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もくじ(61~70)
61.今泊消防団の結団式(今泊馬場跡)
62.仲宗根の道ジュネー
63.仲宗根のマチ(大井川付近)
64.戦後(昭和二十二年)に建設された村役所
65.戦後の土地測量(昭和22年)
66.米軍が水陸両用戦車で運天港に上陸
67.第一回 国勢調査記念
68.崎山の豊年祭(昭和24年)
69.与那嶺の製糖工場の建築(昭和30年)
70、今泊の「招き松」(樹齢約200年)
61.今泊消防団の結団式(今泊馬場跡)
沖縄戦で米兵が戦利品として持ち帰り、戦後五十年経って返された品々が「返還された資料展」として北中城村で開かれた。アルバムや写真、寄せ書きされた日の丸・武運長久の千人針・お守り袋・位牌・印鑑・教科書などの品々がある。展示会には戦争を体験された方々が数多く訪れ、家族や友人などの写真がないだろうかと、熱心に見入っていた。会場のあちこちで写真と自分の体験を重ねる声が聞かれた。
展示された資料の中に今泊の馬場跡(大道)で撮影された写真が含まれていた。昭和八、九年頃の「今泊消防団の結団式」の場面である。字今帰仁と字親泊の二ヶ字で「今帰仁消防団」が結成された。
コバテイシの枝や福木の並木、石垣、竹を編んだチニブなどが見え、馬場跡付近の様子の一端が伺える。写真の中央部後方にかすかにみえるのは、消防機具を収める格納庫とサイレン塔である。その建物は昭和7年頃に建てられ、盛大に落成式が行われた(『今泊誌』)という。右手に消防団の団旗が見える。
馬場跡いっぱいにむしろを敷き、最前列に平敷兼仙氏、玉城精喜氏、仲宗根新一郎氏の三人が座り、二列目に仲宗根加奈氏、玉城幸五郎氏、玉城精五郎氏、嘉手納善五郎氏、宮里喜一氏、仲本吉次郎氏、古波蔵源五郎氏などが並ぶ。後方には上間信夫氏や新城盛二氏など70名の姿が見られる。二列以降には「今泊消防組」の文字の入ったハッピを着た消防団員が並ぶ。
三列目の山城宗雄氏は兼次校の校長、二列目の大山朝常氏は主席訓導で後のコザ市長。平敷兼仙氏は訓導で「御案内」を著わし兼次校の校歌を作詞、玉城精五郎氏は役場の収入役、玉城幸五郎氏は昭和12年に村長、宮里喜一氏は昭和17年に県議、最前列の玉城精喜氏は戦後校長を務めた方である。
人物の中に昭和4年から同13年まで兼次校の校長を務めた山城宗雄氏の姿や昭和八年に台湾から帰郷した宮里喜一氏がおり、また昭和七年頃に建立された消防の格納庫が見えることから昭和8年から同13年までの間と見られる。最前列の中央部に座っている玉城精喜氏は昭和8、9年頃ではないかと記憶をたどる。
消防団員や村の有志の方々の他、校長や先生方々の結団式への参加は時代を反映しているかもしれない。
元米兵の戦利品が戦後50年目にして返還された。この写真を手がかりに写真に登場する玉城精喜氏(89才)から昭和何年だったか、どこで、何の日だったかを伺ってみた。六十年前の出来事は、記憶のはるかかなたに消えかかっている。幸いに親川繁氏(今泊)が一人ひとりの名前の聞き取りをはじめている。
写真に写っている70名の方々の何名が戦争をくぐりぬけることができただろうか。園方々は戦後村や字の中で大きな動きをして来た。戦後50年という節目の6月23日を前にして戦争をくぐり抜けてきた方々の一言一言に耳を傾けている昨今である。
62.仲宗根の道ジュネー
仲宗根は今帰仁村で唯一マチの景観をみせる字である。マチとしての仲宗根の発展は明治にさかのぼることができる。古い集落はグシクンチヂ付近にはお宮や神アサギなどがあり、神アサギ前の広場をはさんで豊年祭の舞台が設置される。仲宗根の豊年祭は五年マール。最近行われたのは平成5年である。22年ぶりに棒術を復活することができた。
豊年祭と関わる神行事として、本番の舞台前にイナブス森での御願踊(ウガンウドゥイ)があり、乙羽岳の東方にあるスムチチ御嶽に向かって行われる。
