写真にみる今帰仁 4                  トップ(もくじ)



    (もくじ)(31~40)
 31.阿応理屋恵按司ノロと今帰仁ノロの遺品
 32.平敷の掟田原での「献穀田御田植式」(平敷)
 33.明治34年の今帰仁校と兼次校
 34.明治34年頃の天底校と古宇利校
 35.与那嶺の旧公民館
 36.昭和十二年頃の仲尾次の人々
 37.運天港付近の古い墓(昭和十年頃) 
 38.今泊のハサギングヮー 
 39.運天のトンネル
 40.兼次校の学校林と開墾 


31.阿応理屋恵按司ノロと今帰仁ノロの遺品

 今帰仁村は、現在19の字(アザ)からなり、字の一つひとつはムラあるいはシマと呼ばれたりする。ムラやシマには祭祀があり、その祭祀をつかさどる神人に巫(ノロ)がいる。1713年に編集された『琉球国由来記』の今帰仁間切におけるノロは、次の8名である。

  ・阿応理屋恵按司巫   ・今帰仁巫    ・トモノカネ巫   ・仲尾次(中城)巫 
  ・玉城巫   ・岸本巫  ・勢理客(島センク)巫   ・郡(古宇利)巫

 阿応理屋恵按司巫とトモノカネ巫を除く六名のノロは、それぞれ管轄する村(ムラ)の祭祀をつかさどる。その伝統は、ムラ・シマの新設や合併や分割などで、いくらか変化を見せるが、大方現在まで継承され続けている。今回は、これまでと大分趣を異にするが、今泊の阿応理屋恵(オーレー)按司巫と今帰仁巫の遺品を写真で一部紹介することにする。

   両ノロの遺品については、『沖縄県国頭郡志』(大正8年頃)の口絵で紹介してある。それには、今泊の阿応理屋恵(オーレー)按司巫の曲玉一連と水晶玉一連、それに草履である。今帰仁のろくむい(巫)のは、曲玉一連と簪(カンザシ)が写し出されている。大正8年頃に写されたそれぞれ五点の遺品は戦争をくぐりぬけ、一部失ったり破損したりしているものの現在に至るまで大切に遺されている。一枚目の写真の曲玉は阿応理屋恵(オーレー)按司巫の遺品の一つで、現在曲玉大一個、小二十一個、水晶玉三十個で一連をなしている。また、水晶玉八十個で一連をなしたのもある。

 二枚目の写真は、ほどけてしまった草履である。大正8年頃の写真では、草履の形をしっかりなしているが、今では写真のようにほどけてしまった状態になっている。

 三枚目の写真は、今帰仁巫(ノロ)の青黒色の曲玉一個と水晶玉九十四個で一連をなしたものと金色の簪(カンザシ)一本である。今帰仁巫の曲玉と簪は、ムラの城ウイミ(旧暦の8月10日)の祭祀の時にノロの代理が持参する。

 ムラ・シマの祭祀の多くが、神人の後継者がなく振り向かれなくなりつつある。しかし、根強く残っている祭祀は神人によって支えられてきたものである。ノロの遺品が輝いているように、ノロ家そのものが様々な歴史を刻みながら代々継承され続けきた。





32.平敷の掟田原での「献穀田御田植式」(平敷)

  昭和10年3月14日、今帰仁村字平敷の掟田原の水田で行われた「献穀田御田植式」の記念写真である。この式は、沖縄では昭和5年から行われたようで、当時の大阪朝日新聞の記事は「新嘗祭に本県より供進すべき献穀田の田植式は従来行はれてゐなかったが、本年より執行することになり、五日午後一時より国頭郡羽地村字源河・・・・」と掲載し、昭和19年まで毎年各地で行われていた。昭和18年の奉献の品々は、玄米六斗(島尻、中頭、国頭郡各二斗づつ)粟六斗(同じく二升づつ)海産物三種類(宮古郡)であった(【朝日新聞】・昭和18年)。

