写真にみる今帰仁 2
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   (11~20のもくじ)
 11.変貌していく古宇利島(古宇利)(平成3年5月)
 12. 古宇利島の港付近(古宇利)(平成3年6月)
 13.今泊の道ジュネー(今泊)(平成3年8月号)
 14. 仲宗根(プンジャー)のマチ(仲宗根)(平成3年8月)
 15. 玉城での嶽の御願(タキヌウガン)(玉城)(平成3年9月)
 16.渡喜仁の伊是名家(渡喜仁)(平成3年10月)
 17.勢理客の公民館と豊年祭(勢理客)(平成3年11月)
 18.仲宗根のアサギ付近(仲宗根)(平成3年12月)
 19.今帰仁の風景・人々・生活(平成4年1月)
 20.戦後、間もない頃の生活(平成4年2月)


11. 変貌していく古宇利島(古宇利)(平成3年5月号)

 古宇利島は今帰仁村の北東部に位置し、フイジマやクイジマなどと呼ばれている。15年ぶりに古宇利島を訪れた人が「前に来た時の家を探すのに苦労した」と言わせるほど急激な変貌を遂げている。

 昭和50年以後の古宇利島の公共工事を掲げると、古宇利灯台点灯・古宇利漁港船揚場着工・古宇利漁港海岸保全施設整備事業着工・古宇利簡易水道海底送水施設工事(昭和50年)、陸上の水道配管・古宇利小中学校の体育館の起工式・古宇利に給水開始(昭和51年)、古宇利農道工事古宇利漁港突堤工事(昭和57年)、環境改善サブセンター落成・古宇利小中学校増改築工事(昭和58年)、第八古宇利丸就航(昭和59年)、古宇利農道工事・古宇利漁港開港(昭和63年)などがある。  

 このような古宇利島の公共事業の数は、島の変貌を如実に示している。公共施設ばかりでなく民家や家屋敷、それに拝所や船など様々な変化を遂げている。さらに、将来橋を架ける計画もあり、島の変化はさらに進んでいくことが予想される。ここで二枚の写真から古宇利島の変化をみることにする。

 上の写真は『神と村』(仲松弥秀著)に掲載された昭和40年頃の古宇利の神アサギである。茅葺き屋根の神アサギは、古宇利島を訪れた研究者などのカメラによく納められている。神アサギには四本の石柱があり、そこは祭祀を行う重要な場である。アサギの向こう側に見えるのがナカムイ(中森の御嶽)で、その中に祠があり人骨と見られる骨が現在でも置かれている。 アサギとナカムイとの間にコンクリートの台座が見えるが、それは豊年祭に使う舞台の土台である。アサギ小屋の手前を左右(東西)に人の通る小道がある。アサギの庭では、毎年ウンジャミ(海神祭)が行われているが、かつて十名あまりいた神人は、今では数人に減ってしまった。しかし、それでも欠かすことなく行われている。

 下の写真は、昭和63年の写真である。茅葺き屋根と石柱は、コンクリートに変わってしまった。また、豊年祝の舞台も新しく建て変えられている。上の写真に見える左手(東側)の民家も茅葺き屋根から瓦屋根へと変わり、アサギ小屋の手前の小道も車が通れる道路になっている。アサギの広場には、ジープやワゴン車、それに単車が駐車し、その風景は古宇利島への文化(?)の移入を象徴しているかのように写る。

 二枚の古宇利島のアサギを中心とした風景写真を眺めていると、単にアサギを中心とした周辺の景観の変化だけでなく、時代の流れは島の人達の生活や考え方も変えていっている。しかし、その中で島に根強く残っているのが祭祀である。もちろん、神人やそれに関わる人々は少なくなってきた。

 アサギから始まるウンジャミは、フンシヤー、シチャバアサギ(お宮の側)・シラサなどを拝み、拝む場所や順序、供物などについてはほとんど変わることなく行われている。それに祭祀の本質的なところも、今なお引き継がれているような気がする。

 


12. 古宇利島の港付近(古宇利)(平成3年6月号)

 古宇利島に人が住みつき、そして現在に至るまで、どのような歴史をたどってきたのであろうか。そんな思いを抱きながらいつも島に渡る。1471年(内容は1450年)の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に「郡島」と記され、それは古宇利の古い表記である。また、1609年薩摩軍の琉球侵攻の船元になり、『琉球渡海日日記』には「こほり」と記されている。

