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本部町具志堅/国頭村浜番所跡/具志堅の土管/国頭村安波/恩納村のムラ・シマ/湧川の印部石
2011年2月19日(土)
本部町具志堅と関わる古琉球の辞令書が二枚ある。「くしけん」は上間殿内が所蔵していた「古琉球の辞令書」(今帰仁間切東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年)(宮城真治資料所収)と中城ノロ家の「今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書:万暦14、1586年)(『御案内』所収)の二枚に登場する。以前、触れたことがあるが、再度触れておきたい。古琉球の時代の村(ムラ)の概念と村の範囲について、近世の行政村とは大分異なっているようである。そのことを、もう少し丁寧に見て行くことに。その前提となる辞令書がどの程度正確に読み取っているか不安である。
【今帰仁間切東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年】(具志堅上間家)
しよりの御ミ事
ミやきせんのまきりの
くしけんのせさかち
この内にひやうすくミかないのくち御ゆるしめされ
五おつかかないのところ
二かりやたに十三まし
たけのみきはる又まへたはるともニ
又二百三十ぬきちはたけ七おほそ(二百三十ぬきち)
とみちやはる 又きのけなはる 又あらはなはる
又たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
又まふはるともニ
この分(ふん)のミかない
四かためおけの なつほこりミかない
又くひき みしやもち
又四かためおけの せちミかない
又一かためおけの なつわかミかない
又一かためおけ 又なかう正月ミかない
又一くひき みしやもち
又五かためおけの きみかみのおやミかない
又一くひみしやもち
又一かためおけの けふりミかない共
このふんのみかないは
上申□□□
ふみそい申候ち
もとは中おしちの内より
一ミやうすくたに 二まし
まえたはる一
このふんのおやみかない
又十五ぬきちはたけ 一おほそ
あまみせはる一
このふんのおやみかない
又のろさとぬし
おきてかないともニ
御ゆるしめされ候
一人あかるいのおきてに給候
しよりよりあかるいのおきての方へまいる
嘉靖四十二年七月十七日
【今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書:万暦14、1586年】(中城ノロ家)
しよりの御ミ事
ミやきせんまきりの(このふんのミかない 上申あるべし ふみそい申しちもとは)
よなみねのうちま人ち
中くすくのおきてのちの内より
人ひようすくたに二まし
やせたはる又かなわらはるともに(ニ)
又もとはくしけんのはらちのうちより
一十五ぬきちはたけ三おほそ
えつかたはる 又しけやはる 又大たはる共に(ニ)
この子人(ふん)のおみ(ミ)みかない
又のろさとぬしおきてかないいともに(ニ)
御ゆるしめされ候
一人うらさきのめめさしにたまわり申(候)
しよりよりうらさきのめさしの方へまゐる
万暦十四年五月九日
最初の辞令書に「くしけん」と「まふ」とあり、後の具志堅村と真部村へつながる地名とみてよさそうである。真部村の成立は近世中以降であるが、具志堅村の存在は少なくとも1500年代にはあったとみてよさそうである。但、後の間切が仮名の「まきり」であり、村の表現はまだ登場してこない。後の「浦崎の目差宛辞令書」にも「元は具志堅の原地(畑地)より」とあり、後の具志堅村の存在を伺わせる。
近世になると『絵図郷村帳』に今帰仁間切「具志堅村」、『琉球国高究帳』に今帰仁間切「具志賢村」と登場する。1713年の『琉球国由来記』以降では今帰仁間切「具志堅村」である。1666年に今帰仁間切は本部間切とに分割されるので、それ以降の具志堅村は明治41年まで本部間切具志堅村である。明治41年に本部間切は本部村、具志堅村は字具志堅となる。昭和15年に本部町字具志堅となり現在に至る。
明治初期以前に具志堅村と真部村、そして上間村が具志堅村に統合される。神アサーギは昭和16年まで旧村名で引き継がれた。明治明治36年に嘉津宇村が具志堅村に統合されるが祭祀は別である。昭和16年に具志堅から嘉津宇・北里・新里が分離し新設される。昭和16年以降、現在の具志堅の範囲となる。
以前、原(小字)から村(ムラ)の領域について考えたことがある。古琉球の村(ムラ)は現在の行政村(字:アザ)の範囲を隣接している字まで広げてみる必要がある。そのことまで確認できたと記憶している。
(工事中)
2011年2月19日(土)
しばらく多忙なり!