  今帰仁村における「沖縄の献穀田御田植式」は、昭和10年の【大阪朝日新聞】2月19日に掲載されている。その記事の内容は「沖縄県における十年度新嘗祭献穀田御田植式は来る三月十四日国頭郡今帰仁村字平敷九七五番地の田百坪で盛大に行はれるが早乙女は選り抜きの處女二十名を選ぶことになってゐる」となっている。写真の場面は、掟田原にあった献穀田(ジニンサガーラの給油所の南方)の近くに会場を設営し、そこで撮影したものである。村中から選ばれた乙女たちを中心に、県あるいは村役場、村や字の有志、そして学校の先生方などが勢揃いし、県あるいは村あげての行事であった。

乙女たちは、たすきに帯をしめ、ムンジュルガサを前に置いての撮影である。四方に岳竹をたて、わら縄を張りめぐらせ、その内側が会場である。後方には、ソテツがあり松の大木もみられる。乙女の中には、平敷の山城ハナさん、上間ハナさん、上間マサさん、外間マカトさん(前列右四番目)、与那嶺ハナコさんなど十九名の姿が見える。新聞記事で20名の乙女を選出するとあるが、平敷からは五名が選ばれ、他の字より人数が多い。地元平敷で行なわれたので優先されたようである。

 式典後、献穀田で田植式を行なった。田植え歌に合わせて一糸乱れず整然と田植えが行なわれたが、式に臨み一か月くらい訓練をうけたという。右の一番目が仲松弥盛先生、二番目が名嘉真ヨ子先生、後列の左から4番目が石嶺光京氏、後列右から六番目が仲里氏の姿もある。当時の村長は玉城幸五郎氏の時代である。昭和10年に献穀田の田植えが行われた掟田原は、原名の示す通り宿道(すくみち)の北側の前田原と並んで水田地帯であった。新鮮な水が湧き出ていたので県から指定された。今では土地改良がなされ砂糖キビやキクなどが栽培される畑となっている。

  写真に写っている大きな松は、真ん中にあったが老衰して切り倒された。掟田原の東側には松の大木がまだ残っており、かつての面影がわずかながら忍ばれる。「田植え後の草取りや刈り入れ、そして脱穀なども乙女達が行った」という(『恩納村誌』)。穀米選別は一粒づつ竹箸で選別し、米一升を白木の箱につめて献上されたという。

  平敷での田植式を見学した平敷の大城喜英さん(平敷1052番地、大正10年生)は「田の回りは大勢の人達で、子供であった私は、大人の間からのぞき見するしかできなかった」と当時をふり返り、また「そういう行事もあったことも忘れてはならない」と写真の提供をくださった。その時の米の出来は「いつもは上出来する田であるが、化学肥料を入れ過ぎて実りはよくなかった」という。


33.明治34年の今帰仁校と兼次校

 今帰仁村に公立の学校ができたのは明治15年である。『今帰仁小学校沿革誌』に、「明治十五年六月二十三日、謝名仲原三十五番地に旧村学校の建設を利用して、今帰仁小学校が創設された。初代校長は柴田藤四郎(長崎県出身)、生徒数五十人、経費七九〇円」と、当時の様子が記してある。今帰仁に公立学校ができる一年前、二代目の県令上杉茂憲が沖縄本島を巡回し今帰仁間切(村)も訪れている。上杉県令と間切役人との間で問答があり、その中で学校教育について間切役人は「・・・・・・役所はここ運天にありますが、本間切の中央は謝名村でありますので、そこに新築する予定であります」と答えている。学校を創設したものの、数年は村学校跡を利用したようである。

 今帰仁小学校は明治21年に兼次の北屋敷原に移転し、その時校舎を新築した。学校名も今帰仁尋常小学校と改められた。兼次に移転した今帰仁尋常小学校は、明治31年に現在地(元は謝名であったが現在は越地)に移転した。その時高等科を併設したので今帰仁尋常小学校と改称された。

