恩納域のムラ・シマ              トップへ




恩納間切の村船

 恩納間切は国頭方に属し、貢税は穀物が主であった。それらの貢税を陸路で首里・那覇に運ぶことは困難なだったようだ。恩納間切は距離としては首里・那覇に近いが、名護間切の湖辺底に運び、そこから首里・那覇に運んでいる。恩納間切の仕上世米は湖辺底港から直接薩摩へ運ばれる。

 恩納間切の村船は米・麦その他の貢税ばかりでなく、ウッチンも番所のある恩納港から那覇港へ運んだ。

 恩納間切の村船は仲泊村と前兼久村では村に近い山手から陶土を堀り、村船の乗せて泊港まで運んだ。泊港からさらに安里川を遡って壺屋に陶土を運んだ。

 ・王府へ納める期限

   
一 麦上納は三月(旧暦)より四月中限之事。
      但し、国頭方(山原)・久米方(久米島)は海路故四月より六月中限之事。
 
  一 米上納は、六月より八月中限之事、粟黍同断。
      但し、国頭方、久米方は六月より十月限之事。
    一 下大豆上納は、十月より十一月中限之事。
      但し、国頭・久米は十二月中限之事。


 ・税を運ぶためのマーラン船(山原船)
   名嘉真村・・・・〇隻
     安富祖村・・・・一隻(十反帆:ニ六〇石積)
     瀬良垣村・・・・二隻
     恩納村・・・・・・三隻
     谷茶村・・・・・・二隻(前村渠船、後村渠船)
     冨着村・・・・・・二隻
     前兼久村・・・・二隻(アガリ船・五反帆:八〇石積)・イリ船(十反帆)
     仲泊村・・・・・・二隻(前船、後船、双方十反帆)
     山田船・・・・・・不明
     真栄田船・・・・二隻(真栄田船、塩屋船)

【恩納間切の陶土】

 恩納間切は陶土を産出し、那覇の壺屋に山原船で運んだ。赤土(赤陶土)は仲泊・前兼久の山手で産出し、白土(白陶土)は安富祖・名嘉真、名護間切のブセナで産出した。白陶土が産出する場所は海岸に接した場所にある。赤陶土と白陶土の運ぶ比率は10対2の割合だったようだ。

 仲泊・前兼久・冨着などの村では山から掘り出した陶土は、船がいつ来てもいいように村の前の港に積み上げておいた。その場所をンチャマヂミモー(土真積毛)と地名がついている。前兼久の港は比較的深かったので浜辺に船を横付けできたが、仲泊は浅く陶土の積み込みに苦労した。そのため、約200mほどの溝を掘って船が通れるようにしたという。

【参考文献】
  恩納村誌

【恩納村安富祖】―山原の津(港)を見つける―

 恩納村安富祖はウタキ(御嶽)と神アサギを結ぶ軸線に発達した集落の一つだと見ている。ただ、この集落は台地上から麓へ移動した集落ではなさそう。つまり、古琉球に形成された集落であるが、安富祖川(前袋川)流域の湿地帯が利用できるようになってから発達した集落とみている。
 
 御嶽の中に集落が形成されていた痕跡が見えない。御嶽の内部に集落が形成され、そこから現在地に移動した形跡が見られるようだとグスク時代に形成されたと見ていいのだが。グスク時代以降、古琉球(1500年以降)低地に形成された集落と考えている。

 『琉球国由来記』(1713年)に森城嶽とアッタ嶽の二つの御嶽が登場する。祭祀は安富祖ノロの管轄である。同書に「安富祖巫火神」と「根神火神」、それと神アシアゲがあり、いずれも現在に伝えられている。祭祀に関わるのは百姓はじめ、脇地頭、そして安富祖巫である。

 この安富祖のムラの成り立ちに「山原の一般的な津(港)を見つけた」と思っている。明治34年頃の安富祖の図に「薪津口」「伝馬船」「小船」「群倉(ブリグラ)」などの津(港)や船と関わる地名が記されている。また恩納村誌』(541〜542頁)に、以下のように当時の様子が記されている。

   平行した三列の弧状砂堆地をなし、奥側の砂堆地が古くからの安富祖部落である。この
   砂堆地と国道の通うている第二砂丘地とを区切る昔の川地は、恩納総地頭佐渡山殿内が
   水田化したところである。なお、海沿いの浜地と第二砂丘との間を西から曲流し、東端で海
   に注いでいた川地も、前後になって川口を真直に流れるように改修し、旧川地の全部を埋立
   地にした。
    この埋立地になったところが大正三年の県道(国道)開通前まで山原船の碇泊地になって
   いた。十二反船もあり、約十隻ぐらい入る日もあった。県道開通後は川も浅くなり、船は海岸
   浜辺に碇泊し、川には伝馬舟が入ってきて物資を乗せ、本船に積込むのであった。穀税を湖
   辺底まで運送する十二反村船も一隻あり、安富祖在の山原船も三隻(大正元年)、山原船運
   送は薪・竹茅・竹束・丸太・などの林産物・砂糖・藍玉などで、喜瀬武原の物産もここから那覇
   ・泊に運送した。


 ・乾隆57年(1792年)
  
甲寅年。有恩納間切。安富祖村比嘉。三反帆船一隻。人数五人。載運柴薪。
   在泊津開船。洋中多遭逆風。飄到浙江省。寧波府象山県。
   蒙地方官。給与衣食等件。垂念比嘉等。所駕小船。難以沙洋。送致牧買。護送到閔。

 
  甲寅年(1794年か)に恩納間切安富祖村の比嘉が、三反船の小帆船に五人乗り、薪類
  を積載し、港から出発した。
   ところが、海上で逆風に遭って流れて到頭中国の寧江省は寧波府の象山県に漂着した。
  中国の地方官は彼らに衣、食事を与えて健康回復につとめた。なお比嘉等の小船では到底
  沖縄まで行き着くことがむつかしいと心配し、その小帆船を買い取ったのみでなく、保栄閔ま
  で送り届けた。

  
 ・道光17年(1837年)
  
道光丁酉冬。有広東省潮州府。澄海県商船一隻。人数五十名。漂入金武郡(恩納郡)
   安富祖村。原船衝礁撃砕。送到中山泊村。

   五十人の乗っている中国船が漂着し、安富祖村の湾に入ろうとしたのであるが、岩礁に
  激突して破船した。ただし乗組員は全員無事救われ、那覇の泊村に護送された。



    ▲ウタキの奥にある熱田への遥拝所           ▲安富祖のウタキへの道


      ▲杜が安富祖のウタキ              ▲ウタキの中にあるイベか


 ▲恩納村安富祖の集落の形成(現在)


