大宜味村謝名城                        トップへ

 ・父の死 ・根謝銘(ウイ)グスク

【父の死】(2004年7月30日)

 父は92年の人生を生き抜き、天寿をまっとうしたと思っています。戦前(30年)・戦後(30年)・復帰後の30年の三つの時代を生き抜いたと思っています。ときどき戦前、戦後の「生き字引」としてきました。私がプライベートを放棄した生活を続けてきたので、父は最後をみとってくれるのかどうか気にかけていました。そのこともあって、昨年の10月あたりから、父の体調を見ながらの遠出や仕事でした。最後をみとることはできました。しばらく、この動きもゆるやかな動きとなります。

 「今日は月曜日だな。国頭か?本部か?どこにいくのか?早く行け!」「今日は水曜日か。仕事だな。早く行け!」「今日は早いな。行かなかったのか」の会話が度々。この「動き」に貢献してくれた一人でした。公にしたものに質問したりアドバイスしたりするよき読者の一人でもありました。

 三時から名護市立源河小学校の先生方が来館。「冷たいところ(古宇利)から来られたので暑いでしょう」の一言からスタート。一時間近くの案内。学校のある源河についての話。源河ウェーキなど。なぜ、グスクから中国製の陶磁器が大量に出土するのか。沖縄のグスクは「丘陵地に造られ、丘陵地で終わる」ことなどなど。


【根謝銘グスクと御嶽(ウタキ)】(2004年7月30日)

 根謝銘グスクは別名ウイグスクと呼ばれ、『海東諸国紀』(1472年)の琉球国之図で「国頭城」と出てくる。そのため国頭城は根謝銘グスクと想定されたりする。このグスクはグスクと御嶽の関係をしる手掛かりを持っている。グスクが先か御嶽が先かの議論。

 根謝銘グスクは大宜味村字謝名城にあるグスクである。大宜味間切は1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割してできた間切である。間切分割以前の国頭間切(大宜味間切の大半を含む)の拠点となったグスクと見られる。国頭按司の首里への移り住みや間切分割で大宜味間切地内になったり複雑である。根謝銘グスクは大宜味間切内の根謝銘村に位置する(明治36年以降謝名城)。

 杜全体が根謝銘グスク(ウイグスク)である。杜全体を御嶽(ウタキ)と見なすと、根謝銘グスク内にウフグスクとナカグスクの二つのグスクがあるが、それは一つのウタキにイベが二つある御嶽と見た方がよさそうである。ナカグスクとウフグスクはグスクと呼んでいるがそこは御嶽のイベに相当する位置にある。

 杜全体が御嶽(グスク)で、御嶽(グスク)の中に二つのイベがあると考えた方がいいのではないか。そのパターンは今帰仁グスクも同様である。今帰仁グスクを含めて、もう一度整理してみる必要がある。

 
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 ▲屋嘉比港からみた根謝銘グスク   ▲グスク上り口のウドゥンニーズとトゥンチニーズ

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▲グスクの上り口から今帰仁グスク方面をのぞむ       ▲グスク内のウフグスク(イベ)

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 ▲グスク内のナカグスク(イベ)            ▲グスク内にある神アサギ