山原の御嶽と集落と村                       トップ(もくじ)へ

2016年8月へ(山原の神アサギ)


15年前に中間報告したものである。


 山原の神アサギ踏査とセットのテーマである。村の集落と神アサギ、それと御嶽(ウタキ)の地理的配置、それと祭祀を行う神人やムラ人の観念をみていこうとするものである。書き改めたい部分が多々あるが、しばらくは、当時のままで。(全体を整理中)


はじめに

 山原の神アサギ踏査とセットのテーマである。村の集落と神アサギ、それと御嶽(ウタキ)の地理的配置、それと祭祀を行う神人やムラ人の観念をみていこうとするものである。山原全域のウタキを視野にいれて書き改めたいが、しばらくは、当時のままで。


1.山原の御嶽と集落


  

2.山原の御嶽の呼称(ウタキとイベ
   ・ウタキ(御嶽)
   ・タキサン(タキヤマ)
   ・ムイ
   ・ウガンジュ
   ・ウガミ
   ・グスク(グシク)
   ・オミヤ(お宮)(合祀:神社化)
   ・神社(合祀:神社化)

3.山原の御嶽と集落との関係

4.ウタキ(杜)とグスク内に置かれている神アサギ
   ・今帰仁グスク内の神ハサギ跡
   ・羽地グスク内の親川グスク
   ・名護グスク内
   ・根謝銘(ウイ)グスク内
   ・嘉陽(上グスク)の神アサギ跡
   ・比地(小玉森)
   ・上運天
   ・平敷など

5.ウタキ(杜)内に置かれている神アサギ

6.複数の御嶽(イベ)を持つ村と神人

7.グスク内に置かれた神アサギ・殿(トゥン)

   ・根謝銘(ウイ)グスク
   ・羽地(親川)グスク
   ・今帰仁グスク(神アサギ跡)
   ・名護グスク
   ・恩納グスク(城内の殿)
   ・嘉陽グスク(移動)
   ・屋我グスク(移動)
8.間切の編成とノロ管轄

9.御嶽を中心とした村の祭祀

 
まとめ  


1.山原の御嶽と集落と村

   村(ムラ)・・・近世から明治41年まで使ってきた行政単位。明治41年以降は字(アザ)となる。
           部落や村落と同意味。
   村(ソン)・・・村(ソン)は明治41年に間切から村(ソン)となる。現在の明治41年に今帰仁間切
          から今帰仁村(ナキジンソン)となる。村(ムラ)は今の字(アザ)のこと。
   ムラ・・・・・・・近世以前の村について使っている。行政的な村よりマクやマキヨなどの単位の
          集落の呼び方として使ったり、明治41年以前の村(ムラ)に使う。
   移動村・・・・あるいは村移動や村落移動は近世の行政村を飛び越えて移動した村のこと。
   集落移動・・・同じ行政村の内部で集落部分が移動や分離したりしている場合をさしている。
           (同村内での移動のこと)村(ムラ)成立前のマクやマキヨの単位に相当する。


・集落の発生と御嶽(ウタキ)の事例―今帰仁村平敷―

 集落の発生と関わる御嶽(ウタキ)がある。源初的な構造を示す一例と見ているのが今帰仁村平敷のウタキである。シマの方々は拝所のあるその杜のことをウガンやウガンジュ(御願所)、あるいはタキ(ウタキのことか)と呼んでいる。ここでは杜全体をウタキ、ウタキの中の香炉が置かれた場所をイビとして扱う。

 ウタキの中の一段高いところに香炉が置かれ、そこは神降臨の場所だとの認識があり、イビやタキと呼ぶ場合がある。『琉球国由来記』(1713年)に平識(敷)村の御嶽は記載されていないが、「神アシアゲ 平識(敷)村」とあるので平敷村の存在は確認できる。神アシアゲでの祭祀を見ると、オエカ人・百姓・巫(ノロ)・掟神・居神の参加がある。玉城ノロの管轄村である。首里王府役人の地頭(脇地頭)の参加がみられない。そこでのオエカ人は今帰仁間切役人のことで、村の祭祀に間切役人の参加があったことは、間切の統括と祭祀が一体となっていたということを示すものである。

 平敷の御嶽は標高約15mの低地にあり、御嶽の南から東よりに集落が発達していた。御嶽に中、あるいは御嶽に近い場所に集落が展開する古琉球の村を連想させてくれる。現在は、さらに国道沿いから山手の方に家々が建てられつつある。御嶽や周辺からグスク系土器や中国製の陶磁器や染付、それと近世以降の沖縄製の陶器などが採集される。

 平敷村の集落の発生は、少なくともグスク時代に遡ることができそうである。集落は御嶽の内部、そして御嶽の周辺部に広がりをもってあったことがわかる。村レベルの御嶽と集落は不可分の関係にあり、御嶽を中心として南斜面やカー(湧泉)との関わりで展開していく。(もう少しわかりやすく図で整理してみたい)

 平敷のウガンにはイビ、そして神アサギがある。さらにシマダドゥンチとペーフドウンンチとウッチドゥンチが合祀され、ニーグラの祠などもウガンの内部に置かれている。ウガンの内部にある拝所は、もともとウガンの南側周辺にあったのをまとめてウガン内に置いたものである。平敷のウガン内に、少なくともイビと神アサギ、アサギミャーがある。集落はウガンの内部から周辺部に広がり、ウガンと集落の関係を読み取ることができる。


・移動集落の村と御嶽(ウタキ)―本部町備瀬―

 ここでいう「移動集落の村」とは、同村内で集落部分が移動した村のことをいう。現在の備瀬の集落は海岸に近い兼久地にあり、福木並木の中に住宅があることでよく知られている。碁盤状や格子状の集落と言われている。碁盤状の集落は、移動集落である。その時期について定かではない。どこから移動してきたのかが、ここでのテーマ「移動集落の村と御嶽」である。

