2016年7月10日(日)
「おもろさうし」から勢理客のろ(しませんこのろ)について、巻11、巻14、巻17、巻22は編集年次が不明のようである。他の巻、巻1は1532年、巻2は1613年、上の不明の4巻を除くと1623年である。「おもろ」が謡われた時代については、これから検討。「勢理客ノロ殿内」に焼けて二本のカブの簪がある。また徳之島のててのろの焼けた簪があり、焼けると簪は銀メッキ、あるいは金メッキがきえ銅色になっている。
ここで考えたいのは、各地のノロへの辞令書の発給、勾玉(タマガーラ:頸佩)や簪や衣装の発給、そしておもろさうしの編集、おもろに謡われている内容、伝承。その関係をしる手がかりになりはしないかとの試みである。果たしてどうか?(歴史的伝承→活字化(おもろ)→伝承はつづく)
(その流れを沖永良部島の世の主伝承とのことを検証してみることに)
(これまで、調査してきた資料(画像)を取り出てみると、当時気づかなかったことが見え、非常に面白い)
(第11巻) 1027(編集年不明)
一 せりかくののろの 勢理客のjのろの
あけしののろの あけしののろの
あまくれ おろちへ 雨くれ 降ろちへ
よるい ぬらちへ 鎧 濡らちへ
又 うむてん つけて 運天 着けて
こみなと つけて 小港 着けて
又 かつおうたけ さがる 嘉津宇嶽 下がる
あまくれ おろちへ 雨くれ 降ろちへ
よろい ぬらちへ 鎧 濡らちへ
又 やまとのいくさ 大和の軍
やしろのいくさ 山城の軍
(第17巻) 1204(編集年不明)
一 せりかくの のろの 勢理客jののろの
あけしのゝのろの あけしのゝのろの
おりあげるたる きよらや おり上げたる 清らや
又 いしへつは こので 石へつは こので
かなへつは こので 金へつは こので
(第17巻) 1203 (編集年不明)(716)
一 しませんこ しませんこ
あけしのゝのろの あけしのゝのろの
ももとひやし 百度拍子
うちあがらうなさいきよ 打ち揚がる成さい人
又 なかひやにやの なかひやにやの親のろ
せとひやにやのおやのろ せとひやにやの親のろ
▲今帰仁村勢理客のノロ家の二竿の焼け残った簪
▲「手々のろの二竿の簪」(徳之島手々堀田(稲富)家資料)(画像は徳之島町郷土資料館提供)(2011.10)
▲焼け残った衣装(他に文書などもあり)
徳之島の「ててのろ」の簪の画像(徳之島町立郷土資料舘提供)http--rekibun.jp-23tyouas10.html
2016年7月13日(水)
午前中、本部町で講演あり(10時から)。途中、本部新港と通過。フェリーが停泊中、与論、沖永良部島ゆき。天気がいいので飛び乗りたくなりますね。連休に沖永良部島まで行くか。沖縄本島から沖永良部島までのおもろで謡われているポイントを撮影に。
「おもろ」を紐解いていると、気になることがいくつもある。『おもろさうし』が編集されたのは、第1巻が1532年、第2巻が1613年、第1巻、第4巻、第17巻、第22巻が不明、他は1623年である。古いのは1532年であるが、ウタの内容については、14世紀の中頃、じゃなもひや(察度王)や金丸(尚円王)などが謡われている。またぐすく(城)や大主などきこゑ(聞ゑ)などと褒めたたえている。みやきせん(今帰仁)グスクの「かなひやぶ」(金比屋武)などがオモロで謡われるのは、ポイントとしてより、別の意味でのことが伝えられていると見た方がよさそう。つまり、ある出来事が伝承となり、それが伝わり、おもろで文字化されているのではないか。そのことを足で確かめたい。
おもろに謡われた場所を、特に沖縄本島北部から沖永良部島までのポイントをフェリーから(あまりいい画像にはなりませんが)。
陸上から「さちぎやもり(古宇利島)、遠くに「あすもり(安須杜)」を撮影。
(果たして天気はどうか?)
