山原のことばと歴史と文化(講演:レジメ)
仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター 館長)
(2013.3.15:於:今帰仁村中央公民館)
はじめに
1.集落を区分する呼称の分布
2.集落を区分する呼称
3.山原のバーリ・バール・ムティ(中南部のダカリ)
4.今帰仁の針突(パジチ)調査から
5.針突(パジチ)の呼称分布図
6.針突師の呼称分布図
7.結婚による動態
8.山原の平民・士族の割合
9.しまくぅとぅばを継承してきた生活の場
10.今帰仁方言と仲宗根政善先生
11.仲宗根先生のファイルの写真から
おわりに






5.針突(パジチ)の呼称分布図(今帰仁村)



6.針突師の呼称分布図

7.結婚による動態
・明治初期の「問答書」で、
一 甲村のもの乙村のものと結婚し、または甲間切の者の乙間切の者と結婚する例はあるか
の問答がある。
・名護・本部間切ではその例がある。
・恩納間切では大体同村、同間切中にて婚姻するが、間々上の例もある。
・伊江島は甲間切の者と結婚する例はなし。甲村と乙村との婚姻はあり。
〔婚〕
一 男子は凡そ何歳にして娶るか。女子は凡そ何歳にして嫁するか。
答 男子は二十歳より二十六歳まてを通例とし、女子は二十歳より二十五、六歳を通例とす。
一 嫁娶は総て媒に頼るか、又は野合して夫婦となるものあるか。又は少小の時より父母予め婚約をなすものあるか。
答 必らす媒に頼る。野合して夫婦となるものなし。又予め父母の婚約をなすものなし。
一 夫婦の年の釣合は如何。婦・夫より長ずるを例とするか、長せざるを例とするか。
答 夫・婦より長ずるものもあり、婦・夫より長ずるものもあり。然れども其間皆一、二歳の差に過ギず。
一 従兄弟姉妹、再従兄弟姉妹等、親戚間に於て婚姻を結ぶものあるか。
答 親族の中にても極疎族になれば縁組することもあれども、従兄弟、再従兄弟の間にては右等のものなし。
一 甲村のもの乙村のものと結婚し、又は甲間切のもの乙間切のものと結婚するの例あるか。
答 大抵は同村、同間切中にて婚姻するとも、間々右等のものもあり。
【注】法第45条=他村・多間切より村女を貰受け妻にせンとする者ある時は、婿家より馬酒として焼酎壱斗五升、
公役免頭金として七百貫文以上千貫文以下、村所ヘ差出させ候上、差免候事。
一 妻を娶る時は雑用等の名目を以て金円を女家ヘ送るの例なきか。其金額は凡幾許なるか。又離婚の時は其金
は再ビ夫家ヘ 返ヘすの例なきか。其外にも弊禮等あるか。
答 雑用金と唱ふるものは村に依て異同あり。或は金二十銭を送る所あり。或は俵一俵金二円を送る所あり。
【注】法第95条に嫁娶之節、雑用として夫の家より米壱斗、金壱円三拾銭位女の家ヘ送りする事。
一 妾を置くものあるか。妾は身代金として多少の金額を以て買うの風にあらざるか。其代価は凡幾許なるか。
答 なし。
一 娼妓を以て妻となすものあるか。
答 なし。
一 夫となる人、婦の家に至り親迎する時の模様は如何。親迎して後ち両三日間夫は遊廊ヘ留宿し、家人も酒肴
を携ヘ親戚故旧を迎ヘて遊興する等の例はなきか。
答 其婚礼の日、親者の内一人、本人に付副ひ、焼酎一升を以て舅家に至る。同家よりも酒肴を出し、其婿にな
る人と其舅になる二人と盃を取り換はし、暫くして辞し帰る。
【注】婿連れといい、親類の男一人に案内され、酒肴をもつた女子を供にして嫁の家へ行き、祖霊を拝しての
ち父母と杯を交わす。
一 婦となる人、始て夫の家により(嫁入り)時の衣服装飾、其他の模様は如何。
答 其夜に至り夫の家より人を遣し婦を迎ふ。婦の家よりは親族及其女の友人付添ひ、夫の家に来る。新婦
は白芭蕉布の衣を裳る。夫の家に至て床の前に坐し、理(沖縄庶民生活史には「其女の朋連代理」とある)と
なって夫と杯を交換す。三日日の後、夫と共に親家に見舞として行く。
【注】これを嫁連れといい、夜になつて仲人のほか男女数人が提灯をもつて嫁の家へ行き、父母と杯を交
わし、そのあと嫁の一行とともに夫の家へ来る。入家のときは台所(とングワ)の口から入り、嫁はかま
どの火の神に供物を捧げ、祖霊をまつる二番座で「水盛り」(みじむい)をする。夫婦の杯である。
一 夫婦と公認するは何々の事を為したる後なるか。
答 以上媒介婚約を通し、夫婦盃を交換する迄の手続を経れば乃ち夫婦と公認す。
一 婚姻の際男子は朋友を遊郭に招き遊戯する等の事あるや。
答 なし。
8.山原の平民・士族の割合