 備瀬の集落の移動は「グスク山と現集落との間」あたりから移動してきたとの伝承がある。御嶽(ウタキ)は集落から約700m離れた山手にあるグスクヤマである。備瀬では御嶽のことをグスクと呼んでいる例である。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)に「備瀬村・小浜村 城御嶽一ヶ所 □御嶽一ヶ所 神アサギ一ヶ所」とあり、グスクが御嶽としての認識があったことがわかる。グスクヤマ全体が御嶽とみると、内部にイベを祀った祠がある。それとは別にいくつかイベが置かれ、ムラ全体の御嶽のイベではなく、一門のイベとして拝んでいる。御嶽の中にいくつかのイベがある例である。

 備瀬の集落移動の時期について仮説を立てている。備瀬の集落移動は1520年代以降、その年代に近い頃ではないか。沖縄のグスクが機能しなくなるのは、各地のグスクに住んでいた按司を首里に集居させる政策がとられた(その年代について不明)。グスクの按司不在が、グスク周辺にあった集落が移動する低地へと移動していく要因になっているのではないか。今帰仁グスクも1600年代に首里に監守(今帰仁按司)一族が引き上げるとグスク周辺にあった今帰仁村と志慶真村が移動する。他のグスクでは1520年代に首里に移り住むことを考えると、集落移動が早い村ではその時期から始まったのではないか。備瀬の集落移動も1520年代に近い時期からと考えていいのではないかと思う。福木の年輪からして400年から500年と言っているのはあながち間違っていないかもしれない。

 『琉球国由来記』(1713年)に備瀬村の「アラサケ嶽 神名:マワジノ御イベ」とある。その嶽が備瀬グスク(ウタキ)を指しているのかはっきりしない。備瀬村の祭祀は謝花ノロの管轄である。

 御嶽と集落との関係で言えば、備瀬の集落はウタキ(グスク)の内部、あるいはその近くにあったのが、海岸の兼久地に移動している。集落は移動したが同村内での移動なので御嶽は元の場所から移すことはなかった。今でもウタキ(グスク)の中のイベでの祈願がなされている。ウタキ内に複数のイベが置かれているのは、ウタキの発生は小さな一族集団の拠り所にしたのかもしれない。

 備瀬の御嶽と集落の関係をみると、集落が移動しても御嶽はもとの場所におき、祭祀も御嶽のイベで行っている。同村内での集落移動は御嶽を移すことはなく、グスクやウタキの名称で呼び、祭祀で強く結びついている。


・移動村と御嶽―移動した天底村と御嶽― 

 ここで移動した村(ムラ)というのは、隣接する村を飛び越えて移動した村をさしている。近世にそのような移動した村に、本部間切から今帰仁間切へ移動した天底村(1719年)や嘉津宇村、今帰仁間切内の志慶真村(17世紀初頭)、1736年の呉我村・振慶名村・我部村・松田村などがある。それらの村が移動したとき、御嶽はどうしたのだろうか。天底村の移動と御嶽について紹介してみる。
 1719年に天底村は本部間切の伊豆味村あたりから、現在の今帰仁村天底地内に村を移動した。『球陽』の尚敬王七年(1719年)の条に「本部間切天底村を遷して今帰仁間切に入る」と現在の今帰仁村呉我山あった呉我村が羽地間切に移動した(1736年)ので、天底村は呉我村を通り越して現在地に移動したので集落移動の村ではなく「村移動の村」である。

 天底村は移動した地で御嶽(ウタキ)をつくっている。御嶽のことをお宮と呼んだりしている。集落の形成をみると高いところに御嶽をつくり、その麓に近いところに神アサギを建て、御嶽の麓にウブガーがある。ウブガーは村が移転してきた当時、最初に使っていたカーだという。神アサギのさらに下の方にアミスガーがあり、ウブガーより水量は豊富である。

 神アサギ周辺に天底ノロ家跡や根神ヤー跡などがある。御嶽内の最高部にイベを収めた祠がある。御嶽に入っていくと、階段があるがそこに左縄を張り、そこから内側は神人達の世界である。タキヌウガンのとき(旧暦の4月14日か15日)、村の人たちは階段の前までいき、そこで祈願をする。神人達はイベのある祠までいく。

 近世の移動村である天底をみると、村が移動してもウタキをつくる。ウタキの向きは高い杜の頂上部に向けてイベをつくる。必ずしも故地に向けて御嶽を設けていないことがわかる。村が移動すると高いところに向けてウタキをつくる習性があるようだ。天底に名前のわからない祠がある。向きは故地の伊豆味あたりに向いているので、その拝所は「お通し」なのかもしれない。

 「移動村と御嶽」のことで言えば、村が移動したとき、御嶽をつくり神アサギも設置する。そして移転先で祭祀も継承される。元の村地に向って「お通し」をつくる傾向もある。天底ノロの管轄村は天底村・伊豆味村である。移転後(大正頃)も伊豆味村の祭祀をおこなっていた。移動後もノロ管轄は変更されることはなかった。

 現在の天底の集落は天底小学校周辺にある。御嶽や神アサギ周辺から明治以降、集落はさらに移動し、ノロドゥンチやニガミヤーなどに、明治頃までの天底村の集落の跡が窺える。

(ロ)移動村と御嶽(ウタキ)―羽地間切呉我村―
 「移動村の御嶽(ウタキ)」については、C天底(1719年移動)を事例として紹介した。今朝立ち寄った羽地間切呉我村(現在名護市)も移動村の一例である。その呉我村が移動した地で御嶽をどう設置したのか。呉我は村移転200年や250年の記念祭を行い碑も建立してある。
 
