2004年9月の調査
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運天のタキヌウガン/ムラ・シマの展示/古宇利島の印部石/古宇利へいく/学芸員実習
2004年9月30日(木)
昨晩は沖縄市で「山原のムラ・シマ」の講演があり、無事終わりました。裏方をしていただいた職員の皆様ありがとうございました。
午前中、人間ドッグなり。切除しないといけないのも見えた。どこで休暇をとろうかと思案中なり。
戻ると運天の区長さんから「今日1時からタキヌウガンがあります」との連絡。バリウムを排出するための下剤を飲んだ状態での調査は、苦しいものがあるな。それと企画展のこともあり、頭では断ろうと考えたのであるが、口では「一時ですよね」と答えている。しかし、晩のもう一つの予定はキャンセル。さすが!ハハハ
さて、午後一時から運天と上運天のタキヌウガン。
【運天でのタキヌウガン】(午後1時~2時)
①ティラガマ(午後一時)(今帰仁村運天)
・運天区長・運天の方々(数名)・上運天の区長が参加。
・ティラガマの中に両区長がはいり、ウガンをする。
・ガマの内部に二カ所の拝所がある。
(一ヶ所は大和に向かって、もう一ヶ所は両ムラに向かっての
ウガンだという)
②運天の神アサギミャーへ。
・無名のコンクリートの祠(神屋:運天掟火神?)と神アサギ。
・神屋(祠)は運天区長が主となってウガンをしている。(掟火神:
ムラヤー跡?)
・神アサギは神人と女性の方々のみ。(女性のみとの認識がある)
・村(ムラ)の人たちはアサギミャー(アサギの庭)にゴザを敷いて、
三々五々と集まり、ウガンが終わるのを待つ。
・神人たちのウガンが終わると、ご馳走をだして直会をする。
(ご馳走は昆布・揚げ豆腐・三枚肉・モーイ豆腐・紅イモの揚げ餅・
魚のフライなど)
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▲ティラガマの中でのウガン(両区長) ▲同ガマ内部でのウガン
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▲神ヤーと神アサギミャー ▲運天の神アサギでのウガン
【上運天のタキヌウガン】(午後3時~4時半)
午後三時に合わせて上運天と運天の方々がウガンジョ(上運天のアサギミャー)に集まる。区長と書記、何名かの有志の方々が神アサギ周辺の拝所を拝む。
①上運天のお宮(拝殿)
②根神ヤー跡
③掟火神(ムラヤー跡)
④神アサギ
⑤上運天の御嶽のイベ
⑥上運天の神アサギミャー
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2004.9.28(火)
ハードな日々が続いている。積み残しの業務が多い。明日は沖縄市での講座があり、これからスライドの選び出し作業に入る。「山原のムラ・シマ」がテーマである。レジュメなしか。
展示も二転、三転している状態なり。画像で紹介しておきましょうか。外にも大分変ったところがあるが、次の楽しみ。
さて、これから講演の準備にかかるか。
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▲助っ人のエリ子さん ▲石垣のある家
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▲日々変る正面の展示 ▲「恋の島」部分も大分変りましたよ!