【恩納村瀬良垣】―移動集落―

 恩納村瀬良垣は1673年以前は金武間切の村、以後は恩納間切(村)の一つである。沖縄本島の西海岸にあり、瀬良垣の集落を国道58号線が南北に通る。海岸に小さな岬があり、一帯に小島が散在する。その中の一つにインディーパナリという島がある。ンディー(カブ)パナリは平坦地があり、村の人たちが畑に使っていたという。サーシパナリの島があり、サーシヤー(屋号)が畑をしていたことに因む。

 瀬良垣の集落は海岸沿いの兼久地に発達しているが、かつては山手の古島にあり、そこからの移動集落である。海岸には数多くの小島がある。古島からの移動集落であるが、御嶽が現在の集落の西側に位置し、古島にはないので、神アサギは集落と共に移動する傾向にあるが御嶽は新設したのか(古島と御嶽の確認必要)。

 ・インディバナリ(瀬良垣ビーチになっている)
 ・ユクビシバナリ
 ・ウフシジ
 ・サーシバナリ
 ・サーシヌクヮバナリ
 ・フナウキグムイ

 恩納ノロ管轄の村で神アサギがあり、集落は山手の古島から現在地に移動している。古島に戦前まで祭祀で拝んでいたフルジマガーがある。かつて村船二隻あり、主に米穀税を湖辺底まで運んでいた。上納米の一俵は三斗入れであった(『恩納村誌』554頁)。

 現在小さな港をなし、小島の近くにイツツグムイやマチダチグムイなどのクムイ(小堀)があり、クムイでガツン(メアジ)がよくとれたという。モズクの栽培が盛ん。近世の瀬良垣村に村船が二隻あり、そこから米や麦、砂糖、藍、木材、薪、炭、山原竹、竹ガヤなどを運んだ。泊港や那覇港からは酒や日用雑貨、壺屋の焼物などの品々を運んだ。

 フナウキグムイは小さな港になっている。かつて山原船が碇泊していた港である。風は小島に遮られ穏やかな入江になっている。大正末頃まで、薪・芋・竹などを山原船で運び出していた。

 
     ▲中央の小島がサーシノパナリ         ▲サーシヌクヮーから夕日をみる


   ▲サーシヌクヮから集落をみる          ▲サーシヌクヮの小島

【恩納村谷茶】

 『琉球国高究帳』に「たんちや村」とあるが、『琉球国由来記』(1713年)には村としては登場しない。その頃の恩納間切の地頭代は谷茶大屋子を名乗った。谷茶の浜に谷茶浜大口と呼ばれるリーフがあり、リーフの割目から山原船が往来した。





  ▲勘手納港と仲尾の集落(現名護市)     ▲勘手納港のモデル原稿のレイアウト


 今帰仁村与那嶺のユナミナガハマ(与那嶺長浜)の山原船が碇泊するクムイがあり、長浜の東側の半洞窟は船積みする砂糖樽などを保管する倉庫のようなものだったと、以前から聞かされていた。それを受けて、そこらの深いところに山原船が碇泊していたと説明しても説得力がない。それで故仲宗根政善先生の「宿道と津口をたどる」(『今帰仁村史』所収)で紹介することに。

   大正の頃まで、山原船はチグチからイノーに出入りし、親泊のナガナートゥや、与那嶺長浜
   に停泊した。

    ナガナートゥには船大工がいて、くり舟や伝馬船をつくり、山原の修理もしていた。大昔は、
   ナガナートゥからさらに兼次の後をへて、諸志のナートゥにまで漕ぎ入れたにちがいない。シク
   ジャウガーミの近くムイヤマーのユピータ(深田)の地点まで小舟が行ったであろうことは先に
   述べた。

    与那嶺長浜にプナフキー(船浮)がある。今ではその名もすっかり忘れられてしまった。五、
   六○年の間に、海がこんなに浅くなるものかと驚かされる。山原船が浮かんだと説明しても、
   もう納得しそうもない。

    渚のあさぎいろからだんだん色をこくし、紺青に深くよどんだプナウキーに、私たちの子供の
   頃までは、山原船が二、三そうも浮かんでいた。へさきの船の白い眼玉や、甲板の上に立つ
   赤褌のプナトー(船員)の影が、静かなコバルト色の波間に映っていた。透き通る海底には色
   あざやかな熱帯魚がむれていて、少年たちは、ぐるぐる船のまわりを泳いで廻った。

    山原船は、酒、白糖、昆布、そうめんやさまざまな雑貨を卸すので、まるで宝船を迎えるよう
   に部落の人たちは浜に集まった。悪童どもは、酒甕に蕨に蕨のプニ(茎)をさしこみ、酒を甕か
   ら盗み飲んで酒呑童子のようにゆでだこになって、砂の上に大の字にねころんでいた。 



     ▲今帰仁村与那嶺長浜        ▲荷物の集積場に使われた半洞窟

【港や船に関する規定】(間切公事帳)より

 番毎方
  一 右両日(毎月一日・十五日)の四ツ(午前十時頃)前には、御高札、「御教条」と「異国方
    御条書」を文子に朗読させ、地頭代以下、掟、文子まで(諸役人たち)が聴聞すること。
  一 毎月一日・十五日には「異国船方御条書」や置目(規定諸文書)になる諸帳を文子に命
    じて虫払いをさせ、その首尾を地頭代は承ること。
  一 異国方の御用として諸間切へ配布してある異国船と同船の旗印の絵図をぬらしたり、あ
    るいは白蟻等がついて傷めた場合には、すぐに評定所筆者へ申し出なさい。そうすれば
    書き替えを命ぜられ、右絵図の保管を怠ったさばくりへ(絵図)一枚につき罰金五貫文ず
    つの罰金を納める模となっている。