 呉我は『琉球国高究帳』(1640年代)では今帰仁間切ごが村と出てくる。1713年の『琉球国由来記』では羽地間切呉我村として登場することから、羽地間切の村となったのは1690年頃だと考えている。現在地への村の移動は1736年であるから呉我山における御嶽と神名である。呉河之嶽 神名:イタオエクチワカ御イベとある。現在の御嶽のイベに同様に刻銘されている。

 1736年に現在の今帰仁村呉我山地内にあった呉我村(この時は、羽地間切の内)が移転した。呉我・振慶名・我部・松田・桃原の五つの村が蔡温の山林政策で移動させられた。それは山林政策だけでなく、呉我は羽地大川下流域の開拓が狙いだったにちがいない。奈佐田川とフアマタガー(旧羽地大川)とが合流する一帯は呉我・古我知・我祖河の田が入り組んであった。呉我の村移動は、そのような未開拓地があったから移動が許されたのである。
 
 ここでのテーマは移動した村が御嶽をどう作ったかである。それと御嶽をつくる場合、故地に向っているのかどうか。近世の移動村は御嶽をつくり、祭祀を継承している。御嶽の向きは必ずしも故地に向けていない。杜を御嶽とし高いところにイベを設ける傾向にある。呉我は麓に神アサギがあり、アサギとセットで他の拝所の火神を祭ってある。稲穂が祭ってあった。

イビの前に香炉が置かれ、その後方から急な坂の小道が御嶽のイベまでつながっている。村が移動すると新地で御嶽や神アサギをつくり、祭祀をしっかり継承している。因みに呉我は『琉球国由来記』以後、村移動があったが我部ノロの管轄の移動はなかった。

 呉我村は我祖河村や古我知村地内に移転しており、呉我村に前の二か村の墓がある。呉我港と呼ぶところは、古我知港と呼ばれていた。呉我の耕作地(田畑)は集落の後方のウフェーを越えた旧羽地大川流域に広がる。


・合併村と御嶽(ウタキ)―今帰仁村の諸喜田村と志慶真村―

 合併した村は御嶽(ウタキ)をどうしたのかがテーマになる。志慶真村は今帰仁ノロ、諸喜田村は中城ノロの管轄村である。ノロの異なる村が合併した時に御嶽(ウタキ)はどうしたのだろうか。「移動・合併村の御嶽」として事例をあげる必要がある。

 諸志のこれまでの祭祀の動きをみていると、二つの村が合併したことで祭祀も一つにしていいのではないかと考える。ところが一つにすることがなかなかできない。二つの神ハサギを一カ所の一つの建物にまとめたことがあるが、再び分けて建ててある(現在)。志慶真村出身の神人は今帰仁グスクで行われる祭祀に参加していた。現在神ハサギが並べて建ててあるが、志慶真の神ハサギを祈る神人がいないので中城ノロが祈っている。志慶真ハサギは中城ノロがやるべきではないとの認識はしっかりと持っている。

 諸志の御嶽は諸喜田村の御嶽であり、志慶真村の御嶽は今帰仁グスク付近にあるという(『古層の村』仲松弥秀)。志慶真村の御嶽は未確認であるが、村が移動しても祭祀はもとのノロ管轄のもとで、また以前の場所で行っていた。天底ノロが大正まで伊豆味まで出向いて祭祀を行っていたという。志慶真村も故地で祭祀を行っていた。ノロ管轄を超えて村移動しても祭祀はもとのノロ管轄での祭祀を踏襲する傾向にある。村の合併や移動しても祭祀は一つにできない理由が何かである。祭祀がクニの制度(土地制度)と深く関わっているからである。


・創設村と御嶽(ウタキ)―創設された湧川村と御嶽―

 近世から明治36年までに創設された村を対象にしている。創設村もいろいろある。一つの村から移動と同時に二つの村が創設されたり、あるいはいくつかの村を移して、そこに村を新しく創設した村もある。ここでは1736年に呉我・振慶名・我部・松田・桃原の村を羽地間切へ移して、そこに1738年に新しく創設されたのが湧川村である。その頃新設された村は御嶽や神アサギをつくりノロが置かれている。創設村に、なぜ御嶽や神アサギやノロや神人を置く必要あったのか。

 御嶽や神アサギを設けなければならない理由は、土地制度や祭祀そのものが村を統治していく要となっていたことによる。ノロも土地制度で土地の配分があるなど、恩恵をこうむることもある。また祭祀は村人にとって休息日である。そのために祭祀を行うことを必要としたと見るべきであろう。村を新設することは、首里王府にすれば当然のごとく租税をより効率的にとることができる。

 大正から昭和の15年にかけて分字(アザ)したところは、御嶽や神アサギなどの設置はない。それとは別に鳥居をつくり神社を創設したところがある。神社は御嶽や神アサギなどとは全く歴史を異にしたものでるが、御嶽やグスクなどを日本の神社と同一視して行こうとする流れの遺物である。大正から昭和10年代にかけての分字(アザ)と明治36年の土地整理以前の創設村や分村との比較をすることで、御嶽や祭祀、ノロをはじめとした神人制度を必要とした理由がみえてくる。

 1738年に創設された湧川村に御嶽と神アサギ、そしてノロや神人もいる。集落の後方の杜が湧川の御嶽(ウタキ)である。その杜のことをウタキやダキヤマと呼んでいる。ダキヤマは竹山ではなく、ウタキヤマと解した方がよさそうである。ウタキとダキヤマはイビヌメー(イベの前)とイビとを区別して呼んでいるのかもしれない。


