大宜味村のムラ踏査
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【2015年11月23日】
大宜味村の津波と平南の神アサギ、津波ノロドゥンチ、ヌルガー。大宜味村喜如嘉へ原稿を受け取りに。喜如嘉のがんやー、印部石の「かわち原」、謝名城の城ノロ殿内、屋嘉比港、「ゑ こすく原」の印石と久ぶりに対面。根謝名(ウイ)グスクを踏査。その後、田嘉里へ。『琉球国由来記録』(1713年)で見里村に中城之嶽と屋嘉比巫火神が見里村にある。現在屋嘉比ノロ家は田嘉里(屋嘉比)にあり、移転したことになる。
その痕跡を見つけたく田嘉里の見里(スンバル)と親田(ウェーダ)を行く。
【見里】域から地名を確認。
スクミチ
スンバル
シマヌウイバル
インザト
サグンチヂ
ガナンファナ
クビーミチ
【親田】域の小地名
・ウェーダ(親田)
・根神屋
・ウイジョーグムイ
・メーダグムイ
小地名から三つのムラの成り立ちが説明しがたい。『琉球国由来記』(1713年)の親田村、屋嘉比村、見里村、浜村は当時国頭間切の内である。四ヵ村は屋嘉比巫管轄である。中城之嶽と屋嘉比巫火神は見里村に位置付けられている。中城之嶽が屋嘉比巫の祭祀場である。それからすると、根謝名(ウイ)グスクの大城嶽(イベ)が中城之嶽の可能性がある。それと屋嘉比ノロ殿内が屋嘉比村域にある。『琉球国由来記』に屋嘉比巫火神が見里村にあったことも説明がつかない(移動伝承はあるが)。
「おもろさうし」で謡われた「やかひもり」の頃、屋嘉比川の下流域は屋嘉比港と呼ばれているところからすると、屋嘉比、親田、見里が屋嘉比村であったとする。近世になって三つの村となり、再び統合され田嘉里なる。祭祀や祭祀場にその痕跡を遺している可能性がある。
(まだ説明がつかず)
(隣の城、根謝銘、一代名が統合された謝名城についても見ていく必要がありそう)
[大宜味村津波のノロドゥンチとヌルガー]
▲ヌルガー(津波)側のノロドゥンチ跡 ▲ヌルガー ▲津波ノロドゥンチ跡
【大宜味村の印部石】
▲ト はさま原(平良氏蔵) ▲む こうち原 ▲ゑ こすく原
【大宜味村のムラ踏査】
(2015年10月12日)
大宜味村の津波から饒波まで踏査する。「やんばる学研究会」で「大宜味のシマと歴史」をテーマとするキーワード探しである。各字を漏れなく踏査するため、必ず公民館(区事務所)の前で足をとめる。そのムラの集落の形や拝所などを頭に描きながら歴史を見ていくからである。
@津波
・ガジナバール/トウバルバール/ナハバール/ウイバルバール/ハニトゥイバール/
サラメーバール/ミジガマバール
・津波グスク ・イベヌメー ・ナンマチ ・カジナガー ・トゥヌ ・神アサギ(津波・平南) ・トゥヌ ・舞台
・津波ノロ殿内 ・ニガミヤー ・オハイフ屋 ・森川子之遺跡(碑) サラメガー(塩屋前) ・ヌルガー
・ウイバルガー ・ヘナンウフェーフ ・旧小学校跡地 ・「ユ あさか原」 ・「井 つは原」 ・奉行座
・農免農道整備事業完了記念碑 ・平南川の滝(タータキ) ・アザカ滝 ・アザカグムイ ・アザカ橋
・クワノハエノキ(大木) ・トゥケーの板干瀬 ・ガマヌメー ・ハタバル ・渡海川 ・トゥケー ・ナハーラ
・津波山 ・上里 ・ガータ ・ヘーミジ
【津波村】
@字宮城原 A字海染原 B字具志喜納原 C字津波原 D字桃原上原 E字イセイダ原 F字ガゾナ原
G字平南当原 H字アザカ原 I字ク子ンダ原 J字フタマタ原 K字ウタ原 L字潟原 M字津波山
【津波の小字】
@潟原 Aウタ原 B
アサカ原
Cフタマタ原 Dクネンダ原 E平南当原 Fガヅナ原 Gイセイタ原
H桃原上原 I津波原 J具志喜納原 K海染原 L津波山
※「部落年中行事」
A宮城
【宮城】
宮城原←津波村から
B江洲
C大保
【小字】
@大保原 A江洲原 Bウンチャ堂 Cカレール D六田原
D白浜
【渡野喜屋村】(白浜)
@字安潟原 A字洗田原 B字田釜 C字半崎 D字佐場 E
字白浜
F字赤崎
@半崎原 A佐場 B半崎 C田釜 D安潟原 E洗田
・お宮 ・神アサギ ・タキサン(御嶽) ・ウプガー ・ミーガー ・ピンカガー ・ミートゥガー ・サバガー
・クラサガー ・ウイクラニー(旧家) ・イシルール ・ハタジョウ ・ワイトゥイ ・マーヌパー ・ヤーヌウイ
・ムラバカ(ブリバカ・モロバカ・模合墓などと呼ばれる) ・クロサキ
E押川
【押川の小字】
@ウシンチャ堂原 Aウタキノ前原 Bウタキノ上原 Cカレール原 D六田原 E湧地原 F押川山
F田港
【田港村の字】
@字
屋古前田原
A字
タンナマタ原
B字田港上原 C字タンマ原 D字御神上原 E字マグイ原
F字アカサ原 G字大工又原 H字南風原 I字白兼久 J字
江洲原
K字
大保原
【田港の小字】
@田港上原 Aタンマ B御神上原 Cマグイ Dアカサ E大工又 F南風原
G白兼原
G屋古
【屋古の小字】
@前田原 Aタンナス原
H塩屋
【塩屋村の字】
@字前川 A字大川 B字兼久 C字立舛 D字塩屋 E字安慶名 F字念蒲 G字安根 H字陣ケ
I字加次良俣 J字上原 K字屋古 L
字ウシチヤ→押川へ?