  一 異国船をみとめたら、すぐにさばくりたちへ申し出るように各村の掟・頭・百姓たちへ常々
    強く申し付けておくこと。
  一 右船(異国船)を確認したとの申し出があれば、早急に勝連在番と御鎖之側日帳主取へ
    手分けをして注進(急ぎの報告)し、両惣地頭へも報告すること。
  一 異国船が来航または通航した時の勤め方については、以前に伝達してある「御条書」の
    通りに勤めなさい。
  一 帰唐船(中国帰りの進貢船)をみとめたら、以前に配布してある「御条書」の通り勤めな
    さい。
  一 右(異国船や帰唐船の来航等を知らせる)立火(のろし)が上ったり(それらの船が)碇泊
    した時には、(番所から)早使で御鎖之側と高奉行一人、摂政・三司官の宅へ申し出ること。
  一 諸船が逆風に遭い難渋している時には、早急に助船を出して救助し、すぐに番所への申し
    出るように海辺の村々へ申し渡しておきなさい。
  一 右(難船の一件)の報告があれば、すぐに大さばくりは(現場へ)出向いて諸事を「御条書」
    の通りに勤めること。
  一 諸船が破損した時は、すぐに勝連在番へ申し出てさばくりの下知で(破船の)荷物などを
    引き揚げ、その旨を両惣地頭へ問合し、御鎖之側と御物奉行へ申し出ること。
      追記
       一 (船の破損で)死者が出た場合には、詳細な首尾を申し出ること。
       一 (乗組員が)他間切の者であればその間切の両惣地頭へ問合し、尤も
         首里・泊・那覇・久米村の者ならばそれぞれへ連絡すること。

  一 浜番へ命じて常に海辺を巡視させ、不審な寄物(漂着物)があれば構の在番または
    両惣地頭へ書付でその首尾を申し出て、両惣地頭から御鎖之側へ上申すること。
  一 寄物の有無の首尾を浜番から聞き、毎月一日に書付で構の在番へその首尾を申し出
    ること。

   (追加条文あり)


【マーラン船(山原船)やテーサン舟(組舟)】

 主な目的は慶良間海洋文化館のマーラン船(山原船)やテーサン舟(組舟)やサバニなどの確認である。午前9時発のクィーンざまみ(高速艇)はパスして、10時とまりん発のフェリー座間味に乗り込んだ。座間味島まで約1時間半。穏やかな海上だったので、しばらく甲板に出て島々を眺めながら。フェリーから泊港の現在の様子や外人墓地あたりを確認する。それと沖のリーフが切れた大和口(倭船口)・唐口(唐船口)・宮古口(八重山口)が見えるか。

【泊 港】
・安里川の右岸
・13世紀から14世紀にかけて国頭地方、宮古・八重山・久米島などの船が出入り。
・諸島の事務を扱う公館(泊御殿)や貢物を納める公倉(大島倉)が置かれた。
・近世期に漂着した中国人や朝鮮人などは泊港へ送られた。そこから本国へ。
・漂着人に死者が出ると泊北岸の聖現寺付近の松原に葬った(外人墓地)。
・19世紀になると英・仏・米国の船は泊港沖に碇泊、外人の上陸地。
・明治になると本土と結ぶ大型船や中南部や八重山からの船は那覇港へ、
 山原からの船は泊港へ。


【座間味島】
 ・座間味港
 ・慶良間海洋文化館
    (山原船(マーラン船)・サバニ・伝馬舟など)
 ・ヌル宮(ヌンルチ)
 ・鰹漁業創業碑(役場前)
 ・バンズガー(番所井戸)
 ・番所山
  標高143.5m、王府時代の烽火台が設置される。
 ・イビヌ前
   座間味集落のハマンダカリ(浜村渠)にある拝所。イビヌメーは海神宮である。イビヌメーで
    イビヌメーの話を一生懸命してくれた方がいた。
 ・高月山(座間味集落と港)
 ・阿護の浦
   進貢船や冊封船の寄航地。阿佐船・座間味船・慶留間船などの潮掛地
 ・稲崎
 ・女瀬の崎
 ・安真集落
 ・マリリンの銅像
 ・古座間味
 ・ウフンナートゥ(現在の漁港)
 ・座間味の集落

   座間味の集落は内川を挟んでウチンダカリとハマンダカリに区分される。ウチンダカリに
    古座間味から移動した集落ではないかと言われている。


【慶良間薪】(キラマダムン)『座間味村史』(上)参照
  
慶良間薪は山原薪を比較され、慶良間薪は山原薪よりよく火つきがよく火力があったという。
  
那覇の泉崎橋から旭橋あたりは船蔵(フンングヮ)と呼ばれ、山原や慶良間の船がやってきて薪や
  材木などを陸揚げしていた。一帯に薪や炭や材木問屋が並んでいたという。薪は泉崎の湧田や
  牧志の瓦焼きの業者が瓦焼きの燃料にした。瓦焼き用の薪はカーラダムンと呼ばれ、安里川の
  河川から水運で運ばれた。カーラダムンは松を輪切りを大割にしたもの。


 座間味の集落は古座間味からの移動か?座間味村役場の前に阿佐儀名の民宿?を見つける。山原の神アサギと同じ?


            ▲フェリーからみた現在の泊港(那覇)の様子


           ▲山原船(マーラン船)(慶良間海洋文化館)


 ▲山原船(マーラン船)(慶良間海洋文化館)    ▲テーサン舟(組舟)   

【大宜味村塩屋】

 大宜味村塩屋までゆく。締め切りの原稿は書いたのであるがなかなか腑に落ちないでいる。それで塩屋の集落にあるハーミンゾーの森に上がり塩屋湾と塩屋大橋、そして集落内を歩いてみた。さらに塩炊きに使われたという赤みを帯びた焼けた石の確認。そしてアーミンゾーにある「宵もあかつき なれしおもかげ乃 立ゝぬ日や無いさめ 塩屋のけむり」の碑の文字の確認をする。早朝の塩屋湾はいいものだ。


      ▲朝靄のかかった塩屋湾         ▲宮城島から塩屋に架かった塩屋大橋


    ▲後方の森がハーミンゾー        ▲ハーミンゾーからみた塩屋小学校


▲ハーミンゾーから眺めた国道寄りの集落   ▲塩炊きに使われた焼けた石


       ▲屋古あたりから眺めた塩屋小学校とハーミンゾーの森


【東海岸の港や山原船】

 沖縄本島北部の東海岸の港や山原船の様子を整理してみた。『東村史』(第1巻通史編 73頁)にその様子が解説されている。現在の東村は大正12年に久志村から分村する。それ以前は久志村(間切)の字(あるいは村:ムラ)であった。ここでは現在の東村内の出来事を紹介する。

