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島袋源一郎(昭和3年10月)
『南島研究』(第5号)(昭和3年:1928年)
昭和3年10月28日、名護神社竣工の式典を挙行するというので、関係団体より神社由緒の起草を懇願されたが、別に明確詳細な記録がないので、此れに中山王府編纂の諸書や、今帰仁城に関する史料及び口碑等照合し、これに沖縄の宗教に関する一般的考察等を総括して見たいと思う。
琉球国由来記には名護城の森をテンツギノ嶽、神名をイベツカサとし
毎年三、八月四度御物参の祈願あるなり、且海神祭折目の時、神酒一器、百姓中之を供へ、名護ノロ祭祀するなりと見えている。又同書に
名護ノロ火神
毎年三八月四度御物参の祈願あるなり、山留に付き竹木伐る故作毛の祈願をなすの時、
線香花米九合宛、麦酒一器、名護・宮里・数久田・世富慶四ヶ村百姓中稲穂祭三日祭の
時花米九合、モロミ一器、同四ヶ村百姓中之を供え、名護ノロ祭祀するなり。
名護城神アシアゲ
稲穂の時、モロミ一器、(惣地頭)同一器、糟神酒三、シロマシ二器(百姓中)稲の穂(伊地味
大屋子地所より)同大祭の時、神酒一器、赤飯一器(惣地頭)神酒五、赤飯一器(百姓中)
年浴柴指の時、神酒一器宛(惣地頭)同四宛(百姓中)、ミヤタネの時、神酒三(百姓中)之
を供え名護ノロ祭祀するなり。七月中吉日を選び海神祭の時、神酒八、餅三十本、村々百
姓中之を供え、名護ノロ祭祀するなり。
と記されている。
(工事中)
名護城神アシアゲは昔ながらに按司の居城であった山上の台地にあるが、ノロ火神殿内は以前は現在の拝殿の位置に建っていた。そこにはその他にノロ位牌殿内とノロクモイ住宅と三棟相並んでいたのを明治三十三年下方の風当りのない土地を相し、一軒の瓦葺きを建てて此の三棟合一してあったのである。
それを昭和元年町民の発起に依って新に元の三殿のあった土地に近代日本式の神殿と拝殿とを建築して変座し、全然ノロクモイ舎takuおは棟を別ににする様になった。是れ古への複ったので所謂神と床を同じうしてその神聖を汚すことを避けたのである。それと共に祭司の私宅より出る方が神威普く行われ、随って民衆信仰の上からも義意深くなる。
以上は主として名護城の変遷につきて述べたのであるが、次にテンツギノ嶽及びイベツカサの神の内容について私見を述べたいと思う。
(工事中)
次に従来の宗教思想では此等の祖神に対する祈願はその神の後裔なるノロクモイ、根人神人等を通して行うことになっている、即ち自己の血液が御呼びしたら祖神は直じお森(テンツギノ嶽)に降臨してその祈願を聞かれるのである。然らば判る所の氏神はいずれも独自に吾人の吉凶□福を司る権能を有するやというに、沖縄の祖霊崇拝教では之を信じているのである。此の宗教は多神教の程度まで発達しているが種々の障害のために停頓状態に陥っているのは寔に遺憾である。
若し沖縄の宗教が、すべての祈りを吾等の祖神を通じて大宇宙の支配者たる神に願うという宗教意識に
導き得るならば、自然教の境地を脱却して立派な文明教の中に入れることが出来るのである。
以上記録や口碑を本とし、私見の一端を記述して此の稿を認めた次第である。(昭和3年10月穀旦稿)