2004.9.26(日)
台風で閉館にすべきか、出勤途中考えてしまった。午前9時前には沖縄本島北部は暴風域から抜けたとの放送。ならば、開館である。閉館ならば、展示作業に没頭できるのだが・・・。やはり、あれこれ入ってくる。
午後から展示に入ることができ、大分作業がはかどった。正面の古宇利島の1970年頃の島の様子を文章(石野)で描いてみた。当時の島の様子が手に取るようにわかる(まだ未公開)。
近世の絵図にみる古宇利島。解説文を読むとなかなか面白い(解説部分は、まだ未展示)。古宇利島の小字と地名を展示し、地籍図も出してみた。地籍図は現物資料なのでケース入りだな。バックの色彩を変えてみた。意外とよし。
いつの間にか古宇利大橋には数多くの神人達がやってきている。一般の方々もお招きしないといけません。考古の発掘遺物も展示をまっている。もう少しお待ちを。
学芸員実習で展示に関わった学生達は、展示がどうなっていくのか心配しながら眺めているようで!明日は古宇利島の漁業と祭祀、そして歴史の展示にかかる予定。
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▲正面の展示はまだまだ動く ▲大分固まってきたようだ
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▲遠見所と近世の絵図、そして原石 ▲小字と地名、そして地籍図
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▲たくさんの神人が来訪。島から? ▲島の発掘遺物が展示を待っている
2004.9.25(土)
また台風が近づいているようだ。昨日も古宇利島に渡る。屋号調査のため。宮城新喜さんから聞き取りをする。まとめはうしまるさんが展示で紹介の予定。
先日採拓した古宇利島の原石の拓本の裏打ちをする(9枚)。大した大きさではないので、すぐにできるかと思っていた。ところが、電話や来館者やテレビ取材などがあり、作業も中断ばかり。ノリと水を使う作業なので、手を休めることができず来客を待たせたり・・・。
展示は着々と進めているが、大きな変更などがありバタバタ。古宇利島の考古遺物も文化財から届いている。もう少ししてから展示していく。展示の近況は後ほど画像で乗せましょう。
島の方にチグヌ浜はチブヌ浜(壷の浜)だと教えてもらった。なるほどである。チグヌ浜は「ツグチ」つまり津口ではないかと考えていた。ところが、チグではなくチブ(壷)なのである。チブを聞き間違えたのか、それとも壷のことを古宇利島ではチグと発音するのか。
それはどうであれ、チグはチブだとわかった。チグヌ浜には洗面器ほどのボットホールが数多くあり、それに因んだ地名であったのである。チグヌハマの語義を津口でもなく、壷でもなく、営業妨害になりそうな解釈をしている方がいた。これで私もチグヌ浜のソバがおいしく食べれる。
(工事中)
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▲拓本の裏打ち作業(水噴き)
▲原石部分の展示をつめる
2004.9.23(木)
午前7時35分運天港発の古宇利丸に飛び乗る。港で船に乗る島人同士の挨拶は「朝帰りですか?」である。運天港から一便に乗る島の男衆は、あいさつ言葉とは言え、「・・・があったので」と考えておかなければならない辛さが窺える。ともあれ、島に渡るよそ者にとっては、いい調査日和である。運天港から見える古宇利大橋の上にあがる太陽と橋や島影はいいものだ。
本日の調査メモの一部を紹介しましょう。
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▲運天港から古宇利大橋方面をみる ▲今朝の古宇利港からみた中森
・「ヲ いれ原」の原石
神行事の準備があったにも関わらず、区長さんが車を出してくれた。まずは、「ヲ いれ原」の原石のある現場へ。そこは何度行っても、一人では迷う場所である。石積みの土手があり、その上に原石が立っている。今帰仁村で土手と原石がセットで残っている唯一のものである。
採拓している最中に青大将がミョロニョロと向かってきた。ハブではないにしろ長い者は気持ちいいものではない。冷静を装っていたが、やはり動転していたと見え、拓本を二枚の予定をしていたのだが一枚、それと実測もしてない。デジカメの撮影も二枚だけ。直接日差しが当っていたので・・・。ハハハ
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▲ヲ いれ原の原石の採拓中 ▲前方から青大将が出てくる
・遠見所(台)