  有銘から北の地域を上方と呼び、天仁屋から南を下方と呼んで、人情も気風も異
   にしていた。行政区域として久志村となっていても、経済的には必ずしも一体では
   なかった。農産物や林産物の出荷は、陸路を利用することはほとんどなく、たとい
   陸路を利用するとしても、それは塩屋湾を経て西海岸を羽地・名護と行くのが普通
  であった。中南部向けの産物は、ほとんど山原船によって泡瀬・西原・与那原方面、
  さらに糸満・那覇へと運ばれていたから、上方と下方の住民が物資の流通で直接に
  関わりを持つことはなかった。日常の生活用品も、山原船によって中南部から運ばれ
  てきた。また、与論・沖永良部・徳之島・奄美大島などの道之島へ北上する物資の流
  れも、山原船による輸送であったから、経済的な意味では山原船を主要な仲介とする
  交流であった。

【港(津)と関わる地名】
 ・アラカードゥマイ(冬場の漁船の避難場所)
 ・メードゥマイザキ
 ・メードゥマイバマ(津堅島・伊計島の漁師が浜で宿をとったという)
 ・ウフドゥマイバマ
 ・ウフドゥマイトゥガイ
 ・ンナトゥグチ

・清国へ渡航jする船の帆柱などの資材を拠出していた。
・旧藩時代久志間切の年貢(租税)は、羽地間切の勘手納港へ納め、
 辺野古と久志の両村は名護(湖辺底)へ運んでいた。

【東村平良】
 道路網は未整備であり、中南部との物資の交流はもっぱら山原船にたよった。主な産物で
 ある林産物の出荷・販売と生産資材の購入・日常生活用品の調達は、山原船にたよる以外
 なかった。
 ・・・山原船の運航と商品の取り扱いが、ほとんど外来の商人に握られていた。・・・一般的に
 経済的に遅れた地域においては、外来の商人や士族たちは特権的な意識が強く、彼らは商
 品知識の乏しい農民に対して、はなはだ不等価格交換で暴利を得ていたであろう。外来の商
 人資本家はムラで町屋(商店)を経営し、農村の林産物の売却代金をそっくり町屋が吸収す
 る仕組みとなっていた。・・・ムラの大半の人たちが町屋に従属して、入港する山原船に林産
 物を自由に売りさばくことができない状態にあった。
外来の商人に対抗して生活防衛する方
 策として、部落単位の共同売店が登場する。

【東村慶佐次】

 山稼ぎは戦前から盛んに行なわれており、戦後になっても昭和30年代のはじめまで続けら
 れていた。山稼ぎは主に燃料用の薪を伐採するもので、自給中心の農産物と違い中南部に
 搬出する。
 ・・・・林業は貴重な現金収入源であった。慶佐次に字で所有する山林(ムラヤマ)があり、日
 を決めて字の共同作業が行なわれた。納税には現金が必要であり、また字費もこの作業か
 ら捻出していた。共同作業は仕事量に応じて等級がつけられ、字から給料が支払われてい
 た。共同作業日は薪を中南部に運ぶヤンバル船の到着を見計らって設定されサジイが字民
 に山稼ぎを告げていた。給料は村民税と字費を差し引き当人に渡された。ヤンバル船で運ん
 できた様々な日常雑貨品と交換した。


   
(続)

【参考文献】
 
『東村史』(第1巻通史編:昭和62年発刊)
 『東村史』(第3巻資料編2:昭和59年発刊)

【大宜味村の舟と港】 

 大宜味村の舟や港に関わる記事を拾ってみた。やはり多いのは塩屋湾(港)である。大宜味番所があったこともあるが、塩屋湾を渡らなければならず、渡し場として交通の要所にあった。
 断片的な資料であるがクリ船やハギ船に税がかけられている(道光6年6月原取納座国頭方定手形)。
  ・クリ船一艘に付き、一年に納銭一貫文
  ・ハキ船一艘に付き、一年に納銭五十貫文
  ・クリ船三拾三艘  納銭三十三貫文
  ・ハキ船三艘  納銭百五拾貫文

  
【上杉県令巡回日誌】(明治14年11月22日)の塩屋湾の様子

 
 「・・・宮城島あり。島中小村落あり。渡舟相往来す。湾頭弦月形の処を過ぎ、小村落あり。
  サオ師舟を艤して待つ。舁夫輿を舁き、舟に移す。・・・・・・舟容与として行く。風波平穏なり。
  舟路半程にして、雨俄に至る。・・・・渡舟岸に達す。即ち大宜味番所なり。・・・・海を隔て、
  宮城島に対す。山原船五艘碇泊す。」


 明治から大正にかけて大宜味間切(村)の物資の運搬は海上が主である。運搬に使われたのが山原船(マーラン船)である。大宜味間切から出荷されたのは、主に割薪・砂糖樽板・砂糖樽底蓋板・米・松薪・木炭・製藍・建築材など。輸入品は焼酎・石油・大豆・白米・素麺・茶・昆布などである。山原船の向う津(港)は泊港や那覇港である。

・樽板と蓋底板(明治34年3月9日)
・船舶取締規則違犯者(明治35年3月13日)
・塩屋湾の風光(明治35年4月19日)
・国頭郡の鰹製造業(明治38年8月11日)
・大宜味間切の造船所(明治39年2月7日)
・国頭旅行(明治39年10月17日)
・大宜味より(明治40年8月13日)
・大宜味の海神祭(明治44年9月19日)
・大宜味村より(大正2年10月12日)
・大宜味よりの帰途(大正2年10月14日)
・今日の話題(昭和19年4月9日)


【琉球資料 70】(那覇市史 琉球資料(下)所収

「船之名」がある。
 ・唐 船
 ・楷 船
 ・大和船
 ・馬艦船
 ・飛脚船
 ・伝 間
 ・繰 船
 ・刳 船
 ・波竜船
 ・異国船
 ・漂着船(護送船也)
 ・作 船

以下は「船の部分」名
 ・楷木
 ・檣(ホバシラ)


勘手納港(かんてなこう)(名護市)

  勘手納港は羽地間切(旧羽地村)の仲尾村の前方の海岸一帯を指している。羽地間切番所は親川村にあったが、上納米などの搬出場所は仲尾村の勘手納港であった。仲尾村には定物蔵がいくつも設置され、羽地間切の上納米が蓄えられ、そこから薩摩へ運ばれた。また、勘手納港は運天港・湖辺底・仲泊と並んで四津口と呼ばれていた。港名はカンティナやカンティナナートゥと言うが、上納米の勘定をしたことから、そう呼ばれている(『羽地村誌』)という。

