トップ

 
 『沖縄県玉製品調査報告』での担当部分です。「沖縄・琉球のノロ制度の終焉」に連動するものです。       

        ノロ祭祀具の中の玉製品

はじめに
 祭祀と関わる祭具として、神衣装・一連の勾玉・蔵器(勾玉入箱)・鉢巻・神酒椀(ユノーシ)・花皿(神酒を盛る)・膳・神酒皿(木椀)・洗米盛器(ハナコヒン)・駕籠・馬具(馬の鞍や轡)・簪(カンザシ)・扇・ハブル玉・髪飾(サギ羽・アヤハベラ)などがある。ここでは一連の玉製品を中心にみていくが、それがどのような場面で使われたのかの事例も上げてみる。 「沖縄のガラス・玉等製品関係資料調査」では、そのほとんどがノロ家(ノロドゥンチ)に遺されている(いた)品々である。ノロやノロ家が継承されていない場合は公民館や博物館や資料舘などで保管している。それは何を意味しているのか。それは神人制度と無関係ではない。

  ノロ祭祀に関わる祭具調査(特に玉類)でまとまった報告は「沖縄島祝女佩用勾玉實撿図解 附祭具図解」(田代安定)である。勾玉は曲玉とも記され、それは形が曲がっていることに由来するという。「玉」について折口信夫は「剣と玉」(『折口信夫全集』(第22巻:223頁)で「抽象的なたま(霊魂)のシンボルが具体的なたま(玉)に他ならなかったのである」とされ、「たましいのシンボライズした具体的な玉を道具として用いられている」(同書231頁)と述べている。

  「おもろさうし」で「やまとたびのぼて(大和旅上りて)やしろたびのぼて(山城旅上りて) かはらかいに のぼて(カハラ買いに上りて) てもちかいに のぼて(品物買いに上りて)」、同じくおもろで「おきやかしか、おもろ、つくしちやら、おほいて、たまがはら、ふうくに、よせくすく おきやかしか、せるむ(おぎやか子が、おもろ、筑紫ちやら、おぼいて、玉珈玻琅、報国寄せぐすく、おぎやか子が、宣るむ)と謡われている。国頭村比地での海神祭のときに謡われるクェーナで「ヤマトドマイン(大和泊に)チチャビタ着きました)、タマガサラ(玉カワラ)ワガカミティ(わたしが戴いて)、タマガパラ(玉カワラ)、ワガヌラチ(我が濡らして)」、国頭村辺土名のウンジャミのクェーナで「・・・がはな(曲玉)取いがうんつけーされて(曲玉取りに御使いにやられ)、大和海の真中なかい(大和海のただなかに)・・・わがかはなんわがんらちえ(我が曲玉も我がぬらして)・・・」などと謡われており、勾玉は大和からの導入の様子の一端が伺える。 また、今帰仁城を謡ったオモロで「きこえみやきせん ももまかり つみあけて かはらよせ 御くすく、けらへ」(通巻870)とあり、火神を三個の石に象徴させているように、霊魂(タマ)を勾玉にシンボライズさせ、今帰仁城の百曲がりの石積みに勾玉の力を借りて魂を入れたということかもしれない。

1.三十三君(神女)の継承と一連の勾玉

①今帰仁アオリヤエ按司の勾玉
 河村只雄は『南方文化の研究』(講談社)533頁で「アオリエ按司の勾玉は計八・五センチの大きな黒い色をした丁字頭の二本ついた勾玉を中心に二十一の小勾玉が連なったものである。小勾玉には丁字頭の二本のもの十個、三個のもの二個、なきもの七個、子もち勾玉のもの二個であった。」とある。島田貞彦も昭和7年に調査し報告している。それによると「この按司の勾玉は大形勾玉一個、硬玉勾玉22個、水晶丸玉28個からなっている一連である(島田貞彦「琉球勾玉考」『歴史と地理』31巻1号)。一連の勾玉が祭祀と関わる公儀ノロの遺品であることは間違いないのであるが、それが祭祀、あるいは祈りにどのような意味づけがなされていたのか。

 そこまで踏み込んだ記述がみられない。また勾玉を丁子頭勾玉と丸玉、定型勾玉、獣形勾玉と分類されるが(「今帰仁阿応理屋恵勾玉について」『今帰仁城跡周辺遺跡Ⅱ』:宮城弘樹 今帰仁村教育委員会報告書第20集)、祭祀を行うノロにとって、その違いに意義を見い出しているのでは必ずしもないであろう。