2011年2月16日(水)
今日は「諸志誌」の編集委員会(7:30から)。午前中、消防訓練。糸満市の港周辺の利用計画の件で来客。12月に開通したワルミ大橋のワルミは?の問い合わせ。諸志誌の編集会議に向けての資料づくりの時間がなかったので、急きょ諸志の地名と戦争体験記、諸志の井戸(ハー)、1964年の諸志、1948年の青年団の集合写真を手掛かりに話題を引き出すことに。どうなることやら。
ワルミ大橋のワルミについての問い合わせが何度もあるので説明しておきましょう。ワルミは今帰仁村天底の小字である。一帯はワルミの地名で、小字は天底の「和呂目原」である。小字和呂目原に因んだ名称である。このワルミはどこからきた地名かというと、天底と屋我地島との間がワルミ海峡ともいう。そこは海峡になっていて、海峡の割目、あるいは裂け目からきた地名とみていい。ワレメは割目、裂け目のこと。
▲ワルミ大橋が架かったワルミ海峡
【諸志誌の編集会議】
・志慶真乙樽(ナチジンウカミ)の出身地
・養鶏の盛んな時代があった(卵の出荷)。
・養蚕・芭蕉布・藍染
・コーヒーの栽培
・パイン栽培のころ
・ハブ獲り
・植物群落のこと(国指定)
・診療所
・入髪と桑の木(沖縄版浦島太郎)
・佐田浜の切石
2011年2月15日(火)
船の調査で来舘者(東京から)あり。特にタンク舟のことで。下見で本部町具志堅に二隻のタンク舟を確認してあったので案内。一隻は畑の側に置いて灌漑用の水タンクに利用(今は使われていない)。もう一隻は小さな港(イジカタバマ)にひき揚げられていて、ボートとして現役のようだ。畑仕事をしている方に尋ねてみた。
「ボートに使っていたのですか?」
「それはダメだよ。穴があいているさ」
「若い頃、それに乗って海にでていたのですか?」
「もちろん、漁師やっていたから、遠くまで行っていたさ。すぐひっくり返るので、
砂袋を乗せて安定させていたさ。今の人は乗れないよ。あぶなくて」と。
気になっていることがあったので上間宗男氏(80才)の家を訪ねて話を聞いてみた。
「何故、本部あたりにタンク舟がたくさんあるのですか」
「それはだな、桃原(トーバル)に飛行場があったでしょう。そこに飛行機の
スクラップが山積みされていたよ」
「ならば、みんな盗んできたのですか?」
「そう、戦果品として、とってきたさ。ハハハ」とのこと。
なるほど。これまで聞いていたこととは別の理由があったことに納得。タンクのことをジュウタンクと言っている。重油タンクのことだろうか?燃料タンクであることに間違いないと思うが。
▲畑の側に置かれ灌漑用の水タンクに利用 ▲イジカタバマにあるタンク舟(現役のようだ)
2011年2月12日(土)
本部町具志堅までいく。「具志堅のムラと湧泉(カー)」をテーマで話をする予定。ウプガー(大川)とムラとの関わりで話すことに。具志堅については「今帰仁グスクが抱えた村」をタイトルにした企画展をしたことがある。その後、大川(ウプガー)の改修、その下流域にハーソー公園が整備され、大きく変貌し、大川周辺の風景が大きく変わっている。変貌していく中で、具志堅の人々が湧泉の中に遺している9本の神木。その神木に三つの村(具志堅・上間・間部)が合併したことを将来へ伝え続けようとの思いが託されている(毎年三本づつ新しい木と交換する)。
具志堅の祭祀はウタキからスタートし、神アサギ、集落内(あるいは家々)を通り、汚れや病を集めてウプガー(かつては海)で「流し」(虫払いの海で流す所作に類似)をする。