  今帰仁間切の運天番所へいく時、勘手納港からサバニに乗り、湖のような羽地内海を渡る場合がある。明治14年羽地間切番所を訪れた上杉県令は「勘手納港ニ出ツ、官庫瓦ヲ以テ葺ケリ、役所詰員、及ヒ村吏ノ奉送スル者、皆別ヲ告ス、舟子舟ヲ艤シテ待ツ」(『上杉県令巡回日誌』)と勘手納港から屋我地島に向かう様子や勘手納の倉庫が瓦葺きであったこと記録に留めている。また1719年に蔡温は勘手納港を訪れ漢詩を謡っている。

      勘手納暁発    勘手納を暁に発す
      桂帆此地離    桂帆して此の地を離る
      烟水暁天馳    烟水暁天に馳す
      興深回首望    興深まりて首を回らせて望めば
      江山盡是詩    江山尽く是れ詩なり

・親川(羽地)グスクと勘手納港
・今帰仁グスク攻略と勘手納港
・四津口の一つ(勘手納港)と仕上世米


  「勘手納津口に而御米積入候船頭種子島之秀右衛門今月
   廿六日順風相成致出帆候・・・」(1785年) (『親見世日記』)








【諸港津巡視】(明治27年)

 勘手納港は羽地間切仲尾、仲尾次の両村に亘るの湾口を称するものにして旧藩の頃にありては本港に於て国頭大宜味羽地の貢物を収納したりしと云う。本港は特に港名もありて或いは船舶の出入も頻繁なるが如しと雖ども現今只其名の存するのみ。僅かに貢租を搭載して那覇に航行するに過ぎず。然るに呉我、源河、稲嶺、真喜屋等は目下常に船舶の出入絶えざるものの如く随て焼酎の輸入も少からず。・・・・


本部町渡久地港(なきじん研究9号)

 沖縄本島北部の本部半島西海岸、満名川の河口に位置する港である。方言ではトゥグチミナトゥといい、南岸に本部町の中心地渡久地のマチが発達している。湾口は広く、また奥行も約1kmと入り込み、北と南の丘陵で風を防ぐ良港をなしている。古くから中国や薩摩を往来する船の避難港として利用された。明治以降になると沖縄本島北部の西海岸の離島と那覇を結ぶ航路の中継地として機能してきた。

 「渡久地は古来より山原船の停泊地であり、近年汽船の回航や石油発動船の往来が頻繁である。ここより伊江島伊平屋行きの船便がある。渡久地は東の方の満名川流域の平野として、離れた伊野波の平地に連なり、後方は地勢が急で辺名地を負い、西側の港の外には瀬底、水納の二つの島と伊江島が横たわって、あたかも内海のごとき景観で、夜景が最も美しい」(『沖縄県国頭郡志』 410頁)とある。

   1853(咸豊3)年にペリー提督の一行は瀬底から浜崎に移動し、海岸の調査をしながら浜崎の海岸にテントを張り、さらに渡久地港まで足を伸ばし鶏や土瓶をかっぱらっている。卵や薪、唐辛子・さつま芋などは中国の銅銭で調達している。その後一行は伊江島、今帰仁へと向かっていった。                                

  渡久地には本部間切創立以来間切番所がおかれ、行政の中心となり、昭和20年まで役場が置かれていた。戦後になって役場は現在地に移った。

 明治14年11月の『上杉巡回日誌』に「帆檣林立シ」との記述が見え、港内は山原船でにぎわっていた様子が記されている。その後も名護に次ぐ沖縄本島北部第二の港として栄え、那覇・名護・伊江島などとの間にも航路が開設された。農水産物・生活用品などの移出入で活気をおび、さらに発動機船の導入によりカツオ漁も盛んになった。『沖縄県国頭郡志』に「本部第一の鰹節産地にして毎年三万斤内外を出す」とあるほど、かつて はカツオをめぐって港が賑わっていた。昭和40年代頃まで、港を中心とした渡久地市場は栄えていたが、その後大型店舗などに押され、さびれていく。近年旧市場は再開発されつつある。

  河口港のため流入土砂の堆積が著しく、船舶の大型化に伴い浚渫 が必要となり、昭和7年から同9年にかけて南北防波堤・物揚場・泊地浚渫・埋め立てなどの工事がなされた。完成後は北部随一の良港として、生活必需品の移入など、地域の産業経済の発展に大きく 寄与した。同時に奄美大島(鹿児島県)と結ぶ航路船舶の寄港、鹿児島・宮崎方面の漁船の給水・停泊地としても利用され、暴風時には避難船が数多く入港した。                                  

  第二次対戦中は日本軍の伊江島飛行場経営のため徴用労務の輸送に使用された。戦時中は貯蔵してあった輸送用燃料弾薬庫に被弾し、渡久地周辺の市街地は全戸焼失の被害を受けた。戦後の一時期、米軍の駐屯地として利用されたが、昭和26年これらの施設を琉球造船所が引き継ぎ、造船・機関修理を行った。昭和32年11月19日琉球政府により重要港湾に指定され港湾管理者は本部町となる。同38年物揚場、同40年泊地が完成。昭和47年 5月12日港湾区域の変更とともに港湾管理は本部町から琉球政府に移管され、同年5月15日本土復帰に伴い沖縄県管理の地方港湾に指定された。

  昭和50年沖縄国際海洋博覧会の本部町開催に伴い、渡久地港エキスポ地区と渡久地新港(現本部港)が新設され、渡久地新港が北部離島への定期連絡船の基地港になったため、現在は水納島定期連絡船(みんな丸、19t、1日2便)・漁船・巡視船などの利用に供され、また、荒天時には小型船の避難地となっている。

 


泊 港(那覇市泊)

 山原の津(港)や異国船の漂着史料、あるいは山原船の往来を見ている泊村や泊港が度々でてくる。各地に漂着した船や漂着人があったとき、泊村や泊港へ廻船、漂着人は移送されている。それとは別に山原船の泊港との往来の記事が数多くみられる。

 山原の津(港)や山原船との関わりで、どうしても見て置かなければならない港である。近々訪ねてみることに(ただ、泊についての知識がないのでメモでも)。
 
 最近「近世琉球における対「異国船漂着」体制」(渡辺美季)(『琉球国評定所文書 補遺別巻』浦添市教育委員会発行)の論考を目にした。異国船の漂着したときの対応から首里王府の体制を明快にされた論考である。異国船港を扱いながら、モヤモヤしていたのが一気に吹き飛ばすことができた(あり難いものです)。泊村にある泊御殿蔵敷は「琉球の漂着民収容センター」だとしている。漂着船や漂着人達を泊港へ泊村へと役人が動いている意味がよくわかる。