さて、道ジュネーであるが豊年祭の当日に行われる。旧事務所前から出発した時期もあるが、今は仲宗根橋の広場から出発する。広場から仲宗根橋を渡り、ターバルから山岳への直線道路を通り、山岳の手前の交差点から大井川橋へと向かう。大井川橋から銀行の前を通り、プリマートから右折し集落内を通り神アサギある広場へと進む。
道ジュネーは字の有志を先頭に旗頭、長者の大主、子供達、路次楽、棒組、獅子、芸人と続く。
下左の写真は昭和三十年の道ジュネーのターバルでの場面である。右側に後に村長を務める宮里政安氏や松本新一郎氏の顔が見える。旗頭を支えている人、旗頭のバランスをとる棒を持つ人。その後に多くの字の方々が行列をなしている。そろそろ瓦葺の家が建ち始める時代で、後方に何件かセメント瓦の屋根が見える。
下右の写真はその5年前、昭和25年の道ジュネーの場面である。戦後の村の復興期の勢いが、一人ひとりの表情にうかがえる。右側のユーモラス正装スタイルは宮里政安氏。白衣装に扇をかざし、花やチョウを被ってポーズをとっているのは婦人会の演し物だろうか。三味線を弾き、鉢巻をし、また杖をもち本番の衣装での道ジュネーへの参加である。後方には茅葺きの家。道ジュネーへの参加である。後方には茅葺きの家。道ジュネーを見学してる子供たちは裸足である。
戦後数年経ち、まだ戦争の痛みを胸に抱えてはいるが、時代の流行をとりいれ、モダンな服装で豊年祭を盛り上げている。乏しい材料をあれこれ工夫しながら、新しい時代を興していこうというシマンチュの意気が伝わってくる。
63.仲宗根のマチ(大井川付近)
仲宗根のマチの発達については、これまで何度か触れてきたので、今回は三枚の写真(石嶺蒲八さん、今泊提供)から昭和28年頃の仲宗根のマチの様子を見ていくことにしよう。
一枚目は昭和28年頃の大井川付近の写真である。左側の建物はバスの待合所で「沖縄バス株式会社今帰仁出張所」の大きな看板がかかっている。今帰仁村の昭和25年の人口が15,300人余り、同30年13,700百人余りで、現在の9,600人余りと比べると人口が多かった時代である。通勤時には満杯の乗客を乗せて走っていた。時々沖縄バスと昭和バス(後に琉球バス)が競って客を乗せていた光景が見られた。バスの型は鼻があり、車掌が革のバックを腰、あるいは肩からかけ、乗客の席を回って切符をきっていた。女性にとってのあこがれの職業の時代があった。女の子が待合所の、前をてんびん棒でシチタンバクを担いで歩いているが、水汲みでも行くのだろう。
橋の手前には簡素な瓦葺きの雑貨店があり、品物が並べられているのが見える。
雑貨店の右手奥に見えるのは大井川橋で、鉄でつくられた橋である。ここに橋がかけられたのは明治30年頃である。山岳(サンタキ)から大井川橋への道(ミーミチ)が開通すると寒水にあったマチがしだいに仲宗根の前田原一帯に移動してきた。
二枚目の写真は、昭和28年頃の仲宗根の郵便局である。入口には「今帰仁郵便局」の看板が掲げられており、四角の郵便ポストが据えつけられている。この建物は昭和25年に建てられ木造瓦葺きで16.6坪あった。昭和20年3月27日空襲で仲宗根のマチは焼かれ郵便局も焼けてしまった。同20年11月から幕舎をつくって業務を始めた(『今帰仁村誌』)。郵便局の隣に瓦屋根の家が見える。
三枚目は郵便局の隣にあった瓦屋根の二階建ての映画館である。正面に「今帰仁沖映館」と映のマークがある。映画館を経営していた長田節子さんは「戦後のどさくさ中、最初は露天で演劇などをし、映画館は昭和44年で閉めた。美空ひばりの映画になると人がいっぱいで満席だった」と思い出してくれた。テレビがまだ普及していない頃、映画が一番の娯楽だった。小学校の頃、全校生徒で映画見学することがあった。「二十四の瞳」や「橋のない川」など記憶に残っている。写真を見ていると忘れかけていた風景がよみがえってくる。
