2001年9月の記録
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古宇利島/広島/「神人」(映画)/ナークニー大会/運天(講座))/など
2001.9.30(日)
古宇利島、 今元気のある島である。小中学校の生徒はじめ、島のおじい、特におばあたちが元気である。古宇利掟によれば、ぶらりぶらりやってくる人達がいるらしい。それは古宇利掟発のホームページの影響にちがいない。
10月1日、館長と美喜殿は第八古宇利丸で島に渡る予定である。渡島の目的はいくつもあるが、島を描く可視的な過去のものの撮影である。
・運天港から古宇利港(第八古宇利丸)
・古宇利島の港(古い桟橋~現在の桟橋)
・古宇利島の集落
・公民館跡地
・古宇利島の集落
・アガリガーとイリガ―
・ムラ墓周辺
・七森七獄
・島の北側にある穴
・ハル石(5基)(1基は歴史文化センター)
・遠見台跡
・現在の学校
・溜池(いくつか?)
・海神祭(撮影済み)
・古宇利島の航空写真(歴文センターで)
・島の人々の顔
・その他
それだけのもの2、3時間で撮影できるか心配じゃ~の......。島渡りは楽しみがいくつかある。人と出会い、かすかなシマの声を聞く。以前、つぎのような文章を書いたことがある。
古宇利島、そして港。そこは島の玄関である。どれだけの人が、そこから島を出て、そして戻ってきただろうか。島を出る、また戻るにしても、その一歩は港からである。日々の生活の中で、港とのかかわりを意識せず過ごしてきたが、港は島に住むわたし達に何を語りかけようとしているのだろうか。........古宇利掟に手をわずらわしそうですが、よろしくお願いします。
2001.9.29(土)
広島県、古くは安芸と備後であった時代がある。二人の学生と一人の大学院生が来館したこともあって広島に関心が向く。いつもの癖であるが、安芸・備後の人の顔が見えないか。そんな素朴な思いがあるからである。本土では一筋の川の上流から下流にかけていくつもの市や町や村があるのは普通であろう。ところが沖縄の山原では、一本の川筋に複数の町や村があることはほとんどないといっていい(同じ字(アザ)内の小さな集落はあるが、それが大きく文化を変貌させるほどのものではない)。
広島市から北上していくと八千代町、吉田町、三次(みよし)市へ。八千代町の上根地区に分水嶺(瀬戸内海から20km、日本海から150km)があるという。司馬遼太郎がその分水嶺に関心を持ったことに興味がひかれた。分水嶺を境にして瀬戸内海、その向こうは日本海に流れるのである。文化が下流域から上流に向かって流れるとするなら、広島県の八千代町が瀬戸内からの文化とするなら、吉田・三次は日本海側の出雲文化が来たのではないかという仮説は今でも脳裏に刻まれている。
それに比べて小規模の沖縄の水系に適応できる論ではないが面白い。このような視点が山原のムラ・シマをみていくキーワードを見つけ出すことができるかも.......。過ぎ去った学生達が遺していったものに安芸・備後(広島)の顔を、きっと見つけることができたにちがいない.......?
