本部町
渡久地
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・間切の新設 ・宝珠のある墓(島袋家)
東南アジアの香辛料のたっぷり利いた贈り物のラーメンを食べてみた。いかに辛いもの好きな私でも、その辛さにはまいりました。胃に穴があいたのでは。頭の毛穴や鼻のてっぺんから冷や汗?が。これまで、大交易時代の琉球国が東南アジアに出かける最大の理由は、香辛料の輸入だと説いてきた(もちろん他の品々もある)。激辛の香辛料のはいたラーメンをすすりながら、東南アジアまで出かけて香辛料を仕入れた琉球国の中継貿易をした人たちの気がしれない。しかし、当時の貿易の現実を体感した思いでもある。これまで描いていた大交易時代のイメージが激辛のラーメン一個で壊れるようなものではないことを知る。逆に自信を深めた面もある。激辛の香辛料を食べた私に、中国や東南アジアとの貿易の実態を、体感としてしっかり把握せよとのことなのであろう。
【間切の新設】
(2007年1月5日)
1666年今帰仁間切を二分して伊野波(本部)間切を創設する。その時、伊野波間切は伊野波村に番所を置いたとみられる。その時、向弘信(本部王子)と毛泰永(伊野波親方盛起)が惣地頭になっている。それら惣地頭と間切との関係は、地頭地というのがあり、そこから収益する三分の一が惣地頭・脇地頭(耕すのは百姓)へ。三分の一が王府へ。残りの三分の一が百姓という割合のようである。首里に住んでいる惣地頭や脇地頭と間切や村との関係は、首里王府が間切や村を統治する視点から見ると密接な結びつきがある。
本部町渡久地は『琉球国由来記』(1713年)で渡久地村として登場する。渡久地村にヨケノ嶽とアカラ森の二つの御嶽が記されるが、年中祭祀は何ら記されていない。後に村名が消えてしまう具志川村、渡久地村の御嶽は具志川ノロの管轄である。『琉球国旧記』(1731年)の本部郡(間切)の駅(番所)は渡具知邑(渡久地村)である。
本部間切の番所は伊野波間切創設当時は伊野波村に置き、後に渡久地村へ移設したことになる。番所は伊野波村から渡久地村に移設するが、惣地頭は伊野波村のカナヒヤ森での祭祀と関わり、間切番所移動後もそのままである。本部間切中のノロはじめ、サバクリ・オエカ人・地頭が集まる祭祀があり、伊野波村のカナヒヤ森である。伊野波から渡久地への番所の移転は1700年代か)
▲本部町渡久地のマチ ▲本部町の役場(番所跡地?)
▲渡久地のマチ ▲渡久地の神アサギ(後方に神殿)
本部町渡久地―宝珠のある墓―
(2005.05.25)
本部町渡久地のマチの後方に、以前から気になっている場所があった。渡久地の拝所だろうか。忠魂碑、あるいはお宮(神社)なのか。本部大橋を通る度に、そこに行ってみようと・・・。近くまで何度か行っているのだが、入口がわからず通り過ぎてきた。
別の目的で渡久地港に来たのであるが、港への入口の標識の反対側にぽっかりと開けた崖の中腹に見えたのは・・・。近くに車をおいて急な坂道をよいしょ、よいしょ。途中坂道の片側に防空壕跡がいくつもあった。
見えたのは宝珠?の形をした墓である。上部の石碑に「島袋一族の墓」とある。その前方の石碑に、
「上記は祖六代目の祖先が首里王府より頂いた礼状をそのまま掲載した。泊村で
在住中は二階堂の氏を称え七代目始祖の母方の氏嶋袋に変更している」
と、いきさつを述べている。上記の文面は、以下の通りである(急ぎでメモをとったので改めて□部分の文字は埋めます)。
一筆致啓上候
太守様御慶之□□□□□
御拝領候□□□□□
安□□親雲上□□之候
為□可□□御門□
恐惶謹言
国吉親方
四月十七日
小禄親方
與那原親方
二階堂左郎様
▲墓の方から渡久地港をみる ▲宝珠?の形をして嶋袋一族の墓
▲墓の前にある石碑 ▲墓へ坂道沿いの防空壕跡