戦前の社会の流れと平成の時代 トップへ
「一軍人の仲原馬場での村葬と墓」(平成3年)として紹介したことがある。昭和10年頃、当時の児童生徒が「兵隊さんの見送り」や「村葬」に参加した生徒の作文があるので紹介。そこには国の政策や指導者の方針や方向を児童生徒の言葉が如実に反映している。戦前の昭和の時代の流れと、平成の国の流れが重なってくる。その行き着くところは戦争である。それは絶対に避けなければならない。
【兵隊さんの見送り】(尋常高等2年 男 Y.K)(昭和12年)
この間から北支事変が起り、我々日本人にとってはこの上ない非常時となっている。この事変に際して、我が村からも八十余名の予備後備兵が今日当地を出発することとなった。
朝飯を食べると沢山の生徒と先生が整列をして東の方へ行くので、僕も急いで旗を作り、洋服を着けて門を出た。仲尾次部落の東端の陰で全部が止まった。しばらく自由に遊んでいると校長先生がこう言われた。「ほんとうは全部大井川まで行って、兵隊さんの見送りをしてあげねばならないが、沢山行っては困るから、高等二年だけ行くことにして、外の人はこちらで見送りをします」とおっしゃった。大山先生の指揮によって整列をし番号をかけ前進した。
行く行くいろいろな戦争の話を先生から聞いて面白かった。間もなく大井川に着いた。町の方までくると沢山の父兄が黒山のように集まってワイワイさわいで、まるで何かの見物でもしているようだ。大勢の中をくぐって、よく見ると如何にも勇敢な姿をした軍人が、テーブルを前にし、腰掛に腰を下ろしている。あヽこの方々が今日出発する我村の軍人だと分り、頭の先から足の先まで順々に見廻した。なかには三十五、六にもなろうと思われる顔にはシワのよった人もいる。
有志の方々や先生及び親族、朋友関係のある人々が涙を流しつつ別杯をあげて皆このめでたい出陣を祝っている。僕等もこの様を見て、今にも涙がでそうであった。出征軍人も無論今更家を顧み親を慕うのではないが生きて再び帰らぬ決心があればある程、これが親子兄弟、今生の見納めかと思えば暗涙の浮かぶのを禁じ得なかったであろう。
「全体気をつけー、半ば右向け右」そして、はるかに大君のいます東の空を拝んだ。それから村長さんをはじめ、五人の方々のお話があった。大体「汝は汝にして汝にあらず、陛下の御為進んで難に赴け、未練なるふるまいをし家名をけがすな」と戒めの言葉であった。老いも若きも手に手に国旗をふりかざし、天地もとどろくばかりに万歳三唱して皆このめでたい出陣を祝った。
【宮里伍長の村葬】(尋常高等2年 男 Y・S)
北支保定の戦争に於いて名誉の戦死をとげられた陸軍歩兵伍長宮里喜進さんの村葬は、あの人の母校である我が校の校庭で昭和十二年十一月四日に行われた。
その時に参列された方々は県知事代理をはじめ司令部の方、隣村の方々、それから村民総出の盛大な事であった。式は炎熱の下で二時間も続いた。
祭壇には喜進さんのお写真が生きて居られる様な顔付でおかれている。涙にくれた遺族の方がしずかに御焼香をするのを見た時は自然と頭が下がって顔が熱くなるような気持ちでした。
弔旗を先頭に約五千人位の人々が学校からお墓まで続いた。この光景を飛行機で見たらたくさんの蟻の行列にでも似ていただろう。私はこんな盛大なお葬式は生まれてから、まだ一度も見た事がなかった。
(工事中)
一軍人の仲原馬場での村葬と墓 (平成3年3月)
この写真は昭和13年11月7日、仲原馬場で行なわれた一軍人の村葬の場面である。乙羽山の遠景がみえることから、祭壇のある場所は仲原馬場中央部の南側と見られる。石段の上にテント屋根の祭壇がつくられ、祭壇の中央部に写真がかざられ、下の段には果物が供えられている。祭壇の横には「村葬の式次第」が張られ、また両側には長い竹竿にノボリが20本余り数えることができる。 前方の看板には、兼次校・婦人会・字民・今帰仁校などとあり、村民あげて葬儀を行なったことがわかる。丸刈りの少年や大日本国防婦人会のたすき掛けの婦人の姿などがみえ、写真の左側には団体旗とみられる旗と、帽子に詰襟の制服姿がみられる。
戦時体制下の波が山原の隅々にまで行きわたり、一軍人の葬儀以上に全体を流れる軍事一色の不気味さが漂ってくる。大日本国防婦人会は昭和17年に愛国婦人会や大日本連
合婦人会などとともに大日本婦人会沖縄支部に統合された。婦人たちも映画会や講演会を開いたり、戦没者の報告や出征軍人の送迎から慰問品などの発送などの活動をした。また、生産の増強や貯蓄を積極的にするなど挙国一致運動を進めたりした(『沖縄近代史辞典』)。大日本国防婦人会のメンバーが、仲原馬場での行なわれた一軍人の村葬へ列席したり遺族に物品を贈るなどの活動をしたのである。
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・昭和6年 満州事変を引き起こす。
・昭和12年 日華事変となる。
・昭和13年 国家総動員法を公布する。
・昭和15年 大政翼賛成会が発足する。
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このような時代の流れの中で、昭和13年に仲原馬場で行なわれた一軍人の村葬は単なる一軍人の葬儀ではなく、戦時下に組み込まれていった一時代を写しだしているのである。下の写真は、村葬を行なった一軍人である湧川高一の墓を造っている最中である。ピータイ(兵隊)墓とも呼ばれ、今帰仁村で外地で戦死した三人目が湧川高一であったという。その墓の前を通るときによく敬礼させられたという。その墓は今でも謝名のトーヌカ付近にある。
墓を造っている中に右手後方の棒を持っているのが湧川喜正(故人)、諸喜田平吉(故人)兼次吉正(故人)、玉城徳助、大城善盛、湧川高信(故人)、幸地良徳(故人)、玉城権五郎(故人)、湧川喜福(故人)、大城文五郎(故人)などの顔ぶれが見られる。当時の墓づくりの道具の一端を写真にみることができる。バキに綱を通して二人で担ぐ、すでにセメントが出ている、スコップや三つ歯や一枚歯のクワなどがみられる。そのような道具で、当時としてはりっぱな墓を造っている。服装は個々まちまちで、年配の方々が着物、若者たちはズボンでほとんどが裸足である。モダンな帽子をかぶった方、ねじり八巻をした方、タオルをかぶった方など様々である。
昭和13年頃の仲原馬場の松並木、この写真と比較してもわかるとおり、今では大木の松の数が少なくなっしまった。仲原馬場は、ある時代にあってはアブシバレーの会場であったり、そこで競馬をしたり、運動会をしたり様々な催物の会場になった所である。写真のように一軍人の葬儀の場としても利用された。イラン戦争が勃発している最中、仲原馬場の松はイヤな気持で世界の状況をながめているような気がする。