2001.9.28(金)
午前中、公民館廻り。ナークニー大会の広報係です。区長さんや書記さんと出会うのもまた楽しや。「どんな人達が出場するのかね」「今帰仁グスクでもやってみたいね」「今回はコミセンですよ。聞く方の耳がもっと肥えてからグスクでやりましょうね」など。湧川の山城要八さん(87歳)、大先輩が歌詞を届けてくれています。「上手じゃないですが....」「いや~、もう87歳で出場してくださるだけでも、一番ですよ」「そうかね」ニコニコ。(実にいい顔をされます。)ボツボツ出場者の顔が見えてきました。どんな方々が申し込んでこられるのか楽しみです。美喜さんは一日宛名書きです。明日あたりから看板を掲げます。
越地川の水や砂かみて湧ちゆさ
越地美童ぬいるき美らさ
広島からきた富田さんは父が学生時代に訪ねたという伊江島へ。資料館で戦争の遺品の前で立ちつくしてしまったという。広島の原爆、そして沖縄戦が二重三重にのしかかってきたのでしょう。イイタッチュに登り、ここちよい沖縄の思いを胸いっぱい吸い込んで帰ると.........。島村家からピーナツ。たくさんのおみやげ。ありがとう。(館長)
2001.9.27(木)
午前中、運天の字誌の打ち合わせ。うし丸さんも字誌の「目次」打ちに懸命。午後から今泊のヨーハビー(妖火日)の調査。ヨーハビーは別名シマウイミともいいます。夜になるとタマガイ(人魂)がユラリユラリとあがったそうです。今夜は雨なのでタマガイは見えませんね。来年は歴史文化センターの展望台からみてみよ~と。
さて、今日の祈願は午後2時からフプハサギ(親泊)から始まりました。今帰仁ノロ、新里からみえた神人、区長、書記さんが神ハサギの中でのウガンに参加。神ハサギの回りに神人のつれの方や取材記者(共同通信)、私たち(うし丸、富田、館長)が見守っています。フプハサギでのウガン(御願)が終わると徒歩でハサギンクァーへ移動。
そこでもフプハサギと同様、今帰仁ノロ、神人、区長、書記さんがハサギ内で線香・神酒(泡盛)・お米を供えています。そうそう、忘れていけない煮しめた三枚肉も。(煮しめ物は門中から提供されていたようですが今回はどうだったでしょうか? 書記さんから聞いてみようと。三枚肉はノロや神人に差し上げるものでしょうが、わたしも三枚肉をウサンデーしました。(お昼に三枚肉そばを食べたばっかりでしたが.......。しっかりとお腹におさまりました。ご馳走さまでした。
ハサギンクァ内でのウガンがすむと、クボウヌ御獄(?)に向かって遥拝。あるいはウッチハタイ(現在、そこに獅子小屋ができた)へのウガンなのかもしれない。そこまではどうにか雨が落ちず無事終えることができました。
4時半頃から公民館の二階の舞台で棒術と獅子舞が行われました。シマの方々や小さい子供達が棒と獅子舞を見に集ってきました。雨でなければマーウイ(フプミチ)でおこなわれます。獅子小屋が移動したので今回どんな形になるのか関心がありましたが、雨のため公民館の舞台で。棒と獅子舞でシマの厄介払いができたことでしょう。ザーザーと雨の降る晩でしたので、タマガイは出没前に消されたかもしれません。合掌......。
2001.9.26(水)
雨、雨.....がつづいています。歴史文化センターを訪ねてこられる方々も次々と。長時間の来訪者が多く、25日は数時間も話している始末です。
ナークニー大会出場者の名簿を作ってもらったら20名近くになっています。これから出場者の募集をかけたら倍近くになりそう。それで急きょ看板は募集をはずしてナークニー大会の日程のお知らせだけとしました。出場者が思ったより早めに確保できそうなので一段落。これからが、事務局の頑張りところ。東京から持田さんが奄美風ナークニーも披露してくれるかも。
今日は旧暦8月10日、城ウイミ(ウフウイミともいう)が今帰仁城跡の神ハサギ跡で行われました。今帰仁ノロ、新里から見えた神人、区長、書記さんなどが参加しています。歴史文化センターからうし丸さん、広島からきた富田さん、そして館長が参加。今帰仁グスク内の神ハサギ跡にある石の香炉の前に勾玉と簪を納めた黒い木箱が二つ。神人は香炉・勾玉と簪に向かって御願をしています。(本来、ノロは勾玉を首からかけ、簪を挿したのであろうが、代理ノロのため持参して置くだけ)。本日の祭祀の場は城内の神ハサギ跡のみです。1960年代まで字のブーで茅でハギ屋がつくられたようです。花米・御合水(神酒)・お重・線香が供えられています。「ムラの繁盛、子孫繁栄、世果報」を祈願しているといいます。11日は島ウイミ、ヨーカビーです。
