今帰仁村玉城
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・玉城の公民館資料 ・岸本ノロ(玉城)
・玉城の寒水原
・玉城内の寒水集落
【玉城の公民館資料】
(2010年3月19日)
午後から今帰仁村玉城の旧公民内にあった資料の搬出をする。玉城区は字誌の編集をスタートしており、また旧公民館を近々に取り壊す予定。これまで数件の公民館の取り壊しに立ち会ってきた。その度に戦後資料を収集することができた。今回も玉城公民舘資料を確認することができた。字誌に反映させることができそうである(詳細の目録は改めて報告する)。
50年前に画かれた小学生の絵が印象的である。名前があるので、それぞれの50年の人生をたどることができそうだ。公民館に50年前の絵を張り出してみましょうかね(40年前の写真は数枚提供した)。
【仮目録】
・公文書綴り(5冊)
・戦後の戸籍簿(1冊)
・家族しらべ
・徴収簿(各班)
・諸賦出席簿(1956年)
・貯金台帳(1955年)
・公民館日誌(1955年以降)
・賞状(原山勝負)(1949年)
・賞状(原山勝負)(1950年)
・賞状(排球大会)
・賞状(盆踊りコンクール)(1955年)
・学児成績簿(今帰仁初等学校及大井中等部)(1949年度現在)頭部
・その他
▲今帰仁村玉城の旧公民館 ▲旧公民館の内部
▲整理をする戦後資料 ▲表彰状や賞状(戦後)
岸本ノロ(玉城)
(2010年3月1日)
今帰仁間切に岸本ノロがいた。現在、岸本村は玉城に統合されている。統合は明治36年である。岸本ノ加ネイ(岸本ノロか)に関する以下の資料がある。4日に『玉城誌』の編集会議あるので話を引き出すための資料を整理。玉城(岸本ノロ管轄の岸本村と寒水村の祭祀)を紹介する。玉城・岸本・寒水の三ヶ村は、村移動やノロ管轄、村の合併などがあり、また祭祀との関わりなど複雑である。そのため、村(ムラ)別とノロ管轄に分けて整理が必要。
『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の岸本村の祭祀場として三ヶ所があげられている。ノロは岸本ノロクモイである。
・ノロクモイ火神 ・神アシアゲ ・嶌ノ大屋子火ノ神(岸本村)
・根神火神 ・神アシアゲ ・ウホンニヤ嶽(ウフンジャ嶽のことか)
沖縄縣指令第一四五號
国頭郡今帰仁村字玉城三百四十三番地
大城清次郎
外七名
大正二年十月十七日附願岸本
の加ネイ大城カマト死亡跡職
大城カマド採用ノ件認可ス
大正三年三月十八日
沖縄縣知事高橋啄也 沖縄県知事印
『琉球国由来記』(1713年)に、どう記録されているか。
岸本村にオホヰガワ嶽(神名:ヨロアゲマチュウノ御イベ)とある。岸本村は二度ほど移動しており、『琉球国由来記』(1713年)頃は、ウタキの位置からすると、寒水村(寒水原)のあった場所にあったと見られるので、注意が必要。同書の「年中祭祀」の所に岸本巫火神と神アシアゲがある。岸本巫の管轄である。岸本巫が管轄する村は岸本村と寒水村である。
岸本巫火神で行われる祭祀(『琉球国由来記』)は、以下の六つである。岸本・寒水の二カ村の百姓と岸本巫が関わる。
・麦稲祭
・年浴
・大折目
・柴指
・芋ナイ折目
・山留
・大折目次三日
岸本の神アシアゲでの祭祀は、百姓・居神・岸本巫が関わる。
・麦稲穂祭
・麦稲穂大祭
・年浴
・大折目
・柴指
・芋ナイ折目
寒水村は『琉球国由来記』(1713年)にウタキの記載はない。神アサギでの祭祀は、
・麦稲穂祭
・麦稲大祭
・年浴
・大折目
・柴指
・芋ナリ折目
・大折目次三日
【岸本の神人】
ヌル/根神/ウペーフ/イガミ/ニブサジ
【岸本の拝所】
・神アサギ ・ウカー ・ウペーフ殿内 ・ヌルドゥンチ ・ヌルウグヮンヤー ・岸本ヌシー
【寒水の神人】
根神/ウペーフ/イガミ/ニブサジ
【寒水の拝所】
・根神殿内 ・神アサギ ・獅子殿内
【岸本の祭祀】
・二月十五日(二月ウマチー)
・三月十五日(三月ウマチー)
・四月十五日(タキヌウガン)
・五月十五日(五月ウマチー)
・六月十五日(ウチマチー)
・六月廿五日(稲穂を供える)
・七月二十日(ワラビミチ)
・七月最後の亥の日(ウプユミ)
・八月九日(ワラビミチ)
・八月十日(神人ウガミ)
・九月七日(ミャヌウガン)
・十一月十五日(ウンネー)
【寒水の祭祀】
・二月十五日
・三月十五日(ウチウマチー)
・四月十五日(タキヌウグヮン)
・五月十五日(ウマチー)
・六月十五日(ウチウマチー)