 上の写真は、明治34年頃で今帰仁尋常小学校が現在地に移転して間もない頃である。明治三十年頃から、校長であった後藤猪六は、学校創設を郡長の朝武士城に働きかけた。しかし、なかなか聞き入れなかったので、村ぐるみの運動を起こし陳情した。また、後藤は校舎を新式にするため、設計を直接文部省に依頼した。校舎の半分は、その設計を考慮し新築され、明治32年に完成した。ところが、校長の後藤は手続きを経ず勝手に文部省に設計を依頼したことが越権行為であるとのことで、同年12月に郡視学を命じられ名護に転勤した。その校舎建設には、今帰仁産の杉材が使われ、木材の切り出した建設に多くの村民の協力があった(『今帰仁小学校五十周年記念誌』)。移転して間もない松に囲まれた今帰仁尋常小学校の校舎は、そのような動きがあって創設されたのである。

 二枚目の写真は、兼次尋常小学校である。明治32年に今帰仁校が謝名(現在の越地)に移転すると、旧敷地に兼次尋常小学校が創設された。その当時の兼次校の学区は、今帰仁村・親泊村・兼次村・諸喜田村・志慶真村の5か村(現在の字)であった。

 写真が撮影されたのは明治34年頃なので旧敷地の校舎のようである。瓦屋根と板壁、それに玄関のある校舎は公共施設にふさわしい風格をみせている。この写真撮影のため、校舎の前に勢揃いしているのは全校生徒と職員なのだろう。明治41年に義務教育の年限が六歳と延長され、与那嶺と仲尾次が今帰仁校区から兼次校区に編入された。翌年の42年、現在敷地(親泊番地)に校舎を新設し移転した。

 明治二枚の写真をみていると、学校の移り変わりは今帰仁の人々の歴史の一面をえがいているような気がする。


34.明治34年頃の天底校と古宇利校

 


35.与那嶺の旧公民館

 与那嶺の旧公民館は、与那嶺の集落の中心部に近いところに位置する。1959(昭和34)年に建てられた与那嶺の公民館は、34年間字の方々に利用されてきたが、今年の3月に取り壊されて、新しい公民館(与那嶺構造改善センター)が建設されている。セメント瓦屋根の公民館で今も使われているのは、今帰仁村で兼次だけになってしまった。 

 写真の公民館は、1959(昭和34)年に建てられたものである。建築から完成まで、屋敷御願→手斧立て祝い→柱建て→棟上げ→屋根葺き→家移り→落成祝などの儀礼があり、写真の場面は屋根の前方のタルキ(垂木)がほぼ打たれ、ちょうど棟上げ式が行われたところである。壁はコンクリートブロックが積まれ、カンナがかけられたばかりの杉の柱が目につく。屋根には鉢巻きをした大工が三、四人、壁に釘打ちをしているのが一人、そして下の方に右から仲宗根松堅氏(大工、二番頭)・与那嶺盛永氏(大工・棟梁)・西島正男氏(区長)の三人の姿がある。

 屋根の棟木には、飾り旗がなびき、他に二本の柱が立てられている。その時、棟木に打ちつけられた棟札には1959年3月17日、さらに「紫微鑿駕」と墨書きされている(与那嶺盛永氏書)。その裏には、当時の区長西島正男氏をはじめ、園芸組合長玉城敏夫、村議員与那嶺雄一、責任者大城久信・与那嶺盛永・仲宗根松堅・内間博一、金城真松・上間源一・親川松栄・山内昌俊・玉城秋男・崎山喜順・親川悟・島田肇・与那嶺幸男・与那嶺善正・我那覇宗敏・松田林太郎・金城金栄・与那嶺幸一の各氏の名前が記録されている。図面の仕様には、構造はコンクリートブロック造、平家セメント瓦葺・床コンクリート一部板張・建坪五十坪となっている。また、木材はすべて日本杉の一等材を使うことになっている。