三年前、ここで学芸員実習をした広島の富田さんがやってきました。今年も富田さんと同じ大学の学生が二人学芸員実習を終えて帰ったところでした。広島の手づくりのお好み焼きが届きました。食をした美喜さんはおいしかったとのこと。館長とうし丸はこれから食べることにします。きっと、おいしい........、あ~、生唾が....ありがとう。
ここで学んだ学生達が社会に出て旅のいっときではあるが、またやってくるのは嬉しいものです。ムラの方々の関わりもそうですが、歴史文化センターが戻ってこれる場であること。ありがたいもんです。富田さんは職員同様調査、そしてブックフェアへの書籍の梱包作業をしてもらっています。肉体労働で筋肉を使い、湿度100パーセントで元気を取り戻してもらいましょう。
2001.9.22(土)
今帰仁ナークニー大会に向けてのチラシ、看板づくり。日程の変更や時間の調整などがあり、やっと決定しました。いよいよナークニー大会に向けて本腰を入れます。今帰仁ナークニーはムラ・シマ(字)ごとに節回しや歌詞が異なります。地名・恋・農作業・遊びなど生活と密接に結びついた唄です。哀愁を帯び、思い入れ・情けを込めて謡われます。担当する歴史文化センターの職員はナークニーとは無縁のものばかりですが、ムラ・シマの方々の今帰仁ナークニーを謡う歌詞と旋律に今から胸をときめかしています。宣伝はこれからですが、ムラ・シマの方々の期待にそう大会にできればと看板やチラシづくり。
夜8時から家族総出でナークニー大会の看板作り。家族総出と言っても、息子は一人で何やら遊んでいますが。仙人、うし丸、クマ五郎と、あやしい大人3人で作業に取り掛かれば、あ~ら不思議。さーらばんない、お仕事が進みます。やれやれ、皆さんご苦労様。
山原出身ではない私にとってナークニーは身近な唄ではありませんが、ナークニーの旋律を聞くと、八重山の祖母を思い出します。祖母は戦後、石垣を出て、私の母と一緒に那覇に移り住みました。私は9つの時まで祖母と同居していましたが、とても唄の好きな人で、良く民謡を唄っていたのを覚えています。両手をゆっくりとすり合わせてリズムを取りながら、八重山の民謡を次々と唄う祖母の姿は、普段見ている祖母と違い、唄の世界、生まれ育った石垣島の風景と溶け合って、今でもそこに生きている祖母の姿でした。それから十数年たち、祖母は他界し、私は本土の大学に進学。そしてこのままここに住もうと心を決めていました。
卒業を間近にひかえたある日、寒い風の中を急ぎ足で歩いていた私の胸の中に、ふいに聞こえてきたばあちゃんのトゥバルマー。そのまんま街角に立ち尽くし、ぼろぼろぼろぼろこぼれる涙を止めることができませんでした。帰るつもりのなかった沖縄に私を引っ張ってきたのは、ばあちゃんの唄の力なのです。
2001.9.21(金)
16mmフイルムの映写確認をしてみた。公民館の映写機での試写ですが、音声が出ず画面での試写会となりました。一本は「神人」、もう一本は「今泊豊年祭」です。神人の上映にあたって映写機や会場などの準備に必要な道具などの確認のためです。音声まだ不十分ですので明日再度挑戦することにします。
2001.9.20(木)
大阪から16mmフィルムが届きました。早速開封。京都の玉城仙一さん、大阪の上間重夫(村人会会長)さん、新城寛さんはじめ今泊郷友会の皆様のご好意ありがとうございました。多くの方々に観ていただき、共有の財産にしたいと考えています。
「運天港界隈」を散歩する気持ちでの3回目の公民館講座。歴史文化センターは、北山(今帰仁)の歴史、運天港の歴史、ムラ・シマの歴史を三本の柱にしています。今回の「運天港界隈」は三本柱の一本でした。河童頭の館長が運天の歴史の流れを素描し、さらにうし丸さんがスライドを使って現場に立っているような雰囲気でわかりやすく丁寧に。そして参加者の気持ちをしっかりとつかんでの説明。終わってから、いくつもの質問がありました。それにも答えます。講座を通して多くの方々に伝えることは、歴史文化センターの教育普及活動の一貫でもあります。参加者の皆さん、ご苦労様でした。また、来月..
