恩納村山田                          トップへ

・山田城―護佐丸祖先墓碑


【護佐丸祖先墓碑】(2009年3月18日)

 恩納村山田に「護佐丸祖先墓碑」(毛氏墳墓)がある。碑の後方の崖上は山田城跡である。恩納村山田は1673年以前は読谷山間切の村の一つであり、読谷山村と呼ばれていた。『琉球国由来記』(1713年)には「読谷山村」と出てくる。『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』には「読谷山間切古読谷山村」と出てくる。読谷山間切の同村とみて差し支えない。まだ解答を持っている訳ではないが、1673年以前の読谷山間切の番所はどこだったのだろうか。山田城から座喜味城に移っているようなので、間切が創設された頃の読谷山間切の番所は座喜味にあったのか、それとも古くから,喜名村に番所があったのだろうか。『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」を見ると、首里に住む按司と総地頭は座喜味村にある「読谷山城内之殿」(座喜味城)の祭祀と関わっている。それからすると、読谷山間切の番所は座喜味村にあった可能性が高い。そこから時期は不明だが喜名村に番所は移動したとみた方がよさそうである。

 恩納間切(後の村)が創設される以前は、読谷山村(古読谷山村、後の山田村)は中山に属した間切である。そのことが後の恩納間切が創設されると読谷山間切に属していた村が恩納間切に組み替えられた後、どんな影響を及ぼしているのだろうか。

 その山田城跡の崖中腹にある「護佐丸祖先墓碑」から、どんなことが読み取れるのだろうか。興味深いことがいくつも見えてくる。

   ・乾隆五年(1714年)に造り替えられたということ。
   ・中城按司護佐丸は山田の城主であった。
   ・読谷山の城(山田城)を築き住居していたので、そこの洞窟に墓所を定めた。
   ・墓は洞窟につくり屋形に作り一族を葬った。
   ・幾年もたっているので石造りで築いたあるが悉く破壊。
   ・蒼苔で口が閉ざされている。
   ・康煕五十三年(1714)に墓門の修復と石厨殿に造り替え。遺骨を奉納
   ・毎年彼岸のとき供え物をささげ祭る。
   ・乾隆五年(1740)に碑文の文字が不祥になったので建て替える。

 【碑文表】
   往昔吾祖中城按司護佐丸盛春は元山田の城主に居給ふ其後読谷山の城築構ひ
   居住あるによりて此の洞に墓所を定め内は屋形作にて一族葬せ給ふ然処に
   幾年の春秋を送りしかは築石造材悉破壊に及び青苔のみ墓の口を閉せり
   爰におゐて康煕五十三年墓門修履石厨殿に造替し遺骨を奉納せつさて
   永代子々孫々にも忘す祀の絶さらんことを思ひ毎歳秋の彼岸に供物をさヽけ
   まつる例となりぬ仍之石碑建之也
  大清乾隆五年庚申十月吉日          裔孫豊見城嶺親雲上盛幸記之

 【碑文裏】
   此碑文康煕五十三年雖為建置
   年来久敷文字不詳依之此節
   建替仕也
      書調人毛氏山内親方盛方
      彫調人毛氏又吉里之子盛庸




【山原のムラ・シマ講座」恩納村山田】
(平成23年11月13日)

 「山原のムラ・シマ講座」は恩納村山田です。恩納村山田は1673年以前は読谷山間切の村の一でした。旧集落の後方に山田グスクがあり、座喜味グスクと中城グスクを築いた護佐丸と関わるグスクがあります。今回は山田グスクと山田(読谷山)村との関わりを見ていきます。これまで見てきた山原のグスクと集落との関係とは異なった形態をしめしています。中南部の集落とグスクとの関係を見ていきます。

 山田村のウタキのイベが山田グスク内にないのが特徴かと思われます。そのことを現場で確認します。また山田と統合された?蔵(倉)波(クラハ)は興味深い場所です。クラハは山田にクラハ原があり、そこに倉波大主の墓があります。一帯を流れるカーは地下(岩の下)を通っています。与論島や沖永良部島では、地下を流れるカーをクラゴーと呼んでいます。すると山田の倉波(クラハ)は暗いカーに因んだ呼称と見ることができます。クラゴー(暗い川)と倉波(クラハ:暗いカー)と共通した地名では?それも確認してみましょう。

 また、山原の村とと恩納村山田村と共通するもの、あるいは違いを発見みましょう!

  ↓  恩納村山田へ出発(マイクロバス)
  ↓  山田旧集落に到着
  ↓   @山田旧集落跡(歴史の道)
  ↓  A佐護丸の父祖の墓     
  ↓    Bメーヌカー(碇石の確認)  
  ↓    C神アサギの跡
  ↓    D山田グスク
  ↓    E山田村のウタキのイビ
  ↓    F倉波大主の墓
  ↓    G倉波の暗い川(暗いカー)では?!
  ↓    H石橋(谷川矼:サクガーバシ)
  ↓    I倉波集落の跡地(カー:無未阿…の石碑)
  ↓ 恩納村立博物館
  ↓ 今帰仁村歴史文化センター着 

    (恩納村のみちの駅で昼食の予定。お好きなものをどうぞ!自己負担です) 



      
▲恩納のムラ・シマの移り変わり「あの頃のうんな」(恩納村博物館発行より) 





        ▲山田集落の移り変わり:恩納村博物館発行より  


 
           ▲メーガー(碇石あり)              ▲地下を流れるカー

 
     ▲神アサギ跡と火神の祠                ▲山田グスクの遠景