(メ モ)
  ・泊はトゥマイという。
  ・『琉球高究帳』に、西原間切泊町とある。
  ・泊には頭取・糸正・泊筆者・鳥島与人・鳥島船筑・泊佐事・鳥島船佐事などがいる
   (明治29年まで)。
  ・天久台地上に烽火台が設置された(1644年)。
  ・泊村は首里王府の直轄地となったことがある。
  ・安里川の下流から河口に至る右岸地域。
  ・奄美の島々、沖縄本島北部や周辺の島々との往来。
  ・首里王府への国頭地方の貢納物を運ぶ船は泊港へはいた。
  ・察度王時代(1350〜1395年)頃は泊港が中山の湊であった?
  ・泊湊を出て奄美を服属させた(尚徳王時代:1461〜69年)
  ・安里川の中流域の安里橋(今は崇元寺橋)と泊高橋があり、その間に発達した村。
  ・前島は泊村の前方の島(デルタとなっていて、塩田が発達)。
  ・泊御殿・・・大島倉がつくられ奄美の島々、そして山原地方の貢納物を集積した。貢納船の
   事務を掌る官吏が常駐するようになる(島津進入後廃止)。
  ・硫黄鳥島から硫黄を泊に陸揚げ。崇元寺の近くにあった硫黄倉に貯蔵。硫黄の洗練は硫
   黄倉(洞窟)と硫黄グスクで行なわれた。
  ・崇元寺は泊村のうち。
  ・「ペリー訪問記」(1853年)にTumai
  ・「フォルカード日記」Tu-mai
  ・山原地方から薪・炭・材木・山原竹など。泊から日用雑貨。
  ・戦争で破壊され昭和29年に開港する。
  ・復帰まで本土航路の貨物船や旅客船が就航する。
  ・現在は本島周辺の離島との定期貨客船の発着港。


古宇利島の港(ウプドゥマイ)(今帰仁村)

 
今朝、今帰仁村古宇利島に渡る。2月8日に橋は開通するようだ。島の出入り口である港を、橋の開通前にもう一度訪ねておきたかった。運天港から7時25分発の便で古宇利島に渡り9時50分の船で戻る。天気はくもり。海上の波少し高し。

 都合よく玉城信男先生が同船に乗っていたのでウプドゥマイ(大泊)や船について立ち話でうかがうことができた。また、寝起きだったのか鳩の巣の髪型(サザエさん風?)をした小浜区長さんが、来年工事の入る神アサギと古宇利大橋の橋詰め付近の案内をしていただいた。目ぼしいサバニがないか漁港あたりも歩いてみた。早朝の大急ぎのウプドゥマイ回りであった。島のお二人には感謝。

 ウプドゥマイ(古宇利港)と運天港を結ぶ航路は戦後のことである。戦後間もない頃まで、古宇利島と運天(クンジャー浜、戦後運天港)を結ぶワタサー(渡し舟)はくり舟→サバニ→伝馬船・山原船→焼玉船→ディーゼル船へと変遷をたどる。戦前は定期のワタサー舟があったわけではなく、本島側へ、あるいは古宇利島に用事があると舟を頼んで出してもらっていたという。

 明治後半から大正初期にかけてはヤーヌクヤ(上間喜吉氏)がサバニと伝馬船の二艘でやっていた。その後のことは『古宇利島のかがり火』(玉城信男著)でまとめられているので詳細は『古宇利誌』に譲ることにする。

 ワタサー(渡し舟)の舟着き場(チグチ:津口)と呼ばれ、古宇利島側はウプドゥマイとグサブー、運天側はクンジャー浜である。不定期なので客がいると旗をあげたり、煙を出して合図した。サバニで渡るときは、濡れるのを覚悟で皆で漕いだり、ユー(海水)をくみ出したりした。伝馬船は多くの荷物や人を運ぶことができる。ところが、風まかせのところがあり、向かい風にあたると一時間以上もかかったという。

 戦後三年間はサバニと伝馬船がワタサーをしていた。競いあってやっていた時期もあるが、伝馬船が共同組合経営となってからは船頭はトーヒチ屋とゴンペー屋となる。昭和20年10月1日今帰仁村陸上競技大会の当日、応援に向う島の人たちを乗せた伝馬船が転覆するという大惨事が起きた。この出来事をきっかけにエンジン付き船(焼玉船:ポンポン船)となり、渡し場は運天港へと変る。

・1948年8月〜1953年 第一古宇利丸就航する(台風で破損)。
・1953年8月〜宝玉丸(中古)が就航する。
・1954年9月〜1969年8月 第三古宇利丸(台風で炬港口で破損する)
・1970年1月〜  第五古宇利丸(フェリー)
・1984年1月〜現在 第八古宇利丸

 
ウプドゥマイ(大泊)は舟が碇泊したことに由来するのであろう。古宇利島の南側に展開した集落の前方にウプドゥマイがある。戦後、焼玉エンジンの船になると桟橋が必要となり第一桟橋が建設された。橋桁はドラムカンを利用し、それにコンクリートが流し込んである。
 
 焼き玉エンジンの船の頃、冬場や波の荒い日にはタイミングを見計らって飛び降りなければならず、また干潮時に接岸したときなどは、桟橋より船が下になるので荷物を投げたり手渡ししてから降りた。船の乗り降りに苦労があったという。



    ▲シラサ辺りから見たウブドゥマイ        ▲フェリーの発着場からみたウプドゥマイ


   ▲戦後間もない頃に作られた第一桟橋(現在)。脚はドラムカンにコンクリートを


    ▲古宇利漁港の様子             ▲古宇利大橋。橋詰広場の反対側から

『球陽』
尚敬王7年条(1720年)(角川書店 262頁)
   
今帰仁郡古宇利邑の大城、水梢七人を率ゐ、四幅帆船に坐駕す。亦山川・玉城等は、
    水梢十九人を率ゐ、七幅帆船坐駕す。康煕辛寅の年春二月の間、那覇津より一斉に開
    洋し、読谷山外に回至して、徙に逆風に逢ふ。七幅帆船、礁を衝きて破壊す。大城の船、
    他の船と相離るること一里許りなり。大城遥かに山川の破船するを看るや、即ち其の処に
    到り、二十名を撈救す。此の時、波涛稍ゝ静まり、風未だ吹きて順ならず、以て直ちに回
    り難し。只風に任せて沈浮し、諏訪瀬に飄到す。彼の島より供給養贍して、本国に回り来
    る。是の年に至り、褒美を荷蒙し、黄冠を頂戴す。