 今帰仁村内の公民館は、昭和30年代にこのタイプの瓦屋根のものが数多くつくられた。戦後の間もない頃の茅葺き屋根の公民館から、昭和30年代の高度成長経済時代にはこのような瓦屋根の公民館がつくられ、公民館のつくりの変遷をみるとムラ・シマの人々の歴史が重なってくる。

 ムラヤーと呼ばれる与那嶺の木造の旧公民館は、鉄筋コンクリートの建物へ、そして名称を与那嶺構造改善センターとかえ平成5年6月には完成の予定である。ムラ・シマの拠点となる公民館は新しい歴史を刻み込んでいく。



36.昭和十二年頃の仲尾次の人々

 ムラ・シマに人が住み、そこに人々の営みがある。今帰仁のムラ・シマに視線を向けたとき、そこに生を受けた人々の個々の人生(歴史)をたどりたくなる。同時に、一人ひとりを歴史の場面に登場させることができないだろうかと、つい思いがめぐる。ムラ・シマにおけるこのような記念(記録)写真にであうと、一人ひとりの名前が知りたくなり早速仲尾次へ。仲尾次の字誌の編集委員長の山内昌雄さんと準備室の石野と一緒に渡名喜長栄さん、カメさん宅を訪ねた。

 ここに掲げた写真は、昭和12年の仲尾次の公民館の東側での場面である。公民館の東をほぼ南北に走る道がある。その途中、公民館の方向へ通じるワイトゥイの道があったが、その入口での撮影である。現在は、公民館(仲尾次構造改善センター)への階段となっている。ワイトゥイは、昭和二九年頃、公民館(ムラヤー)とハサギの立て替えで埋められた場所である。

 撮影された日は、昭和12年の消防団の発会式であったという。ワイトゥイの入口にはソテツの葉でアーチがつくられ日の丸の小旗が数多くさしてある。また、二本の竹竿には垂幕がつるされ、それには「・・・・・健・・・・・」と記された一字が見える。消防団の発会式は字(アザ)にとって大きな行事の一つであった。

 後方には、国防服を着た男性の姿や自転車が見える。昭和12年当時、「仲尾次で国防福を着たり自転車が買えた家は数える程で、男性は喜屋武栄長さんではないか」と渡名喜長栄さんの談。そろそろ、今帰仁でも自転車が走り国防服を着るようになり、戦争への波が押し寄せてきた時代である。このような時代に生きた仲尾次の婦人や子供たちの名前を渡名喜カメさんから聞くことができた。

 婦人方の服装は琉装と和装があり、洋装はみられない。前列の琉装の婦人の着物の柄は、絣や格子などの模様である。二列目の和装の婦人たちは帯びをしめ、羽織、髪を大和ふうに結っている。その姿は、きっと当時モダンに映ったでしょう。

 琉装をし、カンプーを結っているのは、城間エリ子・喜屋武ハナ・城間ハナ・山城カマダ・山城シゲ・与那嶺タマ・上間カマダ・島袋ウタ・山城タマ・渡名喜マツ・高江洲ハナさんなどである。前列の多くの方々がゲタを履いている。和装をしているのは、上間シイズエ・渡名喜マツ・大城マツ・城間ハナ・上間ハナ・山内ツネ・上間ツル・山城ハナ子・島袋ハナさんなど、若い頃の元気な姿が見える。

 五十年余りたった今、健在な方、そして戦争で命を失った方、戦争をくぐりぬけ、戦後亡くなった方など様々である。一人ひとりが個々の歴史を刻んできた。カンボジアでの死者のニュースが報道されている昨今、この写真の時代の動きと重なり、重々しく伝わってくる。

 ムラ・シマでは人々の時代が次々と引き継がれ、またムラ・シマの歴史も一つひとつ刻まれ続けている。写真の撮影場所も大きく変化したが、僅かながら50年前にもあった松や崖にはった木の根などに当時の面影が偲ばれる。