 島の南側に形成された集落はムラウチと呼ばれ、公民館や御嶽や神アサギなどの祭祀場などがあり、島の中心となっている。島の南側に位置するムラウチ集落の中央部には、運天港から入港する古宇利港があり、そこは島への玄関口になっている。付近にウパルマイやシラサなどの小地名があり、ウパルマイは大きな泊(大きな停泊地、港)という意味であろう。シラサは小さな岬で海神祭(ウンジャミ)の時、神人がヌミ(弓)を持って東に向かい一列になって祭祀を行う場所である。近年、シラサから港の方へ堤防が築かれている。

   平成3年4月、上の写真を手に島へ渡った。上の写真は昭和37年頃の古宇利港付近である。左側に古い桟橋、そして中央部に当時使われていた古宇利島と運天港と往来する船を着ける桟橋が見える。瓦屋根の公民館、そして瓦屋根の民家二軒、民家の前の石垣、後方には鬱蒼とした木々が目につく。船を待っているのであろうか、半袖シャツの人たちが公民館の前に立っている姿があり、また正面向かいの家では女の人たちが談笑している姿が見える。昭和30年代後半の古宇利の姿が、そこに写し出されている。車が一台も見えず、そして電柱や電線もまだない。時間がゆっくり進み、緑の木立と波の動きに心が落ち着く。

 下の写真は、平成3年4月の古宇利の港付近の風景である。かつての公民館が昭和58年に二階建ての農村環境改善サブセンターへと代わり、民家の石垣がブロックへ、道路がアスファルト敷となった。手前の船着き場も、次第に東側へと整備されていった。港から見えなかった学校の体育館や校舎が見え、また木が少なくなり、瓦屋根やスラブの民家が目立つ。 

 上の写真との比較で大きな変化は、島に自動車やトラクターが走り、グラスファイバーで作られたボートあり、電柱あり、そしてブロック塀へと、古宇利島が大きく変わっていったことである。それだけでなく、運天港と古宇利港を連絡する船も、サバニから大正末期に伝馬船、戦後に焼玉エンジン付和船、昭和45年から小型のフェリーが就航するなど、船の歴史がそこにある。やはり、玄関口となる港の移り変わりは島の人たちの生活と直接結びついている。古宇利の港ばかりでなく、道路や電気・水道・電話などが急速に整備されてきた。しかし、離島であるが故にかかえた問題がたくさんある。

 そのような中で、シマで生まれ、シマで学び、そしてシマで生活している人たちが「シマの歴史」の主人公であるとの認識が必要である。シマに生きる人々の歴史が、海神祭(ウンジャミ)などの祭祀を通し、あるいは生業(なりわい)や地名や屋号や言葉などを通してもっと描けないものだろうか。古宇利港付近の二枚の写真をみていると、そんなことを考える。

 

13.今泊の道ジュネー(今泊)(平成3年8月号)

 今帰仁村の一番西側に位置する今泊、昭和47年に今帰仁と親泊が合併した歴史をもつ字である。それ以前の明治36年に合併したことがあり、その後分離し、再び合併したのが昭和47年である。そのように合併や分離を繰り返している字であるが、祭祀や豊年祭は合同で行っている。豊年祭は五年マールの行事で、戦後は昭和22年から再開された。

 上の写真は、戦後最初のプミチ(大道、馬場跡)で行われた豊年祭の道ジュネーである(仲宗根マツさんから字誌編集委員会へ提供)。旗がしらには「祈豊年」と記され、長者の大主を先頭に馬場跡で撮影された道ジュネーの場面である。戦後まもないこともあって、物の極めて少ない時代である。しかし、旗がしらをつくり、そして衣装や道具などを精一杯そろえたハレの舞台の場面である。また、豊年祭を再開することでムラ(部落)復興の気運を高める役目を果たした。写真には写っていないが、もう一本の旗がしらには、「進神遊」と書かれる。

  マーウイは、まだアスファルトが敷かれていず、西側から東に向かって道ジュネーが行われた。このマーウイが、いつごろから豊年祭の会場になったのか、それは定かではない。一時中断し、再開されたのは大正4(1915)年で、それから昭和62(1987)年まで19回を数える。豊年祭には、道ジュネーばかりでなく、獅子舞や棒術、そして舞台での出し物がある。道ジュネーの後方、右側に見えるのがコバテイシである。それは現在でもあり、県指定の文化財(天然記念物)となっている。また、福木の大木、さらに茅葺き屋根の家も見ることができる。