遠見所(台)まで草刈りがなされていた。昨日区長さんともう一人の方で草刈りをしたという。ありがたいことである。「国のお偉い方でも見えるのですか?」と聞いて見たかったのだが。岩の頂上部には三角点のコンクリート(石?)が埋め込まれている。「二等 三角点」らしき文字が掘られている。「基本測量 三角点 大切にしましょう」と書かれた標識が立っている。1644年に制度化された「烽火制」のポイント(遠見番所:火立ち屋)の一つである。
伊是名島や国頭の辺戸や比地、今泊の大嶺原や伊江島が見渡せる位置にある。ここは確認のみ。ここから見渡せる四方の画像は展示で紹介することに。
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▲遠見所(台)への道 ▲遠見所(台)にある三角点
・「に あ加れ原」の原石
「に あ加れ原」の原石のある場所へ。トゥングヮヌ御嶽の下の方の畑の土手斜面に置かれている。石積みの土手が近くにあると思われるが確認できていない。この原石のある一帯は、現在の東原である。元文検地(1735~52年の頃から東原だったようだ。「あがれ原」の「が」は加に濁点を打ったものか。.(最大横幅27cm×最大縦幅57cm)
▲東原にある「あかれ原」の原石 ▲採拓中
・「ほ あらさき原」の原石
「ほ あらさき原」の原石は集落内の仲宗根氏宅の庭先に置かれている。島の北側から持ってきたという。現在の原名に「あらさき原」はないので、かつてはあったが、どこかの原域に組み込まれたのであろう。(最大横幅28cm×最大縦幅60cm)
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▲仲宗根氏宅にある原石 ▲採拓本中
・サブセンターの資料
原石の採拓は10時半には完了する。その後、サブセンターで資料確認である。すでに区長さんが出してあり、30冊余の帳簿が主である。戦前の資料は一点もなかった。ざっとタイトルだけはメモしてきた。それと中身を整理したいこともあり、一部借り出してきた。戦後資料とは言え、復帰前の資料もあり、当時の様子が伺えるいい資料である。詳細な中身の紹介は改めてすることに。
・税金台帳(昭和50年)
・決算報告書(1968年)
・蔗作農家原簿(1969.70年期)
・金銭出納簿(1966年~1972年期)
・商店別仕入・支払帳
・字会計簿(1971~1973年)
・一筆限帳(戦後)
・土地台帳(戦後)
・常会記録簿(昭和47年)
・決算報告書類(1967年度)
・行政委員会記録簿(昭和47年)
(全部で30冊余あり)
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▲古宇利の農村環境改善サブセンターの帳簿類などの資料
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▲船上から本島側をみる ▲おもろに謡われる嘉津宇岳がみえる
いい調査ができました。企画展に生かします。島の方々ありが
とうございました。近々、企画展のコマーシャルを流します。
(古宇利の区長さんから、さりげなくタコの差し入れありました。職員で
頂きます。多幸がありますようにと、願って! 企画展頑張らないと
いけませんね)
2004.9.22(水)
23日は休館です。
明日は古宇利島の調査に入る予定(午前中)。原石の拓本は天気次第であるが公民館資料の確認は天気に左右されることなくできる。字誌と企画展―古宇利島 島に橋が架かる―に関わる調査である。
・「ヲ いれ原」「ほ あらさき原」「に あかれ原」の実測と拓本採り
(展示用)
・遠見所(台)と三角点の撮影と確認。
・公民館(サブセンター)の資料(文書・豊年祭の衣装など)の確認調査。
古宇利島の公民館(サブセンター)の資料調査は以前から考えていた。現在進めている『古宇利誌』を編集する過程で、どうしても確認しておく必要がある。確認しておかないと、字誌が出版された後に「そんな資料がありました」では悔いを残してしまう。「公民館が何回か建て替えられたので、めぼしい資料はない」とは聞いているが、やはり自分の目で確かめておきたい。資料があるかないかの確認調査だけでも・・・。古宇利区長が立ち会ってくれることになっている。
古宇利島の最高部(標高約105m)に遠見所がある。『球陽』の尚賢王四年(1644)の条に以下のように記されている。
【始めて烽火を各処に設く】
本国烽火あることなし。或は貢船或は異国の船隻来つて外島に至るや、只使を遣はし、
以て為めに其事を禀報することあるのみ。今番始めて烽火を中山の各処、并諸外島に張
つ。而して貢船二隻、久米、慶良間、渡名喜、粟国、伊江、葉壁等の島に回至すれば、即
ち烽火二炬を焼く。一隻なれば即ち烽火一炬を焼く。若し異国の船隻あれば、即ち烽火三
炬を焼く。転次伝へ焼き、以て早く中山に知らすことを為す。
・烽火(のろし)の制度は尚賢王四年(1644)に設置される。
・これまでは貢船や異国船がくると使いを遣わして報告するのみであった。
・烽火あげ場を本島の各地に配置した。