37.運天港付近の古い墓(昭和十年頃) 

 運天港の周辺には大北(ウーニシ)墓や百按司墓など、歴史的によく知られた墓がある。それとは別に、崖の下や中腹に無名の古い墓が群れをなしている。それたの墓にどのような人達がいつ葬られたのか、素姓は今だ定かではない。

 これまで運天港付近の無名の古墓として扱ってきたのであるが、これら古墓はいくつかのタイプに分けることができるが、ここでは大きく二つに分ける。一つは崖を掘り抜き、そこに家型の建物をつくり、その中に木棺や甕を納めるタイプである。

紹介するの三枚の写真は『琉球建築大観』所収で、昭和9年から10年にかけての運天の墓の状況である。

一枚目の写真は、崖の中腹にある写真である。右側の墓は前面に材木で枠をつくり、それにザフンと呼ばれる板でふさいでいる。その中に、木棺が入っている。木棺からこぼれた人骨は、墓室内に散在したままである。現在、この墓は新たに板でふさいである。左側の墓も崖の中腹に作られ、崖に横穴を掘り、そこにザフンを使って家型の建物を作ってある。さらに、その中に人骨が入った木棺や甕などが納められている。また、墓室の中には竹籠を編んだような入れ物があり(現在押しつぶされている)、それに人骨が納められた形跡がある。家型の墓の正面の中央部に墓口があり開くようになっている。この墓の特色は、崖の中腹に横穴を掘り、そこに家型の建物をつくり、その中に甕や木棺を入れる形である。

 二枚目の写真も、上の写真同様崖の中腹を掘り込んで作られた墓である。中央部の墓口は丸太を使い板戸にでもなっていたのか、開いたままになっている。墓口に香炉が置かれ、左右は竹で編んだチニブでふさぎ、墓室内に甕が置かれている。

三枚目は、崖の中腹にある四つの墓である。写真の右側からチニブでふさいだ墓、木の板でふさいだ墓、三番目は石積み。そして、一番左側の墓はチニブかカヤでふさがれているように見える。

運天港付近の崖中腹の墓の外観を見たのであるが、当時の死者をどのように葬ったのか定かではない。しかし、洗骨をし、木棺あるいは甕などに人骨を納め、木の板やチニブでふさいだ墓、あるいは家型の墓の中の木棺、あるいは甕に葬っている。

これらの墓を調査をし、解明していくべきであるが、その多くが未調査のままコンクリートで閉じられている。


38.今泊のハサギングヮー 

今泊は今帰仁城下の字(アザ)である。その今泊にフプハサギとハサギンクヮーと呼ばれる二つの神ハサギがある。この神ハサギのことを崎山から今泊にいたるイリンシマ(西のシマ)ではハサギと呼び、、平敷から東のアガリンシマ(東のシマ)ではアサギと呼んでいる。これらのハサギはムラ・シマの祭祀と切り離すことのできない重要な場である。

今回紹介する今泊のハサギンクヮーは今泊の今帰仁側のハサギで、もう一つのフプハサギは親泊のハサギである。今泊は明治36年に今帰仁村と親泊村が合併して今泊となった村である。その後分離し、昭和47年に再び合併するといった歴史をもつ。合併・分離・合併という歴史を持つムラ・シマであるが、ハサギは一つに統合されることなく現在にいたっている。

左の写真は『琉球宗教史の研究』(鳥越憲三郎、昭和40年発行)の口絵に掲載されたもの。その頃ハサギンクヮーは、茅葺き屋根の建物であった。建物のまわりに広場があり、一本の大きなコバテイイシ(クヮーディーサー)がある。『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁村(ムラ)に「今帰仁城内神アシアゲ」と「安次嶺神アシアゲ」があり、安次嶺アシアゲがハサギンクヮーとみられる。安次嶺アシアゲは今帰仁間切に居住した安次嶺按司に由来すると見られる。親泊村に「親泊神アシアゲ」があり今帰仁ノロの管轄である。

