八重山竹富町                      トップへ

・竹富島  ・小浜島  ・西表島


【竹富町竹富島】(2005.03.25 メモ)

 3月21日(月)11時の便で与那国空港から石垣空港へ。宿に荷物を置き、すぐ港へ。どの島にしようか?黒島は二年前に行っているし、小浜島への便は出ている。すぐ出航するのは竹富島か。ならば13時30分の便で竹富島へ渡ることに。船底の客席はほぼ満席。しかたなく後方部一段高い客席へ。眺めがいいだろうと。船が走り出すと、エンジンの音と跳ね上げていく潮しぶきが、激しくぶつかってゆく。また、車が石ころ道を猛スピードで走ってゆく様。イヤー後方部の上段には、二度と座るまい。所要時間10分ばかりであるが。

【竹富町竹富島をゆく】
 少し説明を入れておくと、竹富町は10数ヶ島からなる。その中で人が住んでいるのは10島である。大正3年にこれらの島々(大字)を竹富村とし、竹富島に役場を置いた。島々多く不便なので役場(当初は出張所)は現在の石垣市内に置いた。転々とし現在は竹富町役場は石垣市美崎町にある。

 西桟橋で船を下りると数名乗りの車(島内バス?)に乗り集落入口まで。「喜宝院近くで降りたいのですが」、もう一人の島の方でしょうか「やらぼまで」とさりげなく。最初にとまったバス停が「やらぼ」であり喜宝院前であった。島のことを知らないということはと、一人苦笑してしまった。

 喜宝院蒐集館(民俗資料館)へ。入口の大きな甕に「蒐集館」とあり、石垣に「報恩」と掘られた石版がはめ込まれている。その石垣の上に十二支が置かれている。来館者が産まれ年の十二支の前に小銭を置いていくのであろう。蒐集館のドアを開けると上勢頭芳徳氏が。何度か訪ねているが上勢頭氏が館にいたのははじめてある。

 与那国島を行ったことを告げ、久部良バリとトゥングダの話になると、館内のワラザンや秤や拷問道具、納税を示す板札、御用布箱など人頭税に関わる道具について、説明いただいた。人頭税の実態を知った思いである。山原とは異なる貯蔵や運搬用具。それと「嫁波伊津 孫加那思 母男子一會 乾隆三十六年三月十日」と彫られた甕の前に。「これは明和の津波の時のものです」と、いきさつを語ってくれた。どうも先島の人頭税は、山原における地割制における税の取立とは大部異なっているのかも。話は尽きず。有り難いものです。

 「昼食まだでしょう?」
 「どこか食事できるところありますか?」
 「すぐ隣、やらぼ」
車海老ソバまで御馳走になりました。車海老が数尾。おいしい車海老とソバでした。話題になった人頭税に関する最新の研究論文集『あさぱな』(人頭税廃止百年記念誌)の寄贈を受けた。感謝(早速、目を通しています。興味深いこと多し)。

 水田のない島であるが、西表島や石垣島に渡って稲作を行なっていたという。竹富島と黒島、そして新城島は隆起サンゴ礁からなる低い島で、水田のある島(高島:石垣島・西表島・小浜島など)などがタングン(田の国)と呼ばれるのに対してヌングン(野の国)と呼ばれているようだ。


      ▲なごみの塔        ▲なごみの塔から集落をみる


     ▲喜宝院蒐集館の舟          ▲喜宝院蒐集館の道具類


     ▲クスクモリ〈小城盛)            ▲盛の上部にある方位石


     ▲集落内にある西塘御嶽              ▲清明御嶽

 竹富島の集落は島のほぼ中央部に位置し、北側を玻座真(東屋敷・西屋敷)と仲筋に分かれている。島の中の村の歴史を辿ると、どうも御嶽を中心とした村が一つの集落(現在は集落内を三つに区分される)にまとまっている。そこで見えてくるのは御嶽を中心とした集落が行政村(島)にされるが、祭祀は一体化せず要(カナメ)となる御嶽が今でも形を残している。

 
竹富島一島が一村になるのは崇禎元年(1628年)頃。集落の発祥とは別に西塘御嶽のような貢献した人物を祀った御嶽もある。
  @新里村(移動→花城村)(竹富島へ発祥の村) 花城(パナツク)御嶽
  A玻座真村 波座真(ハザマ)御嶽
  B仲筋村(統合←幸本村) .仲筋(ナージ)御嶽
  C幸本村 (幸本御嶽)
  D波利若村(統合←花城・久間原村) 波利若(バイヤー)御嶽
  E久間原村 久間原(クマーラ)御嶽



【竹富町小浜島】(2005.03.27 メモ)

 2005年3月23日(水)午前中小浜島へ。小浜島も竹富町の一島である。23日の夜中から未明にかけて稲光、そして大雨となる。そのため、小浜島ゆくはあきらめ石垣島内をまわる予定にした。午前7時過ぎ、宿から於茂登嶽を見ると、雨はあがっており真っ白な雲が帯状にたなびいていた。もしかしたら晴れるかも。8時の便。急ぐと間に合いそうだ。夕方の便で帰るので荷物をバックに入れ、港のロッカーに預けることに。宿の朝食を飲み込んで急げ!港で船を待っていると大雨。近くの店で傘を買い、おじい歩きの杖がわり。しめしめである。小浜島は二度目なり。

 船はちゅらさん。こはぐら家もあったが、あとで「テレビでやっていたな」と気づいた。そのため画像なし。ここでも御嶽を集落との関わりをみてみたいと拝所めぐりである。集落の景観を見るため、まずは大岳(標高99.4m)の展望台へ。海の向こうの島々(西表・石垣・竹富・黒島など)は見えるが集落の景観ははっきりと見えない。小浜島の集落は島の中央部にあり、北と南に分かれるようだ。1771年の明和の大津波で320人が移住させられたという。

 雨が降った後だったので、保水のよい地質のように見える。細崎への途中に広い面積の湿地帯の跡らしい畑地がある。かつて迫田として利用されていたのかもしれない。大岳の回りに水田(迫田)があり、田植えがなされたばかりの田があった。小浜島はタングン(田の国)の島のひとつである。水田が行なわれているため稲作にまつわる祭祀が根強く行われているようだ。

 御嶽を回っていると小浜島の区長さんがやってきて御嶽の説明をしてくれた。「御嶽を回るような観光客はいないからな」と。何カ所かの御嶽の場所を教えてもらう。
 
 


 ▲未明の雷と大雨がやみそうだ!(石垣市内)    ▲小浜島への船「ちゅらさん」なり




      ▲小浜島の公民館              ▲小浜島の民俗資料館


     ▲オヤケアカハチの森?          ▲小浜島の水田と大岳






   ▲嘉保根御嶽(カンドウラ)       ▲カンドウラ御嶽にある雷石と力石