64.戦後(昭和二十二年)に建設された村役所
戦後の今帰仁村役所(役場)は昭和22年に建設された。その年の1月、役場建設について当時の松本吉英村長は次のように述べている。
「現在樟脳の外に資材は得られないのであります。盗伐が多いので早く切り出さなければならない。吏員でも席のないものが居ります。予算がないので村として大工や人夫を傭うことが至難であります。それで一般の負担にかけたいと思うのであります。伐採人夫賃は只今村で支払って居ります。各字から人夫を出すことにならば加動のない子供や女が出るので各字の人口に割して完全能力のあるものを出して貰いたい。各字に配馬が居りますが、今の飼主は私利に耽り村の作業等は問題にして居ないのであります。此際村政委員方の御意見を聞いて取替えをしたいと思っております」。
会議の結果、2月1日から三ヶ月に一回出夫すること、材木の運搬や山入りの順序が抽選で決められた。
『戦後復興期の議事録』(「すくみち」第31号)をみると、敗戦直後事務所を借りて事務をとっていた。その後、コンセントの役場を立てた。役場を建てる資材の準備ができると村政委員会で建設についての総費用、費用の拠出の方法、時期、日数、建築に要する人員、村有地の売却、余った資材の利用など、様々な議論がなされている。
上の写真は、昭和22年頃の今帰仁村役場である。赤瓦屋根の建物は楠(クスノキ)を切り出して造った。楠の柱や板でできた建物の総面積は78.5坪あり、戦前の建物の60坪より広く、県内でも指折りのりっぱな建物であったという。右側の正面玄関には「今帰仁村役所」の看板が掲げられている。
建物の後方には大木の松。前方に立っている三氏の中央が当時の村長の松本吉英氏(字謝名)である。左側が石嶺幸亮氏(当時助役、字平敷)、右側が大城健一氏(昭和33年村長、字仲宗根)である。白い漆喰がまぶしく輝いている。
下は今帰仁村役場の玄関前で、職員の記念写真である。上の写真の三方のほかに吉田光正氏(元県議)や松田幸福氏(後の村長)や宮里政次氏(字越地)や上間カズさん(字運天)などの姿が見える。松本村長や大城収入役の格好などから見て、上の写真と同じ日に撮影されたものであろう。役所の新築を祝っての記念写真であろうか。シミのない壁を見ていると、真新しい楠の香りがしてくるようだ。
「役場の新築」と年表では一行ですんでしまう事柄だが、写真を読み込み、当時の議事録をひもといていくとそこには様々な動きの積み重ねがあってひとつのことが成就していく流れがみえてくる。
65.戦後の土地測量(昭和22年)
沖縄戦で役場や各字の公民館の帳簿など書類のほとんどが消失してしまった。土地関係の公簿や公図なども同様である。そのため沖縄県諮詢会の監督のもとに、各字や村に字土地所有権委員会(10人)と村土地所所有権委員会(5人)が設置され、昭和21年8月から三ヶ年余りの歳月をかけて、各字の土地の位置・面積・筆界・土地所有権の確認・公証の作業を行った。
今帰仁区(今の字今泊)の『議事録』(1947年8月12日常会)で土地調査の件に触れ「一筆三〇〇坪七円当、其の半額ヲ土地調査委員会の経費トシテ治メテ戴キ度ク委員会ノ方ヨリ御願、右提案決定(微集ハ調査デ行フ)八月十五日ヨリ」とあり、戦後の土地調査の字の対応の一端が伺える。「測量野帳」をみると、経営区字・林班・小班・年月日・審査委員を記入する欄があり、さらに測点番号・方位角・傾斜角(仰・俯)・斜距離・水平距離・標識・摘要の項目がある。
写真は仲尾次の土地測量の補助委員(字土地所有権委員か)の方々である。場所は仲尾次のミンタマヤー(クムイ)の側のガジマルの前での撮影である。ミンタマヤーの池は灌漑用水や洗濯などに利用されていたが埋められ、当時の面影は消えてしまった。前列左から、国吉真栄・田場盛重・城間源栄・与那嶺吉松(役所吏員)などの姿が見える。後方左から稲福権平・新城三郎・田場盛善・屋嘉部景栄・渡名喜長栄・島袋定治の各字である。その時の測量技師は大見謝技師であった。