右の写真は、平成元年撮影のハサギンクヮーである。昭和40年代に茅葺き屋根から瓦葺に葺き替えられた。神ハサギの中に香炉があり、北側に置かれている。

ハサギンクヮーで行われている祭祀に、シマウイミ(旧盆明けの子の日)・シマウイミ(旧8月12日)・プトゥチ御願(新12月24日)がある。現在行われているこれらの祭祀は、親泊側にあるフプハサギでも行われ、神人はハサギンクヮーと同じメンバーである。ムラ・シマにおける神行事は、神人と字の区長など僅かな人たちで行われ。ムラ人の参加は少ない。

親泊側のハサギがフプハサギで今帰仁側がハサギンクヮーと呼ばれている。フプハサギは大きなハサギや元のハサギ、ハサギンクヮーは小さなハサギ、あるいは分かれたハサギを意味するのであろう。するとハサギンクヮーはフプハサギからの分かれという意味合いがある。ハサギの名称をつけたとき、今帰仁村(ムラ)は古い時代に親泊村(ムラ)からの分かれであるとの認識があったとも考えられる。もう一つは、今帰仁村が17世紀前半に今帰仁城付近から親泊村の側に移動してきたことに起因している可能性もある。

茅葺き屋根のハサギンクヮーの写真やハサギの呼び方からムラ・シマの歴史を読みとっていけそうである。



39.運天のトンネル

今帰仁村の東部に字運天があり、そこに運天港がある。運天港は自然の良港で、源朝為公の上陸伝説、あるいは百按司墓や大北墓など歴史的な墓、近世から明治・大正時代にかけての番所(役場)などがあり、いろいろなことで知られた港である。その運天港の出入り口は、トンネルになっている。

一枚目の写真に見えるようにトンネル出入り口の上には、「運天隧道 大正十三年十一月竣工」と彫られ、トンネル開通のスタートが明記されている。トンネルが掘られる以前は、丘陵地のきつい坂道を上り下りし、物の運搬をしていたという。当時、沖縄本島には運天隧道の他に国頭村の座津武隧道と大国隧道が開通していた。運天のトンネルの長さは、約八間(約14.4m)、幅が約三間(約5.4m)である。トンネルの出入り口部分の壁は、崩れ落ちないようにコンクリートで固めてあり、崩壊した部分もあるが当時のコンクリートが現在でも残っている。今帰仁村でコンクリートが使われ出して間もない頃だった。トンネルを開鑿するのに、まだ機械が使える時代ではなかったため、ツルハシや荷車など人力で工事がなされたという。

 これまで丘陵地の急な坂道を運搬していたのが、トンネルの開通で馬車や車が運天港のムラウチ集落まで行けるようになり、物の運搬が大変便利になったという。運天港には昭和五年まで役場(番所)があり、今帰仁村(間切)の行政の中心地で、米や砂糖などの租税の集積地であった。

 これだけではなく、二枚目の写真に見るように、トンネルはムラ人たちの田畑などに行く生活道路でもあった。ムンジュル笠をかぶりバーキを背負い、畑仕事でもしてきたのであろうか。トンネルのことを「隧道」と漢字で記したり、ムラウチに向かっている婦人の姿などに、イモを主食にした時代、あるいは裸足の時代が浮かんでくる。

運天のトンネルの開鑿は、郡(朝武士勧干城郡長時代)によって大正四年度から十年計画で進められた郡道整備の延長にあったとみられる。山原での車が走り出した時代で、それまでの荷車や馬車が通る狭い道から車が通れるように道路が広げられ整備されていった。車が今帰仁へおも往来するようになると、役場のあった運天港への道を整備する必要性に迫られたのであろう。そのことが、隧道の開鑿につながったとみられる。郡道の整備事業は、これまでの海上交通から陸上交通へ転換期であった。そのことは、運天にあった今帰仁村役場が中央の仲宗根へ移転する大きな要因となった。昭和五五年に運天港から上運天の浮田港(運天新港)をつなぐ臨海道路が開通した。その後、これまで使われていたトンネルを通るバス路線は変更され、臨海道路を通るようになった。

