本部町渡久地の按司墓とをなぢゃら御墓


2020年1月26日(


 
本部町の渡久地にある「按司墓」(大米須親方之墓)の石棺がなくなっているとのこと。その墓の調査報告書(某家から提供)を翁氏の鼻祖(大米須並をなじゃら)御墓発掘報告書(大正7年:昭和49年)と『沖縄県国頭郡志』(大正8年)を入手している。墓の内部の確認したのは「をなじゃら墓」のみ。「をなじゃら墓」は墓の上部の道路の整備だったような。国道事務所依頼の会社か。内部には50近い厨子甕と数基?の石棺が散乱。足場がないほど。調査する準備がなされていず、墓口を開けて、中の様子をみる程度の確認。その時持参してきたのが、墓の管理をしている某家から。以下の調査報告書(コピー)。(コメントは控える)

2011年2月の調査記録 - 沖縄の地域調査研究参照

【按司墓】(渡久地)(国頭郡志)

 渡久地の村後丘したに普通の墓所と趣を異にする古墳あり。俗に按司御墓と称う。これ尚円王の兄に当れる米須里主(顧姓久志氏等の租也)の墓なりと称う。里主は元伊平屋の人にして中山尚徳王に奉仕せしが、文明元年徳王廃せられ、尚円王位につきしかば、先王に対する節義を重んじ、かつ弟に仕ふるを耻ぢ家を捨てて北山に隠退し、而して具志川ノロクモイ(今の浜元)を妾として、この地に老を養へり(そのノロの墓はヲナヂャラ御墓といい、渡久地港北岸にあり)、米須の長男は喜界島大屋子を勤めその子孫、今同地八十戸を算すという。

 
     
▲渡久地の按司墓                 ▲米須里主の墓碑

翁氏の鼻祖(大米須並をなじゃら)御墓発掘報告書(大正7年:昭和49年)

墳墓発掘の原因

 恰も発掘の動機は翁氏の先祖国頭親方の尊父は大米須公なりと伝られしが近頃歴史家の研究する所に依れば大米須と国頭親方の年齢は殆ど九十余年の差あるを以て御親子にあらずして、或いは国頭親方は大米須の御孫にあらずやとの疑念を惹起し、墳墓を発掘し、具体的調査するの必要を認め一門協議会を開き詮議の結果鼻祖大米須公並御夫人(をなぢゃら)御墓を発掘し、緻密に調査するに決定し、其の調査委員は永山盛廉、安谷屋盛堅、東恩納盛起、久志助英等を選定し、本部村渡久地に派遣せらるや、歴史家真境名安興氏に立会を乞い同伴して渡久地に至り大に利する所ありたり。

墳墓発掘ノ日時

 最初は大正七年旧暦八月六日墳墓発掘することに定めたりしが、天天候荒立ち海陸共に旅行し難く八月十一日に延期したるに、尚ほ天気静穏に復せず不得巳、私事の為め曩に出発せる安谷屋盛堅並びに渡久地松太郎等に電報を以て依頼し、十一日午前七時は阿さたひ御墓、仝日午前十一時はをなぢゃら御墓を発掘着手の義式丈を行はしめ、十二日午後一時より調査委員が墳墓を発掘せり。

安可多部御墓の状況
 その位置は国頭郡本部村渡久地うゑの原という山の麓にあり。亥に近き方に向かい渡久地の裏路通りに沿へ天然の洞穴を利用し少しも人工を施さず檀もなく至て質素の感あり。而して石棺十二個あり、陶製の逗子四十個ありて、墓内に厨子を以て充満し、或いは厨子を重ねおきて多し、奥面には数人の骨を混合して堆積せり。

 中央に安置せらるる石棺の蓋に大米須の三字を書し、その中には「乾隆三十九年甲午八月十二日翁氏国頭親方の御親父の由承之」と書したる。木札を発見せり。然し厨子に銘書あるものは土地の人民なるものの如し。又銘書なきもの六個ありて大米須の御子孫なるや否判明せず。従って調査の目的達する能はずるは遺憾に不堪なり。

 古老の伝ふ所に依れば墓内に石碑を入れたる趣き、調査したるも是亦発見する能はず。石棺に乾隆三十九年午八月十二日云々と書したる木札と、今回延期に延期を重ねて午年八月十二日に発墓したると仝年月日も相当したるは実に寄寓の感あり。今回記念の為め左の通り木札に記載し大米須の石棺に入れたり。

