渡名喜村(島)                                 トップへ



2006年10月10日(火)

 渡名喜島までゆく。8日午前8時30分のフェリー(久米島行)に乗船する。午前6時に家を出たこともあって朝食抜き。フェリーでの船酔いはしないと自信があったのだが。さすが朝食抜きのすきっ腹にお茶を流し込んでも、荒れた海の揺れにはかなわない。二時間余りの苦難の船旅。二度と渡名喜島には行くまい(船酔いだけではないが)。

 島に無事着くと、宿に荷物をあずけ、そこで昼食を急いで済ませ、島の北側の高いところを目指す。まずは、大嶽(里:古島:里遺跡)である。高い所から集落や島の様子を伺い、そこでどう歩くかを決めることに。渡名喜島は一村一字である。明治には桃原村が登場するが、渡名喜村を指しているのだろうか。集落を歩きながら表札を見ると「渡名喜村・・・番地」とあり、字渡名喜がない。一村に一字しかないので字渡名喜は必要ないのであろう。


【渡名喜島―里(古島)―@】

 渡名喜集落の東側はアガリウチ、ニシンダカリ(北村渠)とハヘンダカリ(南村渠)に区分されているようで、アガリウチが古い集落(古島ともよばれる)と認識されている。そしてサト(里)と呼ばれる。渡名喜里遺跡と呼ばれる場所で、標高約80mの丘である。後で資料館を訪ねると、発掘されたグスク系土器や中国の陶磁器や褐釉陶器などが展示されていた。発掘された遺構や遺物だけでなく、現在ある里殿跡やノロ殿内跡、鉄滓や鉄釘などから丘陵地にはグスク時代以降、集落が形成されていたにちがいない。現在の渡名喜集落の発祥地と見られている所以であろう。グスク時代に丘陵地に集落が形成され、中にはグスクに発達したところもあり、丘陵地にあった集落が麓に降りていった形跡は、沖縄本島北部の集落の展開と類似している。

 ただし、渡名喜の集落の形成は里(サト)にあった集落のみで今の規模になったのではなさそう。他地域にあったグスク時代のマキやマク規模の集落も現在地に移動してきて統合された痕跡が伺える。

 17世紀の「絵図郷村帳」や「琉球国高究帳」で渡名喜のことを戸無島と表記される。戸無島は高頭45石余、内田が一石余、畠43石余りとあり、僅かであるが稲作が行われていた。今でも神田だろうか稲が植えられている。ウーチューガー一帯の西斜面に僅かであるが棚田があったのであろう。



    ▲丘陵上部が渡名喜里遺跡である        ▲丘陵の途中からみたアガリウチ集落


  ▲丘陵途中から見た集落の中央部         ▲丘陵途中から見た集落の西側


     ▲里にある里殿                 ▲里殿の後方は開かれている


▲里殿の側にある神アサギ(後方は御嶽?)     ▲ノロ殿内火神ガナシー


   ▲ウーチューガーのすぐ側の神田?         ▲ウーチューガー

2006年10月11日(水)

 渡名喜島のことを調べていると、沖縄の100年、あるいは200年先の姿を見ている思いにかられる。過去の姿を描くこともできるが、それ以上に沖縄の将来の憂えた姿が見え隠れしてくる。今の人口は余りにも多すぎる。渡名喜島の人口は大正14年で1,383人、昭和25年で1,554人、昭和45年1,004人、昭和58年で556人、平成18年6月現在で460人である。渡名喜の人口の減少は過疎化現象であるが、日本全体の少子化は将来支えきれる規模の社会状況を本能的に察知してのことかもしれない。

【渡名喜島―集落―A】

 渡名喜島はまとまった整然とした集落が形成されている。集落の北側と南側は丘陵地となっている。その間に挟まった低地に集落が形成されている。屋敷は道より低く、意外と風の流れがいい。集落部分の風の通り道になっている。冬や台風時などのときは、一段と強風が通り抜けていくのではないか。そのこともあって屋敷を掘り下げたのか、それとも吹きあげた砂が道筋に堆積したために屋敷が低くなっているのかもしれない(今でも東側の海岸の砂が吹き上げている。東集落への海からの道の入り口に砂防扉が設けられている)。

 集落内にトゥンと井戸がある(各屋敷に掘り込みの井戸が目立つ)。井戸とトゥンは渡名喜集落の成り立ちをしる手掛かりになりそう。井戸とトゥンはほとんど東集落にある。ノロトゥンチも東集落にあるのではと考えていたのだが、それは予想に反するものであった。ノロトゥンチは西集落にある。里にあった集落が麓に下りていく過程で、ノロトゥンチは最後まで旧地に留まっていたのではないか。

 移動集落を見ていると、ノロトゥンチが積極的に移動した場合は集落内の要となる部分にあることが多い。ところが、故地にこだわり移動が最後になると集落の外れに移動している。それからすると渡名喜のノロトゥンチの移動は、後者だったにちがいない。里に今でもノロ殿内火神の祠がしっかりとあるのは、そのことを物語っているのかもしれない。
 
