今帰仁の戦争遺跡
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今帰仁村謝名のトーヌカ(2016/4/4)

今帰仁の戦争遺跡

 
      ▲今帰仁村謝名のトーヌカ        ▲ト−ヌカは謝名や玉城の墓地

 
 ▲昭和19年10・10空爆後、乙羽岳の山手に避難、その後麓へ(トーヌカの墓地)へ避難



・乙羽岳での様子

 特攻機が連日のようにやってきて、米艦隊を攻撃、軍艦からは一斉に高射砲が発射され空中で爆発して黒煙を残していた。乙羽岳からの目撃である。そんなある日、山の麓で避難民が火をおこして炊事をしていて、その煙が偵察機に発見され、突然砲撃された。至近距離だ。遠方へ飛んでいくのと音が違う。海からの発射音が聞こえたかと思うと、不気味な音を引いて落下して爆発した。発射音を聞いて、この弾で自分が最後になるかと思った。ウンメーは私達がひそんでいた岩場から出てハシヌメーへ行く途中の山頂で、この砲撃にあった。

 大きな岩を背にして座っていると、爆発によって吹き飛ばされた土がさらさらと落ちてきたという。「今日一日生きれば長生き!」と言われていた言葉を毎日思い返していた。栄養もとっていない私達にノミやシラミがたくさんついていた。着物ジラミは米粒ほどの大きさで、卵も白く透明で大きくそれをつぶしていたが、減ることはなかった。用事で近所の照屋の叔父さんが来ていたが、シラミが襟から歩いていた。

・謝名部落(トーヌカ)へ降りる

 食糧が底をつき、一口一食のお粥だけとなった。そんな時、何故か盛治が一人訪ねてきたのを覚えているが、彼も同じようにお腹をすかしているだろうと、見ていたことが思い出される。「山から降りよう」と言うのが父の決断だった。「米兵は人を殺さないから米兵を見たら両手をあげんなさい」と父はみんなに話していた。山からは謝名部落へ降り、仲宗根との境あたりにあった巨大な岩からできたトンネルに掘られた壕へ入った。夜間、仲宗根方向の近くが砲撃されており、もの凄い爆発音が続いた。一夜明けてみると、なんと多くの避難民が降りて集まっていた。そして数百米先の農道を米兵達が大きな声を出しながら通って行った。みんな立すくむようにしてその光景を見ていた。

 そこの壕から部落内へ食糧を求めて決死の覚悟だったと思うが、母ツルと寒川の長女敏子に叔母さんの三人で出かけた。アサギ近くにあったビワ園のところまで来ると、なんと二人の米兵が上半身裸でビワを食べているではないか。引き返すべきか、進むべきか迷ったが母は進む道を選んだ。ぬき足差し足で近づいて行った。いきなり大声で「オイッ」と言うなり裸の背中をしたたか叩いた。敵地にいて不意をつかれた米兵はびっくり仰天、腰を抜かさんばかりに驚いていたという。相手は住民であり女性である。三人は笑顔をつくって手話をはじめた。食料をさがしていると。母は二人の米兵を引き連れて行って食糧探しを手伝わせ、荷物を持たせ、帰りは途中までおくってもらった。したたかに生きた三人の女性である。三人は笑顔で興奮気味で、その模様を話していた。

 翌日、完全武装した米兵20人ほどがやってきた。母等が部落内から帰ってきたその道を通って、みんな壕から出てきて両手をあげた。米兵らの機嫌はよかった。近くで初めて見る米兵、印象は目がくぼんで彫りが深く、誰いうともなくウンチューグヮー(盛銀叔父さん)に似ているということだった。鉄兜をぬいで私にかぶせて笑う者もいた。鉄砲から弾を抜いて私にかまえさせ、引き金を引かせる者もいた。壕の側で銃を抜いて「デーテコーイ デテコーイ」という者もいた。そんな時、空をグラマン機がやってきた。私は米兵はどう反応するかと思い、隠れようとした。米兵は心配ないよと言った素振りで止めてくれた。ここはもう占領地になっていると思った。逆に友軍からは敵地になり「友軍機だ」と山で夜中火を消さずにいたところ、急降下爆撃にあい命をおとした者も出た。住民には米兵は敵意を持っていなかった。そこを去る時、私にチーズをかじってくれた米兵がいたが、毒見をして見せたのだと思った。生ぐさいチーズはおいしくなかった。

 それから諸喜田平吉さんをたよって広い大きい家の裏座敷に同居させてもらった。叔母さん達は確か近くのシチダヤー(イサヤーか)の離れに移って行ったと思う。製糖期を迎えており、一家で農家の平吉さんの手伝いもしたし、家畜もいたので山羊の草刈りの手伝いもやった。部落へ降りてきた避難民たちはカタツムリをよく食べ、貝塚のような山があちこちにできていた。農薬のlない当時のこと、カタツムリはよく繁殖jしていた。カタツムリにとっても戦争は大変迷惑であった。不況な今でもカタツムリは枕を高くしてねむることができる。