▲本部港に着くフェリー ▲さちぎやむい(古宇利島) ▲遠くに「あすもり」
2016年7月25日(月)
伊是名島と伊平屋島のフェリーからの島影を(明治まで伊平屋島。現在は伊是名村、伊平屋村)。沖永良部島はちょっと一休み。
▲伊是名島 ▲伊平屋島
2016年7月19日(火)
17日~19日まで沖永良部島をゆく。目的はいくつかあったが、それ以外の収穫がいくつかあった。それとフェリーの中で手にした『江戸期の奄美諸島』―「琉球」から「奄美」へ―(知名町教育委員会編)に目を通す。緊張感が走った。島を踏査している間、帰りのフェリーのなかでも緊張が走りつづいていた。わたしに与えられた講演内容と関わる部分が多くあるからである。大城(おおじろ)小の生徒たちと世之主グスクで遭遇。案内は和泊町教育委委員会の伊地知さん。そこで二時から屋古母公民館で「えらぶ郷土研究会」の研究会(先田先生)があるというので飛び入り参加。
今回の沖永良部島ゆきの目的の一つは、おもろで謡われた場所に立ってみると何が見えてくるのかということ。そのこともあって往復のフェリーからその場所を画像に納めてみた。
辺留笠利(奄美大島)、喜世、瀬戸内には行かなかったが、沖永良部島から徳之島、(沖永良部島)、与論島、その後方に沖縄本島北部の辺戸、安須杜が遠望することができた。今帰仁グスクから沖之永良部島が見えることがある。徳之島や沖永良部島、与論島、伊平屋島、安須杜、伊江島などは島全体、特徴ある地形などがおもろに謡われて不思議はない。ところが、今帰仁グスク内の金比屋武は、今帰仁グスクの歴史上の出来事がしられていて謡われたとみるべきであろう。うむてん(運天)ややかひもり(屋嘉比杜)も。
巻13巻 868
一 聞ゑ 押笠
鳴響む押笠
やうら 押ちへ 使い
又 喜界の浮島 喜界島
喜界の盛い島
又 浮島にかゝら
辺留笠利きやち 笠利(奄美大島)
又 辺留笠利かち
中瀬戸内きやち 瀬戸内(奄美大島)
又 中瀬戸内から
金の島かち 徳之島へ
又 金の島から
せりよさにかち 沖永良部島へ
又 せりゆさにから
かゑふたにから 与論島
又 かゑふたにかち
安須杜にかち 国頭安須杜
又 安須森にかち
金比屋武にから 今帰仁グスクの金比屋武
又 金比武にから
那覇泊かち
▲和泊町伊延より徳之島を望む ▲世の主グスク(大城小)で歴史が学習
▲今帰仁グスク内のカナヒヤブ(イベ) ▲嘉津宇岳(本部半島)
2016年7月20日(水)
17日(日)沖縄本島の読谷村の残波岬、恩納岳などの地をフェリーから撮影し、さらに本部半島の嘉津宇岳、今帰仁グスク(かなひやぶ)、古宇利島、運天、伊江島、大宜味村の喜如嘉、田嘉里(やかひもり)、国頭村の赤丸崎、辺戸、安須もり、伊平屋島、与論島などの遠望を撮影。沖永良部島(和泊港)へ着くと、すぐ島まわり。スタートの場所が定まっていない。しかし伊延港へ向かっている。途中、和泊町喜美留へ。以下の件で。
「世乃主由緒」に記された沖永良部島の世の主の終焉と北山の滅亡の筋書きが類似している。「北山王も落城、宝剣も被盗取傍々付気鬱被成居候折柄中山より数艘船海に付き、軍艦と御心得御自害の由申伝御座候。右の通り私先祖より代々申伝御座候」とあり、その筋書きに関心がむく。もう一点の「黄美留菜津久美と申候宝刀之申伝」の伝承である。青貝微塵塗腰刀拵(
北谷菜切:チャタンナーチラー)伝承との関係?(工事中)
一、黄美留菜津久美と申候宝刀之申伝
世の主時代、黄美留村へ扇子丈と申もの罷居しが引差越候処刀一腰つり上げ、宝刀の訳は
不相分ものにて魚を切候得はまな板迄切込、夫より秘蔵いたし置き候処、其子右刀を以て怪
我仕り夫故相果申候につき立腹し余りに古場野と申野原の真石を切り申候処夜々海中にて光
をあらはし候を城より御見届、使者を以て御取寄せ秘蔵相成候由。
▲世之主城から喜美留方面を臨む ▲世之主を神をとし、神社化
2016年7月24日(土)
知名町下城に「世之主神社」がある。その説明版に以下のようにある。「世之主」伝承を色濃く伝えるムラである。北山の痕跡を遺している地である(詳細はまとめで)。
世之主神社