 下の写真は、昭和62年の豊年祭の旗がしらである。旗がしらの「祈豊年」は、現在も変わらず、その文句が使われている。てっぺんには、亀と鶴と桜花を模したのが見える。旗がしらを持つ人たちは、頭に紫のマンサージを結び、揃いの上着、そして足には脚半を巻き、揃いの服装をしている。ちなみに、その時の道ジュネーのプログラムを掲げて見ると、

 ①子供エイサー    ⑤豊年音頭        ⑩谷茶前
 ②校歌ダンス     ⑥めんそーれ沖縄   ⑪海のちんぼーらー  
 ③マミドーマー     ⑦うるま島        ⑫ ?
 ④めでたい節     ⑧沖縄市観光音頭   ⑬戦斗隊
 永良部百合の花   ⑨名護音頭      ⑭親子でワッショイ

であった。昭和22年と昭和62年の豊年祭の二枚の写真を見たのであるが、参加している人、旗がしらを持つ人のいでたち、見学者の服装、回りの建物など、様々な変化をみることができる。写真を歴史史料として捕らえ、そこから得られる情報の一つひとつ見ていく作業は、実はムラ(字)の戦後の歴史の刻みを描いているのである。


14. 仲宗根(プンジャー)のマチ(仲宗根)(平成3年8月号)

  今帰仁村の中央部に位置する仲宗根のマチ。村役場や郵便局、それに銀行・文具店・お菓子屋・電気店・レストラン・スーパーなどがあり、マチの様相をみせている。大井川の下流にある仲宗根のマチは、今帰仁村で唯一マチと言えるマチである。

  仲宗根のマチの発達は、明治17、8年頃にさかのぼり、大井川の少し上流部にある寒水(パーマ、現在の玉城に含まれる)に始まり、そこは、今でもプルマチと言われている。明治28年頃が寒水(パーマ)のマチの一番栄えた時期で、店十軒、飲食店三軒、豚肉販売所四軒、料理屋四軒あったという。           

  明治30年頃、山岳(サンタキ)から仲宗根へのミーミチ(新道)が開通したことでマチの発展は寒水から仲宗根の前田原へ移っていった。仲宗根の前田原は、明治20年以前まで水田地帯で一軒の家もなかったという。

  上の写真は、大井川橋付近のサイレンモーから撮影された昭和31年の仲宗根のマチの風景である。小高いサイレンモーは切りくずされ、今では住宅地となっている。手前の鉄橋を直進する道は名護への道路で、左手に向かうのは運天港への道である。

   橋から名護への道路は、明治30年頃にできたミーミチである。その道路が開通すると、道路沿いに点々と店が並ぶようになった。また、この道の開通が、寒水から前田原へマチが移動していく大きな要因になった。新道が開通するまでは、大井川のもう少し上流の寒水(パーマ)ヘつながるルートが主要道路(スクミチ)として機能していた。仲宗根のマチについて写真の説明は「ここには旅館が二件、料理屋四軒、食堂三軒に村営市場もあり、小売商がズラリと並び、風呂屋まであるところからみると単なる村落ではない。戦争の始まるころまでは伊平屋、伊是名や上本部から日用雑貨の仕入商人たちでごったがえしていた」(『新郷土地図』沖縄タイムス発行)と描写している。

  下の写真は、仲宗根のマチの中央部にあった今帰仁郵便局と今帰仁沖縄映館(映画館)のあった所である。「今帰仁沖映館」とある部分は映写室で、看板の後方に切符売り場があった。その後方にかすかに見える三角屋根の建物は、中の方で二階になっていて、木の腰掛けが配置されていた。何度か映画を見にいった記憶がある。前方には、舞台があり芝居が行われることもあった。今帰仁村の郵便局は、明治16年に運天番所の隣に設置され、まず同37年に運天から寒水へ移設された。さらに大正5年に仲宗根のマチに移され建設された。そして、昭和25年に瓦屋根の木造づくりの郵便局が建設され、それが下の写真の今帰仁郵便局である。昭和37年に仲宗根 131番地へ(『今帰仁村史』)、さらに平成2年2月に現在地の仲宗根96番地の5に新設された。

