2007年10月
               
                              沖縄の地域調査研究(もくじ)


20071031(水)

 『南方文化の探究』(河村只雄著)から戦前の風葬や墓についての情報を取り出し整理してみると、風葬の実態がどういうものだったのか、そのことを踏まえて墓の変遷 ・近づきがたい要害の地。
 ・葬式や特別の場合以外近づくことが禁じられている。
 ・断崖の上からグショウをのぞく。
 ・五つ六つの横棺が岩石の間に散在する。
 ・棺は丈夫な縄でくくられている。
 ・棺の上に下駄や傘などがくくられている。のような多様な要件と現場の実態や資料を照らし合わせながら今帰仁村の「百按司墓」は、歴史を軸としてどう描けるだろうか。
や構造などを考える必要がありそうだ。そ
 残念なことに河村氏は屋我地島から運天港を経由せず直接古宇利島に渡ったようだ。また、古宇利島から本島側への渡しは、戦前クンジャーバマなので、彼は運天港付近の墓は目にしていない。目にしていたら琉球の墓について、百按司墓をもとに確信をもった議論を展開していたのではないか。

【久高島の墓と風葬】(戦前)

 ・久高島の東海岸にグショウ(後生)という共同墓地がある。
 ・絶壁の谷間のようなところ。

 ・付近に骨壺が幾つもある。
 ・死体は棺に納められ、岩石の間に置かれる。自然と白骨となる。
 ・暴風のあとだったので棺の蓋が吹き飛ばされ骸骨が露出していた。
 ・普通、自然と白骨となったものが12年目ごとに洗骨され陶製の甕に納めれる。
 ・亀甲墓があり、やがてはこのような風葬は断つだろうと河村氏は予測している。
 ・久高島の上記の風葬は戦前にして現代的だと河村氏はいう。

 木棺には木棺に死人を入れ下の写真のように結わえ下駄や傘などをあるのは戦前まで行われていた風葬の形態とみられる。それが河村氏がいう現代的な風葬である。木棺にはこのように風葬に利用されたものがあることに注意を要する。

 『琉球共産村落の研究』(田村浩著:昭和12年)で河村氏と同様なことを述べている。

 久高島ニ共同墓地アリテ風葬ヲナス。海岸ニ近キ岩石ノ間ニ累々トシテ棺ノ横タハルヲ見ル。棺ハ木ニテ造られ風雨ニ曝サレテ汚損シ白骨露ル、昔時ハ死体ヲ其ノ儘崖下ニ遺棄シタリシモ、今ハ棺ニ死体ヲ納メ下駄・傘等故人ノ愛用セル私有品ヲ捧ゲ置ク。而シテソノ儘風雨ニ曝シ十二年目ニ洗骨ヲナシ陶製ノ甕ニ納骨ヲナス。此ノ共同墓地ヲ後生(グショウ)ト言ヒ人ノ往来ヲ禁ゼリ。

 前述セルガ如ク、琉球本島地方ニハ所々ノ洞窟ニ白骨累々トシテアルハ昔時墳墓ノ最モ原始的形式ナル風葬ノ一種ナリトス。




【粟国島の葬式と墓】(戦前)

 ・葬列が野辺に延々とつづく。
 ・ダビの先頭にたいまつもったのが二人。
 ・女のいたましい泣き声。
 ・魔物を追い払いながら冥土への道を照らして死人を送る。
 ・お経の文句を書いた旗が続く。
 ・位牌をもった相続人、一族近親の男子、一般会葬の男子が龕を先導する。
 ・龕の直後に女が着物をかむり、顔を覆って泣き崩れながら・・・。
 ・近親の女のも同様かんむり物をして大声で泣きながら続いていく。

