沖永良部島(和泊)
2022年6月24日(金)調査記録(中間報告)
10年前に沖永良部島について大学で講座を開いている。その後も何度か島を訪れている。今回、ほぼ沖永良部島のシマを踏査することができあ。「沖永良部島と琉球」の時代をまとめることに。どうしても、沖永良部島のまきり(間切)の時代、「方」(1857年)の時代。琉球の間切内のムラの属地と大分異なる。そのことを念頭に入れて見ていく必要がありそう。その違いを古琉球の痕跡なのか、薩摩の影響なのか。
各村(村:集落)の上空からのみた集落景観から近世以前のムラの形態(マク・マキヨ、特に集落内の道筋)を見ることに。航空写真はOpen Street Map
(Yahoo.Japan)活用。
沖永良部島
1992年9月に『沖永良部の世之主」伝説と今帰仁の歴史』として講演に使った図である。30年前のことである。その時の講演記録は『なきじん研究』第3号91~96頁)に所収。その時、「世の主の墓の厨子甕」を見てほしいとのことであった。その答えは講演の中で「古くて17世紀、口広の厨子甕なので18世紀」と答えたと思いいます。会場がどよめきがあったことを記憶している。ただし、厨子甕の人骨は世の主のものなのかはわかりませんと弁明したことがあった。その後、沖永良部島を訪れてきた。
大きく「今帰仁からの視点」と「沖永良部からの視点」から述べている。
今回の沖永良部への渡島は、『和泊町誌』の分担の「永良部と北山・琉球」である。他の方々と競り合わがあったので書き改めることに。
与論以北の奄美に古琉球の痕跡がどのように遺っているかが今回の渡島の目的である。(梅雨のため予定通りには行かず。二日間は会議の合間を縫って・・・。
参考文献:『鹿児島県の地名』日本歴史地名大系 47 平凡社
①和泊町古里(サトゥ)
古里のサトゥは琉球の村以前のマクに相当するか。
与和の浜 「おもろさうし」で与和泊と謡われる。(中寿神社が建立、世の主の家来の切腹地)
②皆川(イニャーグ)のシニグドー
シニグドーは世之主が巡回のとき馬を下りて休憩
近世シニグ祭りの大城・久志検・喜美留の三間切の与人が白装束で与人旗・衆多旗・百姓旗を持った騎馬隊を率いて集まり太鼓をならして模擬戦い(沖永良部島郷土史料)
③大城村(ふうぐすく)(現在はオオジロ)
大城まきり時代の主邑だったのではないか。1857年(安政4年)に和泊方に属する。シニグドーがある。
④玉城(イニャトー)今はタマジロ
イニャトーは稲作と広場に由来するか。
14世紀玉城のフバドーに館を構えたという。
当初、玉城は喜美留間切、安政3年(1857年)から和泊方に属する。
明治9年(1876年)社倉の籾貯蔵用の高倉が建立。同「10年玉城小学校設立する。明治13年
戸帳役場が置かれる。(沖永良部島郷土史料)
⑤内城(ぐすく) 現在和泊町内城(ウチジロ)
村以前のウイグスク(上城)とノ―シグスク(直城)がある。世之主の居城跡あり。「おもろさうし」で永良部 立つ あす達 大ぐすく げらへて げらへ遺り 思ひ子の 御為 又 離れ立つ あす達 大ぐすく」
⑥根折(ニュイ村) 和泊町根折
初め喜美留間切で安政4年(1857年)から和泊方。天保年間に鹿児島藩の文化明党事件に関与して流罪になった目付曾木藤太郎が根折村に居住、私塾を開く。墓が残される。
明治17年(1884年)に玉城小学校の分校が設置される。明治27年に大城尋常小学校に統合。
⑦畦布村 現在和泊町
源為朝が麻布に上陸し住む。その末裔の義本王が退位して畦布に渡り、按司として移り住ん だのが大和城だという伝説がある。「きびる間切あぜふ村」とある(正保琉球国絵図)。初め喜美留間切の内、安政4年(1856年)に和泊方。ワンジョウに複数のトゥ―ル墓あり。