 『女官御双紙』(1702~07年)に今帰仁阿応理屋恵代合の時も、「玉かわらはき」について記されていないが伊平屋地のののろ二かや代合の時のように「玉かわらはき立御拝」をしたと見られる。その時、「御印判」(辞令書)は勢頭親雲上が早朝首里殿内へ持参し首里大あむしられから今帰仁あふりやいへ上伸されている。弘治年間に尚真王の第三子の今帰仁城王子朝典(尚韶威)が北山監守となり、その次男の南風按司朝白(介明)の娘を阿応理屋恵に任命され、これより数代継承されたという。
 
 その頃の今帰仁阿応理恵は運天にある大北墓に葬られている。それ以来継承されてきたのが大正の頃の「今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵品目録」(沖縄県国頭郡志)にある「冠玉たれ・冠玉の緒一連・玉の胸当・玉の御草履一組・玉かはら一連・玉かはら一大形・二十二小形・水晶の玉百十六」であろうが、その一部が残っている。

 阿応理屋恵まがたま 007

②伊平屋の阿むかなし/二かや田阿む
  『女官御双紙』を見ると、「御拝の日、首里殿内へ参られ、火神の御前へ四(御)拝有之。此時、金丸王かなしより拝領、金の釵に玉珈琅はかせらる。一 右御規式相済、金の釵、玉かわら取、追付、首里あむしられ列て登城。・・・首里天かなし美御前すゑんみこちやへ御座あそはされるれハ、朝衣着、金の釵、玉かはらはき、御前へ参上、御印判被下戴て頭にさし、みはいよ四ツからめき・・・」とあり、登城のとき金の釵と玉かはらを持参して参上している。釵と玉かはら(勾玉)をつけたのは首里殿内の火神の前と「おせんみこちゃ」での国王謁見の時である。『女官御双紙』にみる伊平屋の阿加那志の首里上り(粟国恭子氏)が指摘されているように「釵と勾玉は、火神への拝礼や国王との酌を交わすという儀式の中の最も重要な行為にして、神女の宗教的存在を強調する場面において使用されていることと考えられる」(12頁)。

 「阿母かなし」(伊平屋)には「玉かはら一連」とあり、一連には「玉かはら」と「水晶玉」とがつながれている。(カワラ:長四寸七分、回り三寸一分、水晶玉百星、回り三寸七分)。現存している玉かはらの寸法は勾玉(長さ7.5㎝)、水晶玉は(□㎝、回りは□㎝)である。

  伊平屋の阿むかなしの首里天かなし美拝(康煕6年:1667)の時、「金丸かなしより拝領金の釵に玉珈玻らはかせらる」(『女官御双紙』)。そこでも伊平屋の阿むかなしが首里天かなし(国王)の前での拝みの時、金丸かなしから拝領された金の簪と玉カハラを佩いた。国王の前での儀式に簪と勾玉が必要であった。国王の前での継承引継ぎの正装として簪と勾玉が必要であったことがわかる。そのことは『琉球国由来記』(1713年)でも「伊平屋阿武加那志、代相ニ、二カヤ田両人召列、首里殿内ニ被参、火神前ニ、御花壹、御五水壹対、座敷酒壹対供之、玉ガハラヲハキ、金御簪ヲ指立、御拝四仕也」と記されている。その当時から継承されたと見られる勾玉が現存している。但し、一部は追加されている。

 
 ▲伊平屋あむがなし   ▲ニかやのあむがなし(玉城家)  ▲ニかやのあむがなし(伊礼家)

③久米のきみはゑ
 『女官御双紙』に、「君南風代相の時、御公儀より御印判真壁殿内へ下されは格護す置君南風渡求て某月某日にはい可仕由まへ日に真壁殿内火神の御前へみはな御五水居御印判頭にさし立御拝四ツ為らる畢御城は向い立拝四ツせらる相さうめんの御汁御合尺する也」とあるが、君南風の場合勾玉が首里での儀式に使われたかどうかは不明である。但し、久米島での五月ウマチーや六月ウマチー、グスクヌブイでの祭祀の時、勾玉を佩いている。

玉珈玻ら一連
  かはら長三寸四分回り三寸三分、水晶玉数六十二星、回り二寸二分、水晶玉三十六星回り一寸六歩(金のかんざし一個は三代先の君南風までハ此金かんざしをもって公界し給うなり、このきみはゑ存命の内に盗にあひ給うにいくへ志れずとなり)。金の簪は存命中に盗難にあい行方知らずとある。それは簪のことである。今ある簪は後世のものであり、それは再度賜ったものなのかは不明である。