・貢船二隻が久米・慶良間・渡名喜・粟国・伊江・葉壁などにきたら烽火
を二炬を焼く。
・一隻ならば烽火を一炬を焼く。
・異国船ならば烽火を三炬を焼く。
・烽火を転々とつないで中山(首里王府)へ知らせる。
古宇利島の烽火について宮城真治は「火立て屋」として以下のように記してある。
・位置 宿ノ前原
火立て屋 チータッチュー屋三つあった。中に薪を一ぱい、薪は
間切船、唐船や大和行の船を見た時、その一つを焼く。
火立ては国頭・伊平屋・具志堅・伊江にもあった。
・その番人の家 遠見屋という。
唐船の入る頃になると掟も来て勤める。
古宇利の人よりの番人は六人、功によって筑登之より親雲上の
位まで授けられる。
終身職で頭を免ぜられた。
近世の琉球の制度の一つに烽火の制度が確立される。そのポイントの一つが古宇利島の遠見番跡である。首里王府へ情報を伝達するために烽火あげ、火立所を次々を繋ぎながら伝えていく。古宇利島から今帰仁村今泊と本部町具志堅との境の大嶺原のピータティファーイへ。そこから伊江島へと繋ぐ。
古宇利島が近世の地図に漏れなく記されるのは、首里王府への重要な伝達ポイントであったのであろう。各地の烽火あげ場を結んで展示してみることにする。
現在は遠見所に国土地理院の二等三角点が設置してある。それも測量基準点として大事なものである。三角点は乙羽岳の頂上部にもある。
(写真提供ありがとうございます)
(この図は展示に再利用しましょうかね)
2004.9.21(火)
本日は振り替えの休館日です。
またのお越しをお待ちしています。
2004.9.19(日)
パネル作りの一日なり。展示の進歩はありません。村運動公園から古宇利島を見てみた。ウッパマ(大浜)の左手に古宇利島がある。また、ウッパマの向こう側に古宇利大橋。いつも見ている風景であるが、画像にしたことがないのでハイ、パチリ。おまけに近くで木の実を食べているコウモリも。
コウリはコウモリのモが脱落してコウリになったと珍説を唱える方が登場してくるかも。表記がコウモリに似ているとか。どこかでカメの形に似ているからカメ島と唱えている方がいるという。そう言われると海岸段丘や上空から見ると亀に似てないこともないね!ならば、カーミージマかハーミージマ。酒や味噌を入れる甕(カメ:カーミやハーミ)と間違えられるかも。
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▲運動公園から古宇利島を見る ▲ウッパマの様子
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▲一本松と小島と浜がいい ▲昼間も食べないと・・・(コウモリ)
2004.9.18(土)
学生達がみんな引き揚げていった。少し足をとめて、展示全体の見直しをする。古宇利島の概要を整理しながら・・・。
古宇利島の概要
●フイジマやクイジマと呼ばれることから恋島、島の形から餅島とも
呼ばれる。フイやクイは海を「越える」ことに由来する。
●島の面積は約3.12k㎡、運天港から航路で約2,350m、フェリーで
約10分の距離である。
●平成8年度の世帯数145戸、人口352人(男195、女157)である。
●島には七森七嶽(ナナムイナナタキ)があり、祭祀(サイシ)が残る島として
知られている。
●三段の海岸段丘からなる島である。北側の渡海浜にポット・ホール
がたくさん見られる。
●島の東側と北側に砂浜があり、そこを除いた海岸線は断崖となっ
ている。
●島の最高部に国土地理院の三角点があり、標高が約107mであ
る。そこに異国船遠見番所(トゥミヤー)跡がある。
●川がなく集落の東側に二つ(アガリヌハーとイリヌハー)の井戸がある。
●島は村内(ムラウチ)・上原(ウイバル)・下原(ヒチャバル)の三つの集落か
らなる。
●島の中心となるムラウチ集落は、島の南側の斜面に発達し、港や
ムラヤーなどがある。
●島の中央部にある上原(ウイバル)集落は、主に寄留した人達で形成
されている。
●島の北側にある下原(ヒチャバル)はムラウチからの分家筋の人達が
多い。
●平成8年の農家数は71戸で、主な農作物は紅イモ・スイカ・サトウキビ
などである。
●平成8年の古宇利島の漁船は61隻(82.94t)である。同年の古宇利
漁港の漁獲高は350tである。
●漁法は固定刺網、小型定置網などがあり、魚種はブダイ、ハギ類、
ハタ、アイゴなどである。
●採藻や採具などで、ウニやイカやタコ、そして養殖モズクなどの漁獲
がある。
●昭和40年代には豚が200頭近く、馬が80頭近く飼われていたが、現在
は全く見られない。
●島の人々の生活
●島の祭祀や祭祀場や島の地名(原石)
●古宇利大橋(航空写真の提供あり)
●平成17年3月古宇利大橋が開通の予定。
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▲導入部分からボツボツ固めていきます!