 大正七年九月十六日(旧暦七月十二日)一門立会の上御嶽墓を発掘す。古老の指示に従い墓内に入れ置きたりという。石碑を捜索するも発見すること能はず。当時石棺十二個陶製厨子四十個あり。銘書明なるもの及び不明のものも一々謄写し置きたり。

 大米須の石棺に別札乾隆三十九年八月十二日云々の木札ありしに依り其のまま複製し、原文の通り書し入れ置けり。
  大正七年九月十六日
  立会人
   歴史家  真境名安興
   翁氏   永山盛康
         安谷屋盛堅
         東恩納盛起
   顧氏   翁長助持
         普天間助宜
        久志助英
 今回墳墓発掘の際本部村渡久地百三番地島袋盛三郎より願出に依り厨子一個渡せり。

 
         ▲按司墓内部の様子(2020年1月27日撮影)


御夫人御墓の状況(をなじゃら墓)(按司墓とは別)

 その位置は国頭郡本部村渡久地志なきらゑ原という山の麓にあり、渡久地川に面し未申の中に向かい阿さたび御墓とは梢差向かふの方に1檀あり。阿さたか御墓と比し堅牢にして且つ結構なり。外部を高地にして好景色の感あり。墓内は逗子以て充満し、少も余地なし。石棺六個陶製角形六個、厨子五十七個あり。火葬して数人混合して大壺に入れたるものあり。上檀の中央に安置せらるる石棺に二人合納せらるるも銘書判然せざるは最も遺憾とする所なり。下の中央にある石棺には具志川のるくむひと銘書あり。或いは大米須の御妾たりし具志川のるくむひと推察せらる銘書不明のもの十一個ありて、御夫人の御骨を確実に認むる能はず嗚呼。

 裔孫たるものは一生涯遺憾千万なり。期して願くば尚一層研究を重ね探索を継続して鼻祖御夫人の御骨を確認せられんこと

  附言
 本部村渡久地二十三番地士族名城政致より申出に依り厨子一個を渡せり

 阿さたひ御墓に入れたる厨子に銘書ありて村民との関係者の様に認めらる者の様に認めらるもの左の如し。

  (抜け:工事中)

一、満名村松田にや
一、乾隆三十九年五月浜元村 
    唐山仲宗根
一、嘉慶十七年大辺名地村
    唐山蒲渡久地
一、乾隆十九年死去八月廿一日洗骨
  浜元村辺名地親雲上アンシ
  乾隆○○○○丁亥謝花掟
一、金状 松
  浜元村前並里親雲上
一、具志川のろくもい女子 まうし
  健堅親雲上女房
一、伊野波村仲程
  渡真理親雲上妻
一、乾隆三十八年三月廿五日
  伊野波村加那玉城
一、渡久地村前石嘉波親雲上
  妻
一、道光三年未八月浜元村
  上渡久地妻
一、乾隆五十六年戌浜元村
  石嘉波大屋子
一、浜元村
  並里親雲上
一、乾隆三十六戌 浜元村
  浜元にや 石嘉波大屋子
一、伊野波村仲程
  渡真理親雲上
一、嘉慶元年辰六月九日
   辺名地村辺名地親雲上母
一、辺名地村
  辺名地親雲上 妻
一、志ひら下こうり浜元村
  辺名地親雲上妻
一、道光十七年丁■二月十九日死
  浜元村満名村大屋子 妻
一、乾隆三十五年康寅二月七日
  浜元村島袋筑登之の妻
一、嘉慶七年三月
  浜元村渡真理親雲上
一 ○○○○親雲上
   伊芸親雲上妻
一、辺名地村■山辺名地親雲上
  男子  ■■郎
一、前辺名地親雲上 男子
   太良にや
一、乾隆十六年辛未
   大掟文子
一 浜元村
   並里親雲上妻
一、大辺名地仲村渠親雲上
   具志川のろくもい女子
一、タンチャ掟
   渡口村
一、乾隆二十九年甲申正月十六日
   浜元村渡久地大屋子
一、伊芸親雲上母
  真部親雲上
一、申八月廿四日
   ■■親雲上ウシ
一、乙未
   辺名地掟女房
一、伊芸親雲上
一、渡久地村仲宗根方
   玉城にや
一、乾隆十四年寅十四日
   辺名地村辺名地親雲上
一、渡口にや女房
   武太父親
一、銘書不明十一個

昭和四十九年四月十三日 旧三月二十一日
   ヌール墓を開けた。