 君南風の大阿母知行安堵辞令書(1582年)(久米島)がある。「しよりの御ミ事/くめくしかわまきりの/にしめのうちま人ちもとハ/あまかちの内より/一かりや三おつかたに六十九まし/ひらちしやはる又□□はるともニ/又七十ぬき(ちはたけ)□(おほ)そ/はゑはる又はなう(はる?)(はるともニ)/このちのわくそ□この大あむかめはたまてハ/御ゆるしめされ候/一人きミはいの大あむに/たまわり申(候)/しよりよりきミはいの大あむか方へまいる/嘉靖四十五年十月八日」とある。この辞令(印判)が発給される場合、伊平屋の大あむの場合の事例と同様なら「首里殿内ニ被参、火神前ニ、御花壹、御五水壹対、座敷酒壹対供之、玉ガハラヲハキ、金御簪ヲ指立」の儀式をとったと見られる。

 その時、玉ガハラ(一連の勾玉)を佩き簪を指し立てている。辞令書はノロが代合(交代:引継)の時、その度に発給されている。しかし勾玉や簪がノロ制度がスタートした時期に発給(拝領品)があったと見られる。今に残る一連の勾玉がノロ家に継承、伝世品となっているのは、そのことを示しているのであろう。一連の勾玉と簪はノロ引継ぎの認証品とみていい。もちろん、神女の認証式の正装で欠かせないものであるが、ノロが行う祭祀で勾玉を佩くのはウガン(祈り)での霊力の増加、あるいは神の存在を神衣装、簪、勾玉などの正装(姿)に秘めているのであろう。

  同君南風の「御賞腸左記」に「千代の真頚玉一領、玉数六千弐十七星内 黄玉八百二十九星、青玉二千六百四十九星、赤玉七百白玉七百七十一星、深青藍玉百八星、薄黄玉十八星、紺玉二百三十星、志ら藍五百五十三星、香色玉七十八星」とある。それからすると勾玉の長さは三寸四分、回りは三寸三分、黄玉、青玉、赤玉、深藍玉、薄黄色、紺玉、志ら藍、香色玉がある。それは今に残る一連のビーズ玉と見られる。
     
 


④宮古の大阿母
 宮古の大阿母に勾玉を賜った記述はみられないが、『女官御双紙』に「往昔中宗根の豊見也と申人琉球の御為に忠節勲功ある故、御賞賜有之剰豊見也妻とめか迄御取立嶋中女の頭に成玉ひ大あむと封し玉ふに、それよりして代々一門より跡職命せ付けられ御朱印(辞令書)奉頂戴也・・・」「弘治年間ニ屹と企貢物を想定毎年上納いたす依之褒賞として御釵三個(かぶハ金くきハ銀鳳凰のち付有)並ニ白絹の単御衣一領篤これ誠ニ家珍ニて代々伝来り侍りぬ」とあり、御朱印(辞令書)と釵(カンザシ)を賜っており勾玉も賜ったと見られる。

 そのことを示すかのように、「宮古島平良市(現宮古島市)字西仲宗根の宮金家という旧家に保存されているのは七拾数個の水晶製の円玉を紐を通して貫いて、その間に二個の曲玉が貫いてあった。曲玉は美しい濃青色で瑪瑙であろうと思うが、長さは一寸七分位であったように覚えている。宮金家は仲宗根豊見親の次男知利真良豊見の系統を継いだ旧家で、宮金氏の本宗になっていて、この家から大安母と称する宮古最高の神職も出ているから、この曲玉も大安母の佩用した物であろうかと思われる」とある(『沖縄の古代部落マキョの研究』稲村賢敷著375頁)。

  「カアラ玉」について以下のような「口上覚」(康煕32年(1693:5月25日)があり、「当島往古より女上下(迄)ガアラ玉ハキ申候、然処至近年大和人宮古人右ガアラ玉過分に持渡弐三石にて買取申候に付、石物費罷成其上不考にて掛に請取代米払之時分差迫仕方も有之候、右通りにては永々相保申間敷と奉存候、(一切)御法度被仰付(可)被下候、以上」とあり、宮古島の女性達がガアラ玉を佩いている様子が伺える。