  昭和31年の二枚の仲宗根の写真を手がかりにマチの変遷をみた。明治30年代からマチの形態をとりながら発達・変化してきた仲宗根のマチは、今でも大きく変わりつつある。


15. 玉城での嶽の御願(タキヌウガン)(玉城)(平成3年9月号)

 毎年行われる神行事であるが、神人の後継者が少なくなり、来年は大丈夫だろうかと気がかりになる。よく知られた祭祀については、研究者の記録にとどめられたり、写真に収められている場合がいくつかある。しかし、一般的には調査され、記録や写真に残されることは数少ない。今回は、1972年に撮影された玉城の嶽の御願(タキヌウガン)の写真の紹介である。二枚の写真は、町田宗博氏(琉大、当時普天間高校郷土研究クラブ)の提供である。玉城での嶽の御願は、毎年旧暦4月15日に行われる祭祀である。当日玉城のアサギに集まり、それから神道を通りスムチナ御嶽まで歩いて行き(現在は、近くまで車でいく)、玉城だけでなく謝名・平敷・仲宗根の字の人達も集まり、合同で祭祀を行う。

 一枚目の上の写真は、1972年の嶽の御願(スムチナ御嶽)のウカマでの場面である。ウカマには、頂上部分のイビ(イベ)に向かっての香炉が置かれ、その香炉の前に白衣装の神人が数人と男神人が座り御願をしている。後方には、ムラ人達が謝名・平敷・仲宗根・玉城に分かれて座り御願を一緒に行なう。前日に張りめぐらされた左縄(ピジャイナー)が見え、その内側は男子禁制の場所である。かつて、ワラで編まれた縄を張りめぐらしていたが、近年はビニールひもですませている。写真はまだワラ縄が使われていた頃である。ここに写っている大先輩方の何人かは他界してしまった。四か字の神人達は、頂上部にあるイベに(向かって左側の方から)行く。そこには「奉寄進」と刻まれた三つの香炉があり、北(伊平屋島の方向)に向かって線香や酒、それに米や果物を供えて御願をする。イビでの御願が終わると平敷と謝名の神人は時計の針方向へ、玉城と仲宗根の神人は元の道を村人の待っているウカマに戻る。村の人達は持参してきた弁当を広げ、飲み物などを食べたり飲んだりし、御願が済むと、各字での行事に移る。

 二枚目の写真は、スムチナ御嶽での御願を済ませ、玉城のアサギ前での場面である。玉城ノロを中心にムラ人達が円陣をつくり、ノロが踊っているところである。その後方には、ワラ葺き屋根のアサギがあり、祭祀の面でまだ古い名残りが残っている頃である。アサギ小屋も、今では瓦屋根となり、周辺は今年農村公園として整備され、周辺の人たちの憩いの場として利用されている。玉城・謝名・平敷・仲宗根は、1713年の『琉球国由来記』当時から玉城ノロの管轄で、その伝統を今に引き継いでいる。玉城は、明治36年に玉城村と寒水村と岸本村の三つの村が合併してできた字である。しかし、今でも玉城アサギ、岸本アサギ、そして寒水アサギの三つが独立してあり、行政的に合併した字であるが祭祀の面では一体化されないで現在に至っている。そのことは、玉城に限らず諸志や今泊にも、その面影を残している。

 年々移り変わる祭祀をできるだけ記録にとるようにしているが、この二枚の写真は約20年前にスムチナ御嶽と玉城アサギで撮影された貴重な一場面である。


16.渡喜仁の伊是名家(渡喜仁)(平成3年10月号)

 今帰仁村の東部にある渡喜仁と言えば、寄留士族の多い字(アザ)の一つである。昭和16年頃、勢理客を中心に上運天・運天・仲宗根の一部を分割してできた新しい字である。

 これは、写真を所蔵されている照屋ナエさん(旧姓伊是名)の実家での記念写真である。一族11名が揃っての場面である。撮影場所は、渡喜仁の照屋全行さん宅(以前は伊是名興玩さん宅)だとみられる。

・後列右から
  ・伊是名興正(三男)
  ・ 〃 興玩
  ・ 〃 興仁(長男)
  ・ 〃 ウト

・」前列右から
 ・伊是名ナエ(現照屋ナエ)
 ・ 〃 マカト
 ・ 〃 カミ
 ・ 〃 興賢(二、三歳) 
 ・ 〃 カミ(興玩妻)
 ・ 〃 カナ(興正妻)
 ・ 〃 興保(四、五歳) 

