(31船) 員数(計423人) 海没年月日 (報告済市町村のみ)

3.「強制引揚海没者名簿」(昭和52年)沖縄外地引揚者協会

4.「海外移住家族会関係書類綴」(昭和52年)

5.「沖縄外地引揚者協会関係文書綴」(昭和52年)
   事業計画書、声明書など 今帰仁村玉城公民館(映写会:10月6日午後7:00)海外移住事業団

6.「沖縄県海外協会関係文書」(昭和52年度)
7.「満州・北鮮・樺太・千島における日本人の日ソ開戦以後の概要」(昭和34年5月)
    厚生省引揚援護局 未帰還調査部(58頁+付録21頁)

8.「移住者だより」●

9.→22

10.東印度諸島引揚者名簿交換船引揚者名簿(昭和36年9月)

11.「南米への道」(1962年3月25日)経済局移住課 
    移住の種類、移住地の概要、移住の方法等の移住の手引き(冊子)

12.「引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律・施行令・施行規則」(昭和42年8月)
   内閣総理大臣官房 臨時引揚特別交付金業務室(昭和42年)

13.「南洋群島引揚者名簿」(終戦前)南洋群島海没者名簿(昭和36年9月琉球政府内務局)
   215頁 「南洋群島海没者名簿」(26頁) 「南洋群島引揚船遭難救助者の部」(4頁)

14.「引揚者国庫債権交付簿」(今帰仁村)

15.「法改 遺族給付金請求書送付簿」(1963年度)(今帰仁村)

16.「遺族給付金請求書送付簿」(1963年)(今帰仁村)

17.「引揚者給付金請求書求書送付簿」(1963年度)(今帰仁村)

18.比島引揚者名簿(援護課名簿より写)(1968年)(今帰仁村のみ)

19.「引き上げ者等に対する特別交付金の支給に関する法律施行事務要領」(1968年)

20.「引揚援護関係公文書綴」(1968、9年)

21.「外国送付金通知書交付簿」(受取 昭和32〜35年)

22.(委任状2件)知念孝蔵湧川(南洋) 神山康英(湧川)南洋(サイパン島)  


1.「帰還証明書」「引揚証明書」「復員証明書」がある(141名分)。
 
    
     @「帰還証明書」                  A「引揚証明書」           B復員証明書

  
「南米移民への道」(募集要項)         ▲移住者斡旋所(全景)           ▲移住者見送りの風景