⑤八重山の大阿母
 最初の大阿母より(弘治年間:1441~1557)十代に当て大新城親方安基子息宮良親雲上女子ひるま大あむ職命せられ釵一個(かぶハ金まハり七寸九分に二分角の花かた有くきハ釵長六寸壱分に弐分角からくさのほりあり)、美玉数九十八(長七分半二寸九分かはらは長五寸に二寸九分まはり)家宝として子孫代々譲り来るなり(康煕17年:1678年に廃止)(『女官双紙』)。

 ※拝領物に白つなくさ布、つき御茶の子、塩、お茶などがあるが、釵(カンザシ)や美玉(勾玉や玉製品)はその都度拝領されるのではない。一度拝領されると代々継承される。玉製品の調査がノロ家に限られているのは、そのためである。

2.間切の神女(ノロ)の継承事例と一連の勾玉
今帰仁あふりやいの代合、伊平屋島ののろ二かや田の代合の次に「噯間切のろくもい代合之時も右同断」とある。「首里殿内火神の御前にみはな一ツ御五水一対持参にて玉かわらはき立御拝…」(女官御双紙)とあり、のろの代合の時、玉カワラ(一連の勾玉)を持参し、それを佩いて引継を行っている。「沖縄本島には百ののろがゐて各島にものろがゐた。新任のときには聞得大君にお目にかかってから赴任する定めである」(伊波普猷全集二巻65頁)。引継の時持参するものに御玉貫・ミハナ(洗米)・御五水などがあるが、勾玉と簪は引継ぎの度に腸るものではなさそうである。

  そこで、一連の勾玉の出番は首里王府での神役の引継ぎ、それと間切のノロが関わる祭祀の場、それも正装の時である。伊平屋のあむは「戦前まで色神衣装とともに元日に着用したものであり、現在は元日に丸櫃の懸子にのせて飾っている」(伊是名村名嘉家の旧蔵品の解説書―伊平屋の阿母加那志の衣装・諸道具―)、二かや田の阿母の阿母(伊礼家・玉城家)でも勾玉と簪は「元日、旧暦8月10日に正月に懸子に入れて飾っている」(同報告書58頁)。

  祭祀を見ていると勾玉にどのような意味を持っているのかはノロや他の神人たちの言葉から聴くことができない。稲村賢敷は「勾玉の佩用は、古代同族部落で祭祀を中心とする社会では一般的に行われていたようで、祭祀を司どる神女や、又部落の勢力家等に依って神秘的霊力(せじ)をつけるものとして佩用さえたようである」、「勾玉を所持し佩用することに依って威霊が加わり、神と同格と考えられた」という(「沖縄の古代部落マキョの研究」稲村賢敷著 367頁)。

  間切のノロが一連の勾玉を祭祀の場に出すのはノロが正装をする場合である。今帰仁村の中城ノロの場合は「七月陰暦後亥日ハ大弓」と「旧八月十日ハ怪火ノ祭」である。その様子を「七、八月ハノロクモイ年中行事ノ最大ナル勤めナレバ、正装シテ馬ニ乗リ、下司ハ馬ノ手縄ヲ引張って五ヶ部落(崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次)、神アシヤギヲ回リマス。御供ノ神人モ氏神以下崎守モ同道シマス」とある。これまで一連の勾玉を出している祭祀で見ているのは国頭村比地での海神祭(奥間ノロ)、同祭祀での国頭村辺戸名ノロ。国頭村与那ノロは旧3月3日にウガンガーラで勾玉を洗う儀式がある。今帰仁グスクでの海神祭の時(今帰仁ノロ:代理)、名護市(久志間切)汀間では旧8月10日のウイミの時に一連の勾玉を出しムラ人達にお披露目される。国頭村与那では三月三日、久米島の儀間では旧暦5月15日に勾玉を洗う(現在では拭く)儀式がある。儀間のミンダシ神の祭具(勾玉を含む)は五月と六月にのみ表にだすという(『南島文化の研究』河村只雄)。

①今帰仁ノロの一連の勾玉
 今帰仁ノロが一連の勾玉と簪を出すのは旧暦8月10日の城ウイミの時、今帰仁グスクのハサギ跡である。ノロは代理ノロなので首から一連の勾玉を佩くことはせず、現在は黒い箱に入れたまま簪と一緒に香炉の前に置いて供えるのみである(神人の前の黒い箱に勾玉と簪)。

