甕の様子(写真) | 備考(法量および情報 単位:㎝) |
①の甕 同治二三年甲戌六月十九日死去 なべ湧川 蓋 33×16(直径×器高) 胴部 34×63×130 (口径×胴囲×器高) 【有頚甕】 同治3年は1864年にあたる。蓋の裏と胴部に銘書があり、胴部は消えかかっている。 |
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②の甕 道光弐拾弐年庚寅十二月廿九日死亡 かまた湧川 蓋 27×16(直径×器高) 胴部 27×50×110 (口径×胴囲×器高) 【有頚甕】 道光20年か。1840年にあたる。蓋の裏に銘書がある。向って左から2番目の位置。弐拾弐の弐が消されている。 |
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③の甕(銘書なし) 蓋 径不明×13(直径×器高) 胴部 不明欠×100 (口径×胴囲×器高) 【無頚:ボージャー甕?】 胴部の上部分が欠損している。蓋も半分ほど欠けている。 |
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④の甕(銘書なし) 蓋は甕の低部を利用してある。 胴部 24×45×100 (口径×胴囲×器高) 【有頚甕】 |
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⑤の甕 蓋なし。 胴部 24×50×110 (口径×胴囲×器高) 胴部に銘書あり。 謝名村? 志慶真大屋子? 牛年? □□□□? 【無頚:ボージャー】 |
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⑥の甕 胴部の銘書。 乾隆四十九年□辰(甲辰か) 十月十五日謝名村 辰ノ年 湧川仁弥 蓋 31×10(直径×器高) 胴部 29×55×124 (口径×胴囲×器高) 【無頚:ボージャー】 蓋の裏に銘書があり、乾隆49年は1784年にあたる。年齢は分からないが辰生まれか。 |
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⑦の甕 蓋の裏側に □□間切謝名村丑八月廿弐 四拾…? 文字はあるが判読困難。 この甕の蓋は⑥の胴部と対とみられる。 乾隆四十九年□十月十五日 謝名村□□死亡 蓋 30×14(直径×器高) 胴部 27×54×122 (口径×胴囲×器高) 【無頚:ボージャー】 |
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⑧の甕(銘書なし) 蓋 30×17(直径×器高) 胴部 31×63×130 (口径×胴囲×器高) 【有頚甕】 |
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⑨の甕(銘書なし) 蓋 32×14(直径×器高) 胴部 28×49×108 (口径×胴囲×器高) 【無頚:ボージャー】 |
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⑩の甕(銘書なし) 壊れている(サイズ実測できず) 【甕型不明】 |
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⑪の甕 加慶三年(丁午)四月二十一日 謝名村やま大城 妻 蓋 32×15(直径×高) 胴部 34×65×144 (口×高×胴周) 【有頚甕】 胴部にも同様な銘書がある。加は嘉。嘉慶三年は1798年にあたる。やま大城妻は湧川家からやま大城の妻になったのであるが、事情があって実家の墓に葬られたのであろう。 |
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⑫の甕(銘書ナシ) 蓋 31×17(直径×器高) 胴部 24×42×108 (口径×胴囲×器高) 【無頚:ボージャー】 |
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⑬の甕 ボージャー甕 銘書ナシ 蓋 33×8(直径×器高) 胴部 29×50×107 (口径×胴囲×器高) 【無頚:ボージャー】 蓋や胴部に銘書なし。 |
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⑭の甕(銘書あり) 明治十七年申甲二月十二日 武太湧川 蓋 31×14(直径×器高) 胴部 28×56×108 (口径×胴囲×器高) 【無頚:ボージャー】 蓋の裏胴部に銘書あり。明治17年は1884年にあたる。墓口の入口中央部に置かれ、この墓に葬られた最後の人物と見られる。口縁部に蓋の銘書と同様な「武太湧川」の文字がある。副葬品見れず。 |
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⑮の甕(銘書なし) 壊れている。 |