名護市(旧羽地)の屋我
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屋我
2010(平成22)年9月24日(金)メモ
名護市(旧羽地間切)の屋我と鐃辺名、そして我部までゆく。屋我ノロドゥンチが何故鐃辺名にあるのか。ノロが鐃辺名から出てもノロの名称が変更されずにある(今帰仁村(間切)の中城ノロも諸喜田村に移っているが名称はそのまま中城ノロである)。そのこと史料を踏まえて考えてみる。(久しぶりに各地の拝所等回って見ると窓やカギなどが壊されている)
まず、屋我ノロ
が、いつ屋我村から頃鐃辺名村に移ったのか。屋我ノロが公儀ノロとして任命された時、羽地間切屋我村に居住していた家の人物、あるいは任命して屋我村に住んだということであろう。1625年の屋我ノロの辞令書がある。その時、「やかのろ」が屋我村に居住していたか明確に記されているわけではないが、屋我村に住んでいたのであろう。その後の『琉球国由来記』(1713年)に屋我巫女(ノロ)の記述をみると、「屋我巫火神」は屋我村にあり、屋我ノロは屋我村と鐃辺名村と済井出村の祭祀を掌っている。
現在、屋我ノロ家は鐃辺名に移っているが、『琉球国由来記』(1713年)の屋我巫火神は屋我村に残っているに違いない。屋我村の集落は1858(咸豊8)年に墨屋原に移動している。ならば屋我巫の火神の祠は集落移動前の故地に残されている可能性がある(その確認がしたくての屋我行きである)。
屋我村の集落は屋我グスク周辺にあったと見られる。屋我グスクを中心とした一帯は阿太伊でアテーと呼ばれる。アテーはアタイのことで集落の中心に付けられる地名である。移動前の屋我の集落の故地は、屋我グスクの周辺にあったとみてよさそう。そこにはヤガガーがありグスクとヤガガーを拝む祭祀がある。グスクにあがる近くに火神を祭った祠がある。祭祀場はお宮に統合されているが、ノロ火神は元の場所に残された一つではないか。グスク近くにある火神の祠は屋我ノロ火神の可能性がある(確認必要)。
屋我ノロが鐃辺名に移ったのはいつごろから。屋我ノロに関する明治の史料がある。明治26年段階で屋嘉ノロクモイは鐃辺名村に居住している。明治17年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」(田代安定)によると屋我村にノロクモイが一人いて、鐃辺名村に根神がいる。その頃、屋我ノロはまだ屋我村にいたということか。しかし、「午年羽地按司様御初地入日記」(1870年)を見ると、羽地按司が管轄する羽地間切を訪問した時、屋我地御立願の三番目にによひな(鐃辺名)村の「のろこもい御火神」を訪れている。その時、のろこもい火神は鐃辺名村にある。屋我村から鐃辺名村にノロが移り住んだ理由は、今のところ不明。
証
羽地間切鐃辺名村三拾九番地平民
屋我ノロクモイ 玉那覇マカ
右ハ当社録仕払期ニ在テ生存シ当間切内ニ現住ノロクモイナルヲ証明ス
明治廿六年八月九日 羽地間切地頭代 嶋袋登嘉
国頭役所長 笹田征次郎殿
宮城栄昌氏のノロ調査を見ると、ノロは鐃辺名にあるノロドゥンチ、ノロ殿内の根屋、アシャギ、島の川三ヶ所、大てら二ヶ所、小てら一ヶ所、群松。屋我のアシャギ、屋我グスク、屋我ガーも拝んでいる。
明治32年の以下の資料(文書)と牛角の簪が一本保存されているようだ。
国頭郡羽地間切鐃辺名村平民
玉城喜三郎
外三名
明治三十二年二月廿八日付願
屋我ノロクモイ死亡跡役採用ノ件聞届
明治三十二年四月八日
沖縄県知事男爵 奈良原 繁 (沖縄県知事印)
【現在の屋我域】
▲羽地間切の屋嘉ノロ補任辞令書(1662年) ▲アテー(原)にある屋我グスク
▲屋我グスク入口付近にある火神の祠 ▲アテー原にあるヤガガー
【現在の鐃辺名域】
▲鐃辺名にあるノロドゥンチにある火神の祠 ▲ノロドゥンチの側にある神アサギ
屋我グスク
(2008年9月2日(火)メモ)
「屋我地島の屋我グスク」(名護市)にゆく。周辺にヤマグラ、シジャン、ムディグサ、アマグシクムイなど、ウタキに適しそうな森がいくつもある。なぜ、屋我グスクのある杜をウタキ、あるいはグスクにしたのか。それは、集落の形成とウタキやグスクと密接な関係にあることがわかる。屋我は「集落移動とウタキ(グスク)」の事例である。
・ウタキがグスクと呼ばれる。
・屋我グスクあたりを古島という。
・屋我の集落は1858年(咸豊8)に古島から墨屋原に移動している。
・空堀とみられる場所がある。
・頂上部にイベがある。
・クバが目立ってある。
・周辺に屋我グスクに似たような森がいくつもある。
・麓にヤガガーがある。
・屋我ノロ管轄の村(ムラ)である(屋我ノロは饒平名村に住む)。
・屋我グスクは安太伊(アタイ)(原)に位置する(現在アタイに一軒もなし。集落移動の痕跡)。
・旧5月14日に屋我グスクに左縄をめぐらす。
・神アサギや神殿や舞台のある杜はウガミあるいはお宮ともいう。
・屋我の御嶽は『琉球国由来記』(1713年)で「屋我之嶽、神名:マレカ神根森城之御イベ」とあり、
その頃には御嶽とも城(グスク)とも呼ばれている。
・『沖縄島諸祭神祝女類別表』には「港屋嶽(イナトゥヤムイ)、村嶽(屋我グスクか)、ケシギキ嶽」がある。
▲中央の杜が屋我グスク ▲屋我グスクへの入り口(左縄)
▲頂上部に近い岩の下に香炉が置かれている ▲頂上部のイベ
▲ヤガガー ▲移動先に近い所にある神アサギ(ウガミ杜)