測量の補助員をした渡名喜長栄氏は「道路側に大きなガジマルがあった。大見謝技師と一緒に場所の確認した。土地台帳と一筆限帳と地図はわしの区長時代に作った。測量する時に、検縄と羅針盤で方向、長い竿などで見通しをした。測量は屋敷や山などもしたので長らくかかった。わしらの写真の測量、それは確実ではないということで、測量を直して台帳をつくった」など四十六、七年前の様子を語って下さった。
田場盛善氏は「これは昭和22年ですね。補助員は二人の指示によって縄を引っ張って、測量簿をつけて大見謝氏がずっと見て。補助員は字内の畑がわかるもんだから。それを一筆ごとに測量した。検縄を引っ張って竹の棒を立てて、与那嶺吉政さんと大見謝氏とが六分儀で見ながらやっていた。大見謝測量といって、後でこれはでたらめだと言ってましたがね。つじつまがあわんわけですよ。それからは私は役場に入って土地を担当したわけですよ。測量費を払わないというひともいて、私大分苦労しましたよ。一筆いくたといって測量賃がでよったですよ」などと当時を振り返って下さった。
戦後の土地測量は、ある意味で戦前の地籍の復元であった。その作業が現在の地籍図と直接つながってくる。村図を作成するにあたり「村図作成要領」や地番の作成事務を円滑に進めるために「新地番作成要領」などが出されている。字で具体的にどのように測量し、所定の手続きをへて「土地所有権利証明書」が発行されていったのか、この写真は戦後の仲尾次の土地測量と関わった方々、そして当時の様子や土地所有権が認められるまでのことを語っていただく資料である。
66.米軍が水陸両用戦車で運天港に上陸
戦後五十年の節目に各地で行われた催物が一段落し、世界のウチナーンチュ大会の熱気が冷めやまないこの頃である。明治・大正・昭和(戦前・戦後)に外国や他府県に今帰仁村から多くの方々を送り出した。世界のウチナーンチュ大会に参加し、今帰仁村歴史文化センターまで足を運んだ方々は歴史文化センターの展示をくいいるように見ていかれた。そこに自分たちの存在、そして歩んだ歴史をしっかりと確認していく姿があった。悲惨な戦争をきっかけに外国に移民した方々も多い。
今帰仁村も戦争の被害を受けたが、運天港には設営隊の山根隊と蚊竜隊、それに第十七魚雷艦隊の三つの部隊がいた。魚雷艇を格納する壕堀りに古宇利島の女性たちもどういんされた。その壕の中から海の方へ魚雷艇を運ぶレールが敷かれていた。
昭和19年10月10日の米軍機による大空襲によって、運天港も爆撃を受ける。昭和19年8月から9月にかけて運天港に進出してきた第二十七魚雷船体(白石大尉)の魚雷艇十八隻のうち、十三隻が空爆で失われたが、後十八隻まで戻した。
白石隊は3月27日の晩に残波岬沖、29日には伊江島沖へ出撃。対する米軍は30日約200機余りの艦載機で運天港を爆撃した。その際、隠してあった魚雷艇は全滅した。第二十七魚雷艇は陸上戦に移行していった(『今帰仁村誌』『沖縄戦と住民』参照)。
当時の様子を「魚ですね。湧川の内海、我部集ですね。家の長男が三中三年でしたから家に帰され、一週間に一回羽地の本部敵情報告するようになっていた。木の枝をかぶって羽地の帰りにカツオを持ってきてあったが、石油くさくて食べられなかったよ」(宮里政正氏、越地)、「海軍が十一名か戦死しました。十・十空襲の日に。あの時は、石油とか重油とか流れて、魚をとって来ても食べられなかった」(与那文子さん、天底)などと語っている(『沖縄県史』10沖縄戦記録2所収)。
写真は海軍白部隊の魚雷艇基地のあった運天港に米軍が上陸した4月23日頃の場面である。水陸両用戦車数台が運天の海岸に接岸し一部は上陸している。戦車の上に姿を見せている米兵には余裕がある。材木が散乱しているが、それは日本軍が残していったものだろうか。
