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2004年10月22日(金)
恩納村塩屋をゆく。研修会が終わると、会場からさらに南に下り恩納村塩屋までゆく。塩屋がどんな歴史を持つムラな十分把握しているわけではない。複雑な歴史を持っていたような印象。そのことは、後で整理するとして、まずは集落にはいてみた。神アサギはすぐ見つけることができたのであるが、集落の様子がよくつかめない。それで高台の方から集落をみることに。
集落が見下ろせる高台にいくと赤瓦屋根の祠があり、後に確認したことであるが、祠のある一帯は御嶽だという。島守之嶽(シマムイヌウタキ)だという。ウタキから神アサギが下方に見ることができる。
1673年に金武間切と読谷山間切を分割して恩納間切を創設した。塩屋あたりは、1673年以前は読谷山間切の内である。中山の領域の間切・村ということになる。塩屋に神アサギがあることは興味深い。『絵図郷村帳』(1644年頃)に塩屋は読谷山間切しほや村と登場するが、『琉球国由来記』(1713年)などから村名が消えてしまう。その後の『御当国御高並諸上納里積記』(1750年頃か)に恩納間切に真栄田村と併記で塩屋村が登場する。その後、明治初年頃塩屋村は真栄田村に統合されたという。
そのような歴史の変遷を前提に見ると、近世初期からあった村でウタキや神アサギを持つ村であった。その後、村は登場しないが集落の存立は継続してあり、明治の初期に真栄田村に統合されてもウタキや神アサギは失うことはなかった。そして昭和24年に真栄田から分離し、現在に至っている。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治15年頃)真栄田村に神アサギが二つあり、二つの村の合併をうかがことができる。その間、祭祀は統合されることなく継続して行なわれてきたと言えそう(隣接する真栄田も紐解く必要あり)。
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▲シマムイヌウタキからみた塩屋の集落 ▲シマムイヌウタキから神アサギをみる
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▲塩屋の神アサギ ▲シマムイヌウタキにある祠(イビ?)
塩屋の神アサギの近くにヌルドゥンチ跡がある。真栄田にもヌルドゥンチがあり、継承者がなく塩屋にノロが移っているという。真栄田ノロは塩屋村も管轄していたと見られる。
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▲塩屋にあるヌルドゥンチ跡