大宜味村の舟や港(2005.04.23 メモ)
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大宜味村の舟や港に関わる記事を拾ってみた。やはり多いのは塩屋湾(港)である。大宜味番所があったこともあるが、塩屋湾を渡らなければならず、渡し場として交通の要所にあった。
断片的な資料であるがクリ船やハギ船に税がかけられている(道光6年6月原取納座国頭方定手形)。
・クリ船一艘に付き、一年に納銭一貫文
・ハキ船一艘に付き、一年に納銭五十貫文
・クリ船三拾三艘 納銭三十三貫文
・ハキ船三艘 納銭百五拾貫文
【上杉県令巡回日誌】(明治14年11月22日)の塩屋湾の様子
「・・・宮城島あり。島中小村落あり。渡舟相往来す。湾頭弦月形の処を過ぎ、小村落あり。
サオ師舟を艤して待つ。舁夫輿を舁き、舟に移す。・・・・・・舟容与として行く。風波平穏なり。
舟路半程にして、雨俄に至る。・・・・渡舟岸に達す。即ち大宜味番所なり。・・・・海を隔て、
宮城島に対す。山原船五艘碇泊す。」
明治から大正にかけて大宜味間切(村)の物資の運搬は海上が主である。運搬に使われたのが山原船(マーラン船)である。大宜味間切から出荷されたのは、主に割薪・砂糖樽板・砂糖樽底蓋板・米・松薪・木炭・製藍・建築材など。輸入品は焼酎・石油・大豆・白米・素麺・茶・昆布などである。山原船の向う津(港)は泊港や那覇港である。
・樽板と蓋底板(明治34年3月9日)
・船舶取締規則違犯者(明治35年3月13日)
・塩屋湾の風光(明治35年4月19日)
・国頭郡の鰹製造業(明治38年8月11日)
・大宜味間切の造船所(明治39年2月7日)
・国頭旅行(明治39年10月17日)
・大宜味より(明治40年8月13日)
・大宜味の海神祭(明治44年9月19日)
・大宜味村より(大正2年10月12日)
・大宜味よりの帰途(大正2年10月14日)
・今日の話題(昭和19年4月9日)