※康煕辛寅→?
  諏訪瀬島は奄美大島の北方にある島のひとつ。

『球陽』尚育王12年条(1846年)(角川書店 551頁)
   本年4月26日、今帰仁郡古宇利村の洋面に異国船一隻の到来する有り
    其の船、古宇利村二三里許りの洋面に湾泊す。人数六名、杉板一隻に坐駕して□来し
   上岸す。手を用つて比勢し牛・羊・蔬菜等の件を請求す。随ひて牛一疋・羊二疋・蒜二升
   五合・□蕎四斗を給するに、即ち本船に回る。翌27日に至り、又該人数八名、杉板一隻に
   坐駕して□来し上岸し、蕃署・蔬菜等の物を求む。随ひて蕃署二十斤・□蕎一斗を給する
   に、即ち本船に回り、遂に亥子方に向ひて駛去す。其の船形・人相、絵図と対看するに、恰
   も阿蘭陀に似たり。

 1846年6月6日(旧5月7日)運天港にフランス艦船が三艘やってきた。フランス艦隊がやって
 きた10日前くらいである。

 この記事の「船形・人相、絵図と対看するに」が非常に興味深い。それは、「山原の津(港)と山原船」のまとめ」で報告するが、首里王府の達(たっし)が末端まで浸透し機能している様子が伺える。貢租や祭祀においても同様なことが言えるのではないか・・・。

 国頭村の安田漁港をゆく(元旦)。現在漁港として整備されているが、山原船が往来していた頃の港とは異なる。また、漁港あたりは必ずしも、かつての港ではない。

 明治14年安田村を訪れた上杉県令日誌に「古堅家ヲ発ス、路左ニ折レ、薯圃ヲ貫キ、海浜白砂ノ間ヲ過キ、両舟ヲ買ヒ、纜ヲ解ク、夫レ安田港ノ勝概タルヤ・・・・山原船数艘碇泊シ・・・」とある。

 安田村に漂着した朝鮮人にどう対応しているかは、首里王府の機構が地理的孤島と言われる沖縄本島の末端までどう機能していたかを知ることができるし、さらには首里王府が異国に向けた姿勢が窺える。また、安田から辺戸岬を回り西の海上から泊へ移送するか、それとも東回りにするか。単なる風波だけの問題ではなく、与那原あたりから陸上で泊まで移動ことは、琉球国の内情を異国人に知られることになる。

 そのため、一部陸路(前例があった)を通り、西コースで泊まで移送している。在番や検者、横目、御物奉行、御鎖之側、大夫、通事、医者、評定所筆者などの首里王府役人の動きそのものが首里王府の異国船や異国人への国策としての対応である。

【幕末日仏交流記】(フォルカード:1846年:108〜109頁)古宇利島でのこと。

6月11日

 提督のお供をして、現地の人が古宇利島と呼んでいるエルベール島に出かけた。これは地図で確認すると、とても小さい島だ。島と同じ名前の村が一つあるだけだ。耕地もあるが、島の大部分は巨岩と、まるで原始林のような鬱蒼と茂る森で覆い尽くされている。風景画家にとって格好の素材となろう。なにしろどこを歩いても才能を遺憾なく発揮することができるのだから。

 こんな人里離れたところまで監視の目は行き届いていた。耕された狭い盆地に差しかかると、一人で粟を刈り取っている少年に気がついた。少年に近づいて、ちょっとした質問をしてみると、喜んで答えてくれた。しかし話はすぐに中断された。下品な顔の男がどこからか四人が現れて、少年に襲いかかろうとしたので、かわいそうな子供は恐ろしくなって、一目散に逃げていった。 

●炬 港

【諸港津巡視】(明治27年)

 
炬港は運天港に接近し仝間切内謝名、仲宗根、崎山、平敷、寒水、岸本の六ケ村に亘。本港も旧藩の頃右六ケ村の税品を収納したる所なれば那覇との往復常に絶えず。然れども港内水浅くして大船を入るゝ能はざれば、道の島往復等の船舶此所に寄港するが如きことあらず。且つ焼酎販売営業者も僅少なれば到底他府県に迄輸出せんとするが如きは之あらざるべし。


 
1846年6月今帰仁間切の運天にフランス船の
   
@サビーヌ号(コルヴェット艦:ゲラン館長)
   Aヴィクトリューズ号(コルヴェット艦:ゲラン館長)
   Bアルクメーヌ号(コルヴェット艦:フォルニエ・デュプラン館長)
   Cクレオパトラ号(フリゲート艦:セシール提督、モーシオン・ドゥ・カンデ館長)
が来航している。その際大井川流域(下流域は炬港)まで遡っている。


【幕末日仏交流記】
(フォルカード:1846年:134〜135頁)大井川流域

6月23日
・・・・我々は一分足らずで使者を帰してしまった。その後、美しい水の流れ、大井川という小さな川のほとりまで、気持ちよく散歩に出かけた。この川は停泊地から半里ほどの所にあり、この大きな島(沖縄島)で偶然見つけたものだ。

6月25日

 
午前中、この間行った大井川まで提督も同行した。我々は河口から入り、かなり奥地まで遡った。結局は道をつけるために設けられた堤防が邪魔になってそれ以上は進めなかった。川は、緑深く魅力的な山間を流れている。山のふもとから川岸までの土地はすべて美しい水田になっている。この国はどこもかしこもすばらしい。毎日この土地を歩き回っては、数知れない夢を描いている。


●安田港(国頭村安田)

 国頭村安田港ゆきは、乾隆59年(1794)に朝鮮人十名が安田村いふ干瀬に漂着した出来事があったからである。安田のシニグやウンジャミグヮーや神アサギの調査で何度かきている。今回は「朝鮮人十人国頭間切安田村江漂着ニ付送届候日記」の様子を200年前の出来事であるが、いくつか確認しておきたかった。伊部干瀬は現在の漁港付近ではなく伊部集落沖の干瀬とみられる。

 朝鮮人の漂着とは別に、1853年7月21日にぺりー一行が伝馬船二艘で「あだか」にキャンプを張り、22日には出帆している。

 
『国頭村史』から概要とまとめてみた。
  1794年1月30日明け方数十人乗りの七反帆唐(朝鮮)船が国頭間切安田村の伊部干瀬に10人漂着した。乗組人が浜にたどりつくのを遠見番が見つけ番所に報告した。番所から検者知名筑登之親雲上と在番松崎筑登之親雲上の名で飛脚を出し、三司官与那原親方に届けられ、さらに国王尚穆に伝えられた。首里王府が朝鮮人だとわかったのは2月9日である。
  2月4日に出された鎖之側富盛親雲上から以下のような「覚」は唐人としてである。それは間切在番と検者に出されている。途中から朝鮮人扱いとなる。