 ・粟国の墓は門中ごとに作られている。
 ・堅い粘土岩の岩山のところどころに岩をくり抜いて作られている。
 ・大きなものは六、七十坪も広くくりぬいたのもある。
 ・内部は本島と大差なく奥が雛壇になっていて骨壺が並べられている(トーシー)。
 ・その前に棺を置くシルヒラシがある。
 ・シルヒラシのところに洗骨前の棺がすでに六つも置かれていた。
 ・最近のもありおびただしい蠅がウヨウヨしていた。
 ・近親の男たちが臭気の強い墓の中に新しい棺を運びいれた。
 ・近親の女性達は泣きながら棺によりすがり最後の別れを告げる。
 ・会葬者は無言で行列をなし集落に帰っていく。
 ・途中海浜に降りて潮水で身を清めて各々家に帰る。
 ・近しい女などは葬式の後も一週間位墓の入口の石をはずして亡き人に会にいく。
 ・臭気が甚だしく堪えられなくなって初めてやめる。

【奄美の洗骨の風習】

 ・奄美の洗骨文化は琉球からきたもの
 ・島津藩服属時代にも依然として継承されている。
 ・奄美の島々では洗骨のことをアーガリニーリ(日を拝ませる)という。
 ・洗骨後の処理の仕方は、島によって趣を異にしている。
 ・与論島と沖永良部島は、ほとんど琉球的である。
 ・河村氏は洗骨は「何といっても不潔で一日も早く改善すべき」との意見(洗骨廃止)
 ・洗骨をする人たちは「親に対する最後の最高の孝行である」との観念を持っている。
 ・奄美の島では洗骨屋という商売があり、謝礼を出して洗骨をさせる。

【与那国島の大和墓】

 ・別名屋島墓と呼ばれている。
 ・屋島の戦いで源氏の軍勢に敗れた平家の将兵など?(伝説)
 ・与那国島の人々は平家の落人の子孫?(伝説)
 ・明治の中葉頃まで馬の鞍や勾玉が散らばっていた。
 ・タブーがある。
 ・河村只雄氏は上記の伝説について否定的。
 ・大和墓の下方に昔の部落のあとがあり、旧部落の共同墓地であったのではないか。
 ・大和墓(写真)の内部に散乱している木棺の破片が気になる。


20071030日(火)

 河村只雄氏は風葬について以下のように考えられている。風葬は原始的な形態とも。墓の変遷まで。崖の中腹や洞窟など、そのような墓をみていくとき、風葬といわれている葬り方が、どのようなものであったの。以下のような状況を念頭に入れて墓をみていく必要がある。

【共同風葬墓】

 ・琉球において死人を葬った最も原始的な形態は先島・宮古の離島などで見られる風葬である。
 ・風葬というのは、天然の洞窟や「墓場の森」の中になきがらをただ置いて帰るのみ。
 ・墓参りや法事、位牌もない。
 ・山の至るところに骸骨がごろごろしているのは風葬である。
 ・岩陰ある人骨のも風葬体である。
 ・風葬している島には犬が飼われていない(犬に死体をあらされる心配がない)。
 ・空には多数のカラスが飛んでいた。
 ・カラスが人間の御馳走にありつくのかも知れない。
  (河村氏はそのようなものが最も古い風葬の形式ではないかと)
 ・近年(戦前のこと)になって死体を置いた洞窟の外面に簡単にのぞかれないように
  石を積むようになった。
 ・石の隙間から中がよく見える。
 ・生生しい人骨が見られる。
 ・河村氏は久高島の風葬はすこぶる近代化されたもの。
 一定の風葬地域のどこへでも死体を置いたのらしい。
 それが一族のもの、血縁者の近いものは同じ洞窟や岩陰に葬るように
   なったのであろう。
 その入口を自然石で無造作に積んで塞いだものが、次第に技巧的になっ
   たと考えられる。
 八重山地方のヌーヤ墓はその過渡期的存在であると。
 ・琉球の島々の方々に、時として数百の骸骨が遺棄されているが大きな洞窟があるが、
  それは共同風葬墓の跡ではないか。


20071028日(日)

 これまで数多くの墓を見てきたが、どうも墓を説明する「物差し」がきちっと整理されていないような気がする。それと墓は変遷をたどっており、また地域性もあると思われるが、一本の物差しで測り知ろうとしているのではないか。