世之主とは沖永良部島の領主のことで、
琉球が三つの領地に分かれ争っていた十三世
紀の頃、北山王の二男として生まれたと言い
伝えられています。
世之主神社は、当地下城と和泊町内城の二
ヶ所にありますが、下城の世之主神社は、世
之主が誕生した場所に建てた神社で、内城は
居城跡だと言い伝えられています。
下城世之主神社の御神体は、昔からニュウマ
屋敷内(神社敷地)に「イビ」と呼ばれてい
た小屋があり、その中に「ウヮマ石」という
三つの石が大事に保管されており、この石は
雨ざらしにしたりすると、たたりがあるとの
言い伝えがありました。
昭和二年十二月二十四日の建立の際に、そ
ウヮマ石を御神体としていただき、翌年旧
の正月十三日に初祭典を催し、又、神月と
言われている一月、五月、九月の十三日を
祭典の日と定めていましたが、現在は、字区長
を中心に年一回一月の第二日曜に大祭典を
行っている。
「上城村の「ぬる久米」代り合ひの節年頃十四、五歳の娘召連琉球へ渡海致候処、右娘生付
美々敷其上器量衆人に勝れ国王様の御目に立ち御所望被遊候に付差上申候処其後右腹
に王子懐妊被遊御出生御成人の後沖永良部島被成下御下御渡海の後・・・・・・」
※上城、下城、新城はニシミと呼ばれる。ニシミはもともと上城のこと。三間切時代(1857年)以前、
上城は喜美留間切、下城は大城間切にはいている。それ以前から分村していたか?
上記の「上城村」は上城と下城が分離する以前。 新城の分離は昭和25年でニシミシンバル
一帯を新城としたようである。
▲世之主神社の鳥居 ▲世之主神社の説明版 ▲御神体「ウヮマ石」を祭った祠
▲世之主生誕場所 ▲知名町下城集落集会所
四並蔵神社
鎮座地 大島郡知名町徳時
御祭神 四並蔵(ヨナミト)加那志
祭礼日 一月二十日 八月二十日
境内 七〇三七坪
現等級 七級〇〇
由 緒
御祭神四並神は、琉球北山王の一族
世之主加那志真千代が沖永良部島の領主として
一三九五年渡海の際
(工事中)
2016年7月26日(火)
7月18日(月)二日目のスタートは知名町古里の「与和之浜」から。古里はサトゥと呼ばれ里に由来。与和之浜は「おもろさうし」(第13巻 No.936で以下のように①与和泊と謡われる。世の主ロードの説明版に、「世之主時代(14~15世紀)に、他の島々と交易した港である。琉球の古い歌「おもろさうし」にも謡われ、ユワヌ浜が交易地として栄え、世之主の勢力を支えていたことが推察できる」とある。
一 永良部世の主の
選でおちゃる 御駄群れや
世の主ぢよ 待ち居る
又 離れ世の主の
又 金鞍 掛けて
与和泊 降れて
▲古里の与和の浜 ▲与和の浜は墓地になっている
古里村に②中寿神社がある。世の主ロードのポイントになっている。世の主の家来が軍艦を見張っていたが、間違った連絡をし、切腹した地に中寿神社を建立したという。
「この地は、世の主の家来が琉球中山王の和睦船を軍艦と間違って合図した所と言われてる。世の主自害の責任を感じて切腹した家来の遺骨がこの地に葬られていたので、供養のため地主が昭和2年建立した神社である。」
③皆川のシニグドーは、シニグ祭の時、世の主が休息した場所だという。近くにバンドゥル(番所か)の地名があり、見張りしていた場所だという。沖永良部島ではシニグが北山の時代から行われており、近世になると本来の琉球的シニグが薩摩役人が加わると大きく変貌した形となる。シニグドーは世の主が巡回のときの馬をおりて休憩した場所だという。皆川のシニグドーは近世大城・久志検・喜美留の三間切の与人が白装束で与人旗を持った騎馬隊を率いて集まり、太鼓をならし模擬的戦いをする場所。
▲知名町西田家所蔵のシニグ旗(『知名町誌』所収) ▲和泊町畦布の森家のシニグ旗
2016年7月27日(水)
皆川のシニグドーから④大城のシニグドーへ。シニグドーの前方の木陰で二人の老女が休んでいた。声をかけてみた。「看板のある場所で、昔行事でも行っていたのですか」と尋ねてみた。「そこはね、ゴミ置き場なっていたが、最近向こうに移してあるさ」と。シニグは明治の初期に廃止されているので、80歳余の方々の記憶からも消えているようだ。