 さて、写真であるが今から約80年前の明治44年頃渡喜仁で撮影されたものである。後列の中央部に立ち、髭をはやし、帽子をかぶった人が伊是名家の世帯主の伊是名興阮さんである。前列の女性と子供たち、そして後列に男性たちが並んでの記念写真である。服装からすると、季節は冬なのだろう。この場面は、伊是名興正さん(三男)とその妻カナさんが南米(ペルー)へ移民するために撮った記念写真である。

 当時、このような写真撮影ができる家というのは、今帰仁村でそう多いものではなかった。写真屋にお願いして撮影できたということは、相当なウェーキ(富豪)であったろう。伊是名家は、多くの土地を持ちシカマを何人か使っていた。また、舟(サバニ)を持ち二、三人に持たせ漁をさせていたともいう。

 伊是名興阮さんは伊是名のタンメーと呼ばれ、馬を飼い天底馬場や仲原馬場で競馬が行われると出場させ、当時の競馬ファンにはよく知られていた馬主であった。馬に乗るのは伊是名のタンメーではなく、長男の興仁さんであったという。屋敷には池があり、月見台を設けるなど風流な人物であったことが伺える。

 服装は時代を反映するもので、クツの少ない時代で、まだ経済的にクツを買って履ける経済状況ではなかった。しかし、向かって左側の男子(伊是名興保、当時四、五歳)だけがゲタを履いているのがみえる。それぞれの服装は、明治時代末の精一杯の晴れ着姿であり、ウェーキ社会の一面をみた思いがする。

 下の写真は、伊是名墓と呼ばれ渡喜仁の立石原にある。鳥居があり、大きな一風変わった墓である。伊是名興玩さんが造ったという。

 80年前の一枚の写真に、伊是名家の11名が写っている。しかし、健在な方は89歳になるナエさんと85歳の興保さんの二人だけである。興玩さんは戦争中、名護市の我部祖河で収容中に亡くなり、移民をした興正さんと妻のカナさんはペルーで亡くなっている。ペルー行きの記念写真を手掛かりに、一人ひとりの人生がどのようなものであったのであろうか、聞き書きをしてみたい気持ちにさせられる。80年後の今を、どのように予測していたのであろうか。自分達の存在、ムラ・シマ、あるいは家族とは何なのだろうかなど、様々な思いが脳裏をかすめる。

 


17.勢理客の公民館と豊年祭(勢理客)(平成3年11月号)

 村屋(ムラヤー)は、今帰仁村のどの字(部落)にもあり、今では公民館や農村環境サブセンターなどいろいろ新しい名前で呼ばれている。しかし、年配の多くの方々はムラヤーや事務所などの呼び方がなじみ深く、字(アザ)の大事な公共施設である。言ってみれば、ムラ・シマ共同体をまとめていく上で中心となる施設である。戦前・戦後・現在、小さな茅葺きから瓦、そしてスラブへと大きく堅固な建物となってきた。かつて、村屋(ムラヤー)には掟・頭・耕作当・山当などの役人を配置し、番所(後の役場)の指揮監督をうけ、近世の村屋の伝統を引き継いできた。整理客の公民館もそうである。公民館敷地は、明治21年に天底小学校がスタートした場所である。

 上の写真は、昭和301955)年の勢理客の公民館建設の場面である。茅葺き屋根から瓦屋根に葺き替えられるところである。建物の柱は杉材を使い、当時においてはモダン的な二十坪余りの建物で、現在の公民館の前のものである。場面は棟上げ式の直前の様子であろうか。字の方々(男も女も)が、夫(ブー)に出ているところである。まだ、裸足の時代で道具もバーキやオーダー(モッコ)などもあり、老婆などは着物姿である。戦後10年たったとは言え、まだ生活が苦しい時代で、それが服装や履物に反映している。前方の二人の女性は棒を手にムチを突き、右側に一列の並んだ女性たちはバーキやバケツなど運搬道具を手にしてのポーズである。この公民館は昭和54年まで使われ、同年に作り変えられた。昭和49年の状況は「木造建 ・・・遊具のある部分は芝生でおおわれており一段と高くなっている」(『今帰仁村総合開発計画基本構想』より)と表現してある。

