仲尾次(名護市:羽地間切)                   トップヘ


2014年9月3日(水)メモ

 名護市仲尾次は旧羽地間切の村(ムラ)の一つである。ナコーシと呼ばれ過去には中城村であった。1668年中城を使うことを禁じられたた仲(仲)尾次となったようである。中城が使えなくなった所に、今帰仁間切と羽地間切の中城村は仲尾次村、久米島の久米中城間切は仲里間切と改称される。『琉球国由来記』(1713年)の頃には中尾次村と中城村がどちらかが使われている。今帰仁間切の中城ノロは今でも中城を使っている。

 羽地間切の番所があったのは隣接する田井等村、1730年代に田井等村から分離した親川村に置かれる。羽地グスクも田井等村地内にあったが、親川村が分離創設されると、親川村地内となり羽地グスクや番所は親川番所や親川グスクと呼ばれる。明治になると羽地役場や学校や郵便局などが仲尾次地番に置かれ羽地村の中心地となる。集落内の道は、放射状になっていて古いタイプの集落形態をなしている。

 仲尾次には集落と離れた所(羽地中学校後方)にナカグスク(標高約48m)がある。その森にウイグスクとナカグスクがある。仲尾次集落の南側後方の山の頂上部にウプウガーミ(標高約55m)と呼ばれるウタキがありイベがある。そこは『琉球国由来記』(1713年)でいう「中尾次之嶽」(コガネモリノ御イベ)と見られる。そのイベまで距離があるため、集落の後方に「黄金杜の御嶽」?が造られている。御嶽を横切る道路ができたため。

 村の形からするとウイグスク・ナカグスクあたりから、古琉球の時代に現在地に移動、『琉球国由来記』(1713年)頃には移動していた、集落後方に「中尾次之嶽」を設けている。そこを背にして集落が展開している。ウタキの麓に神アサギや根神屋、大屋などがある。仲尾次は真喜屋ノロ管轄の村である。故地のウイグスク・ナカグスクもウガンの対象地として今に伝えている。

 集落の西側は人工的に開削した羽地大川が羽地内海へと流れる。満潮時となると海水が開削した部分までくる。仲尾次も例にもれず各地の拝所を一カ所(ウガミグヮー)に合祀したことがあるが、元の場所にもどしたという。

 仲尾次は2010年1月に踏査している。数年で変わったもの、変わらないもの。近々踏査するので楽しみだ。

2010年1月9日(土)メモ

 名護市仲尾次(旧羽地間切)は、羽地間切中城村から赤尾次村へと表記の変遷がある。仲尾次村は明治13年の世帯数153戸、人口は913人である。羽地間切では源河村、真喜屋村とほぼ同規模の世帯・人口で大きな村の一つである。『南島風土記』(東恩納寛惇)で寛文8年(1668)に出された布令があり、「中城と申名字衆中百姓姓下々迄も、御法度にて候間、別名に替申候様可被申渡候」によって羽地間切中城村は仲尾次村に変更したという。そういう達しがあったようであるが、その後も中城村は使われている。明治以降は「仲尾次」と定着する(今帰仁間切の中城村も仲尾次に変更していくが、中城ノロの中城は今も中城ノロと呼ばれている)。仲尾次の場合も、中城(ナカグスク)のグスクの呼称は変わりなくナカグスクと呼んでいる。このナカグスクであるが、杜の中にナカグスクとウイグスクと二つのグスクがあると考えていた。そのため中尾次の村の成り立ちが説明できないでいた。

 視点を変えてみた。杜全体がナカグスク(ウタキ)であり、これまで言われていたグスクはイベと考えると説明がつく。名護グスクや根謝名(ウイ)グスク、あるいは今帰仁グスクでもそうとらえてきた。羽地間切のナカグスクにも適用してみた。ナカグスク(杜・御嶽)にあるウイグスクとナカグスクは御嶽のイベだとすると、その杜)御嶽)に少なくとも二つの集団(マキ・マキヨ)があり、その集団のイベだとみることができる。その杜にあった集団が現在地へと集落が移動していった。現集落の後方に黄金杜があり、その上の方にウフ御嶽がある。