土管については、具志堅の大村氏から話を伺う。あまり長い間は使われなかったようだ。
▲上空からみた具志堅の集落 ▲具志堅の大川(ウプガー)
▲水道敷設(明治33年)に使われた土管 ▲大川の9本の神木(三つの村の統合)
【国頭村安波④】
安波の門中。安波には20近い門中がある。1964年の安波の世帯数は98、人口は490人である。因みに明治13年は52戸、人口は301人である。安波には村墓と門中墓がある。安波は山原的ではない印象を持っていた。まず、一つはウタキの位置である。ウタキの位置は、村立の中心となった一族は、外からやってきたのではないかということ。ウタキのイベにあたる場所に村の創設の人物の墓にしている。それは中南部の集落とウタキとの関係によく似ている。
昭和30年代に調査した門中の全てが他の地域からやってきたとの伝承をもっている。そのことが、故地(特に中南部)の伝統を安波に導入している。17世中頃の『絵図郷村帳』に「国頭間切あは村」と出てくるので村が成り立っていたことがわかる。
・古琉球から住んでいた一門
・近世に移ってきた一門
・明治の初期に移ってきた一門
・大正期に入って来た一門
それらの一門が一つの村(ムラ)として祭祀や習俗を導入していく場合、各地のを取り入れていくため複合的な形態になっていると見られる。公儀ノロの存在は首里での習俗を村に導入する役割を担う。
『琉球国由来記』(1713年)には、国頭間切安波村とあり、祭祀も行われ、百姓・安波ノロ、そして安波大屋子の存在が確認することができ、祭祀が行われていた。今に伝えているシノグ(シニグ)と海神折目が見え、1700年代から一年越しに行っている。安波ノロ火神もある。
(安波に住む各地から居住してきた一門が村の中の習俗や祭祀にどのような影響を及ぼしているのか?)
安波の墓は村墓から門中墓、さらに個人墓に移行しつつある。村墓も存続しているようである(村墓・門中・個人墓の確認する必要あり)。
参考文献
・「国頭村安波における門中制度の変遷」常見純一『沖縄の社会組織と宗教』所収(1965年発行)
2011年2月10日(木)
【国頭村安波③】
・安波ノロの簪や一連の勾玉や衣装がのこっている。
・安波はマキヨ(マク)名は「おうじまく」である。
・『絵図郷村帳』に「国頭間切あだ村」とある。
・『琉球国高究帳』(1643年)には「あは村」でてこない。
・『琉球国由来記』(1713年)に「国頭間切安波村」と出てくる。
安波巫の管轄は安波村と安田村。
安波村のウタキは「ヤギナハ森城」、神名はカネマシノ御イベとある。
(安波はウタキはウガミと呼び、ウタキの神をマシラジと呼んでいる)
安波巫火神/神アシアゲ
海神折目とシノゴ折目が一年越に行われる。
・1747年辺野喜・奥村と並んで津口勤番が置かれた。
・道光30年(1850)も「国頭間切阿波村江汐掛之大和船船中之者捕付方ニ差越候足軽共、
間切々々より夫雇入置候賃分請取候様申出候段、那覇役人より問答返答并御物奉公
江通達之事」
・安波の津口(港)に大和船が汐掛することがあった。
・安波川と譜久川が合流し、沖縄最大の川。洪水や暴風時の波浪による被害が多かった。
・廃藩置県の頃、我部・新垣・平識などの一族はシマナカに居住し、地人同様百姓地の配
分を受けた。他は美作(ツラサク)に居住(屋取)。
・明治14年学校が一校あり、それは首里からきた士族が開いたもの(生徒三人)。
・明治14年の安波の戸数50戸、人口300人。明治36年99戸、527人と増加。