  下の写真は、戦後数年たった昭和261951)年の豊年祭の時のウドゥイミャー(踊庭)での記念写真である。豊年祭のたびに仮設されていた舞台も、平成3年には常設の新しい舞台での豊年祭となった。両側には松竹梅にふんした二人が立ち、諸喜田幸福さんや大城清さん、それに湧川清蔵(故人)、仲村豊七郎(故人)、大城覚善(故人)氏などの姿が見える。40年という年月の中で多くの方々を失い、そして新しく多くの人々が参加するようになった。正面の太鼓に「勢理客青年団寄贈1950年8月」とあり、三線や小太鼓、舞台出演者は衣装をまとっている。豊年祭は字の人達が一体となり、戦後間もない経済的にあるいは精神的に苦しい時代でありながら、すぐ再開した。それは、共同体としての意識や戦前から行われてきた伝統的な行事を自分達の時代で失いたくない、失ってはならないという意識が強かったからであろう。

 平成3年も五年マーイの豊年祭が行われたが、写真当時より豪華で華やかであった。豊年祭への思いは、昔も今も変わらない。28年ぶり今帰仁を訪れた方が、「失われていった自然は、ムラの人々の経済的豊かさに変わっていったのかな」と漏らされた言葉が幾度も響いてくる。公民館や豊年祭だけでなく、今帰仁村は大きく変わりつつある。 



18.仲宗根のアサギ付近(仲宗根)(平成3年12月号)

  仲宗根の集落は、今でこそマチ的な景観をみせているものの、かつて他の字(部落)と同様、村落的な集落景観をなしていた。旧集落はグシクンチヂを背に、南斜面に発達していた。明治以後、前田原がマチに発達していったムラであるが、かつての集落形態が公民館周辺に今でも名残りをとどめている。仲宗根の旧集落付近には、グシクンチヂをはじめお宮、神アサギなどの拝所がある。神アサギ前の広場は、記念写真をとる格好の場所であった。

  一枚目の写真は、与那嶺善太郎氏提供の昭和17年の写真である。ここに収まっている多くの方々が、戦争の犠牲となり、帰らぬ人となった。自分の運命も知らずして、記念写真に収まったのである。青年団の旗を立て、戦時体制下にあったためか、まだあどけない顔に緊張した雰囲気が漂っている。写真の中に、まさに昭和17年という時代が映し出されている。グシクンチヂの麓に仲宗根の神アサギがあり、屋根は茅葺きである。お宮がまだ建立されていない頃である。

  中央の写真は、昭和32年1月5日の敬老会の記念写真である。一列から三列の中央に字の大先輩を座らせ、その両側と一番後側に字の有志の方々がいる。故宮里政安氏(元村長)や故大城健一氏(元立法院議員)などの顔が見える。後方をみると、新しくお宮が建立されており、その当時アサギはまだ茅葺き屋根である。昭和17年の写真の方々のうち戦争をくぐり抜け、この昭和32年の敬老会に参加されたのは何人だろうか。

  下の写真は、昭和47年の仲宗根のアサギ付近である。アサギに神人、そしてお宮の階段に高校生の姿が見え、何かゆったりした、のどかな感じがする。その頃、アサギは茅葺きから瓦に葺き替えられている。

  昭和17年、同32年、そして同47年の15年ごとの仲宗根のアサギ付近の三枚の写真を並べてみた。時間の経過が実感できると同時に、ムラの方々の世代交代やアサギ周辺の変化、服装などにそれぞれの時代の社会状況が反映していることがわかる。仲宗根のアサギ周辺は、今でも大きく変わりつつある。アサギが上の方に移設され、公民館ができ、さらにお宮がなくなり、グシクンチヂは公園整備がなされている最中である。瓦屋根になったり移築されたりしているアサギではあるが、まだまだムラの人々の中に根強く生き続けている。


19.今帰仁の風景・人々・生活(平成4年1月号)

 「写真にみる今帰仁」を手がかりに、ムラ・シマの歴史をいくつかみてきた。その間、数多くの今帰仁の写真を手にすることができた。これまで紹介できたのは、その一部にすぎないが、多くの方々が目を通し、話題にされていることは嬉しいことである。戦前、あるいは戦後の身近な写真を通して、自分たちの地域のできごとを記録できることは、写真が一つの歴史資料であることを物語っている。写真が歴史資料のひとつであることをテーマにしてきた流れの中で、収集できたのが、メルビン・ハッキンス氏提供のスライド写真である。

