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・首里城をゆく




〔首里城をゆく〕(2003.6.28)

 首里城ゆきは久し振りです。足元の今帰仁グスクとは趣が異なります。平成の首里城を歩きながら、今帰仁グスクが全面発掘がなされ、そこに建物を建てる事になったとしたら? 1609年の薩摩軍の焼き討ち直後に建物が再建されたのであろうか。基壇のある時代の建物、その後、そして薩摩軍の焼き討ち直前など、いろいろ時代を想定しながら今帰仁グスクの建物のことが駆け巡っていました。

 今帰仁グスクの建物についての絵図などの資料が今のところ皆無なので、復元することは不可能に近いでしょう。復元というより、建物をつくるというなら、まったくといっていいほどの新建築物になるでしょう。

 今帰仁グスクも城壁の修復をしてきています。城壁の工事が一通り終るまでには、20年30年はかかるでしょう。首里城の整備の様子を伺っていると、今帰仁グスクでも学際的な研究がなされるべきだと実感させれました。復元するにあたり18世紀の首里城を基本としているようです。今帰仁グスクは首里城と関係なくあったわけではないので、その影響なども考える必要がある。第一、第二尚氏でも監守という役人を首里から今帰仁グスクに派遣し、その一族が監守を務めているし、今帰仁監守(按司)と今帰仁阿応理恵とも首里王府と密接な関わりを持っているのであるから。

 首里城の説明を受けながら、今帰仁グスクを被せながら見たり聞いたりしていると、なかなか面白いものじゃ。今帰仁グスクの発掘調査の成果が得られないと机上の議論にすぎないが、まずは今帰仁グスクの正殿(本丸ともいう)・北殿・南殿の位置関係を首里城との対比で見ていくと、今帰仁グスクの正殿の向きや規模などの変遷をいくつか想定していくのも面白い。ただし、発掘調査の成果を踏まえない机上の議論にすぎないが、比較研究を進めておく必要があるだろうと考えている。それは夢ですね。

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      ▲首里城の正殿(2003.2.27)                ▲首里城の南殿と番所(2003.2.27)