今帰仁村玉城ノロの七月の大折目(復元)

                                   
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 これまで報告された玉城ノロが関わる祭祀を掲げ、それらの報告から祭祀の流れに沿ってみていくことにする。まずは、これまでの報告から・・・


【昭和4年頃の大折目(海神)】(宮城真治資料)

・七月大折目は海神祭ともいう。
・七月最後の亥の日に行うのが普通。大宜味塩屋の海神祭りも然り。
 今帰仁中方の大折目然り。勢理客・運天・湧川等はその翌日子の日にやった。
       (昭和13年は旧25日であった。天底は27日にやった)
・午後一時頃、玉城のろ殿内に集合
・玉城(玉城のろ一人、岸本のろ一人、内神一人、根神七人(ウペー引、しー引、くんじゃん引、
    いぴゃ引、あぢむ引、あわ引、とーじん引)
   ・うぺふ一人、しー一人。うぺーふ引、うえぺふは玉城ブイ屋の何某。しー引は今田舎
    に戻っている。
・平敷(根神三人、うぺーふ引、しー引、あぢ引) うぺふ二人)
   ・うぺー引の居神は平敷スクジャヌ屋の与那嶺かめ、越地大工屋大城妻、
    しー引は平敷東リン門石嶺の妻、平敷イリ門の仲里正助妻、アジ引は謝名とー屋のアンマ?
・謝名 根神□人、マスハンジャナシ一人(謝名大主ノヲナイ)
     うぺーふ二人、ウペーフ屋、チンナミ屋、モーヌカ大主(マスハンジャヌシのイキ神)
・仲宗根 根神□人、うぺーふ二人
  (大正13年には女の神職総数16人であった。

一、服装 玉城のろ…青衣装、赤八巻、マスハンジャナシ…青地に赤の花形、仝鉢巻
       内神…岸本ノロ及び根神…白衣装、赤八巻、平敷に立つ時に馬上より行く。馬四匹。
       馬に乗る神職四人、ノロ二人、内神一人、マスハンジャナシ(大正13年は玉城ノロ一人)

一、玉城にての御儀式
   A 三日前におたかびをする。誰か。何所に(玉城ノロと内神四ヶの大屋子四人、
     六人にて仝宛ウグシイ、一仝宛、線香はノロより出す。線香はトボス。
   B 当日玉城のろ火神、御願(みはな・ウグスイも入るか。どこが出すか)
     (線香ヲ上ゲ、オゴ水、ノロより出す。岸本ノロ、内神、玉城ノロの使いサンナム、仲宗根一人)
     (玉城ノロ、玉城内神、謝名ワチ根神、玉城ウペー引根神、玉城しー引根神。
      今は立って手を打つのみ)
   C 玉城のあしあげにて。酒迎え。神酒? ウブヌ?ウクムチ□個、あしあげの前にて
     ウムイをなし踊る)。
   D 岸本やかー、手を合わす。皆。玉城のろ。
   E 岸本のんどのち 火神、手を合すのみ。
   F 岸本あしあげ 手を合す、神酒。ウムイ。此所にて馬に乗って平敷へ向う

  玉城ぬしいという霊石(廻り六尺九寸位。長さ二尺五寸)

・玉城のあしゃげ周辺の図

二、平敷にて

 A ウペフ一人はのろ根神の行列の先駆をなし鼓をポンポンと打つ。調子は二歩に一打位。
   或いは三、四歩に一打。二歩に一打もないこともない)

 B 通路は岸本あしあげを立出で、□(内)原を通り、トーヌカの上の道を渡り、御嶽山(謝名)の
   北部を通り、□川を渡り、上ジナ(上謝名)原を過ぎ、松の下にて、西に向って馬をひく。平敷
   の東部に出で北に折れて御嶽に行く。

 C 平敷の御嶽にてはA門より入る。門内にて馬より下りる。ウプアシャギの東南の庭に馬を繋ぐ。
   馬の口引当は馬を番している。馬口引はその神職の門中より出るウペーフの内一人。
   じーさじ四人。他村にてはニブサジともいう。(地人より出すのであろう)。ウプアシャギ内にて
   諸準備をなす。儀式中、ウプアシャギより西北には男は行かぬ。
   アシャギの前にてトンタチ居して合掌して少し敬意を表す。特に礼拝にはあらず。昔は字の掟
   その他役々アシアゲにて御迎して、各神職を御迎えし礼拝¥したのであろう。その□礼の名残
   りか。ウペーフ殿内にも礼拝なし。