複数村(ムラ)の御嶽―スムチナ御嶽―

 スムチナ御嶽(ウタキ)は今帰仁村(間切)中央部の玉城村(現在の字玉城)に位置する御嶽である。『琉球国由来記』(1713年)には「コモキナ嶽:神名コシアテモリノ御イベ 玉城巫崇所」とあり、玉城巫は玉城・謝名・平敷・仲宗根の四か村の祭祀を管轄する。このウタキの特徴は玉城・謝名・平敷・仲宗根にそれぞれウタキを持っているが、各村の御嶽とは別に四カ村のウタキとしてスムチナ御嶽が設けられている。集落の発生と関わる御嶽がある中で、スムチナ御嶽は集落の発生と直接関わるものではなくノロ管轄の制度化に伴って設立された御嶽と捉えることができる。

    ・玉  城……………ウタキ有り(タマグシク)
    ・謝  名……………ウタキ有り(お宮・グシク)
    ・平  敷……………ウタキ有り(ウガン)
    ・仲宗根……………ウタキ有り(お宮・グシク)

 スムチナ御嶽は標高143mの杜で玉城ノロ管轄の四つの村を見下ろせる場所にある。逆を言えば四つの村から見える位置に御嶽を設けている。旧暦4月15日のタキヌウガンの時は、四カ字の人たちがスムチナ御嶽の中腹のウカマ(広場)に集まり待機する。四カ字の神人達は、さらに頂上部のイベまで行って祈りを捧げる。

 イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(今帰仁間切惣地頭職)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。


 ・国(クニ)レベルの御嶽(イベ)

 ・グスクの中にある御嶽(イベ)

5.ウタキ(杜)内に置かれている神アサギ

6.複数の御嶽(イベ)を持つ村と神人

7.グスク内に置かれた神アサギ・殿(トゥン)

8.間切の編成とノロ管轄

9.御嶽を中心とした村の祭祀



・山原の御嶽【名護グスクと名護のマチ】

 名護グスクも山原の興味深いグスクの一つである。名護グスクは標高約103mの森である。そこはグスクの名称が付いているが、石積み囲いのないグスクとしての特徴をもつ。石垣を積んで外と隔てることをしない、あるいは敵を石垣でもって防ぐことをしない。逆を言えば、防御的な石垣を積まなくても、名護地方を支配できたグスクであるということができる。グスクに居住する按司(世の主)は人望が厚く、人徳で統治することができる人物がいたのかもしれない。そのようなことまで考えさせるグスクである。

 名護グスクのある森全体をウタキとみたとき、御嶽(ウタキ)とは何かとの疑問の答えの一つがありそうである。名護グスクを基点にして移動、分離した展開が見られる東江・城・宮里のムラがある(各村の展開は少し複雑である)。17世紀の『琉球国高究帳』の名護間切の村に名護村、宮里村は登場しているが城村や東江村や大兼久村は出てこない。1713年の『琉球国由来記』でも同様である。名護グスクの森はティンチヂムイと呼ばれ、御嶽における神観念が窺える。

 名護グスクと呼ばれる森全体を考えたとき、南斜面にヌル殿内(ヌンドゥンチ)・ウチ神屋・フスミ屋・根神ヤー・名幸祠・イヂグチなどの旧家の火神の祠(カミヤー)がある。グスク内に神アサギもある。かつて名護グスクのある森の斜面に形成されていた集落が麓に移動して行ったことがわかる。そこから分離・移動してできた村が東江村・大兼久村・城村(名護村:三箇村と言われている)であろう。ただし、現在の名護のマチの発展は国頭役所が羽地間切親川村から名護間切大兼久村(さらに東江村へ)に移転した明治15年以降のことである。

 名護グスクの森にあった集落が移動する時期について、はっきり文献にみることはできないが、1520年代に各地のグスクに居住していた按司を首里に集居させたという。そのことがグスク周辺にあった集落が麓に移動していくきっかけとなったと見ていいと考えている。それと、麓の湿地帯の開拓も大きな要因であると考えている。つまりグスクに住んでいた按司が首里に移ると、グスク周辺にあった集落が、直接支配関係にあった按司と集落との関わりが希薄になる。そのことも移動の要因とみることができる。グスク内での祭祀に首里に移った按司と村との関係が、『琉球国由来記』(1713年)の名護巫火神と名護城神アシアゲに於ける祭祀に首里に住んでいるはずの惣地頭(名護按司のことか)の参加に伺うことができる。

 名護にマチが発達するきっかけは明治15年に羽地間切にあった国頭役所が名護間切の大兼久村へ、さらに東江村に移されることで、県の出先機関ができる。それがきっかけで山原の行政の中心となると同時に商店や銀行などができマチをなしていく。下の左側の画像の建物のある一帯の大半が昭和30年代まで田んぼであった。

 
      ▲マチの後方の森が名護グスク               ▲明治15年以降マチとして発展 


・山原の御嶽(今帰仁の御嶽)

 まず『琉球国由来記』(1713年)に出てくる今帰仁間切の御嶽は以下の通りである。『琉球国由来記』編集のための調査で、すべての御嶽を網羅しているわけではない。調査対象の御嶽の線引きがどうであったかは不明。御嶽とイベ(イビ)や神名が統一された概念で十分把握されていない節がある。そのため、御嶽や神名などの報告が統一性を欠いている。

 今帰仁間切の御嶽ではグスク(今帰仁グスク)と村レベルの御嶽について見ることができる。

   ・城内上之嶽 神名:テンツギノカナヒヤブノ御イベ (今帰仁村)
   ・同(城内)下之嶽 神名:ソイツギノイシズ御イベ  (今帰仁村)