・明治14年山方筆者11名中、国頭間切では安田と謝敷に各一人配置。
安田山筆者・・・安波・安田・楚洲・奥・辺戸の村を管轄
謝敷山筆者・・・宇嘉・辺野喜・佐手・謝敷・与那・伊地・宇良・辺土名・奥間・比地・浜を管轄。
・明治28年に安波尋常小学校が開設される。
・明治35年内法にあたる「川廻り規定」ができ、各戸順番で川岸巡視を行う。
近年の規定
・巡視時期は畦払より湯風呂切る(10月)迄とす
・川廻範囲は上は高石より下は幸地原田尻迄とす
・巡廻実施区間家屋 福地光三郎屋より前田屋迄とし、巡視資格及責任者は戸主とす
・巡廻巡視時間 朝は八時より晩は七時迄とす
・其の他必要事項
・安波の経済圏は安田・楚洲とともに泡瀬や与那原方面へ。上納米は与那原経由で首里へ。
・山原船は久志間切大浦港をへて与那原方面と往来した。
・『水路誌』」に安波港について「南東より来る波浪を防ぐが故に、大浦湾以北に於ける
琉球形船の好泊地とす。港首に安波大川あり、高潮には小船を入るるを得、河により
上流四鏈に安波村あり」とある。
(工事中)
【安波の集落】
・安波の集落は安波川の右岸の斜面(清水山の中腹)から麓にかけて発達している。
・清水は草分けの家(上大屋)の右手にある。若水汲みや飲み水の汲み場となっている。
・上大屋のすぐ下方(前)に神アサギと安波ノロドゥンチ、中屋がある。
・ノロは上大屋の一門の世襲。若ノロと勢頭神の同一門から。この一門は川田からの移住。
・根神は南山からの移住の一族から。南山タンメー(麓にある新屋)。
(宮城栄昌は公儀ノロが任命された時、根神であった上之屋から公儀ノロを、一門の次に古い新家系が
根神となったという)
・安波の集落は上之屋から下方、西側へ展開している。そこはシマナハ(島中)とよばれ、そこから対岸の前田原、
上流部の福地原(学校付近)へ発達している。
安波の集落について、次のような新聞記事(「ふるさとの顔」(沖縄タイムス:1965年10月)がある。
「沖縄では珍しい階段式の家並が、訪れる人の目をみはらせる。まだほとんどがかやぶきぶきだが、このかやぶきが
かえって周囲にマッチする。伝統的な村落(集落)の趣を残し、ほとんどの観光客が感嘆の声をもらすほど。ここで
は沖縄の各地が戦争で失った‘ふるさと‘の姿を、そのまま残している。山ぞいに家がならび、その下を川が流れて
いるのは、沖縄ではほかに例がないといわれ、いわば理想的な村落形態だが、安波が、現在の形になったのには
二つの理由がある。ひとつは、安波川と十三号線ぞいに流れるフーク(普久)川流域がかなり広い平坦地で、耕地
に最適だったこと。もう一つは、二つの川が大雨のたびにあふれ、平坦地が浸水したことである」と。
▲現在の安波のシマナハの集落 ▲清水山の斜面から麓へ展開する集落
▲ヒラバンタからみた安波の河口(津口) ▲安波川と流域
安波は四つの集落からなる。シマナハ(ムラウチ)が安波の中心となる集落である。①シマナハはウイバレーとサーバレー、②福地、③メーダ、④ツラサクからなる。
①シマナハ・・・雛段状の集落形態(ウイバレー:神アサギ・ノロトゥンチ・上之屋)がある。
②福地(フクジ)・・・安波川沿いの平坦地(福地)は明治10年頃から集落が形成される。
③メーダ(前田)・・・シマナハの前方、安波川を隔てた対岸の平坦地。明治10年頃から。
④ツラサク(美作)・・・サフは窪地や小さな谷間。明治30年代から開墾のため集落が形成。
