今帰仁上り・東廻り                       トップヘ

  【今帰仁上り(拝み)―事例 1】 【東廻り(神拝み)―事例 1】【今帰仁村今泊の尚来門中の東廻】
  【今帰仁上り(拝み)―事例 2】 【湧川の新里屋】


今帰仁上り(拝み)―事例 1】(2010年3月18日)

 6つの一門の拝みから「今帰仁上り(拝み)」と「下方廻り」を紹介。それぞれの一門がどんな目的で拝んできたのか確かめてみましょう。さて、これだけの内容どう話しましょうかね。

はじめに

1.大宜味間切の一門の今帰仁拝

2.湧川の新里屋

 ・新里屋建設の寄付者

 ・新里屋の内部と位牌など(1989年)

 ・新里屋の位牌と図像(現在)

 ・塩づくりとスガー御嶽とイベ

 ・ワルミのテラ

 ・開山長老の墓(黄金森)

 ・運天の大北墓

 ・運天には御神みの墓が・・・

 ・諸志の御嶽内の古墓

 ・諸志の中城ノロドゥンチの伝世品

 ・親泊ヌンドゥンチ

3.大宜味間切の同一門の首里下方御拝

 ・山田城/中城城/末吉ヌンドンチ/ベンのオタケ

  /其のまん御嶽/円覚寺/崇元寺/崎平川

4.東松田比嘉家の由来 (読谷村喜名)
 拝所 東松田の恩の元祖/浦添は筋拝/今帰仁は恩拝
     浦添の伊祖は血統の拝所など
 今帰仁と本部の拝所
     本部並里・満名の上ヌ殿内
     今帰仁の志慶真川/今帰仁ヌル火神/今帰仁城内の拝所など
5.今帰仁村諸志のパラヤー一統の拝み
 ・北山城のお参り拝み・五月五日の川拝・水神の霊を拝
6.今帰仁村今泊の尚来門中の東廻り
7.今帰仁村与那嶺のナビンチュミヤー(東氏与那嶺門中)の「御神拝日記」
終わりに



【東廻り(神拝み)―事例 1】(2010年3月16日)

 今帰仁村今泊の尚来門中の「東廻り(神拝み)」の事例を紹介することに。廻る場所が、一門にとってどういう場所かについては別で報告する。



【今帰仁村今泊の尚来門中の東廻】

・知念村久手堅

 一、斉場御嶽(せーふぁうたき)一ヶ所

 一、同所下の御川 一ヶ所

・知念村知念

一、知念御川 一ヶ所  字知念の日用の御川

・玉城村仲村渠

 一、仲村渠樋川 一ヶ所

・玉城村字玉城

 一、玉城のろ殿内  御日御月の御前

 一、同所火の神の御前

 一、同所大東(うふあがり)の御通し

・玉城々内

 一、御いびの御前

 一、御たましの御前   御門の側の御墓

 一、火の神の御前

 一、玉城按司の御墓の御前  

       城外岡の下表に あり

 一、御川  城下御引合所と承る

 一、のろ殿内 住居所の御棚三ヶ所 

    但し先代の御棚一ヶ所

 一、玉城樋川 一ヶ所  屋号赤嶺普天間屋、

        上のアタイのまち中村

・玉城村百名

 一、受水走水、二ヶ所 字知念幸地の守り拝所

 一、浜川の御嶽 一ヶ所

 一、やはらぢかさ 一ヶ所 浜川の御嶽東方 の海中に香炉及び石燈籠あり

・首里及びその近郊

 一、弁ケ嶽 三ヶ所並に御河〆四ヶ所

 一、崎山の御嶽並に崎山樋川 〆二ヶ所

 一、園比屋武御嶽

 一、龍樋

 一、平良樋川

 一、崎樋川 二ヶ所

・浦 添

 一、伊祖城御嶽並ニ御川 〆二ヶ所

 一、浦添龍福寺御霊前  現在はなし

    龍福寺は糸満に移り(大正の初期) それより泡瀬に移るとか。

      

