大宜味村
(Naka)
 
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 ・根路銘

【根路銘】(2004年2月28日)

 27日夕方、国頭村辺土名へ向かう途中、大宜味村根路銘と大宜味、そして国頭村の半地で車を降りる。国頭行きはスライドを使っての講演であるが・・・・

 国道58号線から根路銘の集落に入り(旧道)、さらに山手に向かうとムラヤー(公民館)があり、最近新築されている。さらに行くと、左右に道が分かれるが、そこにハーリー小屋がある。ハーリーが行われているようで、小屋に三隻のハーリー舟が逆さに置かれている。左手(喜名へ)にいくと、カーがある。シマナハガーと呼んでいるようだ。シマナハは集落の中央部のこと。根路銘の神アサギは公民館に組み込まれ、ウンジャミなどの祭祀は公民館内で行われる。

   根路銘の神アサギについて『根路銘誌』393頁に以下のようにある。
     根路銘の神アサギは根屋の前、現在の公民館敷地にあった。サギは神人が祭を行
     い、神遊びする所で、アサギ庭(マー)は諸集会や盆踊り等の行われる場所である。
     明治36年大宜味小学校新築の時の残った資材で瓦葺きの村屋を新築する為、アサ
    ギはこわされ、その場所(アサギマー)に村屋が建てられた。村屋の西向き一室は、
    アサギ兼集会所に当てられ、神行事を行い又部落の集会を行う場所(室)であった。

 根路銘の集落はフェーバール(南の方)・ナハンバール(中の方)・ニシンバール(北の方)・ターバール(田の方)と区分されている。シマナハガーはナハンバールに位置することに由来する。シマ(集落)の人達が正月の若水を汲んだり、子どもが産まれると最初に浴びせる産水(ウブミズ)を汲んだカーでもあったという。付近には赤瓦屋根の家が何軒かあり、水の湧き出るカーのある集落はいい。

 昭和25年頃の航空写真をみると福木囲いの屋敷が多く、それと赤瓦屋根と茅葺屋根の家々で集落を形成している。集落の背後は段々畑であるが、今では僅かながらミカン畑がある(放置され、もとの森にもどっている畑が多い)。

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  ▲大宜味村根路銘のシマナハガー   ▲公民館付近にある赤瓦屋根の家

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▲上空からみた根路銘(『ふるさと飛行』)▲昭和26年頃の根路銘の集落(『根路銘誌』)
2017年2月27 日(火)

 26日(日)大宜味村根路銘の村墓から一門の墓へ移動した墓の調査を行う。村墓から門中へ移行した直後(明治の初期)から最近までの様子をしることができた。村墓から一門(あるいは個人墓)に移行した直後から火葬されている。その時の火葬は海岸で燃やしたものである。厨子甕の内部には人骨や墨状の木片や木の葉などが納められている。

 大宜味村や国頭村での明治期まで村墓への葬葬について。その後門中墓が建造されると、野火で焼かれ、納骨は厨子甕が使われている。村墓には焼かれた人骨は村墓にこぼしていたことがわかる。ここでは明治初期から個人墓(門中墓)移行する、野火での火葬が引き継がれていること、村墓で火葬して骨をそのまま葬っていたことが、以後は野火で火葬した骨は厨子甕に入れて収める洗骨の方法がとられている。現在の火葬(高熱で焼く)は小さな骨壺に収められている。

 今回の調査は大宜味村、国頭村の村墓の葬方、そして明治初期に墓が個人墓や門中墓に移行した時の過程が見えてきた調査であった。
      

 調査の結果(銘書や配置図や一基ずつの画像)などは依頼された一族へお返しします。ありがとうございました。

 
▲明治期まで使われていた村墓(根路銘村墓)       ▲野火で火葬された人骨の納められている厨子甕

 
     ▲この蔵骨器には高熱で火葬された人骨が納められている