昭和40年頃の調査で安波には20の門中がある。自称する出身地はすべて安波以外の地である。東村川田・大宜味村謝名城、国頭村比地・浜・勝連町浜比嘉などである。そのことが安波の村としての祭祀に影響を及ぼしていそうである。
※主な参考文献
・『国頭村史』
・『国頭の今昔』など
2011年2月9日(水)
平成12年と13年の国頭村安波のシニグのアルバムを出してみた。3月5日に国頭村安波でムラの方々と一緒に安波について学ぶことに。祭祀については、安波の方々から教わることにしたい。平成13年は安波の祭祀を行う場所が整備された年のようである。ちょうど、その変わり目であった平成12年と13年に調査をしている。
【国頭村安波②】
島袋源七氏は『山原の土俗』(昭和4年)で国頭村安波のシニグについて記してある。昭和の初期と平成12、13年とでは、大分変貌している。9年前の画像を追いながら、安波の方々から教えを請いたい。(下の画像は与那嶺江利子さんからの提供。感謝。私は安田の調査で安波は僅かしか見ていない)。
・毎年旧七月亥の日に行う。
・昔は五日に渡って行っていたようだが、昭和4年頃は三日ですましている。
・ウィキー拝み 祭典の前夜は神人は祝女殿内に集まって祭神を礼拝する。
それがすむと字で選ばれた男一人は神人の所へ行く。神人は男に盃を捧げる。
ウィキーの力量徳行等を賞賛する挨拶をし献酬して別れる。
・祭当日 早朝から祝女は数多くの神人を従えて字の創始の神と称するヌー神(マシラリの神)を祭(ウタキ内?)、
御酒と御花米を供えて拝む。これがすむと神アシアゲに引き上げる。神アシアゲでも同様な事をして午前中で終
わる。
・午後四時頃、アシアゲの庭に神人をはじめ字内の男女の全部が集まり、祝女の指揮により一同祭神を礼拝し、
各自携帯してきた酒肴を開く。
・酒宴中数名の女が男の席に行き、「私共の仲間を男が奪い取ったのは不都合である」というような言葉を申し立
てて大騒ぎを演じつつ男を縄で縛る。古老の話によれば掠奪結婚の遺風だといっている。後は思い思いに散会
する。
・ウスダイコ(三日目か)
午後四時頃になると、各自酒肴を携えて神アシアゲの庭に集合する。この日は別に祈願もなく、神人も平服の
ままきて、字内の婦女のウスダイコ踊りを見物する。
1995年のシニグ儀式と大分異なっているようだ。所作をあげてみる。
①夕がた前に神人たちがヌルドゥンチに集まる。神衣装を着てウガンをする。
②ウフェーヤーの火神を拝む。旧家のウフヤー→ミーヤーの順に拝む。
③シマンナハからウガミ(ヌーガミ:ウタキ)へ行く。ウガミの祠はシマナハに向っている。
④祠の後ろの石積みは安波の創設の人物の墓とみなされている。
④拝殿の横に香炉があり、ミレー(海の神)に向っているという。
⑤ここでは拝殿(火神)と墓と香炉を拝む。
⑥ウガミ(ウタキ)から戻ると神人と紺地衣の女性たちが数名、アサギの座に着く。
⑦アサギへは階段がある(以前木で出来た階段であった)。
⑧男達がヒニバンタに集まってくる。
⑨ヒニバンタの東側は崖となっていて海が一望できる。
⑩神アサギの前を通るとき男達は一礼して通っていく。
⑪子供達が魚となる。棒をもった漁師が追い囲む。
⑫帆柱?を押し戻す所作
などなど
▲平成13年のシヌグ(神アサギで) ▲アサギマーでウシデークを踊る(平成13年)
▲平成14年の安波シニグ(網の準備中) ▲新しくできた神アサギの前で
▲安波のナカヌヤー?(ウガミへ向う)(平成14年) ▲アサギマーでの所作の一つ
2011年2月8日(火)
【国頭村安波①】