2001.9.19(水)
20日は第3回目の公民館講座。いつも多くの参加者がいます。とてもありがたい。今回のテーマは運天港界隈です。運天港は今帰仁グスクを中心とした歴史と肩を並べるほどの歴史があると考えています。いつも熱が入ります。歴史文化センターの調査研究のべースになった港でもあります。為朝公の渡来伝説・為朝公上陸之跡碑・テラガマ・トンネル・ムムジャナ墓・大北墓・大和人墓・古い墓群・井戸・大川・港・番所跡・運天港・オランダ墓・オモロに登場するむてんなど、運天を紐解くキーワードがコロコロしている感じです。20日はそれらのキーワードで運天の歴史を話す予定です。冊子の印刷・製本、そしてスライドを使っての歴史の説明はうし丸さん。館長はこれからスライドの選び出しです。「運天の歴史」は『なきじん研究 3』にあります。もっている方は、開いてみるといいですよ。運天の歴史の向こうに、あなたが探しているものがあるかも........。きっと....。
2001.9.18(火)
14日学芸員実習が終わり、焼き鳥屋で職員ともどもお茶で乾杯。焼き鳥(つくね・鳥革・ササミ・キムチなどもりたくさん)が印象深く残った実習だったかもしれないね。しかし、焼き鳥の美味しかったことを忘れさすような出来事が起きた。15日午前9時頃今帰仁を立つことになっていたのが、急きょ午前6時出発となったのである。広島の二人は、午前6時出発とあって隣近所のおばあさん達にお礼の挨拶もなしでの退去となった。館長が明日事情とお礼を言っておきますから。食い逃げではないと.....。5人の実習生が立ち去り静かになった館の実感を味わうことなく館長は大阪へ出張。
今回の目的は1975年に撮影された「神人」の16ミリ映画の映写会とそのフィルムの伝達式に出席するためであった。大阪に住んでおられる沖縄の方々が25年前の映画をどうみるのか、そして25年の歳月の一人ひとりがどのように生きてきたのか。そのことを確かめること。そのフィルムを保存し、活用していくことの責任が肩にのしかかってくる(詳細については「沖縄タイムス9月16日朝刊参照)。
もう一つ目的があった。それは琵琶湖畔の西湖をいくことにあった。京都で学芸員をしている玉城さんが、一帯の情報をつぶさに調べてくださった。さらに『古代近江の朝鮮』の本を下さった。助かりました。感謝。お勧めの石塔までいくことはできませんでしたが、湖西線を西大津・坂本・雄琴・小野・和邇・蓬莱などの駅名を追いかけながら様々な想いを巡らすことができた。司馬遼太郎の「街道をゆく」のスタートの地であることは知っていたが、国家が成立する以前と以後のことを近江のこの地に重ねあわせながら琉球のことを考えていた。琵琶湖の湖畔に立ち、渡来者のこと、職能集団のことなどについて考えていた。それにしてもいい旅でした。
2001.9.12(水)
学芸員実習の学生達は、昨日からパネル作製に入っている。大工仕事をしたことがほとんどない。しかしのこぎりを手に板や棒をギコギコ。くぎを打ちこみ、さらにペンキを塗る。乾いたら縁をカットした写真を貼り付ける。意外と楽しいようだ。次第に様になってきた。パネルづくりが終わると、いよいよ展示作業である。ムラ・シマを概要・あゆみ・御獄・神アサギ・集落など、いくつかのキーワードで展示してみるかな。明日から。
沖縄は台風の余波を受け、館そのものは閉館。しかし職員や学芸員実習は予定通り行っている。「厳しいと言われる所以は、そこにありか」(一人ごと)。学生達は「休みで家でコロコロしているより館にきた方がいいです」と、なんて優しい心遣いのコトバ。ありがたや。