左手に大きなコバテイシの木があり、葉を落とし白っぽい枝を見せている。このコバテイシは今でも船着き場の近くに枝を広げている。まさに米軍の猛攻撃、そして米軍の上陸を目の当たりにした木である。右手には瓦屋根の建物がみえるが、「戦前、その建物は日本軍が事務所に利用していたが、米軍が上陸した後は壁板や床板を取り除き米軍が利用していた」という。後方の丘は松が並木をなしている。右手には源為朝公上陸之跡碑がある運天森である。
運天港の魚雷艇基地が米軍の爆撃で破壊された後、ゲリラ隊が組織され、嵐山や八重岳や多野岳などの山中を転々とした。白石部隊が旧羽地村(現在名護市)の古我地地区に投降したのは、8月15日もとっくに過ぎた9月3日のことであった。
67.第一回 国勢調査記念
国勢調査は大正9年10月1日を第一回目として、10年ごとの大規模調査(本調査)と中間5年目の簡易調査が行われてきた。これまで15回行われているが、昭和20年と22年は戦後の混乱と米国の統治下にあったため沖縄では行われなかった。
国勢調査では国民一人ひとりの国籍・性別・年齢・世帯人員や職業など、個人の属性について調査を行っている。
これまで行ってきた国勢調査と他の資料による人口を記すと次の通りである。
・大正9年 14,159人
・大正14年 12,609人
・昭和5年 13,057人
・昭和10年 12,689人
・昭和15年 11,915人
・昭和19年 12,422人
・昭和20年 (国勢調査なし)
・昭和25年 15,398人
・昭和30年 13,775人
・昭和35年 13,319人
・昭和40年 12,531人
・昭和45年 10,508人
・昭和50年 11,100人
・昭和55年 9,593人
・昭和60年 9,465人
・平成7七年 9,485人
今帰仁の人口は多い時には戦前で14,000人余(大正9年)、戦後のベビーブームの昭和25年の15,000人余が上限である。今帰仁村の人口は昭和30年代から急速に減少しつづけ、昭和55年の調査では一万人を割ってしまった。
下の写真は、『崎山誌』と『与那嶺誌』に掲載されている。大正9年に実施された第一回国勢調査の調査委員達の、今帰仁村役場玄関前での記念写真である。村役場が運天から仲宗根の現在地に移転したのは大正5年。移転後4年目の写真である。
後方には「今帰仁村役場」と掲げられ、左側に「第一回国勢調査」と張り紙されている。玄関の戸や窓はガラスでモダンな建物だった。
これまで分かっている写真の人物は、前列右一番目が仲村源次郎氏(崎山)、二番目が古波蔵源太郎氏(今泊)、前列左から二番目が仲宗根小次郎氏(与那嶺)、後列左から一番目が与那嶺豊吉氏(与那嶺)、二番目が与那嶺幸茂氏(崎山)、四番目が与那嶺新平氏(仲尾次)、右端が大嶺武彦氏(越地、当時謝名)である。
崎山の仲村源次郎氏の娘さんもあたる山城好子さんは、「運天に役場があった頃に書記をし、その後代用教員を勤めたが44歳で亡くなった」と語ってくれた。与那嶺新平氏は明治22年生まれで仲尾次区長や村議員、初回の国勢調査委員や戦後の土地整理委員などを勤め、国勢調査委員としての功績で感謝状と銀メダルが贈られた。大嶺武彦氏は越地が謝名と仲宗根から分字(昭和12年)したときの区長である。写真の12名の方々は、国勢調査でどんな役割を果たしたのだろうか。11名が着物袴で一人が背広姿の正装である。
大正9年第一回国勢調査に関わった有志の方々は、調査を通して将来の今帰仁の人口の動態をどのように予測していたのだろうか。
68.崎山の豊年祭(昭和24年)
崎山では3年に一回(4年マーイ)の豊年祭(ムラウドゥイ)が行われている。満3年ごとの豊年祭を行うかどうかは盆踊りが終わった2、3日後に評議員会が開かれ決議される。評議員会で決まると字の常会で区民全会一致で可決され、例年どおり開催される。戦前まで豊年祭に出演するのは男性のみであったが、戦後になって女性も出演するようになったという(『崎山誌』)。