国頭村安波までゆく。安波について報告する予定あり。名護市から大宜味村のムラを通りながら北上。大宜味村喜如嘉から謝名城へ入る。謝名城の根謝銘(ウイ)グスクへの通りの桜並木は見ごたえがあるからである。それと1673年に国頭間切は分割し、国頭間切と田港(大宜味)間切となる。分割した直後の国頭間切の番所は浜である。そこに番所(地頭代)火神の祠がある。旧正月で拝む方がいるのだろうか。その確認で足を運んでみた。最近、拝んだ痕跡あり。12月に文化財で硯の展示会をしたので硯が頭にあり。祠の近くに二つに割れたを硯みっけ。
奥間の金剛山の桜、辺土名の上島、伊地などの桜を見ながら、与那から東海岸へ抜け出る。目的地は安波である。安波の斜面の集落。そこには神アサギ、安波ノロドゥンチや上之屋などの拝所。そこから安波のウタキが見下ろせる。ウタキは昭和13年に神社化され、その時に桜を植えたようである。鳥居の側の一本が花を咲かせている。
安波のウタキの前の橋が御拝橋(ウガンバシ)とある。ウタキに因んだ橋の名称だとわかる。拝原の小字があれば、それによるが、あるいは小地名としてあったかもしれない。また小字に恩納原がある。どういう場所だろうか。すぐに地名議論ができる。
安波のウタキは山原的なウタキではない。ウタキの祠の後ろに石盛がある。どうも中南部のウタキのイベには、ムラを創設した人物を葬る習俗がある。安波のウタキもそうである。「部落の発祥は浦添間切から船でやってきたさむらい一家によって新設された」との伝承を持っている。なるほどである。つまり、安波は山原的というより、習俗は浦添からやってきた中山の文化を踏襲している可能性がある。ウタキの位置にもそれが伺える。安波川から入り、まずは今のウタキ付近にきて、それから今の集落へ移動。ウタキの場所は、最初に足を置いた場所。
上之屋の拝所がある。そこは久志間切の川田からやってきたとの伝承がある。その一族は山原の習俗をもった一族である。すると、安波のムラは少なくとも中部と北部の集団の混合である。さらに寄留してきた南山からの一族がいる。それだけでなく、中城や今帰仁などからやってきた人達もいる。各地からやってきて出来たムラ。どのような文化見いだせるだろうか。シニグと海神神祭は山原的。それと神アサギも。
▲国頭村浜(番所のあった所)の火神 ▲硯を見つける
▲ウタキの中の拝所(村創設の人が葬られているという:山原のウタキのイベにあたる)
2011年2月6日(日)
15回にわたって「沖縄の地域文化」について講義をしてきた。ここでは地域文化とは何かという視点ではなく、ムラ・シマを通してその地域の文化を見つけよう、あるいは文化にして行くことを基本とした。沖縄本島北部(山原)のムラ・シマを中心としたのは、山原のムラ・シマをみる視点で他の地域をみると、そこに違いや共通するものが見えてくる。今回も伊平屋・伊是名島、久米島、徳之島などを見て来た。宮古・八重山についてはまとまった話をする機会がなかったが、沖縄本島との比較で引合にだしてきた。特に沖縄本島の地割制と先島の人頭税が地域文化に大きな影響を及ぼしていることがわかる(久米島が地割制から人頭税に切り替わっている。村(ムラ)に税を課していたのが人頭へ移行)。沖縄で地域文化をみていくには、ムラ・シマのレベルで歴史や文化をみていく必要があることに気づかされる。学生達の最後のまとめのレポートが楽しみである。
【沖縄の地域文化】講義
①ノロ制度が及ぼした地域文化
②島の文化―古宇利島―
③地域文化―国頭村比地―