午前中、展示パネル作製。午後から5名の学生達は海洋博の水族館と海洋文化館での研修。入館者の動きや流れ、目の高さ、照明、キャプション、疲れる展示かどうかなど、いくつか見るポイントをアドバイス。明日はどんな報告をしてくれるか楽しみ。帰り際の学生達の表情をみていると、楽しい見学だったようだ。いいことじゃ。ごくろうさん。私は残って調査のまとめじゃ。。
2001.9.11(火)
9日、10日と古宇利島の海神祭(ウンジャミ)調査をする。5名の学芸員実習も兼ねた調査であった。学生達は初めて海神祭をみることもあって食入るような眼差しで参与観察。台風を心配しながらの海神祭であった。神人の御願(ウガン)が見事に通り、天気に恵まれた。この神行事に参加する神人達の元気な姿にいつも感謝している。調査記録していくことも大切であるが、今回は特にこの仕事をしてきてよかったと実感した。島にそ~と渡って、そ~と帰ってこようと思っていたのですが、行事が終わると「館長、館長~」と呼び止められること何度か。振り向いた時、そこにあった神人のなんとも言えないあの表情。調査の原点に立ち戻された。
平成元年、私は初めて古宇利の海神祭の調査に入った。そのまとめをしていく過程で、ムラをみるいくつかの視点を授かった。海神祭だけでなく、これまで関わってきた古利島の人々との出逢いが歴史文化センターの財産となっている。島の学校の生徒達の参加は画期的な出来事だと思っている。生徒達の後方に座っていた70才余の島のおじい~さんが「この歳になるまで見たことなかったさ。今日はじめてだよ」とのこと。男衆はハーリーに参加したり見学したりするが、祭祀の場面を見る機会が極端に少ないのである。
10日は豊年祭。今回は最後まで見ることができた(午後10時半までにプログラムが終えることができたため)。最後に見事な場面があった。そのことは、海神祭の報告書で。学生達の報告(感想)は見事でした。なが~くなったのでここで止め。
200.9.8(土)
台風のためムラ・シマ講座は中止となりました。残念です。文化センターも閉館。広島からやってきた実習生二人が出勤。「今日は休みです」というと、「研修室で調べ物をさせて下さい」ときました。む、むmmm やはり実習はやらねばならぬか。一瞬館長の胸は迷ってしまいました。午前中、沖縄のビデオで予備知識を持ってもらうことにしました。外をみると次第に風がやみ、明日の古宇利のウンジャミ調査は大丈夫かな。この様子だと船はでそうにない。雨であろうが、嵐であろうがウンジャミはやることに決まっているし。う~ん。古宇利に渡ることができなければ本島でもやるか。それならば本島側の下見に出かけるか。ということで、塩屋を通り、根謝銘グスクの神アサギまで登ってみました。ウンジャミの準備は台風前したようでした。明日は久しぶりに大宜味の調査でもしようかと考えました。雨もあがり、しだいに国頭方面は青空が見えてきました。古宇利は大丈夫か。大丈夫そうだ。大丈夫。
天気が回復してきたので国頭村比地の自然環境センターに行きました。それから辺戸岬から世論島をかすかな島影を確認することができました。以前から気になっていた奥の資料館までいくことになりました。猪垣や田や茶などに関わる道具類がいい形で収集されています(しかし、残念なことがいくつかありました)。
安田をまわり、野外展示・展示の方法・テーマの設定の仕方・運営など学芸員が資質として持っていなければならない感性などについて、現場での体験を通して学ぶことができました。明日は古宇利のウンジャミ調査です。どんなことが島の人たちから学ぶことができるか楽しみです。
2001.9.6(木)
博物館の学芸員実習がスタートしている。ここ4年ばかり学生の受け入れをしてきた。今年は地元の大学の学生3名、広島から2名が希望してきた。実習の内容は、研修室の資料の片付けや搬入がなされた。もちろん、職員の日常的な業務を直に見ることも大事なことである。窓口業務、資料の収集、レファレンス、調査など。出勤して調査研究に没頭できることはほとんどない。しかし、それでも調査したものを形にしていく作業を進めていかなければならない。今回は古宇利島のウンジャミ調査に出かける。まとめが楽しみである。
