勝連町津堅島
(現うるま市)
トップへ
勝連町津堅島(現うるま市)
(2004年4月7日)
6日の午前11時発の「フェリーくがに」で勝連町津堅島をゆく。平敷屋港から津堅港まで約30分。この季節になると島々を回りたくなる。昨年は伊平屋島だったような気がする。どの島に行っても飽きることがない。津堅島には『琉球国由来記』(1713年)に津堅村と神谷村があり、史料で神谷村が記録されなくなったりしているが、津堅ノロと神谷ノロについては伝えられていたようだ。二つの村の痕跡や集落がどう展開してきたのかに関心がある。御嶽やグスクを歩きながら、あるいはカーを訪ねながら集落をみていくのもいい。
集落内を歩くことは、集落の展開を膚で感じ取ることだといつも思う。フェリーを降りると、足をどう向けていけばいいのか。初めての島はいつも躊躇する。もちろんフェリーを降りる島の人たちの流れを観察しながら最後に降りるのだが。自家用車を港に置いてあるので島の人たちの動きはつかみにくい。旅人は民宿の車で一目散。近くのスーパーで飲み物を買い、食堂でソバを食べながら島の様子を伺うことにした。
集落を歩いているとやはり石積みの屋敷に魅了される。人が住んでなくてもである。屋敷に井戸の形をしたのがいくつも目にした。どのくらいの深さだろうかと覗くと、それは井戸ではなく雨水をためるタンクである。ホートゥガーやミーガーなどの話をきくと島の水の苦労は大変なものがあったようだ。
島の中央部にミーガーと書かれた標柱が立っている。勝連町の文化財に指定されている。その奥に碑があり表に「記 新井川に而明治三十三年・・・(磨耗しているため現場で判読できず)」、裏面に「コ里牛金乃頌コ碑 明治三十三年(井戸沿革)」とある。ミーガーの沿革について知りたいものだ。周辺土地改良がなされているが、そのカーは古くから使われていたこともあり、また灌漑用水に使うために残したのであろう。傍に祠があり参拝する人がいるようだ。
津堅島は短冊型の土地(耕作地)の印象がある。地割制度=短冊形土地だと錯覚していたことがある。地割制度は村人に土地をどう配分するかの制度であり、土地の形をどうするかということではない。津堅島のように短冊型をした土地を地割と呼んでいるため、地割制度と土地の形を結びつけて誤解をまねいている(私一人かもしれない)。因みに勝連町津堅島は「人頭割で年齢ニヨリ部合ヲ設ケスシテ平分ス」である。短冊型の土地は昭和51年度に土地改良事業が行われため、短冊型の土地の形は失われたと聞いている。
.
.
▲喜舎場子の墓(中御嶽) ▲クラチャガー(倉下湧泉)
.
.
▲階段を降りたところにあるホートゥガー ▲1949年竣工とある カーの内部
.
▲やじり浜からみたアフ岩(小島) ▲港付近のデイゴに花が咲いていた