「貞享三年(1685年)寅八月九日奉九加修補忌屋代々為先祖也孝孫敬白 和之掟大工松
細工牛川間」と刻まれているという。明治10年畦布小学校を設立。明治27年年に和泊小学校に合併。集落内に「ヌールバンドーの差し石」がある。
源為朝の上陸の地、近くに大和城がある。
⑧伊延(港)
⑨出花村(デイギむら) デイギは竹のこと。花は舌状の鼻から来ているという。
「李朝実録」正祖14年(1790年)七月条の「出花村」とあり、出村の仲正・先甫が畦布村など他村の五人と朝鮮に漂着したという。シニグドーには竈石のウヮーマが神石として祭られている。
(昨年、金毘羅神社で拝見した石?) ウミリ祭(海神祭?)のとき、海岸のサンゴ礁の上に竹杖を立て、供え物をした。イキントー溜池周辺でシニグ祭が行われていたという。
(この場面は沖縄のシニグや与論のサークラのシニグの「流れ」の場面に類似している。)
⑩西原(和泊町西原)
初め久志検間切の内、安政4年(1857年)から和泊方。元禄7年(1694年)に唐船が一艘漂着。破船し乗組員111人のうち一人死亡、ほかは薩摩の山川湊へ送り届けている(沖永良部島代官系図)
寛政12年(1800年)に鹿児島藩士族の代官所役人が金毘羅権現を建立。明治4年(1871年)に大物主神社に改称、現在は金毘羅神社となる。(出花で捜したが探せず、西原だったのか)西部のジョウ―バルに神石があり、ウミリ祭に粟や神酒を供えた。集落内にシニグドーあり。シニグ祭のとき神酒を造る竈石のウヮーマが祀られていた。
⑪国頭村(和泊町国頭)(クンゼー村)
中世に世之主の家来のクンゼ―ヤタロウと言われる豪族がいたという。初め久志検間切の内、
安政4年(1857年)に和泊方に属する。「李朝実録」正祖十四年(1790年)7月条に「国頭村」とあり国頭村の高甫が田村の四人と朝鮮に漂着。
⑫喜美留村(チビル村) 和泊町喜美留
飲料水は暗川(クラゴー)から汲んでいた。正保国絵図に「きびる間切」があるが、それ以前から同間切はあったと見られる。元禄年間(1688~1704年)後久志検間切の内、安政4年(1857年)から和泊方に属した。
⑬手々知名村(和泊町手々知名・上手々知名)
手々知名地域は、他の字(ムラ)とは異なった薩摩役人がマチを形成している。
今回初めてマチの中を歩いてみた。独立した項目で扱うことに。そこには琉球的な
形がほとんど見られず、薩摩の武家屋敷や薩摩商人の痕跡が色濃く遺っている。
(上の図の大和的(薩摩的)部分)
⑭和泊
⑮和」
⑯後蘭
大山の裾野にある盆地にある集落。
グラルマグハチの居城跡あり。
「おもろさうし」で永良部まこはつが・・・と謡われる。
マグハチは世之主の四天王の一人。マグハチの墓がある。
古謡に「クラルマグハチが積み上ぎたるグスク 永良部三十ノロの遊び所」とある。
当初、大城間切の内、安政4年から西方。
⑰田舎平村(現谷山)(イ二ヤヒャー村)
昭和18年に大島支長の谷村秀綱と和泊町長職務官掌の登山明竜の姓から一字づつとって谷山。
⑱永嶺
谷山
久志検
■1857年以前の間切と村
【大城間切】(11ケ村)
①和泊 ②和 ③大城 ④赤嶺 ⑤多田平 ⑥後蘭 ⑦下城 ⑧田皆 ⑨島尻
⑩屋子母 ⑪瀬利覚
【喜美留間切】(14ケ村)
①手々知名 ②出花 ③畦布 ④根折 ⑤玉城 ⑥内城 ⑦瀬名 ⑧永嶺 ⑨上城
⑩大津勘 ⑪知名 ⑫上平川 ⑬下平川 ⑭皆川
【久志検間切】(11ケ村)
①喜美留 ②国頭 ③西原 ④古里 ⑤久志検 ⑥余多 ⑦屋者 ⑧芦清良 ⑨黒貫
⑩徳時 ⑪馬鹿
沖永良部島のシニグ祭の痕跡
(以下略)