 昭和11年琉球(沖縄)を訪れた河村只雄氏は各地の墓の様子を記録している(『南方文化の探究』講談社)。そこに、現在では理解しがたい墓を見る視点がいくつも述べられている。墓について説明するのに苦慮している一人なので、まずは河村氏の『南方文化の探究』から墓について整理してみることに(見通しのない思いつきなので、まだ先は見えていません)

【亀甲墓】

  ・母の下腹部をなぞらえたもの
  ・腹か出て腹に帰る。
  ・墓に棺を入れる入口あり。入口は石がはめれられる。
  ・漆喰で密閉される。
  ・入口が開けられるのは新しく死人がでたとき。
  ・墓の内部の前方に棺を安置する場所がある。
  ・奥の方は雛壇となっている。
  ・雛壇に大小の骨のはいた甕が置かれている。
  ・入口近くの平たい所に棺が安置され、その棺は次の死人がでるままにしておく(?)
       (三年忌や五年忌が来た場合に洗骨し甕に納める場合がある)
  ・その間に死体の肉は腐って骸骨だけが残る。
  ・骸骨を洗って厨子甕に納めて壇上に奉安する。
  ・厨子甕の配置は大体一定の決まりがある。
  ・初代祖先の甕は中央部の上段に安置する。
  ・貴族や資産家の墓は、初代は家型の小土棺を作って安置する(?)
  ・二代目は向かって左側、三代目は向かって右側、四代目は二代の次、五第目は
   三代目の次の順に安置される。
  ・上流階級は夫婦の洗骨は、始め別々の甕に納められ、夫は向かって左、妻は右。
  ・三十三年忌を経ると同一の厨子甕に移す。
  ・普通の家庭では夫婦の洗骨ははじめから同一の厨子甕に納める。

【破風墓】

  ・家の形をしたもの。
  ・墓の内部は亀甲墓とほぼ同一。
  ・破風墓も上記亀甲墓とほぼ同様とみられる。

【門中墓】(糸満の門中墓

  ・糸満の大門中墓(幸地腹墓)の事例
  ・門中よりさらに広い範囲の単位の「腹」の墓
  ・2000人の腹関係者がいる。
  ・全関係者から生(ウマリ)を徴収して墓を築造。
  ・墓地境内の坪数は1460坪。
  ・中央に間口五間、奥行き六間。
  ・墓の母屋(トーシー墓:30坪)がある。
  ・母屋の左右に二棟づつのシルヒラシ墓(仮墓)がある。
  ・シルヒラシ墓は別名アサギと言われている。
  ・母屋(トーシ墓)は四つのシルヒラシ墓(間口五間、奥行き六間、三十坪)を持つ。
  ・幸地腹のトーシ墓の奥には納骨洞があるばかりで厨子甕はない。
  ・シルヒラシ墓で白骨となった骨はトーシ墓の納骨洞に投入される。
  ・80歳以上のもの、一門の功労者は直接母屋(トーシ墓)墓に葬られる。
  ・直接トーシ墓に葬られることは一門員にとって最高の名誉。
  ・幸地門中は2000人近い血縁者がいるのでシルヒラシ墓は四棟設けられている。
  ・シルヒラシ墓は各々間口は二間半、奥行二間、七坪半の面積。
  ・各シルヒラシ墓は15ばかり収容できる。
     (昭和1112月のシルヒラシ墓の状況は向かって右より第一番目が15
      第二番目が14、第三番目が8、第四番目が7


20071027日(土)

 今帰仁村の文化祭が土、日の両日。展示部門について少し手伝うので館と会場と行ったり来たり。地域史や沖博協の研修で得たもののまとめの積み残しがたくさんあるが、次へ進まないと詰まってしまう。

 関西の高校生が三日間で700名近くがやってくる。ボラティアガイドの方々のお手伝い。日、月と続く。沖縄や沖縄の歴史などを学びたいという学校の姿勢に、ガイドの方が一生懸命に答えている。観光ガイドとは違った人となりを出しながら、今帰仁グスクをキーワードにして生徒たちを引きこんだガイドのあり方にいつも感心する。ありがたいものです。感謝。