加藤三吾は「琉球の名所旧跡」で今帰仁ノロクムイ家の一連の勾玉について「透明水晶玉五分玉七々四十九個と、小玉十個と、青雨石四寸大許の曲玉一個とを繋ぎ合わせたものを伝来の宝物とし秘蔵し、北山神祭の時にノロクムイ女之の頸に掛けて神事を行ふことになってをる」(『琉球文化の研究』大正5年?)。そこで「青雨石四寸大許の曲玉」は丁字頭は二本。明治17年頃の調査と見られる田代安定の「沖縄島祝女佩用勾玉実検図解」(第26号)に「沖縄島国頭地方今帰仁間切親泊村「ノロクモイ」佩用 此勾玉ハジャスファルトノ如キ質ノ石ヲ以テ作レルモノニシテ色ハ濃緑ニ暗緑ノ細粒点満布ス」とある。勾玉の丁子頭に二本の線が刻まれている。田代安定の調査記録は以下のように記してある。

「沖縄島国頭地方今帰仁間切親泊村ノロクモイ佩用 此勾玉ハシャスファルトノ如キ質ノ石ヲ以テ作レルモノノ色ハ濃緑ニ暗緑ノ細粒点満布ス」とある。勾玉の数は一個で変わらないが、水晶玉の数は現在94個、田城安定では96個である(親泊村は合併して今泊)。

  
 ▲今帰仁ノロのグスクでのウガン  ▲代理ノロなので勾玉と簪は香炉の側に置く 

②中城ノロの事例―ノロの継承と一連の勾玉
 中城ノロは間切クラスのノロの一人である。中城ノロの継承についての具体的な事例の一つである。中城ノロが所蔵している勾玉と水晶玉、一連の玉かはらを佩き祈りをしている場面である(画像)。勾玉や水晶玉にどのような役割と意義づけをしていたかはノロから聞くことはできていない。中城ノロが正装して関わる祭祀は「七月陰暦後亥日ハ大弓ノ祭」と「旧八月十日ハ怪火ノ祭」(中城ノロクモイ勤務)である。

 その様子を「七、八月ノ其日ハノロクモイ年中行事ノ最大ナル勤めナレバ、正装シテ馬ニ乗リ、下司ハ馬ノ手縄ヲ引張って五ヶ部落、神アシヤギヲ回リマス。御供ノ神人モ氏神以下崎守モ同道シマス。昔ハ壮観デシタガ現在ハ略式デ馬上ニ乗リマセン」と祭祀の様子が記してあるので紹介する(中城ノロドゥンチには簪が残っていない。9枚の辞令書については触れているが簪についてはなんら記されていない)。

 「中城ノロクモイ御解御願並に立願」
   
(俗にいう進退の御願の意味。備忘録:故宮城仙三郎氏:1950年記)

 ノロクモイは日本時代に於ては県知事(昔は藩王)の辞令に依りましてノロ神職が定まりましたのです。今後は如何なる事情の基に確定するか現在軍政下の吾々としては見透しも出来ませんが、若しも米利加式でノロ職を廃止になっても従来幾百年の慣習に依って粘ったのを廃止の出来得ると考えられません。勤めてノロ職の継続を希望する故を以って、其の立願と御解願の実情を委しく記録して後世の参考とするものなり。

  ノロクモイが死亡したら直に新らしく、ノロクモイを立てる事です。其の身替り御願は兼次、諸志、与那嶺、仲尾次、崎山の各アシヤギ、シュガー御嶽、崎山御嶽、諸志御嶽、兼次御嶽、崎山ノロ殿内で初めて御願立、前記箇所を洩れなく(身替何生の人)と親類中で御願することになって居ります。是等は当島ノロクモイの掛島と申して他のノロクモイが犯す事の出来ない神域になって居ります。

  然るに当地の神様の前丈で、其の曰、職の進退は定まるものでありません。其の昔国頭郡、中頭郡、島尻郡と三箇所に別かれて其の郡内総締元がありました。国頭は儀保殿内、中頭は首里殿内、島尻は真壁殿内となって居ります。廃藩に於きまして其の三ヶ所も合祀になり、現在(戦前)三殿内と云いまして一ヶ所に御願所があります。

  戦前首里城(現琉球大学)前師範学校祈念運動場西真下に其の殿内があったのでありあます。其の頃に於いて沖縄県のノロクモイ職の進退は定まるのであります。と申しますのは其の所に御常結びの方が大あむしたれと申まして世にも珍しき神人が居ります。御小使婆其の婆様は(産名あむ)とか申します。小使婆が万事世話人になって居ります。それで其所に行き来意を取次ますと婆が挨拶に出ます。