9.しまくぅとぅばを継承してきた生活の場



10.今帰仁方言と仲宗根政善先生
―仲宗根先生が産みだした今帰仁方言辞典の地(与那嶺)―



11.仲宗根先生のファイルの写真から
―仲宗根先生が産みだした今帰仁方言辞典の地(与那嶺)―
アルバムの中に50枚近い写真がありました。それらの写真は仲宗根先生の方言研究の根底を流れる思想のように思われます。「その人が持っている言葉、その人が亡くなると消えてしまう」という内容の文章がありました。画像の風景はこの土地(風景)を壊し、失ってしまうと地名として遺ったにしろ、その地名(言葉)は消えたに等しい。(モノクロ写真は昭和49年以前か。カラー写真は昭和49年1月)
そのような叫びのような思いで、土地改良を目の前にしてシャッターを切ったのではなかったか。今回寄贈いただいた本や資料の中に写真アルバム(今帰仁の写真)は、この一冊のみである。私は、これらの写真を手に、与那嶺の地を訪ねてみたが、上の四枚の風景は残念ながら全く消えていました。下の土地改良中の場所は確認することができます。それ以前の風景や地名は消えていく・・・。





おわりに
1965年8月18日(仲宗根先生のノートから)
昨夜から台風は島に吹きつけた。朝起きると福木もたわみそうな強風が吹きつけている。
「17.21時台風は石垣島の南方約500k海上にあって中心気圧60米〜70米、25mの暴風半径は250〜300km、石垣附近にちかづく。まだしばらくつづきます。昨夜○時猛烈な台風が通過する。東北の風次第に時化て来ます。厳重なけいかいを要す。
18日午前〇時5分猛烈な台風は石垣島を通過する。今日昼頃東の風、後南東の風、最大風速40米以上厳重なけいかいを要します」
台所で皆が座ってラジオを聞いていた。どうしてどの家も瓦葺きの立派な家で石垣でかこまれているだろうと、不思議でならなかった。しかしこの島では茅葺では持たないのである。どんな犠牲を払っても家屋だけは台風に耐えうる瓦葺きにしておかなければ生きては行けないのである。結構は一切のものを台風が吹き倒して最後に残ったのが、この美しい瓦屋根と石垣なのだ。
外から来た者にとっては、その内部に包まれた苦闘の歴史はうかがいしることは出来ない。昨日まで東海から流れて来た風も外から来た我々にはこよないころよいさわやかな風であったが、実は魔の台風の気味悪いほほえみであったことが、今日になってはっきりした。
部落の東北端にある貝敷さんの家の屋敷東北の隅に幾十年か台風に堪えた福木が今ふきつける台風にゆらいでいる。低くたくましいこの福木を見ていると悲壮な感じさえする。石ころの多い荒れた野を海から吹きつけて来る猛烈な風をこの福木はうけとめて民家をまもっている。
一昨日こちらへついた時は荒涼たる野に夕日が沈んでいた。こんな静寂な島があろうかと、私は御嶽の静けさをじっと身に感じていたのだが、その静かな野を60米近い強風が吹きまくっている。日本最南端のこの島に立ってひょうびょうたる南海から荒れ狂って北上する風を、この福木がうけとめている。ここから南には果てしない太平洋がある。前に来た時もお嶽の古木が枝へし折られるのをじっと戸の間から眺めたことがある。堅牢な家の中にいてじっとしているのはたのしい。
貝敷さんからこの台風の時に方言を教えて貰うと思ったが、台風の吹きすさぶ中をかっぱをかぶって出て行かれた。むしろ多忙を極めて居られるのである。
正午から風雨が猛烈になった。
本島を襲う時は、一日に幾度と台風情報を放送するのに、八重山を襲っている時は、ほんのわずか放送するだけである。心細い島にいると、なるほどこんな情けないことはない。福木の実が吹きちぎられて飛ぶ、福木の枝が生々しく吹き折られて庭をころがっている。
前の瓦の屋根が吹き飛ばされてしまった。堅牢な屋根の戸締りの厳重さ、前部落はほとんど屋根をとられたとのことであり、学校の図書室もふっとばされたらしい。生徒会長で、先生方もいないし、どうしようかと、如何にも心配そうにしている。吹きすさぶ嵐の中にいて私は那覇市内の佐藤首相の日の丸の旗並を想い浮かべ何か腹立たしい気持ちがおこる。生活のきびしさとたたかっている島民は一体どううけとるだろうかと思ったりした。嵐の中からはるかの夜空を想い浮かべ、日の丸の旗を心の中にえがいても、どうしても美しくは思えなかった。
石垣の上に台風にふるえている木々葉ばかりが眼に浮かぶ。放送は沖縄本島に吹きつける時は時に刻々放送するのに八重山の島々に吹きつける時は、ぽつりぽつりしか放送してはくれない。この島に来て台風を一度でも経験したらもっと放送はよくなるであろうとも島人は憤りに似た気持ちをもらしていた。
この島にこの苦難に堪えて生きていた人間のあかしを何とか立ててやりたいという気持になり、この島の言葉を一語でも私は拾いあつめておきたい気持になった。学問の根底にそれがなくして、ただ言葉のけいがいを集めるだけでは申訳のないことである。
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