知名町のムラ
2022年6月21日(火)調査記録
梅雨があける。空に真っ白な入道雲が発生している。一気に真夏である。樫木(チャーギ)のてっぺんにランが花をつけている。
【知名町側のムラ】
A
知名町側の字(ムラ)を雨の中を回ってみた。特に集落の様子とシニグと琉球的と見られる墓を踏査してみた。
参考文献:『鹿児島県の地名』日本歴史地名大系 47 平凡社
①屋子母
(やこも)知名町
隆起サンゴ礁上の段丘にあり。
初め大城間切に属す。安政4年(1857年)から東方
シニグドーに立石あり、旗を立て神酒をのみシニグ道を通り、大山のヒガヤマサキに上り、
シニグ遊びをする。
海岸に浜倉あり(説明版あり)
②大津勘村
喜美留間切から安政4年(1857年)に東方。明治13年(1880年)に戸長役場を置く。
③徳時村
琉球の時代、徳時間切が置かれ、元禄年間に具志検間切へ。安政4年(1857年)に東方。
琉球から来たというユナンドガナシを祀った世並蔵神社あり(生誕のガマあり)
④勢理覚村
(ジ―キョ)
隆起サンゴ礁の段丘上に集落あり。集落窪地から湧水あり。
当初は大城間切、安政4年(1857年)から東方。
中世にホービャガルミという豪族がいたという。フグミの段丘上にあったノロと琉球王との間に
生まれた世の金を祀った向田神社がある。
シニグ祭には各集落の百(ヒャー)がムラの衆を引き連れて、集落内のシニグドーから後方の
マチシニグイを経由して大山のヒガヤマサキに集まり祭祀を行っていたという。
(ノロ遺品あり)
⑤知名村
⑤黒貫村
初め久志検間切、安政4年(1857年)から東方。
集落後方にフースクの按司の城跡あり。トーマブシという見張り台があったという。
シニグ祭に大山のヒガヤマサキから旗を立てて踊りながら下りてきてシニグドーだ祭りを
行っていたという。
沖永良部島の情報が頭から抜けず。知名町の数かムラを遺して次へ。雨の中、そして腰痛で車の乗り降りで難儀をする。サンゴ礁段丘の狭い場所に集落が多い。頭に描いていた通りにいかずしまい。
⑥芦清良村
当初具志検間切の内、安政4年(1857年)から東方。東方の役所が置かれる。明治13年に戸長役場が置かれる。
⑦下平川村
隆起サンゴ礁の段丘上に集落が形成されている。(沖縄の古琉球からの集落ではないjか)
ユシキャ川(良い川)に由来か。
琉球国時代は大城間切の内、
⑧上平川村
(ヒョー村)
ヒョーは百(ヒャー)から来たか・ 山手に豪族の居城(ハナグスク)があるという。
シ二グ祭には大山から降りてくるノロをマチシニグで迎え神酒を供え、ヒョーシニグドーで
シニグ遊びをする。
初め喜美留間切の内、安政4年に東方。
中国に漂着した政孝が伝えた蛇踊りがある。彼を祭ったトゥヌチ神社がある。
▲上平川生活館
⑨屋者村
中世(古琉球)の四之主の四天王の一人ヤマジャバルが住み、切妻屋根の横穴式の墓がある。
初め久志検間切、安政4年(1857年)から東方。
1890年ウジジ浜にカナダ船が座礁、12名が死亡、10名救助。
⑩余多村
余多の集落は沖永良部高校側から臨むと他の集落と異なった地形の上にある。地質はサンゴ礁
上にあるが、古琉球の時代から同地に集落があった印象。
クラゴーが多い島であるが、河川が陸の上部を流れている。
田の多い地であったようである。
水車がある(故障中) 説明文に竿津・余多とあり、昭和24年に余多から竿津が分離。
⑪赤嶺村
初め、大城間切に属した。安政4年(1857年)に西方に属する。
集落は丘陵地のアーニバルから、後原、前原、ハノーに移転。
山手に横穴式墓がある。
⑫久志検村
後方に竿津山の丘陵があり、山越地にある焼き畑のキナか。久志検と具志堅の表記がある。間切役所は和泊村(現和泊町)に置かれた。安政4年(1857年)から西方に属する。近世に東部の丘陵地のフルグシキヌから移動。
明治25年(1892年)に上平川村に通じる石橋久平橋がかけられる。
⑬竿津(余多・余多)
余多集落は海に面し、余多川の右岸にあり段丘にある(グスク時代からの集落か?)。竿津集落は余多川の左岸にある。竿津はシージは清水のことか。
余多の海岸にイクサイヨーのと呼ばれる人骨を葬った洞窟がある。シニグドーがあり、竈石が祀ってあった。竿津には竈石を御神体とし姉妹を祀った宮本神社がある。昭和24年に余多と竿津が分離。
⑭上城村
(上城・新城)
大山北麓の隆起珊瑚礁の段丘上に形成。南西に下城村に接する。下城村を含めて「にしみ」(西目)という。北方を見守る番所があったか?
世之主の居城内城の外城の外城にちなんで上城と称したという。「おもろさうし」に「里中のころがま 一の櫂 真強く 歓へ子が 守りよわるゑそこ 又としらもいころがま 又田皆嶽 見居り 又西銘嶽 見居り 又せりよさのはつき 走へ来居り あけより」と謡われている。正保琉球国絵図に当村付近に「おかミ山」がある。国絵図に「徳時間切之内西銘村」とある。西銘村は琉球王国時代から同間切に属す。元禄年間(1688~1704年)以降喜美留間切、安政4年(1857年)から西方、西方役所が置かれた。
明治5年(1872年)役所は田舎平村(現和泊町)に移転する。明治13年戸長役場を設置。下の段丘にニシ三ミシンバルの耕作地に明治15年に屋敷を移転、昭和25年に行政分離し新城となる。
当地に代官遠矢金兵衛が築いたという横穴堀式の古墳イニャートゥ墓がある。
⑮下城村
北海岸は海に面し、急峻な断層崖となっている。沖泊湊があり交易地。古くは上城村を含めて西見村と呼ばれた。世之主の生誕地、居城の内城(現和泊)にちなんで下城という。竈石ウヮマを神体とする世之主金神社がある。
中世に世之主の四天王といわれる二シミクニウチベーサのや域跡がある。初め大城間切、安政4年(1857年)から西方に属す。明治10年下城小(後上城尋常小)が創設される。
⑯田皆村
断層崖の田皆岬がある。タンニャは田と焼畑からきた地名か。「おもろさうし」に「田皆嶽 見る居り に西銘嶽 見居り」とあり、田皆岬にテーガナシとい神社があった。沖を航行する船は礼拝したという。飲み水は地下のクラゴーから汲んだ。当初は大城間切、安政4年に西方にぞくす。戸長役場が置かれた。集落内に琉球から来たたという六人の兄弟を祀るオーシャメー、アーフなどの神社が氏神として建立。
⑰馬鹿村
(正名)
ノロがシニグドーで神酒を飲み、旗を立ててシニグ道を通り、山てのシニグ山に登っていたという。初め久志検間切、安政4年から西方に属す。明治28年頃、全国各地を産業振興を遊説した元薩摩藩士前田正名の名をとり村名を正名とした(知名町誌)。
⑱島尻村
(住吉)
シニグ祀にはヒャー神を祀るため男性が山てのシニグ山で夜籠りをして翌朝下山してシニグドーで住民総出のシニグ遊びをした。シニグ祭りは明治4年に全島で廃止。島尻村では明治5年シニグドーに溜池を新しく掘った。