・七月最後の亥の日(ウワイ・イーヌヒー)(ウプユミ)
・七月二十日(ワラビミチ)
・八月十日(カミンチュウガミ)
それとは別に、年中行事がある(一部は神行事と重なる)
【岸本の年中行事】
【1月】
一月一日(正月)/三日(ハチウクシー)/四日(仕事始め)/七日(ナンカヌスクー)
十四日(ショーグヮチグヮー)/十六日(ミーサー)
【2月】
十五日(ニングヮチウマチー)
【3月】
三日(サングヮチサンニチー)/四日(学事奨励会)
【4月】
アブシバレー/五日(カーウガン)/十五日(グングヮチウマチー)
【6月】
二十五日(ウユミ)
【7月】
七日(タナバタ)/十三日〜十五日(お盆)(ウンケー・ウークイ・盆踊り)
【9月】
九日(キクザキ)
【11月】
トゥンジー(冬至)
【12月】
二十四日(フトゥチウガン)/三十日(トゥヌユルー)
【寒水の年中行事】
(省略)
玉城の寒水原
(2010年3月3日 メモ)
今帰仁村玉城の寒水原をゆく。玉城は明治36年に玉城・岸本・寒水の三つの村が合併した字(アザ(である。寒水原は寒水村の集落の跡地と見られる。玉城・岸本・寒水の三ヶ村の集落は移動し、また故地に戻るという変遷をたどっている。それと『琉球国由来記』(1713年)の頃から、岸本ノロが岸本村と寒水村の祭祀をつかさどり、また玉城ノロは玉城・謝名・平敷・仲宗根の四つの村の祭祀をつかさどり、それは今に継承されている(但し、祭祀の多くがうしなわれつつある)。玉城の字(アザ)は三つの村の統合なので、以下のことを念頭に入れてみていく必要がある。
・三つの村
・村の統合
・村(ムラ)移動と集落移動と祭祀場
・二人のノロと管轄村と祭祀
・三つの村の祭祀場
玉城は@寒水原 Aソーリ川原 B岸本原 Cウチ原 D古島原 E外間原 F東アザナ原 G西アザナ原の八つの小字からなる。小字名に三つの村の故地が伺える。寒水原は寒水村の集落、岸本原は岸本村の集落、古島原は玉城村の集落の故地と見られる。
寒水村跡地(寒水原)を訪ねてみた。寒水村の集落の跡地に何を遺しているのか。ミナジガーというカー(湧泉)があるのは、地図上以前から知っていたが、現場を確認するのは初めて。そこには「一九五三年建設」の碑があった。碑の前にカー(湧泉:今は枯れている)があり、旧正月にお参りした跡があり、線香が置かれていた。集落の範囲は確認できていないが、確かに集落(家々)があった痕跡がみられる。ミナジガーは大井川の傍にある。明治13年の寒水村の世帯数は13戸、人口68人(男42、女26)の小規模の村である。小規模の村であったことが、明治36年の統合につながったと見られる。
▲寒水原にあるヤナジガーの碑(右写真のハウスの後方) ▲左側は大井川、ハウスから右手に集落があったか?
▲国頭郡今帰仁間切玉城村全図(明治36年:三つの村の合併直後)
▲現在の玉城の字図
▲上空からみた玉城域(平成5年の撮影)
玉城内の寒水集落
(2010年3月4日 メモ)
今帰仁村字玉城内の寒水集落跡地をウタキ(イビ)と拝所(神アサギ・根神殿内など)とカー(ミナジガー)を手掛かりに見る。これまでパーマ(寒水)のウタキと言われていた大井川沿いのウタキ(現在はなし)は『琉球国由来記』(1713年)でいう岸本村の「オホヰガワ嶽」と見られる。1700年代当時、1862年に三つの村が移動するが、移動する前の記録である。すると、大井川沿いのオホヰガワ嶽は岸本村のウタキで岸本村が付近にあったことになる。岸本村の集落が岸本原あたりに移動するが、そのウタキは岸本村の人達がウガンをしている。寒水村と岸本村は岸本ノロ管轄の祭祀なので両方の神人がそのウタキの祭祀を行っている。
これまでウスクガジマルの大木のある森は、何かという議論がなされている。そこには香炉が三つばかりあり、ウタキのイベの可能性が高い。そこは寒水村の人々のウタキと見てよさそうである。1862年現在地に移動する寒水村の集落がウスクガジマルのある付近から大井川沿いにあるミナジガーあたりにあったと見られる(寒水原)。この杜の香炉は寒水村の複数の一門のよりどころ(イベ)と見ることができる。
一帯を寒水村と岸本村、そして1862年の村移動、それとウタキや祭祀場や二つの神人の出自などの関係、拝所は移動前にもどして整理してみると、村の成り立ちが見えてくる。
▲ウスクガジマルの杜は寒水村のウタキ(イビ)と見られ、香炉は複数の一門のイビと見られる。
▲この杜の広場はサンケモーと呼ばれ、拝所がある。石が一基置かれ、遥拝所となっている。
▲寒水原にあるキジキナガー(寒水村の人々がハーウガミを今で行っている)