   ・コバウノ嶽 神名:ワカツカサノ御イベ         (今帰仁村)
   ・兼次之嶽御イベ (不伝神名)             (兼次村)
   ・ムコリガワ嶽御イベ(神名不伝)              (与那嶺村)
   ・中尾次之嶽(神名:コハンナゝカモリ御イベ)     (中尾次村)
   ・ギネンサ嶽御イベ(神名不伝)              (中尾次村)
   ・コモキナ嶽(神名:コシアテモリノ御イベ)       (玉城村)
   ・オホヰガワ嶽(神名:ヨリアゲマチウノ御イベ)   (岸本村)
   ・上運天之嶽(神名:ナカモリノ御イベ)         (上運天村)
   ・ウケタ嶽(不伝神名)                   (上運天村) 
   ・中嶽(神名:ナカモリノ御イベ)             (郡 村)
   ・サウ嶽御イベ(神名不伝)                (郡 村)
   ・カマニシ嶽御イベ(神名不伝)             (郡 村)
   
 他の地域でも同様なことが言えるのか、まだ整理していないのでわからない。異なった結果がでるのも楽しみである。

 『琉球国由来記』の今帰仁間切の御嶽の記し方から、御嶽(嶽)とイベ、そして神を認めていることがわかる。御嶽名を「・・・嶽」と報告したところは「神名・・・御イベ」とある。ところが御嶽名を「・・・御イベ」と報告したところは「神名不伝」としている。このように不統一の報告であるが、御嶽(森)と御嶽の中のイベ、そしてイベに神の存在(降臨)を認めていることがわかる。

 今帰仁グスク内にある二つの御嶽は村(ムラ)レベルの御嶽と異にしている。城内上之嶽は「此嶽、阿摩美久、作リ玉フトナリ」とあり、国レベルあるいはグスクレベルの御嶽と見ることができる。『中山世鑑』にの「琉球国開闢之事」で「先ヅ一番ニ、国頭ニ、辺土ノ安須森、次ニ今鬼神ノ、カナヒヤブ、……」とある。城内上之嶽の神名がテンツギノカナヒヤブノ御イベとあるので、開闢のカナヒヤブと同一の御嶽とみなすことができる。今帰仁グスクのカナヒヤブ(御嶽)はムラレベルの御嶽から国レベルの御嶽となり、さらに村レベルの御嶽としての祭祀場として残されている。阿応理屋恵の廃止、復活と関わりがあり、今帰仁ノロが阿応理屋恵が行っていた国レベルの祭祀も肩代わりしている部分があり複雑である。つまり村レベルの祭祀と国レベルの祭祀が、村祭祀を行うべき今帰仁ノロが国の祭祀も行っているということ。

 それとグスクに近いコバウノ嶽も国レベルの御嶽であるが、阿応理屋恵ノロの廃止、復興などの経過があり、『琉球国由来記』では今帰仁村(ムラ)にあり今帰仁ノロの管轄となっている。国頭間切辺戸村のアフリ嶽(安須森か)に君真物出現の時、冷傘(ウランサン・リャンサン)が立ち、首里王府に伝え、王殿で儀式が行われる。村レベルの御嶽と異なり、国と関わる御嶽と位置づけることができるが、阿応理屋恵の廃止にともなって今帰仁ノロが肩代わりしたため、本来の祭祀の管轄に戻すことができなかった。今では村レベルの祭祀(フプウグヮン)として年二回(6月と9月)として村の人たちと今帰仁ノロが行っている。

 今帰仁グスクのある標高約110mの森を御嶽と見なすことができるのではないか。すると御嶽の中に二つのイベ(イビともいう)がある。御嶽に石垣を積み上げてグスクとして機能し、限られた支配者が住むようになる。森全体が御嶽だったのが、本来のイベの部分とその周辺を囲って小さな御嶽にしてしまう。今帰仁グスクの場合は、1665年に今帰仁按司一族が首里に引き上げてしまう。その際、グスクには御嶽やイベはそのまま残し、さらに一族の火神の祠を城内に設けて(今帰仁里主所火神)引き上げてしまう。『琉球国由来記』(1713年)には首里に引き上げて50年近く経った頃の記録である。

 名護グスクでの祭祀同様、今帰仁グスク内(今帰仁里主所火神や今帰仁城内神アシアゲ)での祭祀に首里に引き上げた、あるいは首里に居住している惣地頭や按司などの参加がみられる。本来、グスク内での祭祀は阿応理屋恵(オーレー)ノロの役目ではなかったか。前に述べたように、この頃は今帰仁阿応理屋恵は廃止されている時期である。そのため『琉球国由来記』には今帰仁巫(ノロ)とトモノカネ巫(ノロ)の祭祀として記録されている。

 今帰仁グスクの御嶽とグスクとの関係をみると、今帰仁グスクのある森に人々が住み、小規模の集落を形成し御嶽をつくる。地域を統括する按司(世の主)の出現で石囲いのグスクを形成する。支配者を除いた人々はグスクの周辺に中心に住み集落を形成する。今帰仁グスクでは、近世初期までグスク周辺にあった今帰仁村と親泊村と志慶真村の三カ村である。山北王の時代、第一監守、第二監守(七世のとき首里に引き上げ)はグスク内で按司と一族は住む。今帰仁グスク内での惣地頭や按司の祭祀への参加に、引き上げ前の姿が見え隠れする。

 グスク内には大正時代まで「城内の神ハサギ」があったが、今では建物はない。神ハサギ跡に祭祀を行う目印として香炉が一基置かれていて、海神祭のとき、その香炉に線香を置き祈りをする。『琉球国由来記』(1713年)に「毎年七月、大折目(海神祭)のとき、両惣地頭(惣地頭・按司)も参加する」ことになっている。城内のヨウオスイで行われるようだが、その場所はまだ特定できていない。城内に海神祭の時、餅を配る広場(店の前)があるがそこか。それともシマの人たちが集まる神アサギ跡の広場か。