 トンネルを通る道は、かつて役場への主要道路であったが、主にムラウチ集落や港をつなぐ道路として利用された。さらに、臨海道路の開通やバス路線の変更で、トンネルを通る道は産業道路としての機能は低下したがムラの生活道路として使われている。運天のトンネルの写真をみていると、今帰仁村の小さな港をもつ運天であるが、トンネルの開通や臨海道路、海上交通から陸上交通へと波のごとく移り変わっていく。その中にあって、ムラ・シマに生きる一人ひとりを記録していく作業の必要性を痛感する。


40.兼次校の学校林と開墾 

 兼次校の学校林、それは兼次の山手、ソージマタからさらに行った兼次と諸志にまたがる猪之平原にある。サガヤーと呼ばれ、学校の創立当時から楠木が植えられ学校林として管理されてきた。

 戦争で学校の校舎が四教室を除いてほとんど焼かれてしまい(『今帰仁村史』)、テント張りの仮校舎を建てて授業を行った。その後、教室を建てるために学校林から楠木を切り出し茅葺き校舎の柱に使った。その跡地を開墾し、水田とパイン畑にした。二枚の写真(山内昌雄先生提供)は山を開墾し、水田にした昭和三三年頃の状況をカメラに収めたものである。戦後、間もない物の少ない時代、雨が降り畑がウリーするとカズラの植付けの手伝いのため「今日は農民祭だ」といって学校が休みになったという。

 一枚目の写真は、植木を切り倒して開墾をし畑になる直前の様子である。長ズボンに長袖姿、中には学生帽をかぶった男子学生の一団の作業風景である。あちこちに木の根を掘り起こしている最中である。木は切り出されているが、まだ耕されていない。そこに、パインが植えつけられ、二年後から収穫できたという。

 パインの苗は伊豆味から手に入れ、今帰仁村の西部でパイン栽培が最も早かったという。北部農林の教頭の岸本本秀先生に見てもらったら「果樹やパインによく適する」とのひょうかであった。

 下の写真は、サガヤーの平担部を耕し水田にした風景である。一列に並んで田植をしているのは女学生で、ほとんどがスカート姿である。急きょ田植え作業に駆り出されたのか、中にはセーラー姿のまま田んぼに入っている。苗は羽地の真喜屋から持ってきたものである。

 植木林から水田に切り換えられたばかりで、田の中に楠木の大木の切り株がまだ残っているのが見える。名護の木工所の人が一メートル余りの楠木の切り株でテーブルの台を作ったという。畦に立って指揮しているのは、当時の校長玉城精喜先生(明治40年生)である。

 先生は「これは学校林よ。校長していてよ。戦後直後だね。食う物がないでしょ。学校はまた、教科書といってもないし、なにもないわけ。だから、食べるための増産、それが一番みんなの大事なことだった。勤労増産といって生徒や職員もつれていったよ。学校林は学校創立当時から植えてあって、毎年一回手入れをし本数を数えていたよ。山に行くためには弁当をもっていったので楽しかったよ。戦争当時には楠木の大きな木下に本部や伊江島の人たちが避難し、生活していたよ。戦後、学校を建てるために木を切り出した。山が荒れて手がつけられないので開墾して果樹をを植えてみようとのことであったが、米の値段が高かったので米を植えて中部あたりに売って学校の費用に充てた。開墾ばかりさせて、生徒に勉強させないでと怒られもしたよ」と述懐される。

 学校林の開墾や田植えに駆り出された当時の生徒や先生方は30年余りたった今、写真を手に当時の出来事や思い出を語ってくれる。