2004.9.16(木)
約8mのサバニの移動。大仕事である。三名でエンヤコラ! 古宇利の漁業のコーナーも必要。明日にでも大漁を願ってサバニにウートゥートゥでもしましょうかね。
松村さんの古宇利のムラウチ集落のマップが仕上がってきた。現場に即しているのなかなかわかりやすくていい。学校やムラヤーや石垣の家など。色づけして明日には完成しそう。よろしく。
疲れがピークなり。明日にでも書き込みましょうかね。
(工事中)
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▲8m近いサバニを展示室へ
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▲古宇利の集落マップ(松村画)
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▲辺土名高校の生徒100余を歴文と今帰仁グスクまで。歴史学習なり。
2004.9.15(水)
学芸員実習は昨日で終了であるが、残った三名が持分の仕上げのためやってきた。ありがたやである。私は相変わらず、会議や来館者の対応で展示に関わる時間がない。飛び飛びの時間での展示作業である。6時後から、やっと展示にとりかかことができた。
準備段階も展示として見せる方針をとっているので、画像で紹介している。そのため、ポンポンと変わっていく。それはいつものこと。写真を選び出したり、パネルをつくったり、色塗りや橋をつくったり。学芸業務のすべてを一気にやっているようなもの。それについてくる職員や学生達にいつも感謝である。
さて、今日も展示の進み具合はボツボツであるが進展はいくつかあった。導入部分、古宇利島の遺跡、古宇利大橋を島へ仮接続、古宇利島のパル石など。現物展示はまだであるが、発掘遺物などの展示は最後となる。ほとんどが手作りの展示物なり。委託発注するといくらになるだろうか?(わかりません。そんな仕事の仕方はやったことがありません。来年はやる予定なり)。
一気に展示できそうであるが、合間をぬっての作業なので遅々と進みません。気長に見守ってください。そのため展示作業の途中も展示の内なりと考えている。見学者もはいてくる。どうぞである。ハハハ。
▲導入部分もボツボツ ▲古宇利島にある遺跡も・・・
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▲本日古宇利大橋を島に近づける ▲古宇利島のハル石も展示(歴文所蔵)
2004.9.14(火)
多忙でなかなか展示にかかる時間がない。ちょこちょこ展示会場へ。今日はウンジャミ(海神祭)のパネル整えと人類発祥伝承の絵、古宇利大橋の欄干の取り付けまで。仮の渡りぞめをしました。神人達約2km歩けるでしょうか?
学芸員実習最終日、これから送り出し会なり。ご苦労さんでした。
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▲祭祀の一部のウンジャミ(海神祭) ▲山原の神アサギの分布図
▲人類発祥伝承の組み絵
▲組み絵の三枚なり(5枚の内の3枚)(原画照屋)
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▲本日、神人による仮の渡り式なり
2004.9.11(土)
天候が思わしくないので学生達は一日展示の作品づくり。照屋さんが人類伝承の物語の絵を5枚。タイトルは「ふいちゃんとゴンちゃんの物語」と決まりました?ふいは古宇利島のこと。ゴンちゃんはジュゴンのゴンである。どんな人種が誕生したんだろうかと大笑い!