大城(おおじろ)は世の主グスクのある内城の南東に位置する。「世之主由緒」に大城内の川内(ほうち)の百(ヒャー)が世之主にグスクを造るのに適当な場所を指示して教えたという。「正保琉球国絵図」に大城間切があり、村名は記されていないが、大城間切の主邑としてあったであろう。古琉球の間切や村の痕跡がありそうだ。沖永良部島の城(グスク)のつく村は標高50mほどの高地性集落の印象を。
▲大城研修館(公民館) ▲大城のシニグドー
▲山手中央部に伐開中の世之主グスクが見える
2016年7月28日(木)
和泊町の玉城に⑤フバドーがある。「世之主由緒」で玉城村金の塔へ館を構えと記される場所である。「世の主加那志御館之跡 ふばどうの跡」とある。
「世乃主由緒」
沖永良部島先主、世之主かなし幼名真松千代(まちじょ)王子
右御由緒私先祖より申伝之趣左上之通り。
一、琉球国の儀、往古者中山南山北山と三山為被成御在城由、北山王の儀は今帰仁城主にて
琉球国の中より国頭九ヶ間切その外、伊江島、伊平屋島、与論島、沖永良部島、徳之島、大
島、喜界島まで御領分にて御座候由、北山の御二男右真松千代王子の儀は沖永良部為御
領分被下御度海の上玉城村金の塔(ふばどう)え御館を構え被成候由、左候処、大城村川
内の百と申すもの御召列毎々魚猟に古里村の下、与和海え御差越海上より右川内の百当分
の古城地を指し、彼地の儀は大城村の地面にて御座候につき、世乃主かなしの御居城為御
築可被遊段申し上候段申し上候処忝被思召旨の御返答にて、即ち其比後蘭村え居宅を構へ
罷居候後蘭孫八と申すものへ城被仰付三年目に城致成就夫より御居城と相成候
▲フバドーから世之主城が遠望できる
世の主が沖永良部島で最初に館を構えたのが、この地であったと伝えられている。説明版に、以下のようにある。
フバドーはビロウの茂っていた地という意味であろう。フバは(ビロウ)は沖縄の島々におい
ては、神の降りる樹木であるといわれ、神聖な場所に生えている植物である。
この地にも、古くは神祭をした聖なる土地であり、世の主がこの地に館を構えたのは神の加護
を得るためであったろうと考える。
あるいは、すでに神祭の場所としては使われなくなったのであろうか。
この地名は、世の主伝説地名や信仰地名として貴重なものである。
2016年7月29日(金)
フバドー(和泊町玉城:たまじろ)から後蘭村の後蘭孫八の居城跡と孫八の墓とヌルバンドーへ。先はまだだが、「おもろ」や「世之主由緒」に出てくる村や場所を踏査していると非常に興味深いことが見えてくる。(与論島での北山三男の島での受け入れとの違いも検討する必要がありそう。以前に与論で講演したことがあるので、その原稿をとりだしてみるか)
各地の踏査を続けているのだが、心変わりせず静かに待ち続けている。そこに自分の研究の深化だけでなく、おもろで謡われている時代の手ごたえを実感。そこで暮らしている方々の理解しているかとは関係なく伝えている伝承。それを形にしているムラ。もう少し進めていきます。
第13巻 115 No.860
一 ゑらぶ まこはつが 永良部 孫八が
たまのきやく たかへて 玉の客 崇へて
ひといちよは ひといちよは(船名)
すかまうちに はりやせ すかま内に(早朝) 走りやせ
又 はなれまこはつ 離れ孫八
(離島の永良部孫八が玉の客(女神宮)を崇えて、船を出すのは早朝のうちに)
※沖永良部島(和泊町、知名町)フーナーの屋号がある。ひといちよ(船名)と登場、そのような船主の屋号と
結びつきそう)。「おもろ」で「ゑらぶ まこはち」と謡われた頃は、まだ村名がなかったの
のか。後蘭孫八の生誕地の伝承があったので「後蘭村」と漢字があてられたのか。
そこあ非常に重要なことである。そこは歴史を伝える伝承が先か。「おもろ」などで
謡われ、活字化されたのが先か。歴史を読み取っていく上で重要なことだと気づか
される。
後蘭村え居宅を構へ罷居候後蘭孫八と申すものへ城被仰付三年目に城致成就夫より御居城と相成候
▲後蘭字公民館
▲後蘭孫八の墓とヌルバンドーの墓の位置の説明版 ▲ヌルバンドー(ノロの墓)