   ・毎年7月大折目(海神祭ともいう)
   ・ノロ・大根神・居神・など二十人余りの神人が参加
   ・ヨウオスイ?にタモト(たもと木か)を置く。
   ・花(米)、五水(神酒)などをお供えする。
   ・アワシ川(アーシージャーか)から水をとりノロや大根神は浴びる。
   ・アザナを七回まわる。
   ・縄をはり舟こぎの真似をする。
   ・惣様(惣地頭?)馬に乗り弓箭を持ってナガレ庭(シバンティーナ
    の浜か)へゆく。
   ・塩(潮か)撫でをする。
   ・親川で水撫でをする。
   ・再び城内のヨウオスイで祭祀をする。

 グスクにおける祭祀と御嶽、そして首里に住む按司との関わりなど、ウタキをめぐって祭祀だけでなく、国を頂点とした祭祀を通した地方支配の形態が見えてくる。

 (「今帰仁の村(ムラ)と御嶽」については別稿でまとめる。古宇利島の七森七嶽はどこかで一部紹介したような気がする。そのことは企画展―古宇利島―で詰めた議論をする予定)

 
  ▲今帰仁グスクの城内上之嶽(イベ:カナヒヤブ)        ▲上之嶽のイベ部分

 
  ▲城内下之嶽のイベ            ▲城内の神ハサギ跡の広場

 上の画像の上(北)部の緑地が平敷のウガン(御嶽)である。ウガンの内部にイベや神アサギや周辺にあった神屋を合祀した拝所がある。御嶽の南側の畑地にグスク土器や中国製の陶磁器などの破片が散布している。もともとはそこらに集落があったのであろう。次第にウガンあたりから南の方へ集落は移っている。東西に通る道は国道505号線で、かつての宿道(すくみち)である。


・仲宗根のマチ展開

 仲宗根のマチの展開を図で説明すると、まずグスク(お宮)の杜(ウタキ)を背に集落が発達する。ムラウチと呼ばれ、古層の村の原型をなしている。近世になるとムラウチから分家筋がターバル一帯に集落を形成する。1700年代へのターバルへの集落の形成は人口の増加と、大井川流域の開拓にあると考えている。1719年本部間切の天底村が今帰仁間切への村移動がある。天底村の集落は台地上への移動であるが、天底の地番が仲宗根と勢理客との間に細長く割り込んでいる。大井川流域の水田開拓と仲宗根のムラウチから分離する形で形成されたターバルと村移動をしてきた天底村の割り込みと時期を同じくしているのではないか。

 明治30年代に大井川橋の架設がある。山岳から大井川橋までをミーミチ(新道)と呼ばれ、ミーミチ沿いにマチが鍛冶屋や商店などが並んでいった。また、大井川上流部の寒水村にあったマチが、橋の開通で仲宗根の前田原一帯に質屋や市場や魚店などが移動する。ミーミチ沿いから前田原にかけて仲宗根のマチが発達していった。今でもムラウチ・ターバル・ミーミチ・プルマチなどの地名にマチの歴史を読み取ることができる。マチとして展開するが、ムラウチには村の人たちが拠り所としてグスク(御嶽)やお宮など、形に遺せるものは残している。   

  


祭祀を掌るノロと御嶽(ウタキとイベ)―今帰仁間切中城ノロ―

 今帰仁間切中城ノロは今帰仁間切の公儀ノロの一人である。他に『琉球国由来記』(1713年)に今帰仁ノロ・中城ノロ・玉城ノロ・岸本ノロ・勢利客ノロ・郡(古宇利)ノロの6名がいる。後に天底ノロ(移動村)と湧川ノロ(新設村)の出現がある。崎山・仲尾次(中城)・与那嶺・諸喜田(合併して諸志)・兼次の五村の祭祀を掌るのが中城ノロである。

 中城ノロ(ヌルドゥンチ)には、戦前まで10枚の辞令書があったことが確認されている。その中の2枚が「中城のろ」の叙任辞令書である。他は大屋子(5枚)と目差(3枚)である。ヌルドゥンチは首里王府任命の公儀ノロを出す家であると同時に、男衆は首里王府から任命される役人を家柄であったことがわかる。神人であるノロは祭祀を通して村々の根神以下の神人を統括していたことがわかる。特に御嶽を中心とした祭祀と関わっている。村々のウタキと神人達が中心となって行われる祭祀と切り離すことができない。その構造に国の統治の姿が見える。祭祀の仲介をするノロはじめとした神人が村を統治している姿が見えてくる。五穀豊穣・村の繁盛・航海安全を主とした祈りからすると、租税を貢納する関係として祭祀を捉える必要がありそうだ。

  しよりの御ミ事
    ミやきせんまきりの
    中くすくのろハ
       もとののろのくわ
    一人まうしに
    たまわり申し候
  しよりよりまうしか方へまいる
  万暦三十三年九月十八日(1605年)

  首里乃御美事
    今帰仁間切之
    中城のろハ
      □□□□ 
   一人□□に
    たまハり申し(候)
  隆武八年二月五日(1652年)

 
   ▲中城ヌルドゥンチにある勾玉と水晶玉     ▲同家にある水鳥の三彩(明三彩?)