  宮城マツと宮城トミ(仙三郎二女)との進退の時でした。余りよく解りません事で第一日目は失敗しました。と申ますのは普通吾々の地方の習わしと致しましたのは御解御願には鏡ウチャノコ、御花米、御酒、御香を以て行いましたので行きましたと御話すると、そんな事では当所の御願い出来ない。第一ノロ職の「玉と御衣装」と御供物は豚肉十二斤卵六十九ヶ御菓子当時二銭のもの一円五〇銭分御米三升御酒三升御香御土産、山原なれば芭蕉布等。なければ香片茶箱入り二ヶ等を持参して参らねば通りませんと申された時、私は「あー、そうですか」と泣々其の所を立ち去り考えれば、考える程現代の世の申しで、そんな馬鹿げた事があるものかと一意考へましたのです。俗に云う「ト井ズク」と誤解したのです。

  ところがよく考えて見ますと後になって初めて理解をされ合点が行きました。其れで其の日は其の儘帰り翌朝、役場に平清氏が居るのを幸いに「玉と御衣装」を早急自動車便より送って呉れと電話で頼み十二時半に那覇で受取ったのです。それで昨日言付けられた品物は半々買求めて午後から首里へと出直したのです。それで色々と自己のノロクモイの立場を委しく申述べ、門中々でやるのでなく現在は個人で来た次第も話。昨日のお詫びも丁寧に申し訳したので向うも同情の色が見えたのです。そして婆さんから大あむしたりの前に行き斯如き事情で来た意思を御伝へますと、八十余と見える方が手を引かれて宿を御立直ぐ前の三殿内まで行き、ノロクモイ進退の御願を初めたのです。

  その実況を一寸書きますと、第一玉と御衣は神前に返します。そして死亡になった人の御解を上げます。次に用意の品物を上げて今日身替わりのノロクモイが生まれたのですから、玉と御衣装を御拝領御授けとなります。そして一段落御願が済み次第に宿屋に引き返して前記品物で御馳走を拵らへ新らしく生れたノロの祝杯を上げる段取になるのです。それで三殿内側からは拾人も行けばそれぞれノロクモイを中心に御土産、当時は日本手拭二筋、清明茶二ヶ、親迄ではその通り順次に各人に手渡させます。そして初めて成程当を得た処置と感心申しました。昭和九年八月でした。御供物と御土産に注意を乞う。

  
  ▲中城のろの一連の勾玉  ▲一連の結び    ▲中城ノロの正装と佩いた勾玉

③勝連村(現うるま市)平安名ノロの代替わり
  勝連村(現うるま市)平安名ノロの代替わりの事例がある。「ノロの代替わりがあると、新ノロは其の報告の為、家伝の曲玉を持ち数人の付添を伴って儀保殿内に参上した。その時、廃藩置県以前は大阿母志礼は新ノロを伴い紹介する儀があったが、廃藩置県以後はそのことはなくなった。しかし儀保殿内迄報告は昭和まで行われた。次に大正六年九月平安名ノロクモイ代替わりの時の儀保殿内への報告模様を略述しよう。新ノロは家伝の曲玉を持ち、ノロ家の男主人とその妹(ノロ相続者)に殿内への奉納もの麦二升、卵十五個を持たせて、儀保殿内に参上した。

 その時ノロ一人は座敷に上げられるが随伴者は廊下に危坐している。先ず新ノロが大替りの報告の報告と挨拶を申述べたあと、大あむしられの指図に従って持参の曲玉や瓶道具(ビンス)、賽銭三銭を神前に供える。新ノロは大あむしられに従して拝礼するだけですべては大あむしられがとり行う」(『勝連村誌』196~197頁)。そこでも勾玉は継承儀礼に用いられている。

④名護市汀間ノロの一連の勾玉
 名護市汀間ではノロ家にあった勾玉と簪と神衣装は現在公民館で管理している。旧暦8月10日(ハチガツウイミ)の時、ノロがいないので神人が神アサギで村人にお披露目をする。田代安定は「此勾玉は形状併素質ハ尋常ナレモ其佩用併珠糸ノ組織異ナルヲ以テ此ニ示ス」とあり、この結び方は特殊なものである。

  