 すると仲尾次村はマキ・マキヨ規模の複数の集団からなっていることが、ウタキのイベから想定することができる。祭祀を行う神人の出自やウタキのイベや神アサギから村の成り立ちを読み取ることができる。その作業は古琉球のムラと近世の村との違いをしることでもある。

 ・『絵図郷村帳』(1648年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・羽地間切中城村
 ・『琉球国高究帳』(17世紀中頃)・・・・・・・・・・・・・羽地間切中城村
 ・『琉球国由来記』(1713年)・・・・・・・・・・・・・・・・・羽地間切中尾次村
 ・「間切村尽」(附宮殿官衛名)(18世紀中頃)・・・羽地間切仲城村
 ・「間切村尽」(1738年後)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・羽地間切仲尾次村
 ・「統計慨表」(明治13年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・羽地間切仲尾次村
                               (以後、仲尾次)

 「羽地間切中城村」と出てくる。ところがには「羽地間切中尾次村」とあり、祭祀は真喜屋巫の管轄となっている。ここでは、ウタキあるいはグスクと集落(後に村)とイベ、祭祀と祭祀を掌る神人の出自を見ていくことで、古琉球のムラと近世の村との違いを描き出すことができる、そのモデルとなる場所の一つだとみている。



▲羽地グスク方面からみたナカグスク(杜)   ▲頂上部にナカグスク(イベ)   ▲中腹にあるウイグスク(イベ)


  ▲造り変えられる前の仲尾次の神アサギ     ▲仲尾次の集落からナカグスクをみる(左側の杜)

2010年1月11日(月)メモ

 名護市仲尾次について『角川地名辞典』(昭和61年発行)と『名護市史』(昭和63年)で「歴史」部分を執筆したことがある。20数年経って振り返ってみると、各村々の歴史を見ていく視点を問い直す時期にきているように思われる。10日仲尾次の村を踏査してみた。ウフグスクのイベは初めて。神アサギの香炉の向きを手掛かりに、神アサギから見える杜(ウタキ:アポーフウガミ・タキサンのイビ)を目指していく。バッチリありました。

 これまで山原のウタキやグスクと集落、ウタキとウタキのイベは区別する必要があり、それと近世の村(ムラ)と古琉球のムラとは区別して議論する必要あり。山原の神アサギは近世の村、土地制度、祭祀との関係でみていく必要があると。それと近世の村を構成している門中(一門、血族集団など)、村移動、村の中の集落移動など。

 それらのことを念頭に入れて仲尾次を踏査してみた。仲尾次にはまず三つのウタキのイベがあるということ。イベはムラではなく一門一族(ヒキ)集団の祭祀場であることを前提に置いてみる(山原のウタキや神アサギや祭祀調査から導いた法則であるが、詳細についてはここでは触れない)。

 仲尾次には滝川、松田、津波、ピーテカイ、宮城、上地、大兼久の門中からなる。それらの門中が仲尾次にあるどのイベと関わるのか。そのことが、村内での集落移動のテーマである。故地の中城(ナカグスク:村名)から現在の集落地に移動してきたという(伝承)。中城(グスク・ウタキ:杜)にウイグスク(イベ)とナカグスク(イベ)があり、少なくとも二つの集団がそこから現在地に移動したとみてよさそうである。神行事の時、以下の六ヶ所は必ず拝むという。
  @ニガミヤー
  Aアポフヤー
  Bウイグスク(イベ?)
  Cナハグスク(イベ?)
  Dクガニムイ(フプウタキ)のイベ
  E真喜屋ヌンドゥンチ

 現在の集落地にはウプウタキ(杜)を背にした集団があったとみられる。フフウタキの頂上部にイベがあり、そこをウフウタキと呼んでいるが、そこはイベとみるべきものである。祭祀の場合は、それぞれのイベの担当の神人がどの一門なのかで、移動元がみえてきそうである。


 ▲中央部の杜がナカグスク(中に二つのイベあり) ▲ウイグスク(イベ)    ▲ナカグスク(イベ)


  ▲仲尾次の神アサギの後方がウフウタキ      ▲ウフウタキの頂上部(イベ)があり、香炉が一基あり