企画展のタイトルが「古宇利島―島に橋が架かる―」となりました。この時期に古宇利島をテーマに企画展を開催するとなると、古宇利大橋が前面に出さざる得ないでしょう。それで、古宇利大橋の模型を作ってみた。今日は歩道や欄干などの色塗りでした。古宇利大橋の設計図は見ていないので、それらしい橋を作ることに。本物の橋は、今見たところ単調なので、欄干など少し誇張。26本の脚は多すぎたので半分に。手抜きをしています。
仲村くんは古宇利島の考古編。古宇利A遺跡・B遺跡・C遺跡と中原遺跡の展示に取り掛かる。個性的な展示。次回にでも紹介しましょうかね。
松村さんは古宇利島の集落部分を絵に。ナカムイヌ御嶽周辺は大分できつつある。
全体の動きは「古宇利島の七森七嶽」とタイトル「古宇利島―島に橋が架かる―」を掲げる。タイトルが入ると、展示会がやってくるとの実感が湧いてくる。ボヤボヤしておれません。夕方から夕貴さんも手伝いに。槇一朗くんも舟の模型づくりを。
広島の四名は無事に着いたとのメールが届いている。残った部分はこちらでやりますので。ご心配なく。ご苦労さんでした。
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▲おお、もうタイトルが・・・ ▲これが歴文の古宇利大橋か・・・!
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▲七森七嶽を展示するとどうなる? ▲小人になると、大きな橋だな
2004.9.10(金)
午後から少しばかり時間ができたので展示作業を。古宇利島が記された地図や絵図などを掲げてみた。
①『海東諸国紀』(琉球国之図)(1472年)(郡島 有人居)
②『正保国絵図』(1645年)(今帰仁間切之内 沖ノ郡嶋)
③『琉球国絵図(幕府撰元禄絵図』(元禄拾五年:1702年)
(沖縄県歴史の道調査報告書所収)(沖ノ郡島)
④バシル・ホールの海図にハーバーツ島(Herbert's
island)
⑤『ペリー遠征記』(1853年)(Koui)
⑥『今帰仁間切古宇利村全図』(明治36年)
⑦『今帰仁村字古宇利全図』(明治41年以降)
⑧ 同
古宇利島の祭祀の一部の展示。ウンジャミ(海神祭)のパネルと分布図を。キャプションや解説などは、まだまだ先のこと。
①ムシバレー
②タキヌウガン
③サーザーウェーとピローシ
⑤プーチウガン
古宇利島の人類発祥伝承を照屋さんが数枚書いている。仲村くんは古宇利島の遺跡の位置図や解説。松村さんは古宇利島の戦前の家や神アサギなどの絵を描いている。それとパネル張り作業。古宇利大橋の欄干づくり。作品の完成までは、まだまだである。学生達は展示の面白さがボツボツ見えてきたかな?
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▲古宇利島に関わる歴史的な地図や絵図 ▲古宇利島の祭祀(ウンジャミ部分)
2004.9.9(木)
古宇利島をゆく。先日台風で渡れなかった古宇利島にゆく。古宇利島をテーマにした学芸員実習なので、島に渡らず終わるのは心残りである。急きょ10時便で島に渡ることになった。古宇利区長さんが車で同行してくださりありがとうございました。
古宇利島はプトゥキヌメーの御嶽・渡海浜・ビジュルメーヌ御嶽・神アサギ・ナカムイの御嶽・お宮・シラサなど。疲れていたので、途中から学生達は自由に島歩き。歩いたかどうか・・・。疲労困憊の私はサブセンターへ。帰りは運天の上間商店でソバ・ゼンザイコース。そして、ありました。念願のイカが。買い占めてきました。ハハハ
古宇利島から帰って学生達は展示の準備会場でしばらく休憩。またまた急きょ本部町具志堅のシニーグを見に。・・・
残りは明日にでも。これから広島組のさよなら会。
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▲島の北側の渡海浜 ▲ポットホール(円筒状の穴)の大きさ?
▲フェリー上から島全体を写す。島の西側(左)に海岸段丘がはっきりと見える。
▲フェリー上から古宇利大橋をみる。おおおー、繋がっている。
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▲今年はウンジャミは台風で行なわれず! ▲ナカムイの御嶽のイベ
2004.9.8(水)
晩8時から「運天の字誌」の編集会議なり! 夕方、たて続きの来館者。辺土名高校の歴史学習の件、位牌移転の件、墓の写真、学芸員実習の学生達、・・・・・、頭が回りません。一つ一つ片付けないと。パンク状態なり。明日まで持つか!あきさみよう!