④地域文化―国頭村奥間―
⑤大宜味村のムラ・シマ
⑥本部町のムラ・シマ
⑦旧久志のムラ・シマ(東海岸)
⑧恩納村のムラ・シマ
⑨久米島のムラ・シマ―沖縄本島との比較―
⑩伊平屋・伊是名島のムラ
⑪地域文化―国頭村辺戸―
⑫琉球と徳之島との比較文化
⑬地域文化―沖縄の桜(ヒカンサクラ)―
⑭今帰仁上り(拝み)―根強く流れる文化―
⑮金武・宜野座地域のムラ・シマ
⑯沖縄の地域文化(15回の総まとめ)
2011年2月5日(土)
「今帰仁城桜まつり」も明日まで。それに伴って歴史文化センターの来館者も多い。明日はどうでしょうか。最初とか最後となると来舘者が増える。今帰仁グスクは舘の三倍ほどか。桜も今日あたりがピークか。もうしばらく見ごろが続くでしょう。今週の三日間は1000人を超しています。いろいろな来舘者がやってきます。
2月1日/742人 2日/621人 3日/1114人 4日/1104人 5日/1345人
2011年2月3日(木)
「沖縄の歴史と文化」の後期の最終講義。学生達のレポート(報告)には涙がでる。15回の講座を受講しての総まとめ。沖縄の歴史の凄さにまずはびっくりとのこと。沖縄の歴史を見ているが、中国、もう一方では日本、近世末になると欧米諸国との関わり。沖縄の歴史を知ることは回りの国々まで視野を広げて見ていることに気づかされたとのこと(シメシメ)。
画像を使っての講義が総てだったこともあって、「わかりやすかった、各地へ、そしてグスクの時代や古琉球の時代、近世、近現代まで足を運んで現場での授業(実際は私が訪れた各地の画像であるが)。また連れて行ってください」.とのこと。毎回、質問に対して解答をくれたこと。100名余りの毎回のレポートに目を通していること。「沖縄の歴史と文化」を学んだことで名護や山原、そして大学に自信と誇り持たせきれたこと。その手ごたえが十分にあったことに満足。それは学生達に感謝である。(「沖縄の地域文化論」の講座が、まだ残っている)。
①歴史をみる視点
②グスクからみた沖縄の歴史
③古琉球の時代
④ノロ(神人)制度からみた歴史(中央集権国家)
⑤道からみた歴史
⑥北山の歴史を中心に―沖縄の歴史―
⑦運天の歴史―港・津―
⑧久米島の歴史と文化
⑨徳之島と琉球(古琉球)
⑩烽火制と近世
⑪近世の沖縄―江戸参府から―
⑫近・現代の沖縄―ウタキの神社化・桜―
⑬写真史料にみる沖縄―現代―
⑭近現代の沖縄と桜・神社
⑮「沖縄の歴史と文化」のまとめとレポート提出
(総まとめ―通史的に)
2011年2月1日(火)
先日寄贈いただいた印部石(原石)のあった湧川の前田原まで。そこは数年前土地改良がなされている。前田原の中心部は、原名の通り水田であった。前田原にスガー(塩川)(湧泉)がある。印部石の「しゆや原」は前田原にある塩川(シュガー:スガー)の塩(しお)に因んだ呼称だとみられる。塩川は土地改良の時、画像のように整備されている。
同じく前田原に塩づくりと関係するスガーのウタキがある。そこは1736年まで我部村があった場所である。我部村(松田・振慶名・呉我・桃原)は屋我地島と羽地間切へ内部や外れ地に移動させられた。印部石の設置(1743年頃)は、その直後にあたる。「申」に見えるのは「由」(ゆ)である。
▲湧川にある塩川(スガー) ▲前田原にある前田ウガン(杜の麓)
▲湧川の前田原にあるスガーウタキの祠 ▲前田拝所(旧暦二月の最後の亥の日)
▲湧川の地形図(スガー・スガーウタキ・土地改良区) ▲印部石(原石)の拓本