今帰仁村諸志                             トップヘ

・諸志村(諸喜田・志慶真)の一筆限帳  ・赤墓


【諸志村(諸喜田・志慶真)の一筆限帳】(2004年2月14日)

 
明治36年時期の「一筆限帳」の整理をしてみた。その帳簿から当時の番地、土地の地目、等級、そして土地の所有権が与えられた人々の土地所有など、様々な様子が伺える。関心があるのは、ウシマルがまとめている志慶真村の移動と連動する史料である。

 つまり、明治36年には志慶真村は諸喜田村の側に移動してきている。地割制度の最中、志慶真村の人達はどのように土地保有をしていたのか。志慶真村は移動ムラであると同時に、他のムラ域にどのように土地を持ったのか。その実態を知る手掛かりになるのではないか。まだ史料の整理中なので、見通しができるまできていないが、いくつか仮説をたててみた(仮説の紹介は秘密なり)。期待したいのは、村移動の理由が、その史料の分析から読取れるのではないか。そんな期待をしているんだが。仮説が覆るのか、予想通りの結末になるのか。楽しみじゃ。2180筆の整理なので、まだ先が遠い。


 ▲今帰仁間切諸志村(諸喜田・志慶真の二つの村が合併した当時の史料である。)

 先日、今帰仁村の教育長(山城清光)がアメリカから帰国されたChiyo Lakeさん(アメリカ国ミズリー州在)から預かった一冊の「卒業記念写真帖」(今帰仁尋常高等小学校:昭和12年3月)を持参してこられた。何名か健在な方の姿がみられるので聞き取り調査をして報告することに。
  
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   ▲今帰仁尋常高等小学校の校舎     ▲農園での作業風景、松並木は宿道

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     ▲高等科の卒業生(男子)          ▲高等科の卒業生(女子)


赤 墓(2006年10月30日)

 「赤墓」についての問合せが続いている。この墓が何故赤墓なのか?という質問。結論が出ているわけではないが、一つは墓の外面が赤い漆喰で塗られていたことに由来する(ほとんど漆喰は剥げ落ちている。よく見ると、赤っぽい漆喰が残っている。近くの墓を見ると赤っぽい漆喰が塗られた墓がいくつかみられる)。もう二つ目の理由は、上間大親親子は尚円王や尚真王と親族関係にある人物であること。高貴な人物なので首里城で使われている赤色を重んじて上間大親の墓を赤墓と名づけたのかもしれない。三つ目に墓室に朱色の石棺があったからだと聞いているが未確認。墓室に朱色の石棺があるのであれば、それも理由の一つになるのだが・・・。
 
 この墓に葬られている人物は、銘があるので乾隆55(1790)年からである。それ以前の人物(上間大親)が葬られている可能性はあるが、上間大親親子が尚真王を助けたのは1500年頃である。赤墓には290年後の人物達が葬られているのである。

 それとは別に、尚真王を助けた褒美として惣地頭職を授け首里に住まいを移させようとするが上間大親はそれを断り、上間地頭を賜り上間村に住むことにした。その伝承を持っている上間家である(『球陽』にも登場する)。赤墓は上間家が管理し赤墓の庭にコンクリートの碑を建立している(昭和5年)。
 
 赤墓は光緒元(明治7)年に開けた記録が残っている。当時から「赤墓」の名で呼ばれている。墓室の記録に赤い石棺があったかどうか触れていないのは残念である。二枚の板があるが痛んで字面が判読しにくかったようで見分の通り書き抜いて置くとあり、判読した「・・正  七  五撰  西平親  浩  今帰仁親  付奉行  」などの文字が記されている。(全文を読みおこしてみると、赤墓についてもう少わかるかもしれない)。


 
    ▲今帰仁村諸志の海岸にある赤墓          ▲晴天だと正面に伊是名島が見える

2013年10月2日(水)

 最近、「内間御殿」についての問い合わせがいくつかある。伝承が史実かどうか、史実と結びつけようとする姿が見え隠れする。今帰仁諸志に間違いなく内間御殿がある。それが史実であるかどうかは、次元の異なるものである。古い時代に書かれたからと言って史実を書き記したものあるとはかぎらないことが多々ある。伝承が神のお告げだとして拝むのは結構であるが、あまりにも飛躍した結びつけは避けるべきでああろう。伝承は古くからあったであろうが、山原では位牌や墓づくりは近世になってからのものであることが多い。同家にある位牌も乾隆14年や乾隆30年である。無銘の位牌もあるが、それは位牌や銘書を書く習慣がまだなかった時代のものである。書きようがないため、無銘の位牌にしているのである。諸志のシーシ墓にまつわる伝承はあったであろうが、墓が造られたのは乾隆14年頃で位牌もそうであろう。

 そのような例の一つに上間大親の赤墓がある。上間大親と尚円王の話は『球陽』で尚円王6年条(1475年)に記されるが、赤墓が造られたのは乾隆55年(1790年)頃である。そのように見てくると「神のお告げ」が必ずしも史実を伝えているわけではないことがよくわかる。(伝承と史実は、はっきりと区別して考える必要がある)