⑤奥間ノロ・辺土名ノロと一連の勾玉
 奥間ノロが一連の勾玉を首から佩くのは海神祭の時である。奥間ノロは奥間と比地の祭祀を管轄する。比地の神アサギと奥間ノロドゥンチの庭での祭祀の時、一連の勾玉を佩いている。その祭祀の間(比地の神アサギから奥間ノロドゥンチ)奥間ノロは一連の玉(水晶玉・ガラス玉・勾玉は失っている)を首から佩いている。首から佩く時に、両手で軽く捧げるようにウガンをする。辺土名ノロ(ノロの代理か)は海神祭の時、神アサギでの祭祀に参加するが勾玉を持参するのみである。

 
 ▲一連の玉を佩いた奥間ノロ(勾玉消失)     ▲国頭村辺土名ノロの一連の勾玉

3.佩用一連の勾玉の結び
 ノロが首からかける(佩く)玉製品は「祝女佩用勾玉」と名付けられている。田代がいう「祝女佩用勾玉」は主にノロが首からかける(佩く)もので、それには勾玉や水晶玉(ガラス)が主で、ナンキン玉(ビーズ)などがついているのもある。首掛け用の「祝女佩用勾玉」の結び方は様々である(基本的には首から掛けられる形になっている)。伊平屋ノロのように首から佩くのと両手首に佩く例がある。一連の勾玉の結び方に意味があるかどうかは不明である。『官制』をみると紐の結びには意味があるようである。それからすると一連の勾玉の結びに意味があるかもしれない。
 カブの簪に龍や鳳凰、牡丹などがあり、それは龍紋の聞得大君、三十三君の伊平屋のあむ、今帰仁アオリヤエ、久米島の君南風、宮古・八重山の大阿母の鳳凰紋、各間切のノロの花模様があり階級を示している。国頭の与那ノロと加慶呂間の武名ノロも鳳凰の簪を持っており、古琉球の時代の三十三君の一人であったのかもしれない。10余の結び方があるが、結び方(一連の勾玉)に神女の階級や地域性があるのだろうか。ここでは結びの事例を掲げておく。

  
 
       ▲国頭村奥ノロ                  ▲国頭村与那ノロ                         

4.ノロの継承と勾玉所蔵の事例
 ノロ関係の辞令書から継承を見ると、元のノロの妹、姪、孫、姉妹、嫁である。勾玉調査のほとんどがノロ家であることはうなずける。ノロの継承と勾玉を所蔵しているノロ家とは密接な関わりがある。今回の調査した玉製品(特に勾玉)は以下の辞令書を所蔵、あるいは所蔵していたノロ家は、久米島の君南風、名柄ノロ、大熊ノロ、中城ノロなどがそうである。

・「君南風の大阿母知行安堵辞令」(嘉靖45年:1566)(知行の安堵)
・「鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令」(隆慶2年:1568)(奄美)(元のノロの妹)
・「那覇の大阿母職補任辞令書」(万暦10年:1582)(元の大あむの姪)
・「那覇の大阿母知行安堵辞令」(万暦10年:1582)(元の大あむの姪)
・「屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令」(万暦11年:1583)(奄美)(元のノロの姪)
・「金武間切の恩納のろ職補任辞令」(万暦12年:1584)(元のノロ子)
・「名瀬間切の大熊のろ職補任辞令」(万暦15年:1587)(奄美) (元のノロの姪)
・「君南風の大阿母知行安堵辞令」(万暦23年:1595)(知行安堵)
・「徳之島西銘間切の手々のろ職補任辞令」(万暦28年:1600)(元のノロの子)
・「瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令」(万暦30年:1602)(奄美)(元のノロの姉妹)
・「今帰仁間切中城のろ職補任辞令」(万暦33年:1605)(元のノロの子)
・「今帰仁間切の具志川のろ職補任並知行安堵辞令」(万暦35年:1607)(元のノロの子)
・「羽地間切大のろくもひ職補任辞令」(天啓3年:1623)(元のノロの孫)
・「羽地間切の屋嘉のろ職補任辞令」(天啓5年:1625年)(元のノロの孫)
・「今帰仁間切中城のろ職補任辞令」(隆武8年:1652)(元のノロの子か)
・「八重山の大阿母職補任辞令」(道光23年:1843)(八重山大阿母の嫁) 

・「八重山島の大阿母職補任辞令」(咸豊元年:1851)(八重山大阿母の姪か)


 ▲元のノロの子に継承された辞令書(今帰仁間切中城ノロと金武間切恩納ノロの辞令)