旧暦8月9日はミャーイジャシーと言って、普段着のままで予行演習をする。かつて8月15日にハサギの南東に舞台を設けて御願踊りをやっていたが、現在では舞台の移動はなくハサギの広場に舞台を設置し豊年祭を行っている。
写真は昭和24年の崎山の豊年祭の記念撮影である。場所は神ハサギの舞台前である。ハサギミャー舞台をつくり、屋根はテント張り。戦後4、5年のまだ物資が少ない時代である。舞台の中央部はソテツや紙の花で飾りつけをし、紙でつくった飾りをなびかせ、下の方には粗雑なムシロが敷かれている。物資の少ない時代、豊年祭のために知恵を働かし、衣装を仕立てたり道具をつくったりしながらの祭である。
前列左右に三味線を手にしているのは地謡をされた上間善徳と嶺井盛徳の両氏である。両人の間で扇子を広げている五人は松竹梅鶴亀を演じた方々である。左から竹の池原忠英、鶴の大城幸雄、梅の諸喜田サダコ、亀の諸喜田実、松の平良幸二郎の各氏である。
編笠をかぶっているのは喜屋武光一氏である。高平良万歳はカタカシラを紫のナガサージで前結びに鉢巻きし、着物は黒流しに角帯びをしめ、白黒のたて縞の脚絆に白足袋をはく出立ちである。二才(ニーセー)踊りの中で最も難しい踊りだと言われている。鉢巻をし、たすきかけをしているのが上間博安氏である。
この年の豊年祭で「コウヤの妻」という劇が行われた。「お父さんはお医者さんしているんですね。これが子供(与那嶺良子さん)、これがまた奥さんだったわけ。上間トシさんが長女。正吉さんがお兄さん役。旦那さん役は上間森三さん(ネクタイの男性)。うちの人も(山城一男氏)役に入っていたがよ。忘れたさ。お父さんが看護婦と一緒になって、娘連れて、やさしい兄さんの所に行って生活するわけ。とても良かったですよ~、この劇。この娘がお父さんに向かってお父さんウンジョウ、お母さん捨てて幸せ・・・と謡ってよ」と山城好子さんは45年前の感動を思い出し、感慨深く話して下さった。
また、喜屋武加代子さんが「舞台を見てあこがれていた人がいたんだけど、まさかその人の息子と結婚するとは思ってもいなかった」と笑っていた。
二列目の両端の二人は女踊(ヰナグドゥイ)をした方々で、左側が与那嶺ヨシタカ氏。クティ節を踊ったのではないかという。
与那嶺幸信氏をはじめ金城福栄、与那嶺喜信、喜屋武光五郎、上間人正、上間源松、与那嶺幸三など写真に登場する各氏一人ひとり、戦後間もない頃豊年祭でシマを盛り上げてきた。踊りや劇、三味線や太鼓の音、踊り手のしぐさや表情に拍手を送った方々は45年の歳月が経った今でも胸をときめかし話題にしている。
69.与那嶺の製糖工場の建築(昭和30年)
今帰仁村内のあちらこちらに白穂のゆれる砂糖キビ畑が見え、1月から2月にかけて収穫の時期である。刈り出された砂糖キビの山が、畑や道路の側に積まれているのを見かけるが、村内の砂糖キビの生産はいささか元気がない。農家が砂糖キビを盛んに植え付けていた時代、各字にサーターヤーがいくつもあった。与那嶺には『与那嶺誌』によると九ヶ所にあったという。
与那嶺のサーターヤーの名にシリンバーリ(後原)・トゥキル(渡喜留)・メンバーリ(前原)・ウイボロ(上原)などサーターヤーの所在する地名をつけている。ヤマチサーターヤーは姓で山内一門で経営していた。原料となる砂糖キビの汁を絞りだすのに馬や牛を使ってサーター車(圧搾器)を回していた。
1662年に砂糖奉行が設置され、その頃二本の円柱をたて牛や馬に引かせ回転させ圧搾する方法をとっていた。1671年には三転子法が発明され圧搾の歩留まりが二、三割になった。1860年なると石製の圧搾器が出現し歩留りが三割から三割五分程度まで伸び木製の三転子式よりさらんにアップした。そのため石製の圧搾器は王府によって保護され各地に普及した。明治15年には三本の鉄製の圧搾器が発明され導入されると、砂糖キビの圧搾率は一段と伸びた。このように、木製・石製・鉄製と発達していった。
