今帰仁間切の運天番所へいく時、勘手納港からサバニに乗り、湖のような羽地内海を渡る場合がある。明治14年羽地間切番所を訪れた上杉県令は「勘手納港ニ出ツ、官庫瓦ヲ以テ葺ケリ、役所詰員、及ヒ村吏ノ奉送スル者、皆別ヲ告ス、舟子舟ヲ艤シテ待ツ」(『上杉県令巡回日誌』)と勘手納港から屋我地島に向かう様子や勘手納の倉庫が瓦葺きであったこと記録に留めている。また1719年に蔡温は勘手納港を訪れ漢詩を謡っている。
勘手納暁発 勘手納を暁に発す
桂帆此地離 桂帆して此の地を離る
烟水暁天馳 烟水暁天に馳す
興深回首望 興深まりて首を回らせて望めば
江山盡是詩 江山尽く是れ詩なり
本部町渡久地港(なきじん研究9号)
沖縄本島北部の本部半島西海岸、満名川の河口に位置する港である。方言ではトゥグチミナトゥといい、南岸に本部町の中心地渡久地のマチが発達している。湾口は広く、また奥行も約1kmと入り込み、北と南の丘陵で風を防ぐ良港をなしている。古くから中国や薩摩を往来する船の避難港として利用された。明治以降になると沖縄本島北部の西海岸の離島と那覇を結ぶ航路の中継地として機能してきた。
「渡久地は古来より山原船の停泊地であり、近年汽船の回航や石油発動船の往来が頻繁である。ここより伊江島伊平屋行きの船便がある。渡久地は東の方の満名川流域の平野として、離れた伊野波の平地に連なり、後方は地勢が急で辺名地を負い、西側の港の外には瀬底、水納の二つの島と伊江島が横たわって、あたかも内海のごとき景観で、夜景が最も美しい」(『沖縄県国頭郡志』 410頁)とある。
1853(咸豊3)年にペリー提督の一行は瀬底から浜崎に移動し、海岸の調査をしながら浜崎の海岸にテントを張り、さらに渡久地港まで足を伸ばし鶏や土瓶をかっぱらっている。卵や薪、唐辛子・さつま芋などは中国の銅銭で調達している。その後一行は伊江島、今帰仁へと向かっていった。
渡久地には本部間切創立以来間切番所がおかれ、行政の中心となり、昭和20年まで役場が置かれていた。戦後になって役場は現在地に移った。河口港のため流入土砂の堆積が著しく、船舶の大型化に伴い浚渫 が必要となり、昭和7年から同9年にかけて南北防波堤・物揚場・泊地浚渫・埋め立てなどの工事がなされた。完成後は北部随一の良港として、生活必需品の移入など、地域の産業経済の発展に大きく 寄与した。同時に奄美大島(鹿児島県)と結ぶ航路船舶の寄港、鹿児島・宮崎方面の漁船の給水・停泊地としても利用され、暴風時には避難船が数多く入港した。
第二次対戦中は日本軍の伊江島飛行場経営のため徴用労務の輸送に使用された。戦時中は貯蔵してあった輸送用燃料弾薬庫に被弾し、渡久地周辺の市街地は全戸焼失の被害を受けた。戦後の一時期、米軍の駐屯地として利用されたが、昭和26年これらの施設を琉球造船所が引き継ぎ、造船・機関修理を行った。昭和32年11月19日琉球政府により重要港湾に指定され港湾管理者は本部町となる。同38年物揚場、同40年泊地が完成。昭和47年 5月12日港湾区域の変更とともに港湾管理は本部町から琉球政府に移管され、同年5月15日本土復帰に伴い沖縄県管理の地方港湾に指定された。
昭和50年沖縄国際海洋博覧会の本部町開催に伴い、渡久地港エキスポ地区と渡久地新港(現本部港)が新設され、渡久地新港が北部離島への定期連絡船の基地港になったため、現在は水納島定期連絡船(みんな丸、19t、1日2便)・漁船・巡視船などの利用に供され、また、荒天時には小型船の避難地となっている。