今日は「今帰仁ナークニー大会」の募集要項配布の初日である。これまで個々にお願いしてきた方々に出演の依頼も兼ねている。どれだけの方々が募集に応じて下さるか不安もあるが、楽しみでもある。ナークニーを通して、多くの方々との出逢いがあるからである。不安が消え去るような大会に盛り上げることができれば幸いである。さあ、どうなるか。期待半分、不安半分。明日は明日の風が吹く。いつもバックアップしてくれる心強いスタッフがいるから大丈夫じゃ。よろしく。
ムラ・シマ講座の下見(本部町伊野波)に出かける。御獄・神アサギ・集落の軸線のわかるムラである。区長さんからシニグや神アサギ周辺のことについて伺うことができ下見の目的は十分に達することができた。「いしくびり」まで行く予定が急に雨が降り出し、歌に託された思いは体験できず残念........。
2001.9.7(金)
今日は台風のため、文化センターは休館です。子供の保育所もお休みであわてましたが、お迎えに行った後お昼を食べて、ちょっとだけセンターで遊ばせた後、夫ットに預けることができました。いつもは私が仕事を休まざるを得ないので、子供が熱を出したり、台風休園のときなどは「どぅー苦しい」のですが、本日は夫ットの職場の理解もあって、私は仕事に専念することができます。
昨日は伊野波の調査に行って来ました。神アサギのところで草むしりをしているおじさんが居り、色々お尋ねしたら明快に答えてくださり、もしやと思ってお尋ねしたら、やっぱり区長さんでした。旧の25日に行われるシヌグの準備で一人黙々と草むしりをしていたのでした。区長さんってあれやこれや大変だなあと思った矢先、「こういう準備もしなければいけないから、なかなか区長のなり手がいないんですよ」とのこと.。でもこの方は気負うことなく、その難儀を引き受けていらっしゃるようにお見受けしました。 神行事の話、田んぼの話、昔の石くびりの話など伺いながら、「私はなんて豊かな時間を過ごしているのだろう」と山原の最も深いところに触れている自分を感じています。人に合ってその人の語りを聞くことは、調査の中で一番「おいしい」部分です。
そのムラに暮らす人に合って始めて、知識ではない伊野波ムラが自分の中に降りてきて、活き活きとした像を結んでいく。この人の言っていることがあっているか間違っているかではなくて、ムラの中に存在しているこの人そのものを実感すること。それができた時、「調査対象」とか「研究対象」という言葉で一くくりにできない、その人が今在ることの「有り難さ」が身に沁みてくるし、今やっている調査が自分の命の深いところにもつながっていることも、感じられる。そういうことを感じているとき、すっごくシアワセなんだな、私は。「一人じゃないって~、ステキなことね~」(天地真理の歌、知ってる?)。おいしいおソバも食べたし、満足、満足の伊野波調査でした。(うし丸)
2001.8.29(木)
地頭代についてよく聞かれるので整理しておく。地頭代はジトゥデーと称し、明治31年に地頭代から間切長と変わる。さらに明治41年に村長と改変され、現在に至る。 尚真王の時代(1523年)に各地のグスクにいた按司達を首里に集めて住まわせた。首里に移居した按司達の領地(間切)に、按司掟を派遣して監督させた。その按司掟の制度は万暦39(1611)年に廃止となり、それに代わって地頭代が置かれた。
『琉球国由来記』(1713年)に「諸間切諸島夫地頭サバク理ヲエカ人之事」で「(地頭代役、筑登之座敷。叙黄冠。近代為叙黄冠之例ナリ)此役者、万暦三十九