あれこれ業務が山積。そのため学生達は海の学校へお預け。午前中、大井川下流域でシーカヤックで、流域を散策してもらった。どんな風景が見えてきただろうか。過去の人々が海の彼方から、やっと島を見つけ、河口から陸へゆっくり遡ってゆく気分はどんなものだろうか。十分に味わってくれただろうか。余裕がなく、漕ぐのが精一杯だったかも。一人は自分の世界で古宇利島へ。それぞれの報告が楽しみ。
合間をみて、様子を見てきた。下半身ずぶ濡れ、どろんこだらけ。机上だけでなく、汗をかき土にまみれながら考えることも大事。そういう体験から発される言葉には重みがあり、人の胸を打つ。
海の学校のIWAIさん、学生達のおもりありがとうございました。助かりました。多忙で学生達を放り投げたいところでした。昨日のテレビ出演は内緒です(私は見ていません)。ハハハ
大井川下流域は炬港(テーミナト)である。
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▲大井川下流域。対岸の岩に大和墓がある ▲気持ちよさそうにスイスイスイと
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▲足が沈む前に上げて。抜き足差し足で ▲IWAIさんのヒルギ講座なり
2004.9.7(火)
台風の後片付けから。七名の実習生達の手を借りて。それも実習のうち。
古宇利のウンジャミや豊年祭の調査ができなかったので、東村の山と水の生活博物館と国頭村安波、安田、奥(ウガミ・資料館)、辺戸岬まで。
山と水の生活博物館ではマレツキ-氏の「懐かしき故郷の風景」(50年前の写真展)が開催されていた。以前から気になっていた写真である。昭和29年にマレツキー氏(人類学者)が一年間東村に滞在した時撮影した写真のようである。もう一度、一点一点しっかりと見たいと思っている。
展示されている写真の40点余は『東村史』(第一巻通史編)で見ていた。400点近い点数あると聞いた。大き目のパネルにすると、迫力はあるし、読み込みが十分可能である。学校・山稼ぎ・稲作・ムラの成立ち・畑仕事・働く婦人達・子供の祝い・鍛冶屋・建物・大工・海岸の風景など、当時の様子が手に取るように伺える。これらの写真画像は、東村の歴史資料であり、宝物だと思う。もっと、写真を手がかりに調査を進めてくれたらと思う。もちろん、一部はすでに常設展示に組み込まれているが・・・。
学生達は疲れたようだ!!
(工事中なり)
▲東村立山と海の生活誌博物館で
▲国頭村安波のハンタから見た集落
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▲国頭村安波の南山墓をゆく ▲国頭村安田の茅葺きの神アサギ
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▲国頭村奥のウガミからみた集落 ▲奥のウガミにある石燈籠と祠
2004.9.5(日)
昨晩から台風圏内にはいているようだ。館は本日閉館となります。雨水の吹き込み防止対策から。
学芸員実習生徒達は歴史文化センターで待機?避難? 宿泊地域が停電のようだ。一日動けそうにないが、台風の様子をみながら、館内で作業することに。
台風のため学芸員実習は、館内での展示作業となった。古宇利島のウンジャミの調査を予定に入れてあったが、渡ることができないので1984年のウンジャミをビデオで見ることにした。画像を見ながらの解説となった。久しぶりに神人達の元気な姿を見ることができた。もう見ることのできない神人の姿もありました。
島の情報を持たない学生達なので、まずは古宇利島の全体像から。前に作った古宇利島マップを使って遊んでみた。そして、その前に地形模型を配置する。それは広島女学院大学の持田、向田、西川、西岡さん。それと金沢の松村さん。古宇利大橋の色づけも進めてみた。それは沖国大の仲村くんと照屋さん。展示作品作りや展示の醍醐味がボツボツ実感できただろうか。手付きなど、見て見ぬふりすることが多い。ハハハ。
外は大荒れ。宿泊地は、まだ停電のようだ。
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▲古宇利島って、どんな島・・・ ▲島って、丸いんだ!
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▲早く架橋しないと本橋に負けます! ▲設計図見ていないから早もの勝ち
2004.9.4(土)
古宇利島の展示パネルの作成にはいる。約10枚くらい。展示物の作成は始めてのメンバーばかりなので、第一歩からなり。500分の1の橋の模型も手掛けている(全長約4m)。完成できるか?