 
  ▲諸志の川筋の上流部分が諸喜田村の御嶽    ▲ウタキから流れるワータンジャー


 一言で御嶽(ウタキ)と呼ばれる祭祀場はいくつか分類して捉える必要がありそうである。集落レベルのウタキ、国レベルのウタキ、ノロ管轄に関わるウタキ、グスクを抱えるウタキなど。ここではノロ管轄(複数村)に伴うウタキの事例として今帰仁間切玉城村にあるスムチナ(コモケナ)御嶽の紹介である。


・仲宗根のマチと御嶽(ウタキ)

 仲宗根は現在マチとして発達しているが、ウタキ(グシクという)を背にした集落である。明治30年頃大井川に一本の橋が架かったことで、上流部の寒水村にあった質屋や店が仲宗根の前田原に移動し、その後プンジャーマチと発達した。それまでの仲宗根の集落はウタキ(グシクという)を背景にしたムラウチがもとの集落である。ムラウチから分かれたのがターバルの集落である。前田原一帯にマチが発達していくが、ムラウチを中心とした集落、神アサギやシシウドゥンなどの拝所はそのまま継承されている。グシクにはお宮がつくられ、中にイビが祭られている。

 『琉球国由来記』(1713年)に中(仲)宗根村に御嶽はないが神アシアゲはある。祭祀に参加するのは掟・百姓・巫(ノロ)・掟神・中宗根地頭である。中(仲)宗根地頭は脇地頭で基本的に首里居住で祭祀のときにやってきたのであろう。仲宗根の祭祀は玉城巫の管轄である。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)に仲宗根村の御嶽を百喜名嶽を村の御嶽としている。玉城村にも百喜名嶽とあることから、スムチナ御嶽をさしている。スムチナ御嶽は村々の御嶽というより玉城・謝名・平敷・仲宗根の四村の御嶽である。明治のこの資料で仲宗根村の御嶽として扱っている(スムチナ御嶽は村の御嶽とは性格が異なる)。

 
 ▲後方の緑地の杜が仲宗根のウタキ(グスク)         ▲グスク(お宮:イベ)からマチを望む

 
    ▲神アサギとシシウドゥン(後方)                 ▲お宮(御嶽のイベ)  


・勢理客の御嶽(ウタキ)と集落

 勢理客は「おもろ」で「せりかく」と謡われ、名高いノロを出した村(ムラ)である。御嶽(ウタキ)―神アサギ―集落をつなぐ軸線をはっきりと見せる村(ムラ)の一つである。御嶽を中心とした集落の成り立ちと村を統括する役人の動きと首里王府、そして祭祀を司るノロを通して王府との関係をしる手掛かりを与えてくれる村である。

 勢理客の集落の後方にウガミ(御嶽)があり、その前方に神アサギやヌルドゥンチ跡、さらに湧泉(カー)があり、周辺に集落が発達している。さらに下方の方にいくと、かつての水田地帯である。御嶽は個にあるのではなく、そこに住んでいる人や集落との関わりで存在する。御嶽は村を統括したり、そして王府とはノロを要とした祭祀で結びつき、村を統治していく間切役人の任命などで結びついている。その最大の関わりはやはりからの貢租である。

 御嶽の中のイビに二基の香炉が置かれている。「奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋」がある。もしかしたら、スムチナ御嶽の香炉の年号と一致しそうである(要確認)。今帰仁按司が上薩のときの旅祈願(航海安全)の香炉なのかもしれない。御嶽での祈願の一つに航海安全があることがしれる。

 ヌルドゥンチ内にあるワラザンは、ノロへの貢物や出夫などの出納簿や出席簿である。祭祀を介してノロと村人との関わりがしれる。勢理客ノロはシマセンコノロとも呼ばれ、『琉球国由来記』(1713年)では島センク巫と記される。勢理客ノロが管轄する村は勢理客・上運天・運天の三カ村である。ところが、1738年に創設された湧川の祭祀にも関わっている。湧川村は湧川ノロを出しているにも関わらず……。それは湧川にあるヒチャヌアサギ(下のアサギ:別名奥間アサギ)と関係する。奥間アサギは一般的な神アサギではなく火神が祭ってあり奥間屋の家跡である。

 その奥間屋は勢理客ノロ(大城家)を出す家である。1736年まで湧川地内に我部村と松田村などの村があった。そこは最初今帰仁間切地内、1690年頃羽地間切へ。1738年に再び今帰仁間切の地となる(間切の方切や村移動、村の新設など複雑に動く)。勢理客ノロが湧川の祭祀の一部に関わるのは奥間神アサギは奥間家跡であり、勢理客ノロ家の先祖は今帰仁間切(1690年頃以降羽地間切)我部村出身である。

 羽地間切我部村の時代、羽地間切の役人(南風掟:奥間親雲上)を勤めていたとき、羽地間切の地頭代の立川親雲上が犯罪を起こし流刑にされる事件があった。その責任をとって奥間親雲上も辞め、今帰仁間切勢理客村へ移った。そこで今帰仁間切の首里大屋子となり地頭代まで勤めた。位牌には島スンコノロクモイ(康煕6年:1667)が出ており、ここでもヌンドゥルチ家の男方は何名も間切役人を出している。湧川の奥間神アサギ(奥間家の火神)での祭祀(フプユミとワラビミチ)に勢理客ノロも参加するが、管轄村のノロの役目ではなく一門(奥間家)の神人として、奥間家で行われる祭祀としての参加とみなした方がいい(詳細は別報告)。勢理客ノロは我部の神人と別れて、勢理客・上運天・運天の順序で回っていく。


・集落移動の村と御嶽(ウタキ)―羽地間切仲尾村の事例―

 仲尾は羽地間切仲尾村で現在名護市の一字である。ここでの「集落移動の村」とは、同村(ムラ)地内で集落部分が移動した村のことである。同村地内で集落が移動したときに、御嶽(ウタキ)はどうしたのかがテーマである。仲尾のウタキはヒチグスクと呼ばれ、同丘陵地の向って右側は親川グスクである。ヒチグスクと親川グスクの間に堀切があり、親川グスクへの神道として使われていた。堀切は羽地グスクの防御的な役割を果たしたであろうが、仲尾村のウタキ(ヒチグスク)であるとの観念がみられる。羽地グスクは田井等村(親川村)のウタキであり、それにグスク内の支配者の拝所(池城里主所神・池城神アシアゲ))は区別しているみられる。