 D それより進みてマチンガヌ蔵に入る。今蔵に入るのはノロ二人。内神一人、その三人か。
   他は蔵の前に座す。(今蔵は幅□、奥行□)、昔は全神職が内に入ったのであろうか。

 E 当時の供饗は
   一、酒迎として酒杯に一杯宛。
   二、酒の肴として豆腐二切宛(ニクリにあらず)
   三、ウブヌ一椀宛。木の椀に下には豆腐箱に野菜を小切にしてだしをつけてイリチャーしたもの。
   四、米と粟にて造った神酒一ぱい。
   五、 蕃藷神酒一ぱい。
   六、ウクムチ、御供物の意か。餅の長さ九寸(自羽肩の長さ) 廻り四寸、甘藷の葉に包んで
     蒸した餅、それを三ヶ宛?
     平敷の根神がアシャゲまで往復して給仕をする。
     それより謝名へ。先の道を戻る。謝名はうぺーふが迎えに来なかった。その例なり。
 
    (図入れ)

三、謝名にて
 A 一礼 長餅
 B うぺーふ屋の東の神門(儀式の日に開く。その他何の祭に開くか) 内の門は南に向く。
   うぺふ殿内の前の庭に座す。うえぺふ殿内は戸も開いてなかった。
   御祭。御酒。ウブタ(スネー下度、豆腐二切、トーヌチン二切)
   列席の神 (岸本のろ、玉城のろ、さんなむ、玉城引、謝名大屋子、謝名の根神)
   二人のうぺーふは内に待つ。

     (図入れ)

四、仲宗根にて
  迎酒、ウブヌ、ウクムチ

     (図入れ)

 これより元所の五軒の内に入り居ったが、今はそれがない。儀式がすんだのだから遊びして、□に神職を招待したのが例になったであろうと言うことだ。そうではないだろう。

    (工事中)


【七月最後の亥の日(ウプユミ)】(普天間高等学校・郷土研究クラブ)


・七月最後の亥の日・ウプユミ(玉城)
  ・ヌルはヌル殿内で火の神を拝む(ウガンをする)
  ・ヌル殿内の前に座っている玉城・岸本・平敷・謝名・仲宗根の神人はヌル屋から持ってきた
   ウケメーと持参してきた重箱を開いて食べる。各々持参してきた神衣装を身につける。そこ
   から神アシアゲの方へ行く。
  
 (工事中)
 

 


【玉城アサギ付近の図】(昭和62年:玉城三郎/島袋満/山内昌藤)(仲原整理)
      (話者:新城安昌・平良カマデ)


  (図は昭和62年現在)

メモ書き
 ・棚原御嶽(碑あり、昭和六年にアサギの碑と同時に建てる。香炉あり。上納物を無事納めた後で、
  ムラの人々が集まってお祝いをした処という。
 ・ソーリガー
   ウナジャラガー/アジガー/ウブガー(産水)
 ・岸本ソーリガー
   北部製糖敷地内の奥にあり。養鰻場の奥(当時)/イビ…苗代田があった)

 
          ▲玉城の棚原御嶽(1986年10月撮影)


【スムチナウタキ】

 ・地目は山林、今帰仁村有地
 ・玉城の南方標高143.8m。近くに玉城林道~平敷林道が通り、近くまで車でいける。
 ・林道から14~15m位山頂に登ると屏風型の古生期日石灰岩が立っていて、前に石の香炉が
  三基置かれていて、絶えず参拝者がいるようである。
 ・スムチナウタキの頂上部から村内の東側、古宇利島、国頭地方まで見渡せる。
 ・『琉球国由来記』(1713年)の阿武理花嶽はスムチナウタキは阿武理花嶽、または西側の
  イシジャチ山ではないかとの説もある。イシジャチ山が狭いので現在地に移されたとか。
 ・入口は二つの小道に分れていて、左は山頂へ、右は20m位行くと広場になっていて、旧暦
  4月15日のタキヌウガンの日は四ヶ所(玉城・謝名・平敷・仲宗根)のムラの方々が、そこ
  から頂上部に向って遥拝する。
 ・頂上部は男子禁制の場所である。祭祀の時は、ノロはじめ神人達が、そこでウガンをする。
 ・旧暦4月15日の前日、各字の人夫がでて神域に左縄を張り巡らしている(現在?)。


 
   ▲スムチナウタキのイベの香炉         ▲スムチナウタキの頂上部から四ヶ字をのぞむ

 【仲原調査メモ】

  (工事中)