5.神女制度と勾玉
 そこで神女制度を示したのは、今回の調査のほとんどが公儀ノロの遺品である。そのことは神女制度と切り離すことはできないものであろう。公儀ノロに「祝女佩用勾玉」を賜るとの史料は確認ができていない。神女制度の確立は1500年代だと言われている。この制度が確立する以前から勾玉や水晶玉に対する信仰があったと見られる。各地のグスクや遺跡から勾玉やガラス玉が出土していることから伺える。そのような習俗を首里王府は神女組織を統治する制度に巧みに組み入れたと見ていい。下に示す辞令書を見ると、同ノロ家に二枚、あるいは三枚のノロ叙任辞令書が遺されているのは、辞令書は引継のたびに発給されていたことが伺える。

  神女組織が制度化した時に、聞得大君をはじめ三十三君、さらに各地の間切クラスのノロ(公儀ノロ)に辞令書が発給されている。確認されている辞令書を掲げてみる。 「辞令書」について「那覇の阿む」の「…御朱印失脚して年月日不相知二代の大あむより五代の大あむまでハ御朱印御腸也為證跡二代の大あむ御朱印…」(万暦10年8月2日:1852)とあり、辞令書は継承のつど発行されていることがわかる。今帰仁間切の中城ノロ家に中城ノロ家(萬暦12年:1584、萬暦33年:1605、隆武年8:1652)や金武間切恩納ノロ家の辞令書がそのことを示している。

  これらの辞令が発給されたノロ家の遺品調査をしたのは□軒である。辞令書はのこっていないが、一覧表の通りノロ関係の遺品がほとんどである。ここでの課題は公儀ノロの任命とそれらの遺品が任命時に賜わり、それが継承されてきたものかどうかである。奄美に残る祭具遺品は少なくとも1609年以前に遡ることができる。もちろん、その後に発給された辞令があるようだが。

  康煕40年(1701)の今帰仁あふりやえあんしの引継のことが記されている。進上物は「天嘉那志美御前へ御花、玉貫、御茶之子」で、御城参昇の時、あむしられ、あかま八人、輿のすかり、主部二人、輿かさ二人、御花御籠飯持一人と金簪一個、玉珈玻ら、玉草履が挙げられている。それらは「前々より有来」とあり継承されている。簪と玉カワラは、引継のとき持参しそのつど腸ったものではないと見られる。継承され続けていくものであろうが、例えば今帰仁村の勢理客ノロ家には二本の簪が今に伝わっている。その理由については不明である。そのような例外もあるが、「前々より有来」(今帰仁あふりやえあんし)や「褒賞として御釵三個(かぶハ金、くきは銀鳳凰のうち付有)…家宝にて代々伝来り」(宮古の大阿母)、「美玉数九十八(長七分半ニ二寸九分廻かはらは長五寸に二寸九分まはり)家宝として子孫代々伝来るなり」(八重山の大阿母)とある。ノロが継承されるたびに辞令書が発給されるが、勾玉や簪は一度発給されると継承され、ノロの認証式に持参したとみてよさそうである(簪を消失したりや二本の簪を所蔵している例がある)。

主な参考文献
 ・『女官御双紙』(上・中・下)
 ・『沖縄県国頭郡志』大正8年発行 国頭郡教育会
 ・『じまむら』久米島儀間 宮城幸吉(平成元年発行)
 ・「伊是名村名嘉家の旧蔵品の解説書―伊平屋の阿母加那志の衣装・諸道具」(平成22年発行)
   伊是名村教育委員会
 ・「琉球の女巫佩用の玉」『沖縄教育』(昭和8年)喜田貞吉
 ・「久米のきみはゑ五〇〇年―祭祀用具にみる神女の世界」(特別展図録)(2001年)
  久米島自然文化センター
 ・「伊是名村銘苅家の旧蔵品および史料の解説書―公事清明祭をめぐる公文書とご拝領の品々」
  (平成19年)伊是名村教育委員会
 ・『山原の土俗』島袋源七(昭和七年)
 ・『沖縄の古代部落マキョの研究』」稲村賢敷著
 ・『伊波普猷全集―古琉球の祭政一致と島津氏の南下』(第二巻)65頁。
 ・『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会 昭和53年)
 ・『比嘉春潮全集(歴史)』所収の辞令書(1652年)

 ・『かんてな誌』名護市仲尾(1983年発行)所収の辞令書(1623年)