 仲尾は『琉球国高究帳』(1640年代)に「なかう村」、『琉球国由来記』(1713年)で「中尾村」、「琉球一件帳」(1750年頃)から「仲尾村」と記される。仲尾村の集落移動は「羽地間切肝要日記」にみることができる。道光15年(1835年)「村(集落)の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を作った。両兼久の敷地の竿入れをしてみたら百姓持の土地なので村敷(屋敷)にしたいと願い出て認められた。この時期に勘手納に7家族、東兼久に4家族が引っ越してきた(頭数134人)」。故地は「仲尾古村遺跡」と命名され集落が移動した痕跡を見せる。そこには御嶽(ヒチグスク)や神アサギ、根神屋やノロドゥンチ跡やカーなどが今でも遺っている。

 集落は移動したが御嶽(ヒチグスク)は新しく設けることなく、また旧家跡や神アサギは元の場所に置いて集落のみの移動である。距離として約700mばかりである。村内の集落のみの移動の場合、御嶽(ここではグスクと呼んでいる)はもとの場所に置き、神アサギや旧家の火神(ウペーフヤー・ニガミヤー・ヌルヤー)の祠(神屋)を置き、祭祀は故地で行っている。畑やかつての水田は故地に近い場所に広がっていた。土地改良で地形が大きく変わってしまい、ウタキや神アサギなどに、かつての集落跡を確認することしかできない。

 『琉球国由来記』(1713年)に「谷田之嶽 神名:ニヨフモリノ御イベ 中尾村」とあるが、中尾村ではなく谷田村の誤りと思われる。仲尾村の御嶽は由来記に記されていないと見るべきである。『琉球国由来記』の祭祀で注目すべきことは、惣地頭が中尾村の神アシアゲと池城神アシアゲに参加することである。仲尾ノロ管轄内の田井等村からに1700年代に親川村の創設があり、池城神アシアゲは親川村の神アサギ(親川グスク地内)となる。羽地間切の海神祭のとき、中(仲)尾・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ・伊指(佐)川・源河の全ノロが仲尾村と池城神アシアゲでの祭祀に参加する。そのとき、惣地頭も両神アシアゲの祭祀に参加する。ここでも羽地間切の按司や親方クラスが祭祀に参加している。グスクの神アサギでの祭祀に仲尾ノロが重要な役目を果たしている。

 今帰仁村平敷のウガン(御嶽)に立ち寄ってきた。『琉球国由来記』(1713年)にすべての御嶽を明記さているものではない。今帰仁村平敷の御嶽も記載されていない一つである。『琉球国由来記』に記載されていないが、重要な御嶽である。記載されていない御嶽に、御嶽の源初的な姿があるのかもしれない。

 ここでは、ウガン(御嶽)と集落との関係は、切り離すことのできない結びつきがあることに気づかされる。同時にそこで行われる祭祀がムラ人は勿論のこと、オエカ人(間切役人)の参加も欠かすことができない。そのことは祭祀が村を統治していく上で重要な役割を担っていたことがわかる。


まとめ 

 御嶽についてまとめていると、なかなか面白い。今日は「移動した村と御嶽」の事例報告をしましょう。時々、質問があるので使っている言葉について説明しておきましょう(時と場合によって微妙なニュアンスの違いで使い分けをすることもある)。

 沖縄の村(ムラ)を見ていくとき、『琉球国由来記』(1713年)の村や神アシアゲや御嶽などの確認をする。それは1700年頃から2000年の約300年近い歳月で、由来記にある村や神アシアゲや祭祀がどう変貌しているかの確認でもある。その中の特に山原の「神アシアゲ」はそのほとんどが今に伝えている。明治から現在まで大きく変貌する中で、300年という歳月で9割以上残っているのは、確固たる史料がなくても、歴史を読み取っていく上で無視できないものがある。仲宗根村が明治41年に字仲宗根なり、小さな集落がマチとして発達していくが、近世から継承されてきた御嶽や神アサギやカーなど祭祀に関わる空間も形として遺し続けている。執り行う神人の継承がほとんどなされることなく消えつつある。

 1700年以前の移り変わりの緩やかな時代ならば、現在まで激動の中の300年で残っているのは、変貌の緩やかな1700年より300年前にはすでにあったのではないか。少なくとも1700年から200年は遡っていいのではないかと考えている。仲松先生も「古層の村」として祭祀や御嶽や神アサギやマキ・マク・マキヨ(小集落)などの視点で見ている。

 『琉球国由来記』(1713年)を利用するのは、その記事に1609年以前の王府の統治の姿が反映していると考えている。仲宗根村の祭祀に中(仲)宗根地頭(脇地頭)が祭祀に出席している。それは、首里に住む役人と村(領村)との関係を示すものである。つまり仲宗根地頭は仲宗根村を「あつかい村」として何がしの貢租を受け取っている関係にあったのであろう。そのために祭祀になると、わざわざ首里から「あつかい村」の祭祀に参加している。

 地頭あるいは脇地頭は地頭地から給与として上納を受けていた。『法式』(1697)で地頭が「あつかい村」に行って迷惑かけないようにとの達(たっし)が出ているようであるが、明治6年調査の『琉球藩雑記』にみると、「領地 今帰仁間切仲宗根村作得四石余」とあり脇地頭仲宗根親雲上は四石余りの作得をもらっている。このように『琉球国由来記』の記事は、歴史を紐解く手掛かりとなる史料でもある。


 「山原の御嶽」を議論していくための土台を整理しておきたい。御嶽を国(琉球国)レベル、間切あるいはノロ管轄レベルの御嶽、村レベルの御嶽、グスクの御嶽など、いくつか区分してみていく必要がありそうだ。まずは今帰仁村間切内の御嶽から、村とグスクレベル御嶽について見ることができる。さらに18世紀初頭の人たちの御嶽とイベの観念が見えてきそうである。