 ①の数件の茅葺き屋根とトタン屋根のある写真は、親泊(現在今泊)のナガサフバーリの集落である。昭和26年頃、教会から東側を見た風景である。前方には、水田の稲が青々となびき、母屋や小さな小屋、家の回りには福木があり、洗濯物を干している姿も見える。4月から5月にかけての日差しだろうか、なんともいえない、かつてあった長閑な風景である。

 ②の写真は、1961年に来襲した台風でスクミチ(現在の県道)に倒れた大きな松をノコギリで切って片づけているところである。その時の台風で、今泊で30軒ほどの家が崩壊したという。暑い日差し                                                     の中で、災害復興のためのムラの人たちによる夫(ブー)作業である。後方には、「バスのりば 親泊」と見える。

 ③は、当時のシマの子供たちとカーニーとティーミーである。彼らは、今では40代になっている。セミやトンボなど、虫取りでもしているのだろうか。網や竹の棒を手にした腕白坊主たちの姿である。竹の棒の先を二つにさき、クモの糸を巻いてつくった捕獲機は、子供たちの知恵である。裸足に麦わら帽子、それに竹の棒や網を持ったスタイルは、当時(昭和30年頃)の子供たちの一般的な姿であったような気がする。カーニーとティーミーも、ムラの子供たちと一緒になって、遊び回っていたという。その頃でしょうか、カーニーが隣のおばあさんからジューシメーを食べさせてもらった。そのことを「ウヮーヌムイ(豚のえさ)を食べてきた」と報告したため、ハッキンス夫妻がびっくりした話は、エピソードとして今でも語られている。また、アメリカ人がやって来ると、「アメリカーが来た。アメリカーが来た」とシマの子供たちと一緒になって遊んでいたとハッキンス氏は回想される。

 ④の写真は昭和312年頃の親泊公民館前である。クリスマス、入学式、それとも旧正月だろうか。手にプレゼントのエンピツや学用品を持ち、子供たちは散髪をし、新調したばかりの学生服や赤い晴れ着を着ている。男の子は五つボタンの学生服、女の子は赤い色の晴れ着が目立つ。当時、めったに履かない靴下や靴を履き、カーニーは髪型をピッシときめ、シマの子供になりきっている。体型が違うから、学生服は少し窮屈そうである。この写真は親泊(現在は今泊)のコバテイシの下からのアングルである。後方のトタン屋根の建物は、親泊の公民館である。壁には映画の広告が張られ、塩の看板も見える。

 ⑤の写真は、1957(昭和32)年の今泊のアジマー付近である。ハッキンス氏のスライドにたびたび登場し、またシマの人たちにとって思い出深い場所でもある。東西(左右)に伸びる道路が、現在の県道であるが、まだ、アスファルトが敷かれていず、バスや車が通るとホコリが煙幕のように舞い上がっていた。県道沿いに建っているのが、「今帰仁城趾九町」と彫られた石碑で、現在も残っている。アジマー(交叉点)の写真を何枚か見ていると、この碑は付近をあっちこっち移動させられている。

 手前に伸びる道路は、今帰仁城跡への道である。シマの二人の農婦は、麦わら帽子をかぶり、バーキにクワやカマいれて背負い、裸足で畑に向かっている姿は、夏の出で立ちである。道沿いの水田に稲の穂が金色に染まり、実り豊かな風景である。これまで紹介してきた「写真にみる今帰仁」は、モノクロ(白黒)の写真であった。昭和30年代以前は、カラー写真がないというのが、大きな理由である。30数年前の五枚の写真を風景、子供たち、生業(なりわい)をイメージしながら組写真にしてみた。鮮やかなカラー写真のためか、ごく最近の出来事のような錯覚をおこすこと度々である。