【塩屋の小字】
@前川 A大川 B兼久 C立舛 D塩屋 E安ケ名 F念蒲 G安根 H陣ケ I加次良俣
J上原 K屋古
I根路銘
【根路銘村の小字】
@字外間原 A字島 B字親川原 C字義仁崎 D字安根原 E字大道 F字大竿 G字山川
H字山辻 I字升敷 I字サッパナ J字山田 K字板川 L字南久保 M字謝名 N字南読川
O字キナハ P字上読川 Q字棚原 R字棚原山
【根路銘の小字】
J上原
K大宜味
【大宜味村の字】
@字大宜味 A字島田 B字兼久 C字小兼久 D字黒岩 E字仲山 F字草戸 G字御嶽
H字炬畑 I字川登 J字仲筋 K字伊瀬川 L字喜納 M字比堂 N字杣山
【大宜味の小字】
@大宜味 A島田 B炬畑 C□□ G□□ D川登 E伊瀬川 F喜納 G杣山
H大兼久 I小兼久 J草戸 K黒石 L仲山 M仲筋 N比堂(H〜Nは大兼久へ)
L大兼久
M饒波
【饒波村の字】
@字苗代 A字前田 B字前田上 C字喜味 D字味嘉川 E字比謝 F字親田圃 G字桃原
H字佐敷 J字池畑 K字渡口
【饒波の字】
@苗代 A前田 B前田上 C喜味 D味嘉川 E比謝 F親(新?)田圃 G桃原
H佐敷 J池畑 K渡口
N喜如嘉
O謝名城
P田嘉里
【大宜味村謝名城】
2003.1.21(火)
ポカポカ陽気の中、名護市から大宜味村の謝名城(ジャナグスク)へ。謝名城は国頭地方(後の国頭間切と大宜味間切)の拠点となった根謝銘グスクのある字(アザ)で、大宜味村(ソン)の北側に位置しています。
謝名城は明治36年に根謝銘村と一名代村と城村が合併、三つの村から一字づつとって謝名城村、明治41年に大宜味村字謝名城となります。合併し100年余になるが城・根謝銘・一名代と合併以前の集落形態をそのまま踏襲しています。足が向いたのは、北山の時代(三山時代)の名残りと国頭地方をまとめあげ、国頭地方の拠点となったグスクを肌で感じ取りたいというのが私の内側にあったのでしょう。謝名城の詳細は「謝名城をゆく」で紹介します。
まずは一名代(テンナス)の集落を歩いてた。集落の前方に、かつての水田地帯が広がっていたことがすぐわかる。ここを訪れたのは、一名代あたりまで水没させてみたらどうだろうか。喜如嘉の集落前方のかつての水田地帯を陥没させてみる。入り江にしてみたとき、グスク時代のムラの展開が見えてくるのではないか。
集落の前方を一名代川が流れている。中流域から喜如嘉の川になるのだろうか。川が字(アザ)の境界線になっているのかもしれない。川の右岸は一名代の人たちの土地に違いない。
上山公園に登り、そこはムラの人たちのゲートボール場になっていた。ゲームをする人の姿はなかった。寒い冬のせいだろうか。上山農村公園は昭和52年に整備されたようだ。集落の上の方から降りてみた。細い急な坂道は、老人のためだろうか小幅な階段にしてあった。空き家が目立った。正月間もないせいだろうか、庭などは草が刈られ、家主が帰って来たのだろう。斜面の階段を降りきったところにカーを見つけた。「あ、カー散歩は、放り投げてあるな。締めっくりをしなといけないな」と、変なところで反省させられてしまった。
家の前や川の土手に花が生けてあるのが目についた。ちょうど、集落を降りきったところで耕運機で畑を耕していた一人の70歳くらいの方が、ちょうど手を休めていたので声をかけてみた。「あちこちに花が生けられていますが、あれはなんでしょうか?」「あー、あれか。昨日はあの世の正月ですよ。ミンサーと言って、昨日やったもんだよ」と教えてもらった。「あ、あ、そうか。昨日は十六日なんだ。後世の正月だったのですね」と、お礼を述べながら一人苦笑してしまった。「後生の正月だったのだ」自分自身に言い聞かせた。
集落の前を流れる一筋の水路の前で「これ、名前ありますか?」「用水路と呼んでいます。いい水ですよ」と誇らしげにいい放った。その老人の一言で一名代(テンナス)の集落が好きになってしまった。「以前はみな田んぼだったのだが、砂糖キビになったが、割りにあわんからアタイグァーに野菜を植えているのですよ」と。少し離れた畑では老婦がインゲンマメの収穫をしていた。
「この川の名前は何というのでしょうか?」「フプハガーというが、ティンナスガーと橋には書いてあるよ」と指差してくれた。その橋までいくと、確かに漢字で「一名代橋」、反対側に仮名で「てぃんなす橋」とあった。近くに丸い形をした分水を見つけた。上流部から水路を引いて橋のところで一名代の集落の方と、川を越えて喜如嘉方面へ流し込む水路への分水である。
一名代から城(グスク)集落へと車で登り、根謝銘グスクと城集落、そこから降りて根謝銘集落へと回り、集落の中を歩いてみた。そこは「ムラ・シマをゆく」に譲ることにする。
..