 


20071026日(金)

 25日~26日沖縄県博物館協会「秋の研修会」(開催地:今帰仁村)
  [1日目]
   ・講演会 「山原(北山)の歴史と文化」  仲原弘哲(今帰仁村歴史文化センター)
   事例発表 「博物館と地域との関わり」
        ・発表者  山城 勇人氏(久米島自然文化センター)
               前田 一舟氏(うるま市立海の文化資料館)
  [2日目]
   ・古宇利島視察研修
       ・古宇利島の説明(小浜古宇利区長)
       ・島の探訪(仲原)

 
      山城氏の報告(久米島町)          前田氏の報告(うるま市)

 
 古宇利島の説明(小浜区長)(古宇利島)     解散式(古宇利の遠見番所跡で)


2007年10月24日(水)

 午前中で講演のレジュメ(25頁)とプロジェクタ、古宇利島案内資料の準備完了。これから頭の整理をして明日にのぞむ。

 地域史の研修会は波照間島(竹富町)と八重山博物館で終わったわけではなかった。博物館の後は、県公文書館のメンバーのアッシーで川平湾まで。冨野から於茂登トンネルを通り石垣空港へ向う予定が、一度はトンネルに向かっていたが、途中で折り返し、大田、野底、伊原間(舟越)から国道390号線を南下し市街地の空港へ。石垣島の5分の3程のドラブと相成った。空港で皆さんを降ろすと、そこから石垣島の一人旅である(車は使っていいとのこと)。車が無料で借りられたので、おおお、豪華なホテルに泊まれるぞ!(結果的には安ホテルなり)

 感覚を取り戻すために、向うはバンナ岳へ。バンナスカイラインは台風の災害か途中通行止。バンナ岳の展望台から市街地、竹富島、波照間島を眺め、明日は竹富島へ行くことを決めていた。

 バンナ岳を降り、再び川平へ。名蔵あたりの稲作のでき具合をみながら。台風や塩害で全滅状態。今回、川平へ三回足を運ぶ。先日祭が行われている。そのあと型を見たいと。それと川平の現在の集落とスクジ御嶽・群星御嶽・山川御嶽・宮鳥御嶽・浜崎御嶽との関係がどうなっているか。翌日、石垣市史の松村氏の案内で再度訪れる。松村氏から戴いた冊子に、集落の発祥地はナカマムリ(仲間盛)一帯に仲間村、その北に大口、東に仲栄と多田、古場川(久場川)、西、慶田城、玉得、大津原(内原)などの集落(小村)があったという。その後、集落は移動し古場川(上の集落)と大津原(下の集落)になったとある。御嶽と集団(一族)と司(神人)、そして集落移動。さらに行政村における集落(小村)との関係を知る手がかりとなりそうなのが川平村である。

 20日(土)は予期していなかった松村氏による石垣島講座があった。参加者は糸満市の金城氏、那覇市?の北野氏、そして私である。
 
 
     バンナ展望台からの眺め               実のっていない稲

 
      川平の群星御嶽                     群星御嶽のイベ

 
     カーへの神道?          川平湾沿いにある浜崎御嶽


20071023日(火)

 沖博協、文化祭、研修会などの準備・手配・確認・資料づくりなどで身動きがとれません。


20071021日(日)

 17日~19日まで波照間島と石垣島へ。沖縄県地域史協議会の研修会。波照間島を中心としたテーマ。17日は波照間農村集落センターで二本の講演。
  ・波照間島の村落形成(中鉢良護氏:名護市教育委員会文化課)
  ・波照間島の歴史と文化(玉城功一氏:竹富町史編集委員会編集委員)
 
 18日は島の30カ所近い場所を巡見する。数個のテーマを持っての参加である。沖縄本島北部と歴史・文化の関わりが希薄な地理的、人的な場所にある波照間島を見ることは、一般化する発想ではなく、それぞれの地の独自性として見ていけるのではないか。それと、沖縄本島との違いは16世紀に首里王府へ統治される以前の先島の歴史・文化が、今に伝えているのではないか。以下のことを思い巡らしながらの巡見であった。山原、あるいは沖縄本島で見てきた御嶽(ウタキ)と集落との関係、あるいはグスクなど。そこで見てきた法則性で先島の島々や村、あるいは集落と御嶽(オン・ワー)との関係をみるとどうなるのか。共通して使える物差と異なる物差で見なければならない部分があることに気づかされる。