 集落内に「・・・トゥン」と呼ばれる場所がある。そのトゥンは集落を構成している人々の素性をしる手掛かりになりそうである。つまり、渡名喜集落は旧里集落だけでなく、別のマキ・マキヨ規模の集落が移動してきて一体化した可能性がありそう。集落がアガリウチ(東)、ニシンダカリ(北村渠)、ハヘンダカリ(南村渠)と区分のされるのも、マキ・マキヨ規模の集落の統合があった痕跡を見せているのかもしれない。(集落が・・・ダカリと区分されるのは、統合され、大分経過した後のことかもしれない)。





    

  ▲南風原ガー(井戸)(東集落)         ▲北原(ニシバラ)ガー(井戸)

2006年10月17日(火)

【渡名喜島の印部石】B


 渡名喜村(島)の歴史民俗資料館内に「れ しつた原」の原石(印部石)がある。渡名喜島には小字(コアザ)が47ある。その中に「しつた原」の小字はないが、小地名として「しった」がある。その場所は、小中学校跡の南側あたりである。この印部石がどこにあったのか確認していないが、小地名の「しっち」あたりにあったのであろう。元文検地の頃、しつた原があったことを物語っている。原石の「しつた原」が今の小字にないのは、元文検地以後原域の変更がなされたものであろう。(下の「れ すつた原」の印部石は渡名喜村歴史民俗資料館内に展示してあるもののスケッチ。高さ約62cm)


 渡名喜島の印部石
  (スケッチ)


【渡名喜島のハチマキと古銭】C

 渡名喜村歴史民俗資料館に「ハチマキとハチマキ箱」がある。上門屋とあり渡名喜の旧家の一つである。このハチマキを見ると渡名喜島での位階制度が気になる。この上門屋(ウイジョウ)は首里王府から位階を賜ったのであろう。ハチマキは黄色なので座敷や当座敷、筑登之親雲上などの位階を賜ったのではないか。ハチマキが三つもあるので、大きな働きをしたことは間違いない。

 明治13年の「本県下各間切各島夫地頭以下役俸調書」にみる渡名喜島の役人の役俸が記されている。上門屋からも地頭代や夫地頭、あるいは間切役人を出した家筋の可能性も。
  渡名喜島
   ・地 頭 代  南風原親雲上
   ・夫 地 頭  南風原筑登之
   ・首里大屋子 渡久地筑登之
   ・大   掟   南風原にや
   ・掟       上原にや

 もう一つ気になるのがある。上門屋から寄贈された二つの箱にはいている大量の「寛永通宝」の古銭である。渡名喜島の地頭代やにやクラスの人物が食料に貧した人を助けたり、ソテツを植栽したり、痩せ地に肥料を入れることなどの指導、親孝行などで王府から表彰され、筑登之座敷や赤巻(筑登之座敷)の位階を賜った記事が見られる。

 上門屋に直接に関わる近世の記事や伝承などがあるのではないか。大量の「寛永通宝」を保管していたことからすると諸浦在番役人を出していた家だったのかもしれない。もう少し、資料をあたってみることに。


 
  黄色のハチマキと箱と「寛永通宝」の古銭の山(渡名喜島の歴史民俗資料館:スケッチ)  


2006年10月20日(金)

【渡名喜島の集落のチキシと番所・学校跡地】D

 渡名喜島の集落を歩いていると目についたのが丸い差し石である。渡名喜ではチキシ(突き石)と呼んでいるようだ。本島では若者が差し石を持ち上げ力試しをしたという。今で言う重量挙げなのかもしれない。渡名喜島では「力試しをする差し石でもあるが、疫病がはやると集落のアジマーに置いてあるチキシを響かせて魔物を追い払ったという」(『渡名喜村史』下)。東集落にアカヂキシャーという赤みがかった60キロ位のチキシがあったというが、この石だろうか。道の突き当たりに石敢当をいくつもみかけるが、このチキシも魔除けの役割を果たすというのも面白い。東側のアジマーにあるチキシの近くにサンゴ石灰岩を丁寧に削って石積みした屋敷がある。そこが、歴史民俗資料館に寄贈した上門屋なのだろうか。民宿の近くだったので何度側を通る。

 番所・学校跡地の木の根元に小さい石と大き目の石がある。それもチキシなのだろう。



▲東字のアジマーのチキシ  ▲番所跡地のチキシ?   ▲東字この家が上門屋?

 集落の南側の学校跡地が渡名喜番所跡地のようだ。数本の福木が番所跡地、学校跡地なのだと言いたげ。その下に説明板があり、「渡名喜番所渡名喜小中学校のフクギ群」とあり村指定の文化財となっている。1階は福祉施設だろうか。二階に図書館と歴史民俗資料館がある。図書館の係の方に資料館を開けてもらい見学することに。(普段から冷房をきかせているようだが、展示物を冷やすより湿度を適度に保った方がいいのだが)。

 フクギの下に石碑があり「創立明治二十二年三月一日 移転施設拡張の為 昭和五十二年四月二十五日 西兼久へ 創立九十周年記念として建立する 昭和五十五年三月一日」と刻まれている。こういう場所に立つと島の歴史を描いてみたくなる。(もちろん、島の歴史はすでに『渡名喜村史』で描かれており、手が届かないのだが)。



 
▲番所・学校跡地にのこるフクギ。車の後方の建物に歴史民俗資料館がある。