▲上山農村公園から一名代の集落を望む ▲集落の前を通る水路
...
▲二手に水を分ける分水 ▲集落内にあるカー
【大宜味村田港】2003.2.13(木)
2月9日(日)沖縄タイムスで「北山城主」末えいの証し 装飾具勾玉を公表の記事がでた。問い合わせが歴文にもあったので紹介します。北山城主末裔については久志村(現在東村)の川田だけでなく大宜味村田港、名護市の屋部などにもあります。
大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。
口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
に移転せりという。
川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
品を以て之に代へたり。・・・・」
とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてある。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているように消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争をくぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものとするには、慎重を期する必要があろう。
もちろん、今帰仁城主の末裔としての伝承を今に伝えていることや一族が大事にしてきた遺品や祭祀も貴重なものである。外にも、そのような伝承や遺品を遺している旧家があり確認してみたいと思う(Y新聞から、記事の勾玉は今帰仁城主(北山王)の末裔のもの?の問い合わせあり)。
【大宜味村田港・屋古】2003.5.27(火)
晴れると外に出かけるがの常というか、クセになっている。何度も行っているはずであるが、昨日は田港・屋古・塩屋、そして稲嶺の御嶽までいく。
田港の御嶽の中の祠に21基の香炉がある。銘の刻銘されたのが数基あり「奉寄進」は読めるが年月日や寄進者名の判読が困難である。
田港の御嶽は国指定の文化財である。御嶽の途中はアタイグヮー(小さな畑)である。今でもナスダー(苗代)と呼ばれ、一帯はかつて苗代や水田であったという。田港の御嶽から流れ出る水は、灌漑用水に利用している。石灰分が多いので飲み水には適さないのだという。
トウモロコシやプチトマト(ミニトマト?)、キュウリ・ナスなどが実をつけている。カボチャは、まだ花をつけている状態であった。田港で生まれ、北大東島や関東などで仕事をしたという90歳の前田翁とユンタクすることができた。
前田翁は一門で「今帰仁上り」の行事があるのか、戦前の仲宗根や今泊や今帰仁グスクのことなどよくご存知であった。塩屋から舟で屋我地に渡り、そこから運天へ。運天港で上陸して仲宗根へ行ったという。「仲宗根のことをプンジャー」、「旅館もありよった」などと今帰仁に詳しい。
田港の集落に入っていくと、家と家の間の突き当たりにカー(湧泉)が二つ確認できた。一つはメーダガー、もう一つはハーナカジョーガーである。今では使われていないため、水が枯れている。ほとんど土砂で埋まっている。
最近落成した新築の田港公民館があり、隣接してウンガミのときのハーリー(田印)が二艘置いてある。鍛冶屋の図像のある祠。図像は年々ほころびて小さくなる。プーチウガンが行われる限り、新しい図像に差し替えるにちがいない。同祠のフイゴと金床(カナカ)、それに金槌などが静かに置かれている。
沖縄はほとんど鉄を産出しない。グスクが機能していた時代、鉄の多くは大和から輸入したであろう。鉄の移入は農耕の生産高をあげたことであろう。と同時に、まだゆるやかではあるがクニの統治や支配関係にも影響を及ぼしていったに違いない。そんな思いにふけての大宜味村田港ゆきであった。
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▲大宜味村田港の御嶽の中のイビナー(お宮)の祠と内部にある香炉(21基)
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▲田港のナスダー(苗代)、今では小さな畑となっている。90歳になる前田翁
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▲鍛冶屋にまつわる図像と大きな箱はフイゴ、左側に金床