昭和14年与那嶺では字内に散在していたサーターヤーを統合し、エンジン動力を持つ製糖工場に変わった。戦時体制という社会事情によって、昭和18年に現在の今帰仁中学校敷地に今帰仁村全体の製糖工場が建設され。そこに搬入した。工場は昭和19年の十・十空襲で爆撃され破壊した。
さて、写真のサーターヤーは昭和30年与那嶺の当原に建築された製糖工場である。昭和29年4月に共同製糖工場建設について審議され、満場一致で賛成を得ている。字あげての大事業だとみえ、1月15日に製糖工場の落成式を行っている。三十馬力の工場であった。真新しい瓦屋根と互い違いに積まれたブロックの壁、そして瓦を乗せた垂木が目につく。建築が一段落したところだろうか。建物の前に28名、屋根の上に15名が記念写真におさまっている。
当原に製糖工場ができると与那嶺の砂糖キビは馬車で運搬された。謝名の松田という方が機械を動かしていた。製糖工場には製材所があり、隣接する字なども木材を運び製材をしたという。昭和35年10月に製糖工場は解散し、北部製糖工場に合併された。
王府時代の砂糖キビ植付け制限や貢糖制度、明治35年頃の砂糖消費税、世界経済の中の価格の暴落など、砂糖キビ作付農家を直撃した。糖業の製造技術の発展とは裏腹に生産の減退や意欲を失わせる現実が度々あった。製糖工場を建設している最中、島の方々は5年後に合併されるとは予想していなかっただろう。工場の跡地には、今でもコンクリートタンクが何も語らずして残っている。
70、今泊の「招き松」(樹齢約200年)
今帰仁村は仲原馬場をはじめ宿道(スクミチ)沿いの所どころに琉球松の並木を見ることができる。近年、松食い虫の被害で急速に松の大木が枯れつつある。村内で松の大木の並木が見られるのは謝名の国道沿いや診療所の南側、崎山の神ハサギ一帯、平敷の御願所,渡喜仁から運天公民館に至る道路沿い、上運天の拝所、玉城の御願所一帯などである。北山高等学校の校門近くにあった大きな松は昨年枯れてしまった。今に残る松並木は琉球王府の政策によって植付けられたものと見られ、よく「蔡温松」と呼ばれる。
大木の松並木が蔡温松と呼ばれる所以は、十八世紀中頃蔡温が杣山法式帳や山奉行規模帳など林政に関する法を次々と成立させ、積極的に山林政策をすすめた。蔡温の事業の結果として松の大木の並松(ナンマチ)が残り、その偉業をたたえ命名したものである。山林は山奉行・地頭代・惣山当・山当などが管理し、農民によって保護されてきた。「今帰仁間切各村内法」で松の管理について次のように規定してある。
第29条 山野境へ小松植付方間賦ノ通入念植付けさせ候様下知方ノ事
第30条 村抱護松苗植付ヘキ所ハ気ヲ付毎年十一月中ニ植付ケサセ候事
第31条 山野松御仕立ノ儀年賦ノ通苗松植付種子蒔入候事
第32条 松苗ノ儀年毎年寒露ノ節取調候様下知ノ事
今帰仁ヌンドゥルチ(仲尾次家)の東側の丘はヌンドゥルチモーと呼ばれ、そこには枝ぶりのよい大きな松があった(写真)。スクミチ(現在の国道)側に何本も枝を伸ばし、それが人を招いている姿に見えるため、シマの方々は「招き松」と呼び、親しんできた。
その「招き松」は松食い虫で枯れてしまったので、平成4年12月に切り倒し、平敷のジニンサガーラの下流で二年間水にひたし、川から引き上げて輪切りにし、さらに化粧をして文化センターのエントランスホールに展示してある。直径一メートル余りあり、樹齢約200年である。樹齢からすると蔡温が林政の法を制定してから50年後に植えられた計算になる。
招き松は、すぐ下を通るスクミチを今帰仁城へ,あるいは本部と今帰仁を行き交う車や人々の動きを200年近く見続けてきた。樹齢を数えると、一つひとつの樹齢に200年の歴史が刻み込まれている。