 「今帰仁の原風景」と銘打ったのは、昭和25年から35年頃までの風景や人々の生活を中心としたメルビン・ハッキンス氏提供のカラースライドの写真であることによる。昭和30年代後半から、高度経済成長とともに「今帰仁の風景や生活」が大きく変化していった時代である。ここに掲げたスライドは、急激に変化する以前の今帰仁の風景や人々の生活などである。昭和25年から35年頃にかけてのスライドに写しだされたムラの景観や人々、そして人々の生活には、戦前あるいは戦後間もない頃の姿が映し出されている。「今帰仁の風景」として掲げた一枚一枚の写真に向かい、40年という時の流れ、あるいはムラ・シマの30年の歴史を振り返りながら、この時代を知らない若い世代に語り継いで頂きたい。また、「今帰仁の風景」は、今帰仁の30年から40年前の自然をよみがえらせるものである。 数多くのスライドは、今泊を中心としたものであるが、教会周辺の水田やアジマー、西側の一本松、サーラモー、公民館付近のコバテイシなど、人々の記憶を鮮明によみがえらせ、さらに脳裏に刻みこんでいくにちがいない。写真の風景に吸い込まれていくと、何故かごく最近の風景に出会っている錯覚に陥ってしまう。人々、それが時間の長さを示してくれる。当時、5、6才であった方が、いまでは40才を越しているのである。それが、30年から40年という時間の経過を教えてくれる。写真に登場される方々に、当時何を考え、将来にどんな夢を見ていたのだろうか。何故か、そのことを無性に問いかけたくなる。

 


20.戦後、間もない頃の生活(平成4年2月号)

 戦前、あるいは戦後間もない頃の生活を、よく話として聞かされることがある。ここでは、戦後間のない頃の生活を三枚の写真を手がかりにみていくことにする。ここに掲げた三枚は、メルビン・ハッキンス氏のアルバムから提供していただいたモノクロ(白黒 250枚以上ある)写真の中の三枚である。年代が明記されていないため、はっきりしないが1950年代である。

  戦災で、ほとんどが家が焼き払われ、疎開先や収容所からムラに帰ってきた。自分の住む家のない人々は、仮住まいの家を建てた。その後、茅葺き屋根の自分の家に住めるようになり、次第に落ち着きを取り戻していった。材木やカヤなどの準備ができると隣近所の人たちが協力しあって家を葺いていった。茅葺きは、台風にあうと壁や屋根が吹き飛ばされ崩壊することもあった。そのような茅葺きの家の中には、土間に直接台所(トゥングヮ)があった。カマドの前で焚きつけをしている老婆の姿は1950年代である。戦前、あるいは戦後間もない頃まで、一般的にはこのような台所であった。石を積み、土で塗り固めたカマドにはご飯を炊くところ、おつゆやおかず、そしてシンメーナービーを置き豚のエサやイモなどを煮る三つのカマドがある。火をおこすのに松の葉や木の枯れ葉(アクタ)やサトウキビの絞りカスなどで、焚きつけは山や森などでとってくる薪であった。

 戦争の痛手から、十分立ち直っていない時代の食卓は、イモが主であった。白米がしだいに食べられるようになっていくが、三食をまかなうだけの水田面積を持っている家は少なかった。田を持っているにしろ、正月やお盆、あるいは特別な日でないと白いご飯を口にすることは少なかった。白いご飯が毎日食べられることを、夢みる時代であった。

 今泊の県道沿いのナースダ(苗代)で、ソーキに籾を入れ、種まきをしているのは仲宗根孫吉さん(故人)である。1953年の2月頃かと思われる。頭にタオルをかぶりズボンをまくり、素足で種をまく姿は、当時ではよく見かける風景であった。田を耕すのにクワを用い、馬や牛にユジェーをひかしている風景がよみがえってくる。

 三枚目の写真は、斧(ウーヌ)で材木の不必要な所を削ったり、生皮を剥いだりしている所である。丸太を角材にする製材所があったとみえ、二面はまっすぐ製材されている。縦縞模様の着物(チン)を来た上間新太郎翁(故人)の斧を打つ音が響き、木の香りが今にも漂ってきそうである。

 このような場面は、戦前、戦後間もない頃までよく見られた。これらの三枚の写真をみていると、戦前、あるいは戦後間もない頃の生活が彷彿してくる。そのような時代を知らない戦後生まれの私たちにとって貴重な場面である。言葉や話で聞くこともあるが、このように写真で視覚的に見ることで、ある時代の時と場所の一コマ一コマの場面に過ぎないが、当時の台所、水田、そして木を削っている場面をより具体的にとらえさせてくれる。写真が歴史資料のひとつであることを端的に示すものである。