(工事中)
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▲展示パネルづくり ▲古宇利大橋の模型の作成中
2004.9.3(金)
午前中90頁の原稿校正とちょっとした原稿だし。そのため実習生達は、自分達で企画展の展示作品の取り外し。取り外しは、そう時間はかからない。展示していく作業(造る側)を体験してもらうため。取り外しは一時間ちょっとで完了。
その後は展示パネルの高さの調整(昨日の続き)。午前中で完了する。やっと手が空いたので「沖縄の歴史」のレクチャー。明日からの天気がどうなるかわからないので、本部町具志堅へ。昨年の展示をした具志堅へ。掲げられていた写真の場所が、現場にいった時、どう見えたかの確認である。
①具志堅のグシークとウガミ
②神ハサーギ
③拝殿(イビヌメー)
④神殿(イビ)
⑤ハサギミャー(ハサギの庭)
⑥石垣のある家
⑦クラモー(トン・トト・トンの時の拝所)
⑨上間ヤー(上間神ハサーギ跡地)
⑩ウフガー
⑪イヂカタ浜(出方浜)
⑫大和墓跡
昨年参加した学生の印象を聞いてみると、何度言っても面白い。新しい発見があると。同じ場所を何度も行くが、行く度に何か得るものがある。だから、また行く。山原のムラ・シマがいつまでも、そうあって欲しいと願っている。
みんなの報告を聞いてみた。詳細については触れないが、ノートにしっかりと書きとめていただきたい。始まったばかりなので、ボツボツ行きましょう。いい報告ありがとうさん。
月曜日、シーカヤックで海から陸へ向う視点はどんなものか。体験する予定であるが、台風の動きを見ながらとなる(安全第一なり)。
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▲展示パネルの片づけ作業中 ▲外したけど、それなんだろうね?
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▲本部町具志堅の神ハサーギ ▲ハサーギナーで
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▲具志堅の「出方浜」のキノコ岩 ▲みんないい報告するなり
2004.9.2(木)
学芸員実習に入り、しばらく若者達と体力勝負。まだ負けません。午前中、展示について。展示の目の高さ、そしてこれまで見る側だったのが、今度は展示を見せる立場で考えてもらう。発想の転換である。常設展のパネルを10cm下げる作業をしてみた。早速反応があった。「展示変えしたのですね」と。「いや・・・・、?!ちょっと」と。シメシメである。
午後から古宇利島の展示について。考古を専攻している学生がいるので、古宇利島の遺跡をテーマにしたコーナーを設定。どんな展示になるか、なかなか面白い。島の成立ちは断面図を使って、そして古宇利大橋を手がかりに島の未来像まで描けるか?これまで港から島への出入りをしていたが、橋が架かるとどう変貌するのか。今回の展示も意義もそこにあるかもしれない。
やはり、島の宝物を描く作業が大事。これまで歩んできた島の歴史が、今の私達の宝物だということをどこまで見せられるか。歴史的な古宇利島の登場する地図から、本島側からみた古宇利島がどう見られていたのか。今帰仁間切の地頭代が古宇利親雲上を名乗ることと無関係ではなさそうである。
午後4時頃広島の四名が到着。これから大変な生活が始まる。どう切り抜けていくか。楽しみじゃ。
2004.9.1(水)
9時半からRBCTVの取材あり。10時から学芸員実習をスタートさせる。他のグループも一緒なので、みんなの表情を見ながらの現場踏査となった。
①今帰仁村仲宗根(ウタキと集落・マチの展開)
②池城墓と炬港(墓の形態と港の概念)
③今帰仁村崎山の神ハサギと集落
④乙羽岳(標高276m)/標準点あり(今帰仁村全体をみる)
⑤嵐山(パインを食べる、嵐山展望台)
⑥名護市でソバを食べる
⑦名護市(旧羽地村)川上(川上から見えるウタキやグスク)
⑧名護市(旧羽地村真喜屋―集落の展開)
⑨名護市(旧屋我地村)運天原(古宇利大橋の橋詰/石切り場跡)
(報告会:松村・照屋・仲村)
(工事中なり)
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▲乙羽岳の頂上にあるマウンド ▲マウンドの上にある「三等三角点」
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▲屋我地島からみた古宇利大橋 ▲座り込んで、ここから動きたくない・・・!