     以上 合計 七十八ヶ所

 大正五年八月二十五日に出発して拝みたる日記よりこれを写す。

     一九五六年九月三十日

               新城 徳祐 印



【今帰仁上り(拝み)―事例 2】(2010年3月15日)

 「今帰仁上り(拝み)」について、いくつかの事例を整理している。最中、『あしびなぁ』(第17号:沖縄県地域史協議会)(2006年)に以下の「付記」が目にとまった。玉城村(現在南城市)仲栄真腹元屋の新垣家(屋号ナケーマ)の「道光拾壱年辛卯年六月仕立 諸日記」が紹介されている。その研修会に参加したかどうかの記憶がなく、また「付記」について気にもしていなかった。

 この一門の「門中巡拝記録」に以下(崇元寺拝み、佐敷間切・・・、今帰仁拝み)のことが記してある。三つの御拝みを始めた時期が明記されている。一門は第一尚氏六代の尚泰久(1454年即位)の二男腹のようであるが、無系の百姓のである。間切役人を出してきた一族のようである。

 今帰仁拝みは「親泊のろくもい拝み」をはじめ12ヶ所あるようである。原本にあたっていないので具体的な場所は資料をみないとわからない。ある一門の拝みを始めた時期、それと崇元寺拝みは一年置き、東廻りは五年、今帰仁上りは九年廻りの三つの拝みがある。尚泰久の二男を祖先と伝えられる四門中が同行しており、拝みの本筋を伝えており興味深い(但し、拝む場所が一族の歴史とどうつながっているかは、また別の問題)。


  (1)崇元寺拝みは道光11年辛卯年(1831)から始め一年置き。
  (2)佐敷間切新里村の場天御嶽、佐銘川大主屋敷跡の火神、上場天御嶽井戸、下場天御井戸などを道光21年辛丑年(1841)
   から五年廻りの拝み始めと記録される。
  (3)道光18年戊戌(1838)より上り始め九年廻りで、今帰仁間切親泊のろくもい拝み(今帰仁拝み、12ヶ所)とある。屋良・世礼・
   大仲栄真・仲栄真の四腹が同行する。


 一門は今帰仁上り(拝み)を道光18年(1838)から行っており(9年廻り)、今帰仁ノロ(親泊のろくもい)家の拝みもしている。歩いての今帰仁上りの頃は、そこに宿泊をしたかもしれない。


    ▲今帰仁ノロ家のカンザシ          ▲今帰仁ノロ家の勾玉と水晶玉


【湧川の新里屋】(2010年3月5日)

 「今帰仁上り」(拝み)でどうしても外すことができないのが今帰仁村湧川の新里屋である。そのこともあって新里屋の調査をすることに。その日も何組かの方々が訪ねてきた。「そこは昔から拝んでいるのですが、どういうところですか?」と逆に聞かれる始末。掲げてある系図の説明をしてくれる方もいらっしゃるが、理解できず。そのことが、新里屋を拝みやってくる理由なのかもしれない。少しは説明がつくように調べてみることに(管理されている仲里さんに感謝)。

 避けては通れないテーマの一つ。驚かされるのは8基?の位牌である。「今帰仁上り」や「東廻り」などの神拝の資料(家文書)に目を通していると興味深いことがわかる。家文書に出てくる、その家の歴史(野史)で書きつづられていることが史実なのかどうか。その視点で見て行くと、その多くが史実とは言えない資料群である。もう一方で、史実かどうかとは別に野史に登場している場所場所を何故拝むのだろうかとの疑問。疑問を持ちながらも、元祖が関わった場所だというコース。

 野史の部分を史実かどうかを追いかけるのか。史実とは別にそれぞれの一門で行っている「今帰仁上り」などの現象。伝統的に行っている現象が亡くなると「琉球の姿」を失っていくことでもある。
 


 
                ▲新里家と離れの拝所


                     ▲新里家の火神や位牌や図像など

 
 ▲北山按司の位牌   ▲太子大君 開山長老の位牌   ▲湧川奴留之元祖位牌  


▲思次良湧川按司長男などの位牌     ▲新里筑登之等の位牌         ▲新里大主の位牌      

 
 
 ▲今帰仁之子思次郎等の位牌   ▲(撮影不良)