国頭村佐手
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【国頭村佐手】
(2005年12月28日)
今年の前半は1月の手術ということもあって、振り返ると慎重に体を動かしている。それが習慣になってしまったようで無理な動きをしなくなっている。国頭村の安須杜に登ろうと麓まで二度行ったが躊躇し、登らず後にしている。年末か年始に挑戦してみることに。
この時期のムラ歩きは気持ちいい。これまで気づかなかった拝所やカー(湧泉)への道の草が刈りとられているので「なるほど。そこか!」と・・・。もうしばらく国頭村のムラを訪ね歩くことにする。
国頭村佐手(与那ノロ管轄)
佐手に小学校がある。学校の後方にヤンクシと呼ばれる小島がある。現在は陸続きとなっているが、かつては離れ小島だったという。そこに与那ノロの墓(ヌルバカ)がある。与那ノロの管轄は与那・謝敷・佐手・辺野喜である。与那にヌルドゥンチ跡があるが、ある時期佐手からノロを出していた時代があったのであろう(今帰仁村内にも例はある)。
神アサギ後方の杜がウタキのようである。神アサギの側をとおり杜に登ってみると、平坦になっていてウタキのイベにあたる祠がある。イベの祠の側に「昭和六年七月廿三日建設 字佐手向上會」とある。その祠と別の祠がある。その祠の内部は餅のように盛りあがっている。佐手ムラの島建てをした先人の墓(骨を埋めてある)との認識があるようだ。研究者によって御嶽は墓だというのはそこから来ているのであろう。
佐手の神アサギの香炉はウタキの方には向いていない。神アサギの隣にあるメー(屋号:大島ウンメー)に向かっている。それとウタキ内(イビのある広場)にある人骨が埋葬してあるという祠もウタキではなく北方に向いている。佐手は大島からの漂着した人物(大島ウンメー)の伝承を持つ。大島への遥拝の認識があり、そこへ遥拝しているようである。それとウタキ内から現在地に移動した伝承を持つ。佐手を見ているとウタキの性格の一つ二つが見え隠れする。
▲神アサギとウタキ(後方の杜) ▲与那ノロ墓のある小島(ヤーンクシ)
▲佐手川の下流域とノロ墓のある小島(ヤーンクシ) ▲佐手川(ウフガー)
▲奥の祠内に人骨を埋葬、手前の祠はイベ?
平成22年5月19日(水)
国頭村佐手。佐手は国頭村の西海岸に位置する小規模の字(アザ)である。『絵図郷村帳』に「さて村」と出てくる。『琉球国由来記』(1713年)に佐手村とあり、祭祀は与那巫の管轄である。佐手に関心を持っているのは与那巫の墓が佐手のヤーンクシ(かつては離れ島)にあること。巫が他村にノロ墓があるのは、そう珍しいことではない。
「与那ノロの墓は家の後島にある。最近まで
一たんここに葬り、洗骨後与那の一門墓に移した
。佐手ノロが与那ノロに先行した由縁によるものであろうか・・・」(『国頭村史』)
。
・マク名・・・ぼう こうぼう
・集落の後方に佐手の上(丘)
・義本王の偽りの墓と屋敷跡
・古い井戸
・枯れることのない湧泉あり(集落の発祥地か)
・佐手の上は前と新里一門が拝んでいる。
・根神は前一門の世襲
・白兼久は辺野喜からの移住者
・義本王の伝説あり
・大島からウンメーが家の後にきて村を築いたとの伝承あり。(家の後は奥武島と同様?)
・後島と佐手浜との間に深いところがあった。港?
・八月の海神祭は与那・謝敷・佐手の順に行われる。
・辺野喜・宇嘉は与那ノロの管轄であるが、上の三つの村とは様相を異にしている。
・与那から宇嘉まで校区は一つである(佐手小学校。ノロ管轄区である)
・神アサギあり。
▲国頭村佐手の集落(手前は小学校) ▲佐手のヤーンクシ(かつては離れ島、ノロ墓あり)
【国頭村佐手の村落の発生】
(『琉球共産村落の研究』田村 浩著 昭和2年)
佐手は沖縄本島北部の国頭村にあり、辺土名から北方二里余の佐手川の河口に発達した小規模の集落である。昭和二年頃の戸数60戸余り。明治13年の戸数、人口は□□である。
村落は前・西・仲・棚・玉井・仲原の五門中が古い門中である。この中、村落の根所は前及び西の門。前の門族は8戸あり、西の門族7戸あり。これら15戸中、前の門の北・前・東・西の門の西、及び新屋の5戸を持って旧家となし、他はそれら支家族なりとす。その門族は以下の通り。
一、前の門(8戸)(北・前・東)(旧)
前田 前田 前前
新里屋 (新)
前新里
新屋(旧)
西
新屋敷
二、新屋
西7戸
新屋小
前口小
蔵二 蔵二小
新屋と西の二門は如何なる関係にあるか不明。一門として伝わる。
三、仲棚門中は仲棚を始めとして仲棚、吉門、吉門小、前吉門、新地、新地小、前新地の9戸とす。
仲棚の祖の婦は大宜味より夫は慶良間より来て佐手に住んで創設する。
四、玉井の門中は玉井、仲門、六又、井口、クラサ、シリイの6戸にして北谷王子の末裔なりとの
伝承あり。
五、仲原門中は仲原、前仲原、仲原小、前仲原、上原の8戸。その門中の組は島尻小録より移住し
た者なり。
六、川端門中は川端、川端小、前川畑、前川畑小、仲泊、兼久、前仲、宮城屋、宮城小、川二川
原、大正屋の12戸にして、組は渡名喜島の人にして首里に出仕せしも、辺名喜に来て、辺名喜
の租をなす。その長子が佐手に移り川端の租なり。
七、久高屋門中は区久高屋、久高、宮城、タンハラの四戸とし久高屋の始祖は久高島にして宇和の
女を娶り一門の租となれり。
その他の阿波連、知花、知花屋、富吉屋、山城屋あるが各一、二戸にすぎず。最近移住者なり。
(佐手部落図あり)