年辛亥、除諸間切按司掟、建地頭代也 」とある。つまりは、各地の間切の按司掟は1611年に廃止して地頭代を置いたのであるが、羽地間切の按司掟の廃止は1713年から三、四年前である。他の間切より100年後まで遺されていたのである。
今帰仁間切の『琉球国由来記』の頃の地頭代は湧川大屋子、1750年頃になると古宇利親雲上と呼ばれ明治初期まで続く。古宇利親雲上を名乗る地頭代をした家はメーフイヤーの屋号が付く。古宇利島のことをフイ島と呼び、屋号のフイヤーはそれに由来する。
2001.9.13(木)
停滞している台風のおかげで、毎朝開館か閉館かの判断に迷うこの頃。ナークニー大会のお願いや取材、学芸員実習や字誌などの件で、あれこれと楽しんでいる(ほんとか、アホ)。ほんとにありがたいと思っている。学生達の昨日行ってきた水族館、そして海洋文化館の報告があった。水族館はじっくり見たようで、説明文や目の高さ、入館料など、これまでお客として見学していたのが、今度は学芸員として企画したり作る立場の視点でみてくれてありがたかった(一人ひとり、いい感性を持っている)。海洋文化館は5人とも初めてであった。いい展示してあるのだが、もう少し動きがないかな。さびしい館になっている印象のようだ(がんばろうぜ)。
今日は展示作業を主に動いてもらった。急きょ、2日で展示できるテーマに切り替えた(時間不足のため)。諸志のムラをテーマとした。諸志に関わるパネルを集め、概要・歴史的資料・ノロ関係の遺品・原石・湧水・井戸・ムラの人々・豊年祭などに分類してムラを描くことになった。まだ、途中までだが、味のある展示ができそうである。明日の最後の仕上げが楽しみじゃ。目の高さや流れなど注意しながらの展示である。学生達の感性が展示どう反映しているか。
晩は字誌(アガリのシマ)の編集員会に出席。遺言を託されたような字誌である。惜しみなく協力する決意をする。今日もあんなこんなでいい仕事させてもらったと感謝。
2001.9.18(火)
14日学芸員実習が終わり、焼き鳥屋で職員ともどもお茶で乾杯。焼き鳥(つくね・鳥革・ササミ・キムチなどもりたくさん)が印象深く残った実習だったかもしれないね。しかし、焼き鳥の美味しかったことを忘れさすような出来事が起きた。15日午前9時頃今帰仁を立つことになっていたのが、急きょ午前6時出発となったのである。広島の二人は、午前6時出発とあって隣近所のおばあさん達にお礼の挨拶もなしでの退去となった。館長が明日事情とお礼を言っておきますから。食い逃げではないと.....。5人の実習生が立ち去り静かになった館の実感を味わうことなく館長は大阪へ出張。
今回の目的は1975年に撮影された「神人」の16ミリ映画の映写会とそのフィルムの伝達式に出席するためであった。大阪に住んでおられる沖縄の方々が25年前の映画をどうみるのか、そして25年の歳月の一人ひとりのどのように生きてきたのか。そのことを確かめること。そのフィルムを保存し、活用していくことの責任が肩にのしかかってくる(詳細については「沖縄タイムス9月16日朝刊参照)。
もう一つ目的があった。それは琵琶湖畔の西湖をいくことにあった。
京都で学芸員をしている玉城さんが、一帯の情報をつぶさに調べてくださった。さらに『古代近江の朝鮮』の本を下さった。助かりました。感謝。お勧めの石塔までいくことはできませんでしたが、湖西線を西大津・坂本・雄琴・小野・和邇・蓬莱などの駅名を追いかけながら様々な想いを巡らすことができた。司馬遼太郎の「街道をゆく」のスタートの地であることは知っていたが、国家が成立する以前と以後のことを近江のこの地に重ねあわせながら琉球のことを考えていた。琵琶湖の湖畔に立ち、渡来者のこと、職能集団のことなどについて考えていた。それにしてもいい旅でした。