  ・嶽(ワー)と集落との関わり(集落は村でなく人家がある地域として捉えている)
  ・現在までの集落移動の経過(低地段丘上島の中央部へ)
  ・嶽(ワー)と御嶽(ウタキ)
       (住居跡がワーにしていく傾向がある。本島では火神をまつるが香炉を置きイビにしてある)
  ・嶽(ワー)と祭祀(神人の出自と旧家)と島全体の祭祀関係(行政村以前の集落形態がみえそう)
  ・スク(グスク)と集落(ワーを中心として集落を形成、故地のワーも遺す)
  ・下田原グスク(大規模)と先島文化(下田原グスクを拠点とした時代を想定)
  ・下田原グスクを中心とした時代(波照間島)竹富島石垣島(先島文化に与えた影響?)
  ・歴史的な人物を排出した島(オヤケアカハチ・長田大主・ミスクシシガドン・ウヤマシアガダナ・
           ゲートゥ・ホーラなど:伊平屋・伊是名島が排出した人物にまつわる歴史が彷彿)

  ・石垣の白保にある波照間嶽と移住した民(移住先で嶽をつくる習性を持つ民)

 波照間島には天啓6年(1626)8月28日付の首里王府発給の辞令書(八重山間切の新本目差職補任辞令書)がある。その辞令書は『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県文化財調査報告書大18号)と『琉球文化の研究』(加藤三吾)付録の「八重山文化の探究」(河村只雄)に収録されている。ただし、『南方文化の探究』(講談社学術文庫)では辞令書の写真が外されている。

   首里の御ミ事             首里の御ミ事
   やへままきりの            八重山間切の
   あらぬとめさしハ           新本目差の目差は
   一人あらぬとのちくに        一人新本の筑登之に
   たまわり申候             給申候
  天啓六年八月二十八日       天啓六年八月二十八日

 辞令書の「あらぬと」は村名で、崇貞元年(1628)までに波照間村と平田村、そしてあらんと村が統合されたようである。辞令書は統合される直前である。首里王府と最南端の島との関係がうかがえる。

 『琉球国由来記』(1713年)では、波照間村とあり真徳利御嶽と白郎原御嶽と阿幸俣御嶽が登場する。
 
  
     オヤケアカハチの生誕地            長田大主と関わる嶽(ワー)

 
ミシュク集落跡にあるミシュクケー(井戸)      集落跡地にある石(イビ?)

 
    アースクワーの拝殿とイベ        ワー内の道筋(隣接して旧家がある)


 
     下田原城遺跡入口             下田原城遺跡の石積み

 
     下田原城遺跡の石積み         下田原城遺跡の石積み(通路跡?)         

 
     高登盛(コート盛)(火番盛)            高登盛の上部の様子

 
   波照間島でみた茅葺屋根の建物          屋敷跡の火神(ワー?)と香炉


20071016日(火)

  (出張研修のため20日まで休みます)

 久しぶりに名護市から国頭村の奥まで(西海岸)。石の香炉と石灯篭を手掛かりに踏査する。それと「歴史散歩」の原稿をまとめるためである。以前、触れてはいるがあらためてまとめることにする。今回足を運んだのは以下の通りである。

 ・親川グスク(羽地グスク)(親川城址碑・親川の神アサギ・池城里主所火神の祠)
 ・勘手納港
 ・羽地大川(改修碑)
 ・源河グスク(遠景)
 ・塩屋湾
 ・大宜味村の津波(原石・ター滝)
 ・大宜味村の根謝銘(ウイ)グスク
 ・国頭村比地の原石と三カ所(火神ヤー・中の宮・イビヌタキ)(石灯籠と石香炉)
 ・国頭村宜名真(尚円と関わる拝所)
 ・国頭村辺戸(義本王の墓、シチャラ御嶽の石灯籠と香炉)
 ・国頭村奥のウガミの石灯籠と石香炉