   一漂着唐人へ地下人不相交様、堅固可申渡候事
    一唐人罷居候近辺、女往還堅禁止之事
    一大和年号又は大和人之名乗并斗升京分唐人へ見せ申間敷事
       附通用之金相尋候ハバ鳩目金相用候段可答事
    一村中火用心能々入念候様毎晩申渡、検者ニ而其首尾可申出事
    一村中ニ而大和歌仕間敷事
    一唐人滞在中御高札掛申間敷事
      右之通堅固可被申渡置候以上
 
 その「覚」は、琉球国が薩摩の附庸国であることを知られないための対応の仕方である。那覇(泊)への移送は、海路と陸路の意見がでたが陸路に決定する。安田村から西海岸の奥間村(国頭間切番所あり)に出て、同村のかかんず(鏡地)の浜から乗船する手はずとなる。鏡地の浜に長さ三間、横九尺の小屋が作られ、そこが仮の宿となる。

・9日朝五ツ時分安田村を出る。夜の五ツ時分に鏡地浜に到着する。
・10日「朝鮮人が順風次第奥間村から泊へ向けて出船の予定。
・18日国頭間切地船で鏡地港を出発する。
・18日本部間切瀬底二仲に到着する。
・20日渡久地港に廻船しする。
・21日渡久地港を出港する。
・同日七ツ過時分に泊沖に到着する。
  (外国船が漂着した場合は、乗組員を移送して泊屋敷に収容し、接貢船
  で中国に送るのが慣例である)
・5月朔j日 接貢船泊を出船する。
・5月20日 順風なく那覇川に戻る。
・6月18日 那覇川口外にて接貢船に乗り付けて出帆する。


  ▲ミチブーにつくられた安田の漁港      ▲網にかかった魚をはずしている(1日)

「国頭村安田の風土誌」
(1972年)

 「・・・明治の20年頃から利にさという与那原の4、5人の人が移住。あきないの門戸をきり開いた。
 当時の生産物といえば林産物〈用材、山原竹、薪)等が主で海人草、貝殻等がそれに続いていた。
 明治30年頃には字民からも小店を出す者が出て、その数12、3軒になり表面にぎわいを呈したもの
 だ。林産物は当初与那原に出されたが、字民からも山原船を持つものが出たりして、糸満・那覇中
 南部各地に販路は開拓されていった。

 物資運搬のため、1952年に安田丸を購入、建築資材・林産物・竹を運搬、寄港先は安田―与那原
 ―馬天―糸満―那覇である。しかし、安田丸も1956年に売却、これにとって変ったのが、トラックで
 あり、1957年にトラックの運行開始、1960年に辺土名まで客車の運行が開始された。

 【参考文献】
・『国頭村史』国頭村役所発行
・『琉球王国評定所文書』第1巻「
・『沖縄県史料』漂着関係記録(前近代5)「朝鮮人送届日記」参照。
・『南島文化』創刊号 1979年 沖縄国際大学南島文化研究所



【ナチヂナーと山原船】

 那覇市松川(一部首里山川町)にナチヂナーの地名があり、今帰仁とどう関わる場所なのか興味がある。この地名はどうも舟や港を介して名付けられた地名かもしれないので、一つの話題としてここに掲げておく。

 万歳嶺(現在首里山川町)と官松嶺(現那覇市松川)の碑がある。万歳嶺(ばんざいれい)は別名ウィーナチヂナー:上今帰仁那)、官松嶺(かんしょうみね)はシチャヌミヤキヂナー(下今帰仁那:シチャナチヂナー)とも呼ばれている。那覇にあるナチヂナーと今帰仁(間切)とどんな関係にあるのか。

 以前、考えたことがあるが定かなことはわからなかったような。確か『南島風土記』(東恩納寛惇著)にあった「往昔者、板橋ニテ、橋本迄、山原船出入仕リタリトナリ。中古、矼ニ成リタル時、潮與水行逢所ニテ、橋名ヲ指帰橋ト、名付タルト也」(『琉球国由来記』)であったような。東恩納氏が「この橋の辺まで山原船が出入りしたと伝ふ由来記の説は事実と思われる」と述べている。

 万歳嶺(上ミヤキジナハノ碑文:1497年)と官松嶺記(下ミヤキヂナハの碑文:1497年)の二つの碑文にミヤキヂナハ(今帰仁那)と一文も登場しない。官松嶺記に「・・・三府在□曰離曰南山府在其両間曰中山府可謂海上之三山矣中府之西有丘・・・」とあり、山北府は出てくるがミヤキヂナーとはでてこない。恐らく、碑文が建立された時か、その後かもしれないが、一帯がミヤキヂナハ(ナチヂナー)と呼ばれていて、そこに二つの碑が建立されたのであろう。

 碑文が設置された場所はナチヂナーの地名がつく場所であった。ナチヂナーの地名は二つの碑文の内容とは直接関係ないように思われる。東恩納氏が述べているように、安里川(近世、安里川から崇元寺より上流あたりまで舟が遡っている)から遡り、嶺の麓あたりまで舟の往来があり、港として機能した場所であったのかもしれない。そうであれば、今帰仁(北山)からの舟の発着に由来した可能性は十分ある。

 果たして「嶺の麓が一帯が港として可能な場所でだろうか」の疑問はあるが、指帰橋あたりまで「潮水ト逢所ニテ」とあるので、満潮時には海水がそこまで遡流していたのであろう。一帯の標高が5m以下なら十分可能性があるのだが(それは未確認)。というのは、今帰仁あたりでも標高3〜5mにあたりにトーセングムイやトーシンダー、あるはハキジ(舟綱をかける)など舟に関わる地名があるからである。11、12世紀ころの様子が彷彿してくる。

【メモ書き】

 展示会「山原の津(港)と山原船」の開催に向けて、これから調査にはいります。このテーマに関わる資料や画像など随時書き込んでいきます。この展示会が開催されるまで、どのような様子か、企画あるいは準備する立場であるが、楽しみながら進めていく予定です。準備段階であることと、本格的な調査はこれからなので、企画書がありますが、当面順不動の掲載となります。悪しからず。