勝連(現うるま市)                            トップへ

・津堅島


【津堅島をゆく】(2006年11月21、22日)

 沖縄県地域史協議会の研修会が勝連町津堅島(現在うるま市)で開催される。参加することに。三度目の津堅島渡りである。一人で回るのがほとんどであるが、地域史のメンバーと一緒に島の印象などを伺いながら歩くのもいいものだ。幸いにして島を踏査している間は曇り空、二日目の午前中の研修は公民館での講演だったので、支障なく開催することができた。

 今回の島渡りはいくつか島で確認したいことがあり、自分が考えていたことがいくつも覆り、なんとも言えない面白さを体験することができた。参加者と一緒に回ったところ。わたしは九時便で島に渡り、集落内を歩いてみた。二日目の早朝も集落内とミーガー、さらに東側の海岸までゆく。二度、三度回った所もあり、何度回ってもいいものだ。お陰で足の裏はマメだらけ。

 興味不深いのは、近世に津堅村と神谷村があったこと。二つの村があったのであるが、二つの村の集落の境界がどこなのか。またどこが津堅、神谷の集落なのか、未だにはっきりしないようである。祭祀や旧家や集落の展開やカー、さらには歴史などから見えてくるのではないか。ところが、先人達の研究をみても、そう簡単ではなさそうである。そこが面白いのだが。

 集落内を歩きながら印象的だったのは、集落と耕作地がはっきりしていたこと。祭祀と関わる場所や旧家などが御嶽近くにあること。ウェーキと見られる屋敷(りっぱな石垣のある屋敷)が耕作地に近い場所にあること。畑地の区分や作物を物差しで計ったように植える津堅島の農業をしている方々の気質の一端が伺える。一方港に行くと、かつては海岸に近い集落あたりまで台風などのとき荒波が打ち寄せていたという。そこに生きる漁民の気質は、農業をしている方々とはまた違った気質を持っているに違いない。


          ▲風情のある石囲い屋敷が見られる津堅島の集落


【津堅島の御嶽と集落】

 現在の津堅集落の後方に国森の御嶽、クボウの御嶽(グスク)、アラカーグスクがあり、御嶽やグスクから下の方へと集落が発達している。中の御嶽とヒガル御嶽は現在の津堅の集落と離れた場所にある。ただし、喜舎場子(中の御嶽)と関わる一族は津堅集落内に住み、津堅村を構成する一門となっている。その様子は津堅の祭祀に表れている。「津堅の集落の発達は国森地域から、次第に下方へ拡大していった」という伝承を持っている。集落と耕作地は明確に線引きされている。

『琉球国由来記』(1713年)には津堅村(島)に四つの御嶽がでてくる。それらの拝所名と神名は以下の通りである。御嶽の中にある小さな祠は御嶽のイビだと考えている。それは『琉球国由来記』(1713年)の神名のイベ部分が小さな祠として祀られているのではないか。(森全体が御嶽で、その中の香炉が置かれた場所はイベ。『琉球国由来記』でいう神名はイベであり、森全体が御嶽だと区別して考えている。『由来記』に出てくる四つの御嶽は確認されている。

  ・国森嶽(神名:イシヅカサノ御イベ)(現在の国森の御嶽)(標高39m)
  ・コバウノ嶽(神名:木ヅカサノ御イベ)(現クボウの御嶽:グスク)
  ・中ノネタテ嶽(神名:イシヅカサノ御イベ)(現中の御嶽:喜舎場子の墓?)
  ・ヘカルアマミヤ嶽(神名:木ヅカサノ御イベ)(現ヒガル御嶽)


【津堅島のカーと生活】

 集落との関わりでやはりカーが気になる。クラチャガーは集落の後方の海岸へ下りる途中にあるカーで倉の下にあったカーのようである。集落内にあるのはアラカー(新川:学校の後)、集落内にシンジャガーがある。集落の下方にウスガー(潮カー)があり塩分が含まれることによるカー名である。水に不自由した島のようである。どのカーを覗いても水量は少ない。

明治43年に集落から離れた畑地の中に掘られたミーガー(新ガー)も水量は僅かだったようである。「わずかしみでる水によって命を支えてきた」島だったと表現される。沖縄本島から水道が引かれたのは昭和50年になってからである。

  ・クラチャガー(倉下ガー)
  ・シンジャガー
  ・アラカー(新川)(産井泉)
  ・ホートゥガー(鳩のカー)
  ・ウスガー(桃原ガー)(潮カー)
  ・ミーガー(新カー)


   ▲クラチャガーの様子(以前に撮影)     ▲クラチャガーにある香炉


      ▲シンジャガー        ▲シンジャガーの周辺の様子


   ▲ウスガー(桃原ガー:潮ガー)     ▲ウスガーの側にある祠


    ▲ホートゥガー(鳩ガー)  ▲ホートゥガーの側にある祠


     ▲ミーガーの現在の様子   ▲記念碑(明治43年)    ▲側にある祠

【戦前までの津堅島の航路】

 以前は与那城町屋慶名港(現在うるま市)からでていたが、現在は勝連町平敷屋漁港(うるま市)からフェリーが出ている。津堅島と本島との海上航路は戦後になってからである。戦前の買い物はサバニで与那原に行ったという。それからすると、津堅島が大里間切や西原間切の領地であってもなんら不思議ではない。


【津堅島からみた本島】

 津堅島に立って沖縄本島は勝連半島、浜比嘉、平安座などの島々が右手に見える。左側には久高島や知念半島、そして勝連半島と知念半島の間に与那原や中城など、中城湾に面した市町村が見える。津堅島から首里に行こうか、それとも与那原に行こうか。中城に行こうかによって直線的に目的地にサバニを向けることになる。

 普段、沖縄本島側から津堅島を眺めているが、津堅島から本島側を眺めると、津堅島が扇の要となっているのではないかと錯覚してしまうほどである。明治、近世の歴史を紐解くとき、海上交通の世界の常識を認識する必要がありそう。そのことは『山原の津(港)と山原船』でも実感したことである。

 1673年に勝連間切から与那城間切が分割したときに西原間切から勝連間切へ管轄が移されたという。津堅島に立つと、首里那覇にいくとき、勝連半島に渡り、そこから陸路で首里・那覇へ向うには半円を描くような距離である。荷物などがあるのであれば、直線で与那原や泡瀬あたりの港に向うのが自然である。

 ・グソウ山(風葬地?)
 ・竜宮神の祠(海神宮ではないか?)アラカーグスク(37.5m)
 ・(ヒガル御嶽)(四御嶽の一つ)
 ・(シニグガマ)
 ・津堅殿内
 ・アサギマー
 ・集落内の拝所(四ヶ所?の祠)
 ・旧公民館跡地
 ・学校発祥地
 ・現在の学校地(ノロ地跡)
 ・集落から海岸への筋道


【現在の燈台と戦前の燈台】

 現在の燈台(米軍により国森の最高所に仮燈台が設置され、昭和48年に無人燈台が建立された。
 燈台跡(明治29年11月の創設で燈台守は土佐の人だったという。戦争で破壊された。)