【国頭村比地の石香炉と石灯籠】

 1849年福寧府に漂着した国頭船には五人があ乗り組んでいた。そこで救を受け、、また船の修理をしてもらった後、福州を経て同年接貢船とともに帰国した。この国頭船が比地船であったことは、比地の中の宮とびんの嶽にある石灯籠及び石香炉によって知ることができる。・・・正面に国頭王子正秀の銘が刻まれ、横面に道光29年己酉と刻まれていた(現在摩耗し確認困難)。また中の宮の香炉の一基に道光29年9月吉日に神山仁屋と山川仁屋が「奉寄進」している。
 びんの嶽の石香炉の一つに道光29年9月吉日に国頭王子正秀が寄進している(『国頭村史』)。(詳細については改めて報告する)

 ここで詳細について触れることはできないが、石香炉や大きな石灯籠は首里に住む按司クラスと関係がある。その典型的な石灯籠は今帰仁グスク内のものである。

 

 

【国頭村辺戸の石灯籠と石香炉】

  

【国頭村奥の石灯籠と石香炉】

 


20071012日(金)

 企画展がスタート。一段落かと思いきや積み残してきたものの山。期日が過ぎているが、督促を待ってスタートするのが数本あり。『渡喜仁誌』は12月中で発刊。その原稿校正と図版づくり。自転車操業がはじまりました。明日は「ムラ・シマ講座」。海洋博の「海洋文化館」と「おきなわ郷土村」へ。海洋文化館の学芸員さんに説明をお願いしてあります。私はちょっと息抜き。

 それらとは別に「ノロ制度の終焉」というテーマが頭から離れないでいる。これまで「今帰仁阿応理屋恵が果たした役割」について、断片的に報告してきた。それと村(ムラ)レベルのノロの終焉について、どうしても研究を深める必要がありそう。もちろん、すでに『沖縄のノロの研究』(宮城栄昌著)で研究がなされている。

 廃藩置県後、日本政府がノロをどう処遇したのか。そこからノロが首里王府と公儀ノロとの関わりだけでなく、村々で行われきた祭祀は、まったんの村々まで統治する手段であった姿がはっきりと見えてくる。企画展で古文書もコピーで展示してあるが、その中に「中城ノロクモイ」と「玉城ノロクモイ」に関する明治の文書がある。他の地域でも確認できる資料である。廃藩置県後、公儀ノロをどう処遇したのか。それを具体的に知ることができる。そこからノロが国の統治に果たした役割が見えてくる。「ノロ職はじめ神人は公務員」だというのはそのためである。

  
        「(中城)ノロクモイ本筋嘆願書」(明治16年)

 
    「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」(明治35年)


20071010日(水)

 企画展「北山(山原)の歴史と文化」が本日から開催です。準備段階からオープンにしていますので新鮮さはないかもしれません。これまでの集大成という意味もあって数多くのテーマがのしかかってきました。『なきじん研究』(第1号~15号)や新聞の連載や研究論文や講演や研究会などで公にしてきたもの、そしてこれまで収集してきた史料の整理も兼ねています。説明の必要な展示となりました。100余のテーマから20項目となりました。山原全体を一堂に展示するのは大変業(私にはできません)。どうにか、オープンに漕ぎ着けたことにまずは乾杯。みなさんにご心配かけています。ハハハ 学芸員実習のみなさんの成果が形になりました。

 展示コーナーの様子はここからどうぞ。
  
 


2007106日(土)

 企画展の準備、ボツボツ仕上げにはいらないといけません。作業場で腰をすえて展示作業に没頭することができません。展示会場と事務室を行ったりきたり。明日は休息。月、火で仕上げることに。ごくろうさん。

 

 

 小学校4年生達がやってきて、覚えたので見てほしいと。「よしよし、じゃ実演してみせてくれるか」 原稿は持ってきていないので、一昨年の絵があるので、それを使って発表してもらうことに。

 一度目は、自信なさそうにやってくれました。いくつか、アドバイス。すると、大きな声で発表してくれました。「12月には今帰仁グスクでやろう」「ええー」。学校で絵を描いているようだ。「自分たちのはできているので、今度は別のグループのも覚えてよ」 今日は覚えたので見てほしかったようだ。いいところまでいってます。次は自分たちの絵で発表してみよう。楽しみだ。

 


2007104日(木)

 やっと、腰をあげ展示に取り掛かっている。全体を組み替えることになりバタバタ。展示テーマは30項目ほどに絞ってきているが、最終的10数のテーマコーナーとなる。まだ、壁展示作業中である。これから、三コーナーの展示を進めることに。後5日なり。

 
      山原の主なグスク             北山(山原)の拠点となった今帰仁グスク

 
 今帰仁按司一族の墓と辞令書          今帰仁アオリヤエやノロが果たした役割

 
  ▲18世紀の元文検地と原石            古文書(現物)展示の予定


2007103日(水)

 機内で何もすることがないと、前にある冊子を手にする。その中の国内線航路図を見るのが楽しい。航路図を開いた一瞬、「日本国の政治や文化の拠点が東に移ったことで、どんな影響が後々に及ぼしているのだろうか?」そんな疑問が頭の中をよぎっていった。京都から鎌倉、後に江戸へ。それがどう歴史に影響を及ぼし、文化としてどうなのだろうか。それを琉球に当てはめたら、どんな議論ができるのだろうか。これまで北山について「北山文化」あるいは「北山文化圏」という仮説を掲げてみてきた。そのような視点で中山、南山をみるとどうだろうか。

 都内の書店で、何気なく手に入れた網野善彦著『東と西の語る日本の歴史』に目を通してみた。そこに琉球の歴史を読み取っていく、北山と中山、そして南山というキーワードがあるのではないか。そんな、とてつもない手に負えないことを考えたりしている。もう一つは、歴史や文化を見る視点が、ややもすると差別を生み出していやしないか。

 私の脳裏から「北山文化」や「北山文化圏」が離れないのは、差別されるような山原の文化ではなく、誇れる歴史が文化が底流にあり、それを拾いあげていこうとしているのかもしれない。そんなこと帰りの機内で何ページにわたってノートにメモしている。


  機内で、このような航路図の地図をみるのが好きだ。


200710月2日(火)

 アヤチ調査の整理する間もなく、緊急の用事ができ急きょ東京へ。東京の天気は雨続き。歩きまわる余裕もく、一枚の画像さえとることなく帰沖。東京で画像をとることができませんでした。カバンからデジカメさえ出すことができず。何故だろう?

 行きの機内で前日のアヤチ調査の整理。とは言っても何も持っていないので頭に残っていることを書き出すのみ。今帰仁村謝名における実施調査の整理メモ。ミャーイジャシについては先日一部報告したので、9月29日のミチジュネーから。アヤチについて、大方以下のように整理することにする(詳細は「報告書」で)。

  ミチジュネーのアヤチの様子
   豊年祭全体のプログラム(今年度の)
     (アヤチは豊年祭全体のプログラムの最終に行われるのは何故?)
  舞台の設置(舞台図、操り糸の配置・スケッチ)
  雄獅子と雌獅子と玉
  操り手(獅子一頭に一人、玉に一人:獅子を操る人はと途中交代する)
  アヤチの所作
     ・前後の動き ・飛び跳ねる ・玉をとる ・じゃれる ・うずくまる ・かまえる
     ・ぶつかりあう ・立ち上がる ・疲れた所作 ・押さえ ・ドラの合図で始まる
  曲にあわせて舞う(曲目:白保節と嘉手久)
  

 アヤチは操り手が曲に合わせて踊らすとのこと(地謡を担当された喜瀬繁夫氏の談)。アヤチ調査の撮影や聞き取りには仲里なぎささんが加わっている。

 
舞台にあがったアヤチ(操り獅子)(準備中)   獅子舞いが終わり操り糸をはずしている所