久志域(現名護市)                   トップへ

・汀間をゆく


【名護市汀間をゆく】(2005.2.22メモ)

 先日山内氏(汀間)と汀間について話する機会があった。「20年前に汀間の原石を見た記憶ですが、まだありますか?」と訪ねてみた。「うん、あ、あれまだありますよ。二つありますよ。そこに今帰仁の落ち武者らしき墓もありますよ。それと尚円にまつわる伝承も」と教えてもらった。

 かすかな記憶をたどりながら、20年前確か土地改良の最中で、そこから山手に進むと、その裾野にあったような。杜はクサティと呼ばれているようだ。汀間の集落と山との間は平坦地になっている。かつて、一帯は水田が広がっていた面影が僅かながら窺える。山の裾野まで車を進め、杜の裾野に沿って歩いてみた。杜の中にカーと墓、よくよく見ると原石が二基あった。

 汀間の尚円にまつわる伝承は宜名真や奥間との関連で興味がある。伝承にちがいないが、どうも首里王府は地方を統治するのに尚円(金丸)が首里にあがる経路をうまく利用したのではないか。沖縄には血筋でつないでいく発想が歴史をみる背景に根強くある。国を統治する立場にたつと、血筋(系統)と祭祀をうまく利用しているのではないか(支配してる方も意識していないかもしれない)。

 明治26年に国頭を訪れた笹森儀助も尚円にまつわるカニマンガー(金満泉)を訪れている。

 


     ▲手前の杜の中に墓と原石がある     ▲森の